天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

景観条例――都市と農村の景観問題

2008年05月27日 | 文化・芸術
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。
 

春の歌(2008年04月01日)

竹を切る(2008年01月20日)

toxandoriaさんとの議論(2007年05月15日)

冬枯れの大原野(2007年01月20日)

二本の苗木(2006年01月06日)

個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
  
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夏野菜を植える

2008年05月14日 | 日記・紀行

 

昨年の秋にかろうじて間に合うようにして植えた冬野菜のブロッコリー、ネギ、水菜、壬生菜などは、ブロッコリーのほかはとても食べきれないぐらいに成長して、薹が立つほどにもったいないことをしてしまった。次からはできるだけ誰かにお裾分けして無駄のないようにしたい。ネギも水菜も柔らかくて甘く香りもいい。

ここしばらくは他に集中したいことが出来て、ブログの更新も場合によれば週に一回程度か、あるいはもっと緩やかになると思う。書くことよりも行動することに生の充実をもとめて行きたい。ただ、行動をそのまま記録しておくとしても、それをすべて公表するわけにも行かないと思う。2、3年経てばまた、ふたたび書くことに集中することのできるときが来ると思う。主よ、願いを叶えたまえ。

イエスの珠玉の言葉もすべて、弟子たちの記録によるものだった。主イエスご自身は筆をもって書き残すことはしなかった。

春も爛熟し、やがて初夏を迎える。時間の合間を縫って今日、ナス、トウガラシ、トマト、キュウリ、トウモロコシなどを植える。畝づくりに余裕がなく、雑草を残したまま植える。トマトの苗を手に取ったとき、久しぶりに懐かしい香りに出会う。

昔、まだ子供の頃、母親に連れられて帰った田舎の庭に植わっていたトマトの、その鮮烈な香りが今も忘れられない。後年になって、茎や葉にその匂いを嗅ぐときはいつも、その思い出とともに切ない思いに駆り立てられる。数多くある香りの中でも、このトマトの匂いと白檀の香りだけは特別な意味を持っている。

畑に行く途中、まだ鯉のぼりが泳いでいた。業平卿紀行録もせめて10回程度は書こうと思っていたのに、残したままになっている。

 

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業平卿紀行録8

2008年05月03日 | 文化・芸術

業平卿紀行録8

在原業平は825年(天長2年)に生まれ、そして紀貫之は866年(貞観8年)頃に生まれたというから、ちょうど昭和の人間が明治の人間を思い出すように、業平の人間像も貫之の世代の人たちにはまだ鮮明に記憶されていただろう。貫之が子供のころには業平はまだ生きていたし、彼は紀貫之と同じ紀氏有常の娘を妻にめとっていた。まして業平は桓武天皇の曾孫でもあり、光の源氏のように浮き名も高かった業平の人間像の伝説は隣人のようにその輪郭も明らかだっただろう。


616     起きもせず    寝もせで夜を    明かしては
                  春のものとて    ながめくらしつ  

この歌も古今和歌集の恋歌三の巻に収められてあるもので、そこには次ぎような詞書きが添えられてあるだけである。

「弥生の一日より、しのびに人にものを言ひて後に、雨のそぼ降りけるによみてつかはしける」

この歌も後朝の思いを女に遣って詠んだもので、伊勢物語には第二段に取り入れられている。その女性が人並み外れて美しかったこと、西の京に住んでいたこと、奈良の都から遷都してまだ間もないころの出来事であったことなど、この歌の詠まれた背景がさらに詳しく物語られている。

747     月やあらぬ    春やむかしの    春ならぬ
                  わが身ひとつは    もとの身にして

仁徳天皇のお后が五条の后と呼ばれていたこと、お后の姪の藤原高子がお后の屋敷の西の対に住んでいたこと、この女性を業平が恋い焦がれたこと、かっては忍んで通い親しく語り合いもしたのに、やがて高子が宮中に上って業平の手の届かないところに行ってしまったことなどが明らかにされている。

梅の花盛りのころ、女性がいなくなってがらんどうになった部屋の板敷きに伏せりながら月が西に沈むまで眺めながらこの歌を詠んだという。

梅の花や月などの自然の景物に、自然の悠久と春の反復を感じる業平の時間意識を感じることができる。そこに同時に業平は自分たちの恋だけが反復を許されないという人間の宿命の悲しみを詠う。その心情は、西洋の近代で詩人哲学者のキルケゴールがレギーネとの恋の反復の不可能を嘆いたものと同じである。私たちの生は反復も不可能な、不可逆な時間の宿命におかれている。このことは業平の時代も近代もまた現代も、洋の東西を問わず変わりはない。

 

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