天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

ルイス・フロイス

2008年01月30日 | 日記・紀行

昨年の秋頃から関わり始めた畑仕事の仲間から、京都府庁で展示会をやっているという話は耳に挟んでいた。しかし、忙しさにかまけてすっかりそのことを忘れていたところ、昨日、リーダーのHさんより電話があり、行ってみられてはどうかというお誘いを受けた。それで、初めて、その展示会が今月末までであることを思い出した。何とか明日中に行くことにしますと返事はしたが、もともと興味がなかった訳ではなく、行くつもりにはしていたのだが、すっかり忘れてしまっていた。

その展示会は京都府庁の旧庁舎の中で行われていた。人間の原点としての農業とその意義を少しでも伝えようとしたものである。利益と効率を第一におかない農業を目指そうとするものである。それはまた、私たちの生活や人生を本当に豊かにするものとしての農業が目指されている。自然は奥深く苦しいが、美しくまた楽しくもあることが教えられる。

現在の京都府庁の一角に残されたこの旧庁舎本館に一歩足を踏み入れたとき、この洋館造りの建築物の気品に打たれ、その風格に驚いた。重要有形文化財にも指定されているらしい。そこに感じたのは何よりも、「西洋」である。この建築物に足を踏み入れて思ったのは、日本人が初めて出逢って目に映じ感じたヨーロッパの姿である。また江戸期の文化の水準もよくわかる。この府庁旧本館は明治37年(1904年)に竣工されたそうである。だから、すでに百年以上の歳月を閲しているが、このような建築物一つをみても、明治人のヨーロッパ文化、文明に対するその摂取と消化のレベルの高さがよくわかる。昭和や平成の御代の日本人よりもよほど、西洋を奥深く理解していたのではないだろうか。西洋建築といっても、表面的で軽佻浮薄な植民地文化の産物ではない。

以前にも府庁には何度も来たことはあり、確かこの旧本館にも訪れているはずだが、私の方にそうした問題意識もなかったために、文化としての建築について、記憶をとどめることもほとんどなかったのだろう。デジタルカメラに記録しておこうと思ったけれど、あいにく電池切れで動かなかった。

(ネットでその面影は見られます。京都旧庁舎http://www.chigirie.i-ml.com/blog-rutiler/2007/04/post_67.html

久しぶりに京都の「官庁街」にきて、少し懐かしさが募ったのか時間もあったので、若い日に多くの時間を過ごした「土地」と「街」をふたたび訪れてみようと思った。しかし、わざと烏丸通りを北上することなく、少し裏通りの智恵光院通りを北にあがった。とくに洛北の国際会議場とその前にある宝ヶ池プリンスホテル、今は改名されているらしいが、を目的にしようと思った。

このホテルはかって西武鉄道の総帥として権勢を誇っていた堤義明氏が、国際会議場の受け皿となる宿泊施設として、肝いりで建設したものである。村野藤吾という今はなき建築家が設計したヨーロッパの城館をイメージしたホテルである。確かこれが遺作となったはずだ。もし京都に来られて機会があるならぜひ一度宿泊されるのもよい思い出になるかもしれない。

考えればいったい何年ぶりだろうか。話にもならないほど近くに住んでいながら訪れることもなかったせいか、それにしても、紫明通り、出雲路橋からその経路をすぐに思い出せない。鴨川沿いの立派な桜並木は今はすっかり葉を落としているが、そぎ落とされた殺風景なその枝振りの偉容だけでもさすがだ。

とにかく北へと思って走るが、かすかに記憶にある宝ヶ池に通じる道が見あたらない。それで、二度ほども上賀茂神社の裏手の清流が豊かに流れる閑静な町中を間違って走ることになった。そして道を探している間にも、岩倉あたりに出てしまう。この土地も思えば懐かしいところである。学生時代に友人が三宅八幡の駅近くに下宿していた関係でよく訪れたものだ。それも昔のことである。後年になって知り合った女性も岩倉に住んでいて、その関係でよく来たことがある。だから実相院や病院のある一帯もよくうろついていたのでそれなりに土地勘はあって、迷うという感じではなかったものの、探そうとする道になかなか出くわさない。その街の面影は大きく変貌しているとはいえ、ただ懐かしい。

とうとう、柊の別れあたりにまで出てしまう。さすがに方角を大きく間違えてしまったので引き返す。

深泥が池の畔まで出る。この池の印象に残っているのは夏の姿だったが、今はその周辺はすっかり冬枯れの景色になっていて、池の中央の砂州に枯れた葦が群生しているだけだった。水辺でおしどりがくちばしを水中に入れ餌を漁っている。この池を右手に見下ろしながら北に走ってようやく、プリンスホテルの銅さびた屋根が冬の寂れた木立の上に眺められた。

すっかり北に走り過ぎてしまっていたようである。それでホテルの姿を見失わないように南方に戻り宝ヶ池通りに入ってようやく、左手に国際会議場が、右手にプリンスホテルが見えた。この会議場ではかって環境問題が話し合われ、今ではほとんど有名無実になってしまった京都議定書の議決されたところである。余裕があればホテルのロビーでお茶でも飲んで時間を過ごしてもよかったが、それはまたの機会に譲って、まっすぐ市街地の方へ戻ることにした。

トンネルを抜けて少し走ると昔と同じように狐坂があるはずだったが、峠に出てみると、そこにも高架道路が造られ、その高みから市街地が見下ろせるようになっていた。昔は宝ヶ池に出るには、木々のうっそうと繁った山間の狐坂を抜けるしかなかった。デンマークのキルケゴールという詩人哲学者が『反復』という著書の中で、「人生の反復」を試みようとしたが、彼と同じように、「反復」の不可能を実感するしかないようだ。

北山通りに出る。このあたりも変貌著しいけれど、それでも骨格はそのままで、やはり懐かしい。この通りの植物園の傍らに府立総合資料館がある。その通りを挟んだ北側に喫茶店があった。この資料館へは昔、弁当を作ってもらって洛西から通ったことがある。そこを少し通り過ぎてから、時間にまだ余裕のあることに気づき、久しぶりに訪れてみる気になって引き返した。

平日でもあったせいか、持参した弁当でかって昼食をとった休憩室も、今は相席しなくともすむほどには空いていた。そこの自動販売機のコーヒーで一息ついた後、館内に貼られたポスターや並べられてあるパンフレットなどを丹念に読みながら見た。洛西に戻ってきながら、この洛北までほとんど足を運ぶ機会を失っていた間に、コンサートホールなども造られ、三月一日には、バッハの「ヨハネ受難曲」などの演奏会の開かれることも知った。三条の文化博物館では今、「川端康成と東山魁夷」の展覧会も開かれているらしい。それに今年は源氏物語の千年紀だとかで、何かと催し物も予定されているようだ。もう少し文化的な体験を増やして生活に潤いを持たせてもいいと思う。

階段をのぼって閲覧室に入る。以前にはバッグなどの私有物の持ち込み禁止などの注意書きがあったのに、見あたらないので入り口近くに座っていた案内の人に尋ねると、今は持ち込みは許されているそうである。かなり以前からだという。すっかり浦島太郎のような気持ちになる。図書室の利用者が信用されるようになっただけ、進歩であるには違いない。

館内の座席にはまだ十分に余裕があった。その一つの机を確保し、ダウンジャケットをそこに脱いで、書架の間をゆっくり巡って歩いた。本当に久しぶりである。それが何か失われた時間のように感じさせ、永遠に戻ることのない時間と土地の移動を思った。

ついでだから何か摘み読みでもして行こうと思う。何が好いだろうか。こんな時には実用書は十分だが、かといって、たくさんに並んでいるそれぞれの地域の風土史や地域史も手に取る気にならない。

たまたま、定家の『明月記』があった。一冊は漢文の原文で一冊はそれを読み下した本である。また、その近くにルイス・フロイスの『日本史』の翻訳があった。この三冊を抱えて座席に戻る。

九百年ほど前に書かれた『明月記』はあまり見なかった。フロイス『日本史』の翻訳の方は、時間の許す限り読んだ。フロイスは織田信長の時代に日本に来たカトリックの宣教師である。彼の生きた時代からすでに四百年以上の歳月を閲している。彼はインドのカルカッタ、ゴアを経て日本の長崎の横瀬浦から平戸を経て、当時の日本の都であったこの京都にも足を踏み入れている。今でも彼の足跡をたどることができるのだろうか。フロイスは自分の生きた証として当時の日本の世情を克明に記録したが、その量は膨大にのぼるという。彼の書いた原稿自体は教会の焼失とともに失われたがらしいが、その写本が残されたということである。それを四百年後の今日、丹念に訳した翻訳者の労役と執念には頭が下がる。

フロイスの生きた時代からほぼ五百年を経て、今私たちがこうして生きている。そして、私たちの死後五百年の世界に生きる人々はどのような人々なのだろうか。そんなことを考えながら、閉館時間にまだ少し時間を残しながら、この懐かしい資料館を後にした。

 

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音楽

2008年01月16日 | 文化・芸術
私の音楽
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初仕事

2008年01月06日 | 日記・紀行

初仕事

山へ行く。時間に多少余裕があったので、自転車で行った。途中の道端で南天か何か、紅葉がきれいだったので、写真に撮った。

年末に踏んだ麦の芽が、ものともせず芽を大きくしていた。昔小学校の頃の国語教科書か何かで麦踏みの話を読んだような記憶があるが、今の子供たちには麦踏みなどが生活の教訓になったりするのだろうか。子供も大人も時間の過ごし方として農業は悪くはないと思う。もし、京都の洛西方面で、農業を体験してみたい方がおられれば紹介させてもらってもいいなと思う。

見晴らしの良い場所から市街地を眺望しながら持参したおにぎりをほおばる。近くに野生化した柚の木に実がなっていたので、いくつかいただいて帰って黒砂糖でシロップに煮て飲んだ。

ところで、先の二日の記事で、「子子子子子子子子子子子子 」を小野の篁さんは「猫の子の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んだのでした。ご存じの方も多いと思います。出典は『宇治拾遺物語』だそうです。

小野の篁の詩の事

ご参照

 

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明けましておめでとうございます

2008年01月02日 | 日記・紀行

明けましておめでとうございます

2008年、平成二十年の幕開けです。今年もまた希望に満ちた明るい充実した一年になりますように。今年は子年だそうです。平安時代には、正月の初子の日には、野山に出て小松を引いたり若菜を摘んだりして楽しむ習慣があったそうです。春の七草もまもなくです。七草粥など味わえればと願っています。そういえば、昨年の秋の七草には、撫子と女郎花には出会えませんでしたが。ところで「子子子子子子子子子子子子」。さて何と読むでしょう。小野の篁さんに聞いてください。

    

            初音

昨年も私なりにメッセージを送り続けました。もちろん笛は吹けども踊らずであるのはヨハネやイエスの時代以前からのことです。エチオピア人がその黒い肌を、豹が斑の皮を変えられないように、人間もその本性は変わりません。だから何も驚くには当たりません。それでも、世界や現実は、自称平和主義者や理想主義者が考えるはるか以上に、理性的なものです。然るべくしてそうなっています。そして、世界史の歩みはゆったりとしたものですが、その目的は貫徹されます。

その社会にどんなに科学技術の知識や物質の富に豊かになっても、精神の根幹が腐っていれば没落は免れません。それは世界と日本の社会の現実が示している通りです。そして日本の復活の鍵がどこにあるのか誰もがわかっているのに、まだそれを実行できません。

個々人の小さな思惑をはるかに越えて、世界史は進んで行きます。昨年の世界の基本的な変化は、ロシア、中国、インドが目覚ましい経済的発展を成し遂げ、それに応じてアラブ産油国がオイル高騰景気に沸いた一年だったことでしょう。またアメリカ国民の奢れる消費生活がサブプライム問題として神に裁かれようとしています。昨年末にはパキスタンではブット前首相が民主主義のために殉じました。日本国民も現在の民主主義が有名無名の多くの人の血と汗によって勝ち取られたものであることをいつも思い出す必要があるでしょう。

小沢一郎民主党党首はいつまでも国連信仰の夢から覚めることはなく、福田康夫氏には国民を幸福にするほどに政治理念に力量はありません。学力低下は何も日本の中学生、高校生や政治家たちだけの話ではありません。とくに日本の指導者を指導すべき大学および大学院の学力と志の劣化が日本社会の危機の背景にあります。今日の大学の人材の枯渇とその品格の衰えを見るべきだと思います。そこには戦後世代の精神を自明のものとして、それを越えた時代と人格を思考するだけの想像力はありません。

政治の世界でも、自由と民主の理念に従って政界を民主党と自由党とに再編成するのではなく、小沢氏と福田氏は、愚かにも政治家の談合と切磋琢磨なき癒着によって、日本国を茹で蛙のような安楽死への道に開こうとしました。日本の談合文化がすべて悪いとは言いませんが、その悪しき一面の現れたのは事実です。

ところで私にとって青春の日々に、伝道の書や箴言などが聖書への入門書となりました。これからも聖書と共に生き、そこから慰めと歓びを得て、そして、さらに聖書が日本国民の書となり、いっそう品格に富んだ国家と国民になりますように。このブログがそれにいささかでも寄与することができればさいわいです。

伝道の書第三章、第七章から

善き日々は歓び楽しめ、悪しき日には深く考えよ。神は両者を併せて造られた。人には誰も行く末のことはわからない。

人の子の苦痛に満ちた労役がいったいなんの益があるというのか。
彼に課せられた骨折りを私は見てきた。神はすべてを時にかなって美しく造り、彼らの心に永遠の思いを与えられた。それでも人は誰も神のなさる業を初めから終りまで見届けることはできない。・・

私は知っている。神のなさることは永遠に続くことを、それには何も足すことも引くこともできないことを。ただ人は神のみを畏れよ。

幸福と真実の民主主義は小さな少数者のグループにおいて、しかしそれも、ただ比較的に相対的に実現されるだけのものかもしれません。絶対的な理想は、ただ天上にある神の国においてのみ実現されるもので、しょせんこの地上では実現されることはないのでしょう。ですから、私たちはせめて片手に持てるものだけでも十分に歓び満足すべきものだと思います。

私にも、皆さまにとっても、本年もさらにいっそう充実した時間の
訪れますように。

 

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