天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

冬の旅

2007年05月30日 | 文化・芸術

冬の旅

朝から雨、昼過ぎには時折激しく降り、ひと時収まったが、また夜になって再び降り始め、雷光さえ差し込んだ。

久しぶりに古いレコードで「冬の旅」を聴く。ハンス・ホッターの声。
詩人は冬に旅に出る。強い風、凍る涙。意識もかすんでゆくなかで詩人は故郷を思い出す。
詩人は故郷を離れた後悔を歌う。 
 
   菩提樹

村の門のそばに泉があり、
そこに一本の菩提樹が立っていた。                                  私はその木陰で、夢を見た。
多くの甘美な夢を。

私はその樹皮に刻んだ。
多くの愛の言葉を。
その言葉は、歓びにつけ悲しみにつけ、
私をいつもそこに連れて行く。

今日もまた、私は旅行かなければならない。
深い夜を通り過ぎて、
そこは闇の中で、
私はなお見つめなければならなかった。

そして、菩提樹の枝はざわめいていた。
私に呼びかけるように。
私のところにもどっておいで、若者よ。
ここにこそあなたは憩いを見出すのよ。

冷たい風は吹き付ける。
私の顔に真っ向から。
帽子は頭から吹き飛ばされたが、
私は振り返ろうともしなかった。

今や私には多くの時間が過ぎ、
あの場所からも遠く離れている。
そして、私の耳にはいつもあのざわめきが聞こえてくる。
あなたはあの場所にこそ憩いを見出せたのに。

 

Am Brunnen vor dem Tore
Da steht ein Lindenbaum:
Ich traeumt' in seinem Schatten
So manchen suessen Traum.

Ich schnitt' in seine Rinde
So manches liebe Wort,
Es zog in Freud' und Leide
Zu ihm mich immer fort.

Ich musst,auch heute wandern
Vorbei in tiefer Nacht,
Da hab' ich noch im Dunkel
Die Augen zugemacht.

Und seine Zweige rauschten,
Als riefen sie mir zu,
Komm' her zu mir Geselle,
Hier find'st du deine Ruh'!

Die kalten Winde bliesen
Mir grad' ins Angesicht,
Der Hut flog mir vom Kopfe,
Ich wendete mich nicht.

Nun bin ich manche Stunde
Entfernt von jenem Ort,
Und immer hoer ich's rauschen:
Du faendest Ruhe dort!

  Der Lindenbaum

  Der Lindenbaum

 

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toxandoriaさんとの議論

2007年05月15日 | 文化・芸術

 toxandoriaさんとの議論

toxandoriaさんのブログ(『toxandoria の日記、アートと社会』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514)を読んで、それにコメントをお送りしたところ、次のようなコメントを返していただきました。こうした議論に多少の興味を持たれる人もいるかと思い、記事として新しく投稿しました。toxandoriaさんに許可はえていませんがよろしくお願いします。もし不都合のようでしたら消去します。


そら『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。

それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。

私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。

現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには厳しくないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。

あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。


       そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』 (2007/05/15 15:04)

 

 toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。

ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?

日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。

恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。

京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。

記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。

古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は古代ローマ文化との接点が気になっています。

メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。』 (2007/05/15 17:37)

 


 

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教育の再生、国家の再生

2007年05月09日 | 文化・芸術

教育の再生、国家の再生

今の安倍内閣においても、教育改革は内閣の最重要課題に位置づけられている。それは現在の安倍内閣ばかりではなく、歴代の内閣においても教育の問題は最重施策として取り上げられてきた。前の小泉首相は、郵政改革で頭がいっぱいだったから、教育の問題はそれほど自覚されなかったかもしれないが、その前の森喜朗元首相の内閣でも、文部科学省に教育諮問委員会を作って教育改革を目指していた。森喜朗氏でさえそうだった。森喜朗氏は文教族の国会議員としても知られている。

確かに国家の再生には教育の再生が前提になるだろう。しかし、教育の再生には何が必要なのか。教育の再生には、国語教育の再生が必要であり、国語教育の再生には、なにより哲学の確立が必要であると思う。だから、少なくとも国家の再生といった問題に関心をもつ者は、まず哲学の確立によって国語教育の再生をめざし、国語教育の再生によって教育の改革を、そして教育の改革を通じて国家の再生を計るということになる。教育の再生は国語教育から、ということではないだろうか。


江戸時代から、日本には「読み書き、ソロバン」という教育上の標語があって、この標語の教育の核心をついた普遍的な真理は、今日においても意義があるだろうと思う。読み書く力を十分に育てることが教育の根本的な課題であることは今日でも同じだと思う。


読む能力は、知識や情報を外部から吸収するのに不可欠であるし、書くことによって、自らの意思を社会や他者に向って発信することができる。この二つの能力は、個人が充実した社会生活を営んでゆく上で不可欠のものであるし、また、どれだけ高いレベルでそれらの能力を育成できるかが、個人の生涯を意義のあるものにできるかどうかも左右するのではないだろうか。


確かに、現在の学校教育でも国語教育がおろそかにされているとは思わないし、生徒たちの国語能力の向上に向けて、それなりの努力は行われていると思う。朝の授業前の読書の時間は多くの学校で普及しているようであるし、作文の時間などで文章を書くトレーニングもそれなりに行われている。


ただ、それでもなお、日本の国語教育における「読書の訓練」は生徒たちの自然発生的な意欲や努力に任せられたままで、読書の技術などは、まだ学校の現場では洗練されも高められもせず、充実してはいないようだ。もちろん日本の教育の伝統としても確立されてはいない。それは、多くの人々から指摘されるように、今日の大学生がまともな論文を書けないということにもなっている。

だから日本で世界的に通用する学術論文を書くことができるのは、リテラシーという言葉で「言語による読み書きできる能力」が長年の伝統の中に確立されている欧米などの海外に留学して、そこで教授などから専門的な論文教育を受けて、論文の書き方に「開眼した」という留学体験のある、大学の修士か博士課程の卒業者に多いのではないだろうか。この点で今日なおわが国の普通一般教育や大学や大学院での論文教育は充実していないようにも思われる。


この事実は、かなり高名な日本の学者、教育者の文章が実際に拙劣であるという印象からも証明されるのではないだろうか。論文教育はいわば科学研究の方法論の一環として行われるべきものであり、その核心は、論理的思考力であり、哲学的な能力の問題である。自然科学系の有名な学者であっても、その文章に現われた認識や論理の展開で、正確さや論証力に劣っている場合も少なくないように思われる。


いずれにしても、これだけ学校教育の普及した国民であるのに、果たして、それにふさわしいだけの国語能力が確立されているだろうかという問題は残っていると思う。実際の問題として、一般的に国民における読み書きの力は、(自分を棚にあげて)まだまだ不十分だと思う。


それでも、今日のように、とくにインターネットが発達し、ブログなどで比較的に簡単に個人が情報を発信できるようになったので、なおいっそうそうした能力は求められると思うし、また、その能力育成のための機会も容易に得られるようになったと思う。多くの優れた学者の論説文もネット上で容易に読めるようになったし、また、語学力さえあれば、自室にいながらにして世界中の著名な科学者、学者の論文も読むことができるようになった。一昔に比べれば、翻訳ソフトなども充実して、語学能力の育成もやりやすくなったと思う。


蛇足ながら、私自身は文章を書くときに注意すべきこととしては、次のようなことを心がけるようにしている。それは、思考の三要素として、「概念」「判断」「推理」の三つの項目にできうるかぎり注意して書くことである。


「概念」とは、一つ一つの用語を正確にして、それぞれの言葉の意味をはっきりさせることであり、

「判断」とは、一文一文の「主語=述語」の対応が正確であるか「何が何だ」をはっきり自覚することであり、

「推理」とは要するに、文と文のつながりのことであり、接続詞や副詞などが正確に使われて、一文一文に示された判断が、論理的な飛躍や誤りがなく、必然的に展開されているか確認することである。

そんなことを検討し反省しながら書くようにしている。しかし、文章を書く上でこんな基本的なことも今の学校では教えられていないのではないだろうか。

なかなか、理想どおりにそれを十二分に実行できずに、現実にはご覧のような悪文、駄文になってしまっているのは残念であるにしても、これからも引き続き改善してゆくべき課題であると思っている。

今日の記事も、また、「教育の再生」や「国家の再生」といった大げさな標題を掲げてしまったけれども、多くの人がブログなどを書いてゆくなかで、「言語による読み書きできる能力」、、、いわゆるリテラシーを高めてゆくのに、こんなブログの記事でも、少しでも役に立てば幸いだと思っている。

 

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風薫る五月

2007年05月02日 | 日記・紀行
 

風薫る五月

五月に入った。風薫る五月と言いたいところだけれど、昨日今日は先の昭和の日の頃のようには快晴にはならず、空も曇りがちで雨模様でさわやかな風は吹いてこない。桜の花もすっかり散って、その跡に新緑がさわやかに眼に入るようになった。早朝、街を走っていると、眼に入る街路樹がとても美しい。晩春からまもなく初夏へと、季節のめぐりはあわただしい気さえする。

明日は五月三日の憲法記念日、さらに鯉のぼりが空に舞う、端午の節句の子供の日へとまことに意義深い祝日が続く。

昔、子供の頃に銭湯で菖蒲湯に浸かったことがある。そのとき匂った菖蒲の葉の香を懐かしく思い出す。今ではそうした風習や伝統もすっかり廃れてしまって、菖蒲湯などに入ったこともない人も多いのではないだろうか。平安時代の枕草子などにも、この日には薬玉を飾り、軒に菖蒲の葉を挿したことが記録されている。

平安時代の菖蒲から、武士の鎌倉時代になって「尚武の日」になったようである。現在では戦後の「平和主義」のためにこうした祝い方は嫌われているようだ。武とは、本来矛を止めることであり、真の平和主義のことだと思うのだが。何事にも表と裏がある。日本国憲法の第9条についても、その意義とともに、その限界について、今日特にその否定的側面について深く研究される必要があると思う。

 

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