天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

マディソン郡の橋(2)

2005年12月07日 | 文化・芸術
 

 

小説や映画や演劇では、思想や哲学と異なって、感覚によって捉えられることのできる具体的なイメージを通じて、具体的な形象を通じて、何らかのメッセージを伝えようとする。このメッセージというのは、少なくとも何らかの思想であり抽象的なものであって、単に感覚だけではそれは捉えきれない。意識と言語をもって思考し、何らかの観念を捉えることのできる人間だけがこのメッセージを、思想を捉えることができる。

この作品では、フランチェスカとキンケードが出会ったのは一九六五年の夏で、場所はアメリカ中部のアイオワ州のマディソン郡ということになっている。映画もそのように舞台が設定される。こうした具体的な舞台設定の上に、登場人物の言葉と行動の全体によって作者のメッセージが伝えられる。

このドラマが伝えようとしているメッセージとは何か。それは、彼らがはじめて夕食をともにして、キンケードがアフリカでの撮影体験をフランチェスカに得意げに語って聞かせている場面で「自然には課せられた道徳はない。それが美しい」と言っている。おそらくこれが、この作品の、原作者の、あるいは監督としてのクリントイーストウッドの主題だったのだと思う。

この映画の標題にもなっているように、橋はこの物語の象徴として用いられている。屋根つき橋が──これは実在する橋らしくてローズマン橋というらしい──がこの物語の象徴としての役割を果たしている。橋はいわば、河川の両岸をつなぐものである。その意味で、人間もまた本来、人類として同じ一つの実体であったものが、男性と女性に分かれ、それが再び、恋愛において、性関係において出会い一体化するのである。キンケイドとフランチェスカは、彼らの人生の中でこの出会いのときに、初めてこの一体感を、キンケイドは一心同体といっていたが、経験する。それは自然の持つ生命力の最先端の現象である。だからそれは、豊かな大地の生命力を象徴するアイオワ州の農村地帯の、生命力のもっとも旺盛な夏の出来事として描かれる。

しかし、一方で個人はまた人間として、人類として、社会的な倫理的な存在である。だから、いくらキンケードが芸術家気質のデーモンな衝動に駆られて一ヶ所に定住できず、家族礼賛のアメリカの保守的な気分に反論しても、彼らの人間的で自然的な本性が完全に解放されることはないのである。この二律背反は人間の置かれた宿命でもある。この二律背反の関係が一方に損なわれたとき、社会の掟によって裁かれる。

特にその共同体が狭く、親密で濃厚なものであればあるほど、掟は強く人間を縛る。彼女の近隣に住む不倫を犯したルーシーが、町の人々の噂によって殺されたように。それは人間の本来的な自然的な生命力を押し殺すものである。

フランチェスカは、それまでアイオワの田舎の農家の主婦として暮らし来た彼女の生活の中で、彼女の自由な自然的な欲求を、家族のために、夫のために子供たちのために、押し殺して生きてきた。それが、キンケードとの出会いによって、たった四日の間だけ解放される。

しかし、彼女のこの解放が、もし、アイオワの農村の単調で狭い家庭生活からさらに完全に解放されるものになったとき、それはもはや、解放でも自由でもなくなってしまうのをフランチェスカは知っていた。なぜなら、キンケードとの一体感、解放感、その自由な意識は、農村の狭い共同体の中での娘や息子や夫との束縛の多い不自由な生活があってこその自由であり、解放であったから。

だから、作中でフランチェスカが言ったように、キンケードとの愛がたとえ純粋で絶対的なものであっても、もし彼女が家族を捨て娘や息子たちと別れるなら、キンケードとの絆も長続きせず消えてしまうのである。だからこそ、フランチェスカはキンケードとの愛の絆をつなぐために、それが真実なものであればこそ彼と別れて残らざるを得ない。矛盾といえば矛盾であるがこれが現実である。

しかも、キンケードとの不倫の秘密は絶対に守らなければならなかった。それが一度明るみに出たとき、キンケードとの愛ばかりでなく、夫との夫婦関係も、思春期の子供たちの心も破壊され、家庭も崩壊せざるを得ない。そのことをフランチェスカはよく知っていた。だから、彼女はキンケードとの「永遠の四日間」を夫の生前のみならず、彼女の生涯の秘密にして置かなければならなかった。そうしてこそ、家族の平和が保たれるのである。だから、彼女の秘密を打ち明けることができたのは、「同病相憐れむ」関係で友情を交わしたルーシーだけだった。

そして、生涯秘密を守り通すことによって、キンケードとの愛の絆も失わず、また、家庭も破壊することのなかったフランチェスカは、それぞれが何らかの危機にある夫婦関係の子供たちに、家族を守った母として、息子や娘たちからもやがて許され理解されるのである。そして彼女の亡骸は遺灰として、キンケードと同じように、二人が出会った橋の上から子供たちの手によって撒かれる。ただ死後においてだけ彼らの一体の愛は成就されるものだったから。

全体的に叙情的な作品であると思う。アメリカ人のもう一つの精神的な一面を知らせる。アイオワの暑い夏の日々も、農村の主婦の官能的な描写も優れている。このフランチェスカの心情と愛の同じものは、わが国にも中世の女性、皇嘉門院別当によって歌われている。

 難波江の 蘆のかりねの一夜ゆゑ 身をつくしてや  恋ひわたるべき

カメラの動きも被写体を美しく捉えている。もちろん、アイオワの夏の描写など、芸術作品としての完成度はさらにもっと追求できると思うが。

原作の小説はまだ読んではいない。買った本がどこかにあるのか、それとも買おうと思っていただけなのか。それもはっきりしないほど、昔に気にかかった映画である。また、機会があれば原作も読んでみたいと思う。いつのことになるかわからないが、いずれによ、ようやく映画は見終えたという気がする。

 

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マディソン郡の橋(1)

2005年12月07日 | 文化・芸術

(1)

この映画が封切りになったときに、見ようと思っていたのが、機会を失ってしまい、今日までいたったものである。なぜ見たいと思ったのかよくわからない。
この間たまたまビデオが手に入ったので、ようやく見ることができた。この映画の製作日は一九九五年であるので、すでに十年が経過してしまっている。原作も読もうと思って買って置いたはずなのに、そのことすらすっかり忘れてしまっているほどの昔のことになっている。

主演のクリント・イーストウッドは私たちの世代ではテレビ番組の「ローハイド」でなじみになった俳優として知られている。彼もその後は「ダーティ・ハリー」などその他のハードボイルド風の映画や西部劇で活躍していたようだが、あまり興味も持てず、私はほとんど見たことがない。


この映画は作家ロバート・ジェームズ・ウォラーのベストセラー小説を映画化したものであるという。主題は男女の愛である。ただ、普通の恋愛映画と違う点は、中年の男女の愛を描いている点である。男は離婚の経験者であり、そして、女の方には夫と娘と息子がおり、彼女は普通の家庭の主婦である。だから、当然に彼らの愛は不倫の愛である。

 

男は職業がカメラマンで自分の理想を追求して家庭を顧みない、──省みないということではないのだろうが、少なくとも妻にはそのように見られて、結局離婚している。そして、この主人公がカメラの魅力的な被写体を求めて、とある夏にアメリカ南部の州──アイオワ州の田舎町を訪れたことに始まる。そこで、たまたま道を尋ねたのが平凡な家庭の主婦フランチェスカ──彼女はメリル・ストリープが演じていた──だった。夫や子供たちは牛の品評会に彼女だけを残して出かけて、四日間を留守にしていたところから、二人の関係が始まる。


フランチェスカはもともとはイタリア出身の女性で、イタリアに旅行に来ていた夫と恋におち、結婚のためにアメリカにきたという設定になっている。しかし、彼女の幸福な家庭の生活範囲の狭さに、そしてまた、よくできた夫との平凡で幸福な夫婦関係に贅沢な倦怠を覚えていた矢先の出来事だった。


この土地を訪れた、よそ者であるこのカメラマン──キンケイドは、魅力的な被写体として「屋根のある橋」を探し出し、その道案内をたまたま時間に余裕のあった主婦フランチェスカに頼むことから物語は始まる。主婦は、行きずりのこの男に何か運命的なものを感じ、家族が誰もいない彼女一人が留守にしている家にキンケイドを泊める。もちろん、すでにこのこと自体は危険な行為である。実際にフランチェスカは、キンケイドがたまたま、彼女のイタリアの郷里に詳しかった因縁もあって、親しくなり、一晩の床を伴にすることになる。

物語の中には、ルーシーという彼女と同じ町に住む女性で、道ならぬ恋のために小さな町じゅうの噂の種になって、人々からもよけものにされている女性を登場させている。そのことによって、フランチェスカの行為の危険な結果を暗示している。二人の情事が知られれば、たちまち、ルーシーという女性の運命が、フランチェスカの運命にもなるのである。


この物語は、キンケイドとフランチェスカのたった四日間の恋が、その遺品の中に残された三冊のノートブックに記録されているのを彼女の死後になって読むことによって、初めて子供たちが知ることになっている。
映画では、すでにすっかり成人した娘と息子の二人が──そして彼ら自身も自分たちの結婚生活や恋愛関係にそれぞれに問題を抱えているが──そのノートブックを読むことによって、平凡な母親であると信じていたフランチェスカの知られざる一面を、四日間の日々を回想することによって知るという構成になっている。特に息子のほうは、父親を裏切った母親の行為を醜いものに思い、なかなか母を許せないでいる。

 

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天高群星近