夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

あまりにも軽すぎる小泉進次郎氏

2024年09月09日 | 教育・文化
あまりにも軽すぎる小泉進次郎氏

今、自民党の総裁選を目指して多くの候補者が名乗りを上げています。自民党の総裁は同時に日本国の首相であり、首相は言うまでもなく、日本国の最高指導者です。だから、日本国の首相の地位獲得をめざす自民党総裁選挙の候補者たちの資質、能力、および、それぞれの候補者のもつ思想と哲学(もし彼らにそういうものがあるとすれば)は、現在の日本国民のみならず、これから産まれくる将来の日本国民に対しても計り知れない影響を及ぼすことになります。

現在および将来の日本国民に及ぼすその影響が、恩恵であり福利をもたらすものであれば何も問題はないでしょう。しかし、自民党総裁の地位に就かんとする者の思想と哲学が誤ったものであり、その政治的な選択が正しくなければ、その結果として現在と将来の日本国民に及ぼす災厄は取り返しのつかないものになります。自民党総裁が日本国の最高指導者である内閣総理大臣、首相の地位に就くと予想されるからです。

たとえば、現在の岸田文雄首相が実質的に進めている「移民政策」もその事例の一つです。その「移民」が現在と将来の日本国民に及ぼす負担や困難、その災厄のことを考えると、現在の岸田首相のあまりに能天気で楽天的な「移民政策」に反対せざるを得ないものです。

さらまた現在の自民党の総裁選挙で候補者たちの政策上の論点に挙げられている一つに「夫婦同姓」があります。明治以降に百年以上続いてきたこの「夫婦同姓」の伝統と習慣を変えようとして「選択的夫婦別姓」を主張しているのが、小泉進次郎氏です。しかし、この「夫婦別姓問題」は、小泉氏が環境大臣のときに推し進めた愚策「レジ袋」問題とは比較にならないほど、現在と将来の日本国民の家族のあり方に深刻な影響をもたらすことになります。

日本国民の「姓氏」の問題は、単に平成、令和の時代に生きる現代日本人だけの問題ではありません。7 世紀の天武天皇の制定した「八色の姓」をはじめとして、日本の氏姓制度は、平安、鎌倉時代から今日に至るまで連綿として受け継がれてきたものです。

明治に入ってから、全日本国民が苗字を名乗るようになり、さらに1898年の明治民法によって、夫婦同姓が法的に義務付けられましたが、そこには家族単位での統一を重視し、家族の一体感を保持しようという価値観が根底にあります。

こうした制度の長い歴史と伝統にこめられた日本の先人たちの知恵を、いまだ若く経験も知恵も浅い小泉進次郎氏という自民党総裁候補者が自民党総裁に選ばれることによって壊されるようなことがあってはならないと思います。
 
高市早苗:選択的夫婦別姓について - 作雨作晴 https://tinyurl.com/2cljbzd6
追記20240911

この小泉進次郎氏を支持し応援することを菅義偉元首相が明らかにしたそうです。菅義偉氏もまた日本国という「国家」やその歴史、家族といった問題について深く正しい認識をもっていなかったことは、これまでの氏の仕事ぶりからも明らかでした。「類は友を呼ぶ」というべきでしょうか。

不幸にも菅義偉氏が内閣官房長官として指揮、采配を振るったのは、平成から令和へと現在の上皇陛下がご譲位されたときでした。彼は安倍元首相とともに「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」という特別法を取りまとめましたが、そこで皇室典範に則った「譲位」という正しい用語を使わないで「退位」という誤った用語を法律の呼称に使用しました。

また上皇陛下の譲位と今上天皇の受禅によって分断されることなき皇位の継承を、退位と即位として分断して行うなど、歴史と伝統に対する無知と非常識でもって伝統破壊を行いました。

また、「選択的夫婦別姓」については、経団連の会長の十倉 雅和氏も政府に提言しているようです。十倉 雅和氏は住友化学の会長でもあるらしいですが、現在の日本の財界のトップは、昭和の時代の永野重雄、桜田武、土光敏夫といった、かっての財界の大物たちとはちがって、国家や伝統文化ということには無関心のようです。ただお金儲けさえできればいいから、だから国家体制のちがいや自由の問題も無視して、揉み手で共産中国に擦り寄って行くのかも知れません。最近の日本の財界の小粒な人物たちは救いようがないようです。


ちなみにドイツの哲学者ヘーゲルの家族観の一端をついでにご紹介しておきます。もし、ご興味をもたれる方がおありであれば覗いてみてください、

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十九節[家族への義務]
2022年05月24日 | ヘーゲル『哲学入門』

II. Familienpflicht

§49
Indem der Mensch gebildet ist, hat er die Möglichkeit zu han­deln. Insofern er wirklich handelt, ist er notwendig in Verhältnis mit anderen Menschen. Das erste notwendige Verhältnis, worin das Individuum zu Anderen tritt, ist das Familienverhältnis. (※1)Es hat zwar auch eine rechtliche Seite, aber sie ist der Seite der moralischen Gesinnung, der Liebe und des Zutrauens, untergeordnet.

Ⅱ. 家族への義務

第四十九節[家族愛について]
人間は教養を積むことによって、行為する能力を手に入れる。人間が実際に行動するかぎり、必然的に他者との関係に入る。個人が他者とかかわる最初にして必然的な関係は、家族関係 である。家族関係はなるほどたしかに法的な側面ももつが、しかし、それは道徳的な心情の側面に、愛と信頼の側面に従属している。
Erläuterung.
説明.

Die Familie macht wesentlich nur Eine Substanz, nur Eine Person aus. Die Familienglieder sind nicht Personen gegen einander. Sie treten in ein solches Verhältnis erst, inso­fern durch ein Unglück das moralische Band sich aufgelöst hat. Bei den Alten hieß die Gesinnung der Familienliebe, das Han­deln in ihrem Sinn, pietas.

家族は本質的にただ一つの実体のみから、一つの人格のみからなる。家族の成員はそれぞれお互いに対立しあう人格 ではない。不幸にも道徳的な絆が失われたばあいにはじめて、家族の成員は、法的な関係のような相互の人格が対立する関係に入る。古代の人は、家族愛の心情とそうした感情からの行為を、pietas(孝行)と呼んでいた。
 
Die Pietät(※2) hat mit der Frömmigkeit, die auch mit diesem Wort bezeichnet wird, gemeinschaftlich, dass sie ein absolutes Band voraussetzen, die an und für sich seiende Einheit in einer geistigen Substanz, ein Band, das nicht durch besondere Willkür oder Zufall geknüpft ist.(※3)

Die Pietät(ピエタ:敬虔)は、また、このことば(Die Pietät)でも表される信仰心と共通して、絶対的な 絆を前提とした公共性や、一つの精神的な実体を、一つの集団の中に本来的に存在する統一性をもっている。それらは特殊な恣意や偶然によっては結びついたものではない。

※1

家族関係は本質的には法的な関係ではなくて、愛と心情に基づいて相互に敬愛すべき関係である。そうした道徳的な絆が失われた時に、愛と心情に代わって法的な利害関係に変じる。
※2

Die Pietät 
畏敬、崇敬、孝順などと訳される。
十字架から降ろされたイエスを抱いて嘆き悲しむ聖母マリアの像は「Pieta」と呼ばれる。
ドイツのプロテスタント教において、形式ではなく愛と心情の純粋を重んじる Pietismus(敬虔主義)という宗教運動があった。哲学者カントやヘーゲルたちはそうした家庭環境に生育したといわれる。
※3

すべて個人はその誕生から、家族との関係に入る。母語と呼ばれる言語をはじめ、習慣、生活様式、さらに性格とよばれる資質さえもが、家族の環境の中で養われ規定される。家族(家庭)の決定的な重要性もここにある。
各人にとってその資質や能力は、どのような社会生活を生きるかを規定する基本的な要素といえるが、個人はそれを両親や家庭環境から受け継ぎ、またそれに規定される。
家族・家庭がもつそうした本質的な教育的環境は、いく世代にもわたって継承され伝授されてゆく。それは客観的なもので、それぞれに蓄積された家族・家庭のその差異は一世代や二世代ぐらいでは解消されないほど深刻に個人を規定するものである。
 
 
 
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トランプ氏、テロリストに撃たれる

2024年07月15日 | 国家論

 

トランプ氏、テロリストに撃たれる

 

今日のいつ頃だったか、ネットを見ていて、アメリカの元大統領で、この秋に再び現職のバイデン大統領を相手に再選を目指して選挙キャンペーンを行なっていたトランプ氏が、テロリストに銃撃されたというニュースが目に入った。

気になって検索してみると、耳から顔にかけて血を流しながら、シークレットサービスに取り巻かれているトランプ氏の写真が、誰かのツイッター(X)の中に上げられていた。さらに調べてみるとすぐに、同じ場面の映像のある動画で、トランプ氏が拳を上げながら、シークレットサービスに覆い隠されるように囲まれながら、そのままSUV車に押し込まれるように画面から見えなくなった。

この動画を見た限りでは、トランプ氏の命に別状はなさそうだった。先週にはテロリストに暗殺された我が国の安倍晋三元首相の三回忌が営まれたばかりだった。今は亡き安倍晋三氏もトランプ氏も、多くの敵対者を抱えていたことは知っていた。安倍晋三氏については、個人的にはどちらかと言えば「消極的な支持」という立場だったが、安倍晋三氏は「愛国者」であるとは思っていた。

この度危うく頭蓋を撃ち抜かれそうになったところを奇跡的に助かった元大統領のトランプ氏も、アメリカファーストと愛国者(パトリオットpatriot)を唱え、赤い帽子をかぶって、この日も「Make America Great Again」を唱えていたはずである。

トランプ氏の思想信条を知るには、氏が現職の大統領である時に国連で演説した時のスピーチがもっとも適当であるとかねて思っていた。ここで久しぶりにトランプ氏の政治的な信条を再確認するためにも、YOUTUBE に残っていた動画をこのブログにも記録して、できれば日本国民の一人でも多くの人に知ってほしいと思った。

トランプ氏はアメリカの次期大統領候補として有力であり、秋のアメリカ大統領選挙にもしトランプ氏が選出されれば、氏の外交方針は国際情勢に大きな変化をもたらし、我が国にも、もちろん改めてその適切な対応が求められるはずだからである。トランプ氏は「アメリカ第一主義アメリカファースト」を唱え、これまでもその同盟国に対しても自力防衛のための軍事費の負担増を求めてきた。

トランプ氏の国連演説の内容については、動画の字幕同時翻訳か文字起こし機能を使えば、そのおおよそのところは把握できると思う。

President Trump addresses U.N. General Assembly - FULL SPEECH (C-SPAN)

 

トランプ氏の政治思想の核心は、「国民国家の尊重」もしくは、その擁護にある。この政治的な立場は、反国家主義の立場にある人々からは、反感を買う。とくに社会主義、共産主義は「労働者は祖国をもたない」と主張する国際主義でもあるから、そうした政治的な信条をもつ人々からは憎しみを買う場合が多いようである。射殺されたテロリスト犯も、おそらく、そうした政治的な信条をもってトランプ氏を憎んだのだろう。

また、その一方で、GAFAと称される、Google社 やApple社、Microsoft、Facebookを運営するMeta社など、巨大な国際的な大企業は、その企業運営はグローバリズムとして、また社会主義や共産主義とは異なった立場から、国民国家の立場とは矛盾する場合が多い。

要は、「国民国家」を支持するのか、その伝統、文化、民族的な生活様式などを大切に保守していこうとするのか、それとも、反国家の国際主義か、グローバリズムの立場に立つのか、それによってそれぞれの政治的な立場は異なってくる。しかし、いずれの政治的、思想的な立場に立つにせよ、トランプ氏の暗殺を狙ったこの二〇歳の青年のように、暴力をもって異なる政治的思想的信条をもつ者の口を封じようとするのは、自由と民主主義に反する。

我が国においては、戦前から今日にたるまで、学界、大学アカデミズム、マスメディアは、とくにマルクス主義の、すなわち共産主義の影響を深刻に受けており、そうした環境で教育を受けた若者、青年たちは、国家主義者らに対してはいうまでもなく、たんなる「国民国家」への愛国者に対しても、嫌悪や憎悪といった感情、偏見をもつ場合が多いようだ。二年前に安倍晋三元首相を暗殺したテロリスト青年も、おそらくそうした一人だったのだろう。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

2024年06月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

§42

Das Wissen der Vernunft ist daher nicht die bloße subjektive  Gewissheit,(※1)sondern auch Wahrheit, (※2) weil Wahrheit in der Übereinstimmung oder vielmehr Einheit der Gewissheit und des Seins oder der Gegenständlichkeit besteht.(※3)

第四十二節[理性の確信]
  
理性の知識は、したがって、たんなる主観的な 確実性 ではなくて、むしろ 真理 でもある。なぜなら、真理とは、認識されたことと存在とが、あるいは客観性とが一致していること、あるいは、むしろその統一のうちにあるからである。

 

※1
 Gewissheit 
確信、確実性。知識をもっていること。ここではまだその知識が主観性にとどまっている。

※2
Wahrheit
真実、正しいこと、真理。
主観的な確信が、存在や対象の客観性と一致すること、もしくは、存在がその概念に一致していること。

※3
先の第二段において、自己意識が「不幸な意識」に至るのは、人間の意識が本来的に自己内分裂をその特性としているからである。
分裂した自己意識は、自己自身との不一致や他者との関係における矛盾、信仰における不和などに、必然的に「不一致と矛盾」に陥るから「不幸な意識」とならざるをえない。
しかし、この「不幸な意識」も、主人と従僕との関係や労働を通して、その「疎外」も克服して、ここで自己意識は理性として、主観と客観との統一を、その確実性と真理を確信するようになる。

しかし、この段階では、理性もまだ「表象」の確信にすぎないから、『精神の現象学』においては、そこからさらにすすんで、自然や有機体(生命)の観察や実験へと、さらには、道徳や人倫の領域へと入り込んで、自らの意志や行動を通して世界を変革しようとしたり(「徳の騎士」と「世路」との対立)しながら理性から精神へと移行してゆく。
カントの啓蒙哲学やフランス革命も検証され、「絶対精神」の領域である芸術、宗教、哲学(絶対知)へと向かう考察がくわしく展開されている。しかし、この『哲学入門』ではそれらは一切省略されている。

 


この『哲学入門』の「精神現象論」においては省略されている、『精神の現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」および「Ⅵ 精神」の内容については、梗概か要約としてまとめておきたいと考えています。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

2024年06月10日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十一節 [理性が洞察するもの]

§41

Oder was wir durch die Vernunft einsehen, ist: 1) ein Inhalt, der nicht in unsern bloßen Vorstellungen oder Gedanken be­steht, die wir für uns machten, sondern der das an und für sich seiende Wesen der Gegenstände enthält und objektive Realität hat und 2) der für das Ich kein Fremdes, kein Gegebenes, son­dern von ihm durchdrungen, angeeignet und damit eben so sehr von ihm erzeugt ist.(※1)(※2)

第四十一節[理性が洞察するもの]

あるいは、私たちが理性を通して理解するところのものは、1) 私たちが自分たちのために作った単なる表象や思考のうちにはない内容ではなく、むしろ対象に本来的に存在する本質を含んだ、そして客観的な実在性をもった内容であり、また、2) 「私」にとってその内容は疎遠なものではなく、また誰かから与えられたものでもなく、「私」によって洞察されて取り入れられ、そして、まさにその結果「私」によって作り出されたものである。

 

※1
was wir durch die Vernunft einsehen
理性によって私たちが認識するものは、「私」によって探求されて手に入れ、生み出された主観的な内容であるとともに、客観的であり現実性をもった内容である。それは私にとってよそよそしいものではない。この理性の段階において主観と客観の対立は統一され宥和する。

※2  
理性のこの段階に至った自己意識は、個別と普遍との統一とその実在性を確信する。しかし、「現象学」の理性の項においては、そこから自然や有機体の観察や実験へと、さらには道徳や人倫の領域へと展開していく。そこでよく知られている「徳の騎士」(革命家、若者)が「世路」(現実の法則、大人)に敗北する論理などは、ここではすべて省略されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

2024年06月07日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』  中級  第三段  理性  第四十節 [理性について]

 Dritte Stufe. Die Vernunft.

§40

Die Vernunft ist die höchste Vereinigung des Bewusstseins und des Selbstbewusstseins oder des Wissens von einem Gegen­stande und des Wissens von sich. Sie ist die Gewissheit, dass ihre Bestimmungen eben so sehr gegenständlich, Bestimmungen des Wesens der Dinge, als unsre eigenen Gedanken sind. Sie ist eben so sehr die Gewissheit einer selbst, Subjektivität, als das Sein oder die Objektivität, in Einem und demselben Denken.(※1)

第三段  理性

第四十節[理性について]

理性とは、意識と自己意識の最高の統一である。つまり、対象についての知識と自己についての知識との最高の統一である。理性とは次のことを確信することである。すなわち、理性の規定が、私たち自身の思考として、まったく客観的であって、事物の本質についての規定でもあるという確信である。理性とは、一つの同じ思考にあって、存在や客観性とまったく同じように、自己自身や主観性を確信することである。

 

※1
「精神の現象学」の中で展開されているように、自己意識は長い格闘ののちに、ここにおいて理性の確信にたどり着く。
理性の規定は、客観的であり事物の本質であるとともに、それはまた自己自身や主観性との統一でもある。すなわち、真理であるという確信である。
「理性」は通俗的にも多用される概念であるが、ここでヘーゲルが規定しているように、哲学的には絶対知を把握する認識能力をいう。
自己意識が理性に至るまでにたどる道程は、『精神の現象学』においてはくわしく展開されているが、この『哲学入門』ではすべて省略されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]

2024年06月05日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十九節  [自己意識の普遍性2]


§39

Das Selbstbewusstsein ist sich nach dieser seiner wesentlichen Allgemeinheit nur real, insofern es seinen Widerschein in An­dern weiß (ich weiß, dass Andere mich als sich selbst wissen) und als reine geistige Allgemeinheit, der Familie, dem Vater­land u. s. f. angehörig, sich als  wesentliches Selbst  weiß. (※1)(Dies Selbstbewußtsein ist die Grundlage aller Tugenden, der Liebe, Ehre, Freundschaft, Tapferkeit, aller Aufopferung, alles Ruhms u. s. w.)(※2)


第三十九節[自己意識の普遍性2] 

自己意識が他者のうちに自身の反映を認め(他者が私を私自身として認めていることを、私が知っていること)そうして、家族や祖国などに属する純粋に精神的な普遍性として、自らを本質的な自己として知るかぎりにおいて、この自らの本質的な普遍性によって、自己意識はただ現実的になる。(この自己意識は、すべての徳、愛、名誉、友情、勇気、すべての自己犠牲、すべての名声といったものの基礎である。)

 

※1
意識はまず欲望の対象としての物や他者を介して、自己意識を確立するが、この自己意識は主人と従僕との関係において、服従と労働を通して普遍的な性格を形成していく。
自己意識はここで単なる個別的な存在から、普遍的な自己意識として他者や家族や市民社会、国家との関係において自己を認識するようになる。

※2
この『哲学入門』の「精神現象論」では、『精神の現象学』の中には詳細に展開されている「理性」の段階に至るまでの、自由を求めて苦悩し格闘する自己意識のたどる道程が、ストア主義や懐疑主義へと歩む不幸な意識の行き詰まりと絶望が一切省略されている。

 

 

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ふたたび「自由と民主政治の概念」について

2024年06月03日 | 政治・経済

 

ふたたび「自由と民主政治の概念」について

 

私のブログ「作雨作晴」の今日の「このブログの人気記事?」の中に、「自由と民主政治の概念」という昔に書いた論考が上がっていた。あらためて見ると、2006年1月30日に書いた論考である。改めてその内容を確認しておきたいと思った。

その記事の論考で主張したことは、まず

1、日本国民のすべてが、日本国の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を自覚し、追求すべきこと、

2、「自由党」と「民主党」の二つの基本的な政党が、それぞれが国民政党として、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」としての日本国の実現を目指していくべきこと、

この二点である。

当時の政治的な状況は、与党においては、自民党が小泉純一郎氏を党首として、首相の地位にあって、「郵政の民営化」を実行しようとし、その一方では、小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏たちが結党した民主党にあって、前原誠司氏や岡田克也氏らがこの野党の政党幹部として、与党の政策に対決していた。

先に掲げた日本国の国家理念からも、日本の政党政治を健全なものとしていくためには、独立した立憲君主国家を追求する国民政党が日本の政治を担ってゆく必要があり、そのためには、まず民主党の内部から社会主義者や共産主義者たちの「全体主義」を清算して、当時の民主党を国民政党として生まれ変わらせる必要があることを訴えたものである。

民主党は、その党内に横路孝弘氏や赤松広隆氏など旧社会党出身者たちを多く抱えており、その一方では西村慎吾氏と松原仁氏らも同じ党内に所属していた。

この論考をブログに上げてから、すでに20年近くの歳月が過ぎようとしている。かって社会主義者や共産主義者の隠れ蓑となっていた「民主党」はすでになく、今はその系譜が「立憲民主党」という名前で生きながらえている。

私がこの論考で主張したことは、かっての民主党の国会議員の誰一人の耳にも届かなかったようだ。多少は期待した前原誠司氏などは、今は国民民主党も追い出されて政界をさすらっている。

その一方で、安倍晋三元首相が暗殺されていなくなった自民党はすっかりリベラル化して、保守党としての性格を失ってしまった。

日本国の国家理念が「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」にしかありえないことは、今ももちろん変わりがない。そして、日本国の政党政治が、いずれもが国民政党である「保守自由党」と「民主国民党」によって担われるべきであるという主張にも変わりがない。この二つの政党によって、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を追求していくのである。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性1]

2024年05月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十八節  [自己意識の普遍性1]

C. Allgemeinheit des Selbstbewusstseins

§38

Das allgemeine Selbstbewusstsein ist die Anschauung seiner als eines nicht besondern, von andern unterschiedenen, sondern des an sich seienden, allgemeinen Selbsts.(※1) So anerkennt es sich selbst und die andern Selbstbewusstsein in sich und wird von ihnen anerkannt.(※2)

C.自己意識の普遍性

§38[自己意識の普遍性1]
  
 普遍的な自己意識とは、他と区別された特殊な自己としてではなくて、本来的に存在している普遍的な自己 として、自己自身を直観することである。そのようにして普遍的な自己意識は自己自身を認めるし、また自己のうちに他の自己意識をも認め、自らもそのようにして他の自己意識から認められる。

 

※1
自己も他人もそれぞれが「自己意識」である点では何ら変わりがない。それゆえに「自己意識」は、「普遍的」である。この普遍性は自己意識にとってan sich(本来的)なものであり、類的なものである。
すべての概念は、個別性、特殊性と普遍性の三つの契機をもつが、この「自己意識」についても例外ではない。ただ、この第三十八節においては「自己意識」の「普遍性」が強調される。
「自己意識」と「他の自己意識」とに普遍性を認めることから、家族や故郷、同胞、祖国などの認識が生まれてくる。

※2
この「哲学入門」の対象は「人間の意志」である。この意志は自己意識から生まれてくるがその「普遍性」についても、これまでにも繰り返し論及されている。たとえば、ある黄檗宗のお坊さんが「己と他の己」と言ったことにも触れた。

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/27gyy6ts

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄]

2024年05月23日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第三十七節  [自由に移行するための自己放棄]

§37

Diese Entäußerung der Einzelheit als Selbst ist das Moment(※1), wodurch das Selbstbewusstsein den Übergang dazu macht, all­gemeiner Wille (※2)zu sein, den Übergang zur positiven(※3) Freiheit.(※4)

第三十七節[自由に移行するための自己放棄]

自己としての個性を放棄することは、自己意識が普遍的な意志へと移行を成しとげるための、つまり積極的な自由へと移行するための契機である。

 

※1 
要因、契機(das Moment)
主人と従僕との関係において、従僕が主人に対する恐れから、自ら服従し自己の個性を放棄することで、従僕は服従と労働の中で自らの技能を磨いて自立性を高めていく。
「自己の個性の放棄」は従僕が自立していくための契機(要因)「das Moment」である。

※2
普遍的な意志(all­gemeiner Wille )
従僕は、服従と労働の中で自己中心の恣意や、個人的な欲望や意志をおさえて、普遍的な意志に移行する。普遍的な意志とは市民社会や国家などにおける共同体における意志である。

※3
積極的な自由(positiven Freiheit.)
ヘーゲルは自由を消極的(Negativ)と積極的(Positiv )の二側面で捉える。libertyとfreedom とのちがいと同じ。前者は、単なる束縛からの自由に過ぎないが、後者は、自己の意志をもって積極的に社会や国家にかかわっていくことの自由ともいえる。

※4
ヘーゲルの処女作『精神の現象学』の中で展開されている、ストア主義(Stoicism)から懐疑主義(Skepticism)、不幸な意識(Das unglückliche Bewußtsein)へ進みゆく道程の記述が、この『哲学入門』の第三十七節の「精神現象論」の説明ではその道程が完全に抜け落ちている。この過程で自己意識は行き詰まりと絶望をくり返しながら、理性的な意識へと克服の道を歩んでいく。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十六節 [恣意の否定と真の服従]

2024年05月17日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段  自己意識  第三十六節 [恣意の否定と真の服従]

§36

Der eigene und einzelne Willen des Dienenden, näher betrach­tet, löst sich aber überhaupt in der Furcht des Herrn,  dem inne­ren Gefühle seiner Negativität, auf. 

第三十六節[恣意の否定と真の服従]

しかし、一般的に従僕自らの固有の意志は、よりくわしく見てみると、主人に対する恐怖の うちに、つまり従僕のうちにある否定的な感情の中に消えてしまっている。

Seine  Arbeit (※1) für den Dienst eines Anderen ist eine  Entäußerung (※2)seines Willens_ teils an sich, teils ist sie zugleich mit der Negation der eigenen Be­gierde die positive  Formierung der Außendinge(※3) durch die Arbeit, 

他者に奉仕するための従僕の「労働」は、それ自体が彼の意志の「外化」であると同時に、彼自身の欲望を否定することであって、その労働を通して積極的に「外部に事物を形成」することでもある。

indem durch sie das Selbst seine Bestimmungen(※4) zur Form der Dinge macht und in seinem Werk sich als ein gegenständliches anschaut. 

そうすることによって、従僕自身は自らの内的な思いを物の形にまで作り上げ、そうして自分の作品の中に自分自身を一つの客観物として直観するのである。

Die Entäußerung der  unwesentlichen Willkür  macht das Moment des wahren Gehorsams aus. (Peisistratos (※5) lehrte die Athenienser gehorchen. Dadurch führte er die Solonischen Gesetze in die Wirklichkeit ein und nachdem die Athenienser dies gelernt hatten, war ihnen Herrschaft überflüssig.)

本質的でもないところの恣意を 捨て去ることは、真の服従のために不可欠の要素である。(ペイシストラトスはアテナイ人に服従を教えた。そうしてから彼はソロンの法律を実際に採用した。そうしてアテナイ人が服従を学んだ後は、もはや彼らに支配権力は余計なものになった。)

 

※1
die  Arbeit
 前三十三節でそれぞれの自己意識の間に存在する不平等から主人と従僕の関係が必然的に生じ、そこに奉仕や服従が生まれるが、従僕は奉仕のために 労働 に従事することになる。

※2
die  Entäußerung
「Entäußerung」もともとドイツ語で「外に投げ捨てる」という意味。
動詞「entäußern」「外部に表す」「(権利や所有権を)放棄する」

従僕は奉仕のための労働を通して、自己の意志や所有権を放棄する。これがこの文脈でヘーゲルが用いた「Entäußerung」の意味である。この労働、すなわち自己の「Entäußerung(外化・疎外)」を通して、個人がどのような事物にどのようにして自己を捧げるか、あるいはそのことで自己を喪失するか、また、それによってどのように他者に対して、社会や国家に対して関わっていくかなど、重要な問題が含まれている。

ちなみに、マルクスはヘーゲルからこの「Entäußerung」の概念を受け継ぎ、労働者が自らの労働力を資本家に売却することをもって、労働者が自己を「Entäußerung(疎外)」するとした。そしてこのことを、いわゆる「資本主義」の根本原理の一つとして捉え、この労働者の「疎外」の克服を社会主義運動の目的とした。

確かにマルクス主義には、そうした部分的な真理と意義は含まれているとしても、しかし総体としては、その目的を実現する手段として「プロレタリア独裁」を主張した点において、この思想と哲学はすでに歴史的にも理論的にも破綻している。
「樹の善し悪しは、その樹の結ぶ実によってわかる。」(ルカ書6:43)という実証主義からもそのことは明らかである。
「Entäußerung(疎外)」の概念については、また別個にさらにくわしく考察する機会があると思う。

※3
 die positive Formierung der Außendinge
その労働を通して積極的に「外部に事物を形成」する。
画家や彫刻家はその芸術作品の創造によって、自己の内部の思い「Bestimmung」を、その美や理念を、作品として外部に形成する。
トヨタ自動車は、その企業の従業員の労働を結集して、「レクサス」という自動車(Bestimmung)を商品として完成させる。
哲学者は自己の使命「Bestimmung」を国家において実現する。
内なる「Bestimmung」は「Entäußerung(外化)」される。

※4
 seine Bestimmungen
「Bestimmung」「目的」「使命」「役割」「定め」
「bestimmen」動詞「定める」「決定する」
「Bestimmung」は、個人が達成すべき目的や使命、役割を意味する。
人生の意味や目的について考察する際に必要な概念で、哲学や宗教において重要な意義をもつ。「Bestimmung」の概念については、これまでの註解においても、繰り返し取り上げてきた。

※5
Peisistratos ペイシストラトス
ペイシストラトス(Peisistratos、紀元前600年頃 - 紀元前527年頃)は、古代ギリシャのアテナイで重要な役割を果たした政治家。
「本質的でもないところの恣意を捨て去ること(die Entäußerung)は、真の服従のために不可欠の要素である。」
「自我」を捨て去る(die Entäußerung)ことは、他者との関係の中で、労働を通して自己意識が自己を見つけるために経験する過程である。個人は他者との関係の中で自己を見つけ、自己を実現する。
現代日本の教育の根本的な欠陥は、真の自己実現のために、「自我」を捨て去る(die Entäußerung)こと、「本質的でもないところの恣意を捨て去ること、真の服従」を教えないことである。その結果として「クズ的人格」が日本人に生まれてくる。

ペイシストラトス - Wikipedia https://is.gd/dIEdWA

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

2024年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

§35

Diese rein negative Freiheit, die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein (※1)besteht, entspricht jedoch dem Begriff der Freiheit (※2)nicht, denn diese ist die Sichselbstgleichheit im Anders­sein, teils der Anschauung seines Selbsts in andern Selbst, teils der Freiheit nicht vom Dasein, sondern im Dasein über­haupt, eine Freiheit, die selbst Dasein hat. Der  Dienende  ist selbstlos und hat zu seinem Selbst ein anderes Selbst, so dass er im Herrn sich als einzelnes Ich entäußert und aufgehoben ist und sein wesentliches Selbst als ein anderes anschaut. Der  Herr  hingegen schaut im Dienenden das andere Ich als ein aufgeho­benes und  seinen einzelnen Willen als erhalten  an. (Geschichte Robinsons und Freitags.)(※3)

 

第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

しかし、自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由は、自由の概念とは一致しない。というのも、自由とは他者の存在内における自己同一性であり、一面においては、他の自己のうちに自分自身を直観することであり、一面においては、そこにある存在からの自由ではなく、そこにある存在一般のうちにある自由であり、それは自身の存在をもつ自由である。従僕 は自我をもたず、そうして自己自身に代えて他人の自我をもつのであり、その結果として従僕は、固有の自我としての自分を主人のうちに手放し、自身を主人に預けている。そうして彼本来の自我を他者として見ている。主人はそれとは反対に、自分の自由になる他人の自我を従僕のうちに見るとともに、彼固有の意志が従僕のうちに収まっている のを認めるのである。

(ロビンソン・クルーソーとフライデーの物語)

※1

Diese rein negative Freiheit , die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein
「自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由」とは、要するに、我が命さえをも自ら投げ捨てることのできる「自由」のことである。これも確かに「一つの自由」ではあるが、しかし、それは葉隠的な「死の哲学」における自由であり、それを「否定的な自由」としてとらえている点においても、ヘーゲルの哲学は「死の哲学」ではなく「生の哲学」である。

※2
der Begriff der Freiheit   「自由の概念=真の自由」
ここでヘーゲルは「真の自由」すなわち「自由の概念」をどのようなものであると考えているかがわかる。真の自由は「何かを捨て去ること」にあるのではなく「他の存在のうちに自己の存在を保つこと」のうちにある。

参照:ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第三節 [個人の自由意志と法の普遍性] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/jFA85g

※3
「ロビンソン・クルーソー物語」イギリスの作家、ダニエル・デフォーの作品。主人公のロビンソン・クルーソーは船で遭難し孤島に漂着する。その島で生き延びていくなかで出会った原住民の一人フライデーは彼の忠実な従僕となる。主人と従僕の関係の具体的な例として、ヘーゲルはこの物語を取りあげている。「精神の現象学」においても、哲学的な主題の具体的な例としてギリシャ神話や聖書、「ラモーの甥」その他さまざまな文学作品をとり挙げている。

 

 

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飯山陽(あかり)さんを支持する理由について(R6 03/05 日本保守党 記者会見)

2024年04月19日 | 教育・文化

 

R6 03/05 日本保守党 記者会見

 

※20240418追記

 

飯山陽(あかり)さんを支持する理由について

先月の3月5日に、東京第15区の衆議院議員補欠選挙に立候補するにあたって、中東研究者の飯山陽(あかり)氏が日本保守党の江東区支部長に就任することになり、その際に党代表の百田尚樹氏と事務総長の有本香氏の二人を伴って記者会見が開かれました。その動画がYoutubeに上がっていたのでこのマイナーなブログにも共有させていただいておりました。その際に何かコメントを書きたいと思っていましたが、その時間もなかなか取れませんでした。

飯山陽氏にについては、YouTubeを始められた頃から、彼女の見識に触れ、感心してこれまでもそれなりに視聴させていただいていました。その中で、現在のどちらかといえばパレスチナ寄りの日本のアカデミズム界と、それと連携する外務省の一方的で公式的な中東政策、および、それを支えて来られた学者の池内恵氏や篠田英朗氏らに対して、飯山氏は自ら「場末の中東研究者」と称して批判的な見解をこれまでも明らかにされてきました。

私もそうした彼女の考えに少なからず共感してきましたが、しかし、百田直樹氏や有本香氏と飯山氏との接点についてはよく知りませんでした。だから、飯山氏が日本保守党の東京江東区の支部長に就任するというニュースをYouTubeで知って驚きました。

しかし、いずれにせよ飯山陽氏が日本保守党のような政党から出られて、少しでも国家としての日本が一つの家族のような性格を取り戻すのに貢献されるのは賛成ですし、日本国民がさらに一つの家族のようになれば、日本国民の幸せはより深まるだろうと思っています。

もともと日本保守党が生まれたのは、作家の百田尚樹氏とジャーナリストの有本香さんの提唱によるものですが、そのきっかけといえば、自民党が安倍晋三前首相の亡き後に稲田朋美氏や岸田首相らが中心になって国民多数の反対するLGBT法案を強行採決したことでした。

そもそも田中角栄政権以来、自民党は保守党としての性格をすっかり失っていましたが、岸田内閣の成立とLGBT法案などの強行採決によって、リベラル政党としてのその本質をさらにあらわにし始めたといえます。こうした自民党の傾向に対して、これまで自民党を支持してきた保守的な岩盤支持層を旧来より構成してきた人々が、自民党に対して反旗を翻し離反し始めたのだと思います。百田氏や有本氏らの行動はその現れだと思います。

もちろん博士号保持者の飯山陽博士と比較するにはあまりも僭越だと思いますが、私も「場末の哲学研究者」として、日本国の国家理念や政党政治のあり方について、それなりに関心をもち、また私のブログなどにこれまでもその考えを明らかにしてきました。

その中で、かねてより日本国民は「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を国家の理念として追求すべきだと考えてきましたし、その理念を具体的に実現していくためには、基本的に我が国の政党政治は「保守自由党」と「民主国民党」の二大国民政党によって担われるべきだと思い、またそのように主張してきました。そのせいもあって、来るべき東京第15区での衆議院議員補欠選挙に、日本保守党から立候補された飯山陽氏の主張には共感できるところも少なくありませんでした。

ところで日本国内の現在の支配的な政治思想は、多かれ少なかれマルクス主義の影響をそれも深刻に受けています。現首相の岸田文雄氏もその一人です。また日本共産党は言うまでもないですし、立憲民主党も「立憲共産党」と揶揄されていることからわかるように、それに引きづられています。

それを例えてみれば、ちょうど兄弟姉妹のたくさんいる大家族があったとします。そのうちのある一人が、長男が祖父母から譲り受けた田んぼとその屋敷を見て、自分にもなぜ遺産分けしてくれないといって、長男や祖父母に対して恨み憎しんでやまず、兄弟姉妹たちに対して家族の中でもいつも喧嘩腰の態度でいるようなものです。また、祖父は中国で悪いことをしたと、頭から信じ込んで祖父の置かれたさまざまな事情に思い至ることもありません。これではこの家族の中にはいつまでたっても和やかな家族愛は育まれることはないでしょう。

リベラルや共産主義の考え方や行動は、また、その源はマルクスの国家観や歴史観、それは階級闘争史観といわれていますが、その実際はこのようなものだと思います。私が今回の東京第15区の衆議院議員補欠選挙で、立憲民主党やその他の候補者ではなくて、日本保守党の飯山陽氏を支持するのも以上のような理由からです。

R6 03/05 日本保守党 記者会見 - 作雨作晴 https://is.gd/ZuayDw

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

2024年04月18日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

§ 34

Indem von zwei einander gegenüberseienden Selbstbewusstsein jedes sich als ein absolutes Fürsichsein(※1)gegen und für das andere zu beweisen und zu behaupten streben muss, (※2) tritt dasjenige in das Verhältnis der Knechtschaft, welches der Freiheit das Leben vorzieht  und damit zeigt, dass es nicht fähig ist, durch sich selbst von seinem sinnlichen Dasein(※3) für seine Unabhängigkeit zu abstrahieren.(※4)

第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

互いに対立して存在する二つの自己意識は、反対するにせよ賛同するにせよ、それぞれが一個の絶対的な自覚的な存在として、自己を他者に対して証明し主張するよう努めなければならないから、自由よりも生命を選び、その結果として自己の独立性のために自分の肉体的な存在を捨て去ることのできない自己意識は隷従の関係に置かれることになる。

 

※1
 ein absolutes Fürsichsein 一つの絶対的な「自覚的な存在」。意識の自己分裂の結果、自己を自己として自覚する。「独立的な存在」「自立的な存在」とも訳せる。

※2
自己意識は他の自己意識との対立を通して自己を確認する。

※3
「sinnlichen Dasein 感覚的なそこにある存在、肉体的な存在」
それぞれの「自己意識」の承認をめぐる闘争において、自由のために肉体的生命をすてることのできないものは、隷従の立場に陥る。

※4
これまでの叙述の展開からも分かるように、ヘーゲルの処女作『精神の現象学』で詳細に考察された意識の進展が、この哲学入門の第二課程の「精神現象論」おいて簡潔に叙述されている。意識は、「1、感性的意識」から「2、知覚」へと、さらに「3、悟性」をへて「自己意識」に至る。「自己意識」は「欲望」を経て、この第三十四節で「自己意識」は他の自己意識との関係に入る。それは対立的な関係であり「支配と隷従の関係」である。この過程をへて自己意識は第三段の「理性」に至る。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

2024年04月11日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

§33

Aber die Selbstständigkeit  ist die Freiheit nicht sowohl  außer  und von dem sinnlichen, unmittelbaren Dasein, als vielmehr in demselben. Das eine Moment ist so notwendig, als das andere, aber sie sind nicht von demselben Werte.(※1)

第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

しかし、自立するということは外部にあって 肉体的な直接的にそこにあるものから自由であるということではなく、むしろ内面における自由である。一つの契機は他の契機と同じように必然的なものであるが、しかし、それらの価値については同じではない。

Indem die  Ungleich­heit  eintritt, dass dem einen von zweien Selbstbewusstsein die Freiheit gegen das sinnliche Dasein, dem andern aber dieses gegen die Freiheit als das Wesentliche gilt, so tritt mit dem gegenseitigen Anerkanntwerdensollen in der bestimmten Wirk­lichkeit das Verhältnis von Herrschaft  und Knechtschaft  zwi­schen ihnen ein; oder überhaupt des Dienstes  und Gehorsams, insofern durch das unmittelbare Verhältnis der Natur (※2) diese Verschiedenheit der Selbstständigkeit vorhanden ist.

二つの自己意識のうちの一方は、肉体的な存在よりも自由を本質的なものとみなし、もう一方はそれに対して、自由よりも肉体的な存在を本質的なものとみなすという 不平等の  生じることから、お互いが認められたいという特定の現実のなかにおいては、両者のあいだに主人と従僕の関係が生まれてくる。言いかえれば、自立することについて、生まれつきの直接的な関係を通してこの区別が存在するかぎりは、奉仕服従 の関係が一般に生まれてくる。

 

※1
Das eine Moment ist so notwendig, als das andere
「一つの契機は他の契機と同じように必然的である」
私たちの自由には、「精神面の自由」と「肉体面の自由」があるということである。いずれの自由も人間にとって必然的なものであるが、いずれに価値を見出すかは同じではない。

※2
durch das unmittelbare Verhältnis der Natur
「生まれつきの直接的な関係を通して」
自然の世界においては、諸動物の間に典型的に見られるように、また人間の場合においてもそうだが、能力、素質、環境、遺伝などの側面において、剥き出しの不平等、区別が存在する。その結果として弱肉強食の関係が、主人と従僕の関係が生まれる。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十二節 [他者による「私」の自由の承認]

2024年03月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自意識 第三十二節[他者による「私」の自由の承認]

§32

Um sich als freies geltend zu machen und anerkannt zu werden, muss das Selbstbewusstsein sich für ein anderes als frei vom natürlichen Dasein darstellen. Dies Moment ist so notwendig, als das der Freiheit des Selbstbewusstseins in sich. (※1)Die absolute Gleichheit des Ich mit sich selbst ist wesentlich nicht eine unmit­telbare, sondern eine solche, die sich durch Aufheben der sinn­lichen Unmittelbarkeit dazu macht und sich damit auch für ein anderes als frei und unabhängig vom Sinnlichen. (※2)So zeigt es sich seinem Begriff gemäß und muss, weil es dem Ich Realität gibt, anerkannt werden.(※3)

第三十二節[他者による「私」の自由の承認]

自己を自由なもの として主張し、また認められるためには、自己意識は他者に対しても自然的な(必然性に支配された)存在から自由なものとして  自らを示さなければならない。この要素は自己意識の内部における自由と同じように必然的なものである。「私」と自己自身との絶対的な同一性というのは本質的に直接的なもの(媒介のないもの)ではなく、むしろ感覚的な直接性を揚棄することを通して同一性を実現するようなものである。そうして、また他者に対しても自己が感覚的なものに依存しない自由なものであることを明らかにする。かくして自己意識は自らが自己の概念にふさわしいものであることを示し、かつ他者からも自己意識は自由なものとして認められなければならない。なぜなら、そのことによって「私」に(自由の)実在性が与えられるからである。


※1
自己意識の概念とは、自己意識つまり「私」が自由である、ということである。個人が自由であることを自ら主張し、他者からも自由であることが認められるためには、第一に、自己自身の内部において自由であることを示すのみならず、第二に、他者に対しても自らが自然的な定在からも自由なものであること(als frei vom natürlichen Dasein)を明らかにしなければならない。この二つの要素は自己意識が自由であることを証明する上で、必然的なものである。

※2
「私」の自己自身との絶対的な同一性ということは、自己意識が二つに分裂していることによって生じるものであるが、それは直接的なもの(媒介のないもの)ではなく、つまり、自己意識そのものの「反省 Reflexion」を通して、「私は私である」という同一性が明らかになる。
感覚的な直接性を揚棄することを通して(durch Aufheben der sinn­lichen Unmittelbarkeit )というのは、たとえば「眼の前にあるチョコレートを食べるか食べないか、いったん欲望を中断して」ということである。

※3
自己意識、すなわち「私」がその概念にふさわしい「自由な存在」であることの実在性を得るためには、他者からもそのように認められなければならない。「私」が本質的に社会的な存在であるからである。

 

 

 

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