天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

桃の節句、三人の歌姫

2023年03月03日 | 日記・紀行

 

2023(令和5)年3月03日(金)曇りのち晴れ。桃の節句。

 

今日は桃の節句。世界に「女性の日」があるのかどうか、知らないし調べる気もありませんが、端午の節句の子供の日が男の子の日であるのに対して、わが国に伝統的な「桃の節句」の今日の三月三日はまぎれもなく、女の子の日です。

私もまた、母をはじめ、妻、連れ合い、娘たち、幼い頃から今に至る女ともだちなど、さまざまな女性たちとの関わりの中で生きてきました。

日本の女の子たち、やまと撫子という言葉もすでに死語になりつつあるかもしれませんが、また本当に美しい日本女性も少なくなりつつあるようですが、それでも、世界と比較すれば、まだまだ、有名無名を問わず健気できれいな日本女性も少なくないようです。

また三組のうち一組が離婚するとも言われる今日でも、婚姻の破綻のその不幸を多く背負わなければならないのは、女性と子供たちです。

しかし現代の日本には、離婚の罪悪を諭して、女性や子供たちを不幸から救おうとするものは誰もいません。政治家、宗教家、教育者たちも堕落して、子どもや女性たちのために自らの責任を果たす能力もありません。

それでもせめて桃の節句の今日は、三人の日本の歌姫の歌を取り上げて、日本の女性たちへの思いを新たにしました。とはいえ、私の世代から見て、どうしても過去の追想になりがちなのはやむをえません。

 

松任谷由実 - ひこうき雲 (Yumi Arai The Concert with old Friends)

 

駅  竹内まりや・岩崎宏美

 

時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)

 

 

 

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2022年クリスマス

2022年12月25日 | 日記・紀行

2022年クリスマス

 

2022年12月25日夜、ベランダから写した比叡山麓の夜景。雪曇の切れたわずかな晴れ間に星々が美しく輝いています。

今年もクリスマスの夜を迎えました。クリスマスおめでとうございます。今年もクリスマスの宵を共に過ごすことのできなかった方々に平安な一夜の幸をお祈りします。

 

ながき道を ひとりあるきて

罪多き 過ぎし日よ

すくいぬしの み声を聞きて

こころうごき  わき立ちぬ   (讃美歌Ⅱ-140)

 

 

Präludium Und Fuge in E-Moll (Bwv 548)

詩篇第百三篇註解 - 海と空 https://is.gd/hr0wXw 

 
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2021年クリスマス・イブ

2021年12月24日 | 日記・紀行

 

2021(令和3)年12月24日(土)晴.

 

クリスマス・イブの土曜日の今日、ゲーテ『親和力』第三章を読む。

 

第三章

大尉がエドアルト、シャルロッテ夫妻の屋敷に来る。到着前に大尉からの手紙を読んで、シャルロッテは大尉の人柄に安心感をもっている。久しぶりの再会でエドアルトと大尉は活発に語り合う。夕方になってシャルロッテは大尉に新しい庭の散歩を勧める。丹精を込めたシャルロッテの庭を大尉は大いに気に入る。東家 ⎯ それは苔葺の小家だったが、シャルロッテは二人のために飾っていた。男たちの会話の中から、大尉とエドアルトがいずれもそのファーストネームがオットーであることがわかる。屋敷の方角から猟笛の音が聞こえてきたとき、三人はお互いのつながりに深く幸福を感じる。

エドアルトは東家からさらに見晴らしのいい丘の頂上へと大尉を案内する。頂上へと通じる段々や坂道はシャルロッテが手入れをしたものである。その山峡の中を渓流が池にそそいでいた。池の傍らには居心地のいい休憩所のように水車小屋が立っている。そこから見渡せる見事な眺望を前にエドアルトは友人に子供の頃の思い出を語る。

やがて三人は満ち足りた思いで屋敷へと戻ると、大尉にはその右翼の広い一部屋があてがわれた。大尉はその部屋に書類や書物などを整えて仕事ができるようにした。エドアルトは初めの数日間は大尉を連れて馬や徒歩で所有地の一帯を案内して回る。エドアルトは所有地を有利に使うために測量術に長けた大尉に計測の計画を打ち明ける。エドアルトはそこで大尉から妻シャルロッテの庭園づくりの素人ぶりを指摘されるが、大尉はシャルロッテの自信を傷つけてはいけないと口止めする。しかし初めの間こそ口には出さなかったが、エドアルトはとうとう堪えきれずに男たちの庭園の構想を話してしまう。シャルロッテはそのことで動揺し、それまでの庭づくりの楽しみを失ってしまう。

一方で男たちは貴族的な暮らしぶりに耽ったので、シャルロッテは日増しに心さびしくなりゆき、それを紛らわすかのように、姪のくらす寄宿学校との手紙のやりとりを交わす。

寄宿学校から届いた女校長と助教師の手紙によって、姪のオッティーリエの寄宿学校での生活の様子が伝えられる。オッティーリエが食事を十分にとらないこと、偏頭痛もちであることなどが明らかにされる。

女校長の手紙に添えられた助教師からは、オッティーリエがフランス語の授業に抜きん出ていること、将来教師をめざしていることなど、しかし、シャルロッテは助教師がオッティーリエについて、まだ若く固い将来を秘めた果実にたとえて書いて寄越したことに、教え子に対する好意以上のものを感じて微笑まずにはいられない。

 

 

 

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水辺の白鷺

2021年02月05日 | 日記・紀行
 
2021年令和3年2月5日(金)晴
 
水辺の白鷺

氷点下を記録した寒い日、いつもの通り道の岩倉川の流れの堰の前に、浅瀬に立ちながら魚を狙っている白鷺の優美な姿を見て

氷はる  岩倉川の  流れ堰
    脚凍えぬか 水辺の白鷺 
 
※ 残念ながら白鷺の姿はカメラに収めることができませんでした。
 
 
 


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あけましておめでとうございます

2019年01月03日 | 日記・紀行

 

あけましておめでとうございます。

今年の年賀状の図柄は、西行が東北への旅の途上、遠州の天竜川の渡しで船に乗って渡ろうとしたときの情景を描いた「西行物語絵巻断簡 法師堪忍図」を使わせてもらいました。

そのとき船は乗り込んでくる旅人でいっぱいになりました。船頭は法師である西行に下船するよう命じ、彼の頭を打擲したそうです。西行はあがらうことなく手を合わせて祈りながら命ぜられるままに船を降りたというエピソードが描かれています。

室町時代、1500年頃の作品だそうです。

 

挿絵とあらすじで楽しむお伽草子
 第12話 西行物語 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
 https://is.gd/Gom9pR

 https://is.gd/5FCY9E

 

 

 
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西行歳暮和歌七首

2014年12月31日 | 日記・紀行

西行歳暮和歌七首

題しらず

567
山ざくら  思ひよそへて ながむれば  木ごとの花は  ゆきまさりけり

 

仁和寺の御室にて、山家閑居 見雪といふことをよませ給ひけるに

568
降りつもる  雪を友にて  春までは  日を送るべき  み山辺の里


山家冬深

569
訪ふ人は  初雪をこそ 分け来しか 路とぢてけり   み山辺の里

570
年のうちは  訪ふ人さらに  あらじかし  雪も山路も  深き住処を


世を遁れて、鞍馬の奥に侍りけるに、筧氷りて、水もうで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて、よめる


571
わりなしや 氷る筧の水ゆゑに  思い捨ててし  春の待たるる


みちのくににて、年の暮れによめる

572
つねよりも  心細くぞ 思ほゆる  旅の空にて  年の暮れぬる

山家歳暮
573
あたらしき 柴の編戸を  たてかえて  年のあくるを 待ちわたるかな

今年もこの拙いブログに訪れてくださった皆さん、どうか良き新年をお迎えくださいますよう。

 

 

 

 

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クリスマスイブ

2014年12月24日 | 日記・紀行

 

Enya - Oíche Chiúin (Silent Night with Lyrics)

クリスマスイブ


昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らかな声です。

早いもので今年ももう終わりです。残念ながら大した成果なく今年も終わりそうです。今年お世話になった方、失礼とご無沙汰に終った方々にお礼とお詫びをかねて、クリスマス・イブのご挨拶を送ります。クリスマスおめでとうございます。



「そ こで、イエスは群衆の中から、彼一人を引き出し、その男の耳に指を差し入れ、つばを吐いた手でその男の舌に触れられた。そうして、イエスは天を仰ぎ、深く うめきながらその男に向かって、エファッタ、と言われた。開け、という意味である。たちまち男は聴こえるようになり、どもっていた舌はなめらかに話せるよ うになった。」

 (マルコ書 7:33ー34)

 

 

 

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下鴨神社

2014年01月24日 | 日記・紀行

 

久しぶりに下鴨神社を訪れる。よく晴れて美しい日。雲一つないきれいな青空が広がっている。空高く描かれている飛行機雲もくっきりと見える。

参道口近くに早咲き桜があるという。すぐに見つけたが、確かに花を咲かせていたけれどとても、とても小さくて貧弱な桜だった。神社にはいつも糺ノ森の方から歩いて入っていたので知らなかった。

神社を訪れて境内の社などを見てまわると、そして取り囲まれた森の中に身を置くと心も落ち着く。というか拝殿などの神社独自の古い建築様式の与える印象と、近代現代建築に特有のガラスやコンクリートに囲まれる場合とは受け取る感覚が明らかに異なる。

本殿の奥へは進めないようになっていて、たたずまいがいつもとは違うようだと思いながら覗き込むと、奥の方に鉄パイプの足組とテントが見えた。どうやら工事中のようだった。

今年の正月もすでに終わっていて、喧噪もなく落ち着いて参拝できた。社殿の造りなどの一角を眺めていると、紫式部や清少納言ら古人の往時の生活環境に自然と思いがゆく。階段の下に木靴が一足揃えられてあった。蹴鞠にでも使われたにちがいない。

大きな絵馬の板があちこちの建物の壁に立てかけられてあり、そこに参拝客らの寄せ書きがびっしりと書かれてあった。たまたまその中に自分と同じ名前 を見つけた。聖子さんという名前といっしょにハート形に囲まれてあり、forever love  とか下手な字も書きこまれてある。年末年始の参拝客の雑踏と若いカップルを想像させて微笑ませる。

ただ、こうした大きな絵馬が境内のあちこちの建物の壁に立てかけられているのは、いずれ撤去はされるとしても無風流というか、神社の落ち着いた感じにそぐわないように感じる。

土産物売り場に並べられた様々なお守りやお札、茶碗などを眺める。そのあと、みたらし川の方に行った。浅い水底に苔が目についた。掛かっている赤い橋の上には銀杏の実が落ちている。尾形光琳の国宝、紅梅白梅図のモデルにもなったという梅の木も傍にあったが、まだ咲いてはいなかった。

帰 途、神社を出てすぐ近くにあるお店でわらび餅をいただく。奥の方に男性ばかり連れ立った客がいたが、入口の座席には客はなかった。女店員が奥で雑談しなが ら立っている。本当に何年ぶりになることか。反復はありえなことではない。みたらし団子は食べなかった。この団子の名前が下鴨神社のみたらし川に由来する ことに今になって初めて気づく。

 

 

 

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海、丹後神崎海水浴場

2013年08月27日 | 日記・紀行

 

海、丹後神崎海水浴場

昨年の夏から、年に少なくとも一度は海に行こうと決心していたのに、今年も雑用に追われている間に、瞬く間にこの夏も終ろうとしていることに気づいた。どうやら今年も海水浴の機会も失ってしまったようだ。     

静岡の遠州浜に近いところに暮していたことがある。海がすぐ近かったので、朝な夕な、遠く沖合の太平洋の水平線を行き交う船を眺めながら、潮風に吹 かれながら、夕陽や朝日を浴びて砂浜や黒松林をよく散策した。潮風の香りの記憶と、砂浜にうち寄せる浪に足裏の洗われる心地よさをその時に覚えてから、京 都に戻ってきても未だにいつまでも海を忘れられないでいる。       

このまま思い立たなければ今年の夏も機会を失ってしまいそうで、平日に時間の空いているこの日に決心して海を見に行くことにした。それも前日である。太平洋岸の広大な水平線を眺めたいけれども、京都からの日帰りにしか時間に余裕がないとすれば、日本海側に出るしかない。

地図で適当な海水浴場を探したが、今年はまず交通の便も無難そうな若狭湾沿いの丹後神崎海水浴場を選んだ。

朝の間に雑用を済ませて出た。食事も摂っていなっかったので、京都駅の構内にあった食堂で蕎麦で昼食を済ませた。十三:二五発の特急5号城之崎行きで、とにかく出発した。

電車の窓から眺める田圃の少し色づき始めた丹波の景色も、夏の終わりというよりもむしろ秋の兆しを思わせる。出発も遅れたので、現地の小さな古い駅舎に着いた頃はもうすっかり昼下がりで、海水浴を十分に楽しむためにはやはり遅すぎる。

駅前の並木道に鳴いていた蝉の声もおとなしく、すでに夏の盛りではない。駅近くの案内板に従ってまっすぐに浜に向かう。遙か昔に兄たちと一緒にここ に泳ぎに来たことがあるかもしれない。途中ふとそんな既視感にとらえられる。かなり歩いて公園らしき松林が見え、そこを抜けると海が見えた。この海水浴場 は予想したより砂浜は広く長い。そして遠く小高い青い山にその砂浜は切られて尽きている。思ったよりも美しい浜辺だった。

さすがにお盆を過ぎた海には、海水浴客はいなかった。浜辺に沿って設営された海の家にも海水浴客はおらず、業者らしい男や夫婦が、脚立を引出してカナヅチで、トタン屋根や柱などを取り外したりしていた。今年の夏も終わったのだ。

海辺にはモーターボートを楽しんでいるらしい行楽客が一組だけ遠くに小さく見えただけである。波は少し高いようだった。できれば海で泳ぎたかった が、今年は思い立ったときにはすでに時期も外れて遅く諦めざるを得なかった。 来年はきっと日本海か太平洋岸か海に出て泳ごうと思う。

護岸のコンクリートの上に腰を下ろし、しばらく海と波と遠く沖合に霞んで浮かぶ小さな島を眺めていた。うち寄せる波は美しく見ていて厭きない。山並みの緑とよく晴れた空が美しい色彩の調和を見せている。

泳ぐことも出来ないなら、せめて砂浜の感触を足に楽しもうと、靴を脱ぎ裸足になって砂浜に降りた。そして、さっき遠く小さく見えたモーターボート遊びをしている一行の様子が手に取るように見える地点に近くまで歩いた。

そこから長い砂浜を折り返した。日差しを今度は顔にまともに浴びることになった。日に焼けると思いながら帽子も脱いで、今年の行く夏を惜しむつもり で眩しい陽の光を全身に浴びながら、うち寄せる波と戯れながら、足の裏に砂と潮を踏みしめてゆっくりと長い砂浜を戻った。リュックを置き去りにしたまま の、海の家の前のあの古びた旗がすっかり遠く小さく見える。

 

 

Carole serrat Un Apres-Midi,La Mer

 

 春の歌

 

 

 

 

 

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今日はクリスマス

2012年12月25日 | 日記・紀行

 

 

Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt. 

 

Dominica Sexagesimae.

„Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt.“

1、SINFONIA.

2、RECITATIVO.叙唱

Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt und nicht wieder dahin
ちょうど雨や雪が天空から降るように、そして、ふたたびそこに戻ることはなくて、
kommet, sondern feuchtet die Erde, und macht sie fruchtbar und wachsend, dass
地を潤して果実と稔りをもたらし、そうして蒔く種と食すべきパンを与える。
sie giebt Saamen zu säen und Brot zu essen: also soll das Wort, so aus meinem
私の口から出てゆく御言葉もまたそのようにしてあり、
Munde gehet, auch sein; Es soll nicht wieder zu mir leer kommen, sondern thun,
ふたたびむなしく私のところに戻ることは決してないだろう。むしろ私を喜ばせることを行い、
das mir gefället, und soll ihm gelingen, dazu ich’s sende.
そして、私が遣わすところのことを成し遂げるだろう。


3、CHORAL.RECITATIVO.合唱と叙唱

Mein Gott, hier wird mein Herze sein,
私の神よ、ここに私の心はあります。
ich öffne dir’s in meines Jesu Namen:
私はイエスの御名においてあなたを迎えます。
so ströme deinen Saamen,
そうして、あなたの種子を蒔いてください。
als in ein gutes Land hinein.
良き土地に蒔かれるように。
Mein Gott, hier wird mein Herze sein,
私の神よ、ここに私の心はあります。
lass solches Frucht und hundertfältig bringen.
こうした果実を百倍にしてもたらしてください。
O Herr, Herr, hilf! o Herr, lass wohl gelingen.
ああ、主よ、主よ、助けたまえ!ああ、主よ、善く成し遂げさせたまえ。
Du wollest deinen Geist und Kraft zum Worte geben,
あなたは御言葉に御身の霊と力を与えらる。
erhör uns, lieber Herre Gott!
我らの願いを聴き入れたまえ、愛する主なる神よ。
Nur wehre, treuer Vater, wehre,
ただ防ぎたまえ、誠の父よ、
dass mich und keinen Christen nicht
私を、そして、いかなるキリスト者をも
des Teufels Trug, des Teufels Trug, des Teufels Trug verkehre.
悪魔の誘いから、悪魔の誘いから、悪魔の誘いに迷うことから守りたまえ。
Sein Sinn ist ganz dahin gericht,
彼らの思いは、すべて誘いに迷わせること、
uns deines Rathes zu berauben
あなたの助言を私たちから奪い去ること、
mit aller Seligkeit, mit aller Seligkeit.
すべての祝福とともに、すべての祝福とともに。
Den Satan unter unsre Füße treten,
サタンを私たちの足の下に踏みつけ、
erhör uns, lieber Herre Gott!
私たちの願いを聴き入れたまえ、愛する主なる神!
Ach! viel verläugnen Wort und Glauben
おお、多くの者は御言葉と信頼とを拒み、
und fallen ab, wie faules Obst,
そして、腐った果実のように落ちる、
wenn sie Verfolgung sollen leiden.
彼らが迫害に苦しみ悩まねばならぬ時に。
So, so, so stürzen sie in ewig Herzeleid,
そうして、そうして、そうして彼らは永遠の心の悩みへと落ちてゆく。
da sie ein zeitlich Weh vermeiden.
そこで彼らは浮き世の苦しみから逃れるために。
Und uns für des Türken und des Pabst's
そして、私たちをトルコ人と教皇の
grausamen Mord und Lästerungen,
無慈悲な殺戮と嘲りと、
Wüten und Toben väterlich behüten,
凶暴とそして狂気から、父としてお守りください。
erhör uns, lieber Herre Gott!
私たちの願いを聴き入れてください。愛する主なる神!
Ein Andrer sorgt nur für den Bauch;
他の者が気がかりなのは、ただ腹のことだけ。
inzwischen wird der Seele ganz vergessen.
その間に霊魂のことはまったくに忘れ去られている。
Der Mammon auch
財神もまた
hat Vieler Herz besessen.
多くの心に取り憑いている。
So kann das Wort zu keiner Kraft gelangen.
そのために、御言葉には力無く、心にも届かない。
Und wieviel Seelen hält
そうして、どのくらい多くの霊魂が
die Wollust nicht gefangen!
欲情の虜となったままではないか!
So sehr verführet sie die Welt,
そうして、この世は彼らを巧みに惑わして、
die Welt, die ihnen muss anstatt des Himmels stehen,
この世が、彼らには天国に代わってこの世が立たねばならず、
darüber sie vom Himmel irre gehen.
あげくは、彼らは天国からさまよい出るのだ。
Alle Irrige und Verführte wiederbringen.
迷いそして誘惑されたすべての者が戻って来る。
Erhör uns, lieber Herre Gott!
私たちの願いを聴き届けてください。愛する主なる神!


4、ARIA.

Mein Seelenschatz ist Gottes Wort,
私の心の宝は神の御言葉。
mein Seelenschatz ist Gottes Wort;
私の心の宝は神の御言葉。
ausserdem sind alle Schätze
その他のすべての宝は、
solche Netze,
網のようなもの、
welche Welt und Satan stricken,
この世もサタンもどちらも、
schnöde Seelen zu berücken.
卑しい霊魂を捉えようと罠を張る。
Fort mit allen, fort, nur fort,
遠くへすべて。去れ、ただ遠くへ。
mein Seelenschatz ist Gottes Wort.
私の心の宝は、神の御言葉。


5、CHORAL.


Ich bitt o Herr, aus Herzens Grund
私は願う、おお主よ、心の奥から、
Du wollst nicht von mir nehmen
あなたが私から離れられないことを。
Dein heilges Wort aus meinem Mund,
私の口より出るあなたの聖なる言葉は、
So wird mich nicht beschämen
それゆえ私を辱めることはない、
Mein Sünd und Schuld,
私の罪と咎も、
denn in dein Huld
私はあなたの慈しみに
setz ich all mein Vertrauen,
私のすべての信頼を置くゆえに、
Wer sich nur fest darauf verlässt,
ただ強く身をそこに寄せる者は、
Der wird den Tod nicht schauen.
誰も死を見ることはない。

 

 

 久しぶりにバッハのBWV18《雨や雪が天空から降るように》„Gleich wie der Regen und Schnee vom Himmel fällt.“のCDを取りだして聴いた。全集に収められているのは、アーノンクールの演奏である。

 こ のカンタータで主題にしているのは、「神の御言葉」とそれを「受け入れる心」である。モーゼが「人はパンのみに生きるのではなく、主の口から出るすべての 言葉によって生きる」(申命記 8:3)と言ったことが聖書のなかに記録されている。この言葉は後に、イエスが荒れ野で苦行をしていたときに、悪魔から石に命じてパンになるようにと誘惑 され た時にも、このモーゼの言葉を引いてイエスが悪魔に答えられたことで良く知られている。

雨や雪が天から降るように、そして、大地を 潤し、果実を実らせるように、御言葉も神から来て、御心に望まれることとを成し遂げる使命を必ず果たす。イザヤ書第五十五章十節十一節をバスの叙唱で歌い 上げる。それに引きつづき、CHORALとRECITATIVO(合唱と叙唱)のテノールとバスが交互に、ルターの祈祷を引用しながら心の願いを祈る。

神の御言葉は「種子」に、私たちの心は「土地」にたとえられる。「良き土地に蒔かれるように。私の神よ、ここに私の心はあります。こうした果実を百 倍にしてもたらしてください。」「良き地に落ちし種あり、生え出でて百倍の実を結べり」(ルカ8:8、マタイ13:23)などの聖句からの引用を詩にして 歌うものである。

音楽それ自体のなかに立ち入って技巧的に批評することは、音楽を専門にもしていない者には良くしえない。ただそれでも、その構成の展開からも直観できることは、この小さな作品のもつほんとんど非の打ち所のない美しさである。

冒頭のシンフォニアから、それを受けてイザヤ書の一節を叙べ歌い、さらに連祷のコラールのなかで、世の誘惑と葛藤サタンとの闘いの苦しみを低音のバスで語り、ついには、神の言葉を宝とするに至る純粋な歓ばしい心の境地を、透明で美しいアリアに歌う。

これらの連祷のなかに「トルコ人と教皇の無慈悲な殺戮と嘲り」など宗教改革で知られるルターの祈祷も用いられている。いかにもプロテスタントの時代背景を思い出させる。

「私の心の宝は神の御言葉」と教化の目的はソプラノの美しいアリアで歌われ、最終章では、神の御言葉に依り頼む者の罪科も救われる希望を、重厚なコラールの歌う祈りで終わる。

バッハのカンタータなどの音楽は、本来実際に教会のミサなどの祭祀において歌われた宗教的楽曲であって、今日のように、コンサートホールや自宅で、純粋に音楽として鑑賞されるものではもちろんなかった。

die Welt と対比させられる  die  Himmel など興味のあるテーマも題材になっているけれども、それらの考察についてはまた別の機会に。

今年もまた、送るべき人にクリスマスカードも送りきれなかった。それに代えてせめて、ここだけでもお祝いをお伝えして。メリークリスマス!来る年も良き一年でありますよう。

 

 

 

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山岸の正月

2012年01月26日 | 日記・紀行

山岸の正月
 
AUCH   ICH   IN   ARKADIEN
 

 
ヤマギシズム京都供給所の林さんに誘われて、豊里の村で行われる、新春の「お父さん研鑽会」に参加した。名神高速道路の京都南インターチェンジから、栗東まで行き、そこから国道一号線に乗って関まで、そして、ヤマギシズム生活豊里実顕地のある高野尾町へと出た。途中少し道に迷いはしたが、まず順調な旅であった。

滋賀の県境で、小雨が降り出したが、すぐに止み、鈴鹿峠を越えて、伊勢の平野に入ったときにはすっかり晴れて正月らしい青空が広がった。日の丸の掲げられた、町立小学校の校舎の脇を右に折れて小道にはいると、低い冬枯れの木立の向こうにヤマギシの鶏舎特有の青いトタン屋根が見え隠れしていた。

駐車場に車を入れ、誘導板に従って歩いてゆくと、道路の辻々に案内人が立っていた。正月にヤマギシの村では様々の催しがあり、子供から老人に至るまで、この村に集ってくる。

左手に壬生菜の植わった畑を眺めながら、坂を降りきったとき、いかにも百姓らしい風采をした男が立っていたが、近寄ってみると、昨秋、村に参画したばかりのK氏であった。「よくいらっしゃいました」と言って、彼は固い握手で、私を迎えてくれた。彼は厚い防寒着に帽子を被り、その上に風よけの手ぬぐいを巻いていたので、近づくまで気がつかなかった。

彼が、支部の仲間の会員に送り出された研鑽会で、参画に至るまでの迷いや心境を語っていた時も、私は平凡な感想しか述べることしかできなかった。彼が京都大学を卒業後、建築会社で長くサラリーマン生活を過ごしていたが、東京への転勤の辞令があったのをきっかけに、村に入った。「何も今でなくとも」など上司などから慰留もされたそうである。

今こうして、穏やかな笑みを浮かべ、村を訪れた人を案内すべく、辻に立ちながら、村の正月を過ごしている。建設部で働いているそうである。むろん、これからも試練は避けられないにしても、彼もまた良い決断をしたのだと思った。

立ち話もそこそこに、私はK氏の指さした受付まで行った。木造の校舎のような建物の二階で、そこで財布や免許証、車の鍵などの貴重品を預け、それから私に割り当てられた部屋へ行った。私と合部屋になる六人の名前が、紙に書かれて入口に貼ってある。

すでに到着していた人は、一階のロビーで皆と雑談しながらくつろいでいる風であったが、私は昨夜の寝不足を補うために少し横になった。しかし、半時間ほどの浅い眠りのなかに過ごしてから、夕日の差し込み始めた窓際に寄って、外の景色を眺めた。

何も植わっていない、掘り返された冬の畑の向こうは、伊勢自動車道の土手に遮られており、さらにはるか彼方の伊賀の山々の向こうに夕日は沈もうとしていた。遠くの畦道を、晴れ着に着飾った和服の女性が、裾を風に翻しながらひとり渡って行く。空には名も知らぬ鳥が二羽、西の空に悠々と飛び去ってゆく。

宿舎の端にあった二一五号室で、参加者全員が集まって、オリエンテーションが開かれた。その中で、今回の「新春お父さん研鑽会」のメインテーマとして、「二十一世紀を創る」という標語が明らかにされ、サブテーマとして「光彩輝く将来を画策、施行し・・・」という青本の一節が掲げられた。そして、正月の三日間の日程表が参加者に配られ、研鑽会のスケジュールが紹介された。それが終わると、まだ新しい「豊里温泉」に案内された。

この浴場の外観は、瓦葺きのどっしりした日本建築になっているが、入口はガラス張りで自動ドアである。風呂場には大理石がふんだんに使われている。男風呂はグレーに、女風呂は淡いピンク色で統一されているという。大きな一枚ガラスの向こうに、枯山水の小さな庭を眺め、暖簾をくぐって風呂に入る。

日のまだ明るい内に、お風呂に入り、心身ともに寛いだ後に、用意されていたのは、広く明るい豊里食堂での食事であった。ヤマギシでは食事の前には必ずメニューの紹介がなされ、そこで材料の由来や、料理をした人の「思い」が紹介される。

第一日目のメニューは豚肉の生姜焼きであった。メニューの紹介に次いで、この研鑽会に裏方として参加した「お母さん」の紹介があった。以前にある女性を紹介されたことがある。この時ふと、、この「お母さん」の中に、彼女が来ているではないかと思った。記憶に残っていた名前をその中に探すと、偶然に二人いたが、左側のカーテンの前で、ほほえみを浮かべて立っている女性が、その人ではないかと思った。

この研鑽会に参加した「お父さん」は、実顕地のメンバーを含めて、六十八名である。それに食事の世話や朝晩の布団の上げ下ろし、部屋の清掃など生活スタッフとして加わった主婦や女性のボランティアは、二十二名であり、総勢九十名ほどでこの研鑽会をつくりあげていった。これだけの多人数が明るい食堂に一堂に会して、ユーモラスな話に笑いとよめきながら、老いも若きも食事を共にするのは愉快なものである。

裏方に徹した「お母さん」のテーマは、「至れり尽くせり」だと言った。ヤマギシでは何か仕事をする時、必ずと言っていいほど、テーマを研鑽して掲げる。岡山から来ていた主婦は、個人的には「何でも、ハイでやります」というテーマに取り組んでいたが、彼女は後で、ある「お父さん」から、「背中を流してくれ」と冷やかされて困ることになる。

広い食堂の、カーテンで仕切られた向こう側では、子供たちや学生たちが大勢賑やかに食事をしていた。私たちの囲んだテーブルには、二人の女性がそれぞれ受け持って、親切に給仕してくれた。この時ばかりは「お父さん」は箸の上げ下ろし以外何もすることはなく、陽気で美しい「お母さん」の給仕で、心身共に腹一杯にしてもらって見送られ、出発研鑽会の会場になっている、学育鶏舎にある鶏鳴館へと向かった。

部屋の壁に、テーマとサブテーマが大きく書かれて掲げられてある。ここで全員がこの研鑽会に参加した動機を述べた。それはもちろん人様ざまであったが、なかには「お父さん預かり」とか冗談めかして言う者もいた。しかし、概して参加者は、父親として男としてあらためてこの機会に生き方を考え直そうとしていたようである。ある人は、妻や子ども達がヤマギシに熱心なので、ヤマギシのことを知るために渋々参加した「お父さん」もいた。

それから参加者はA班とB班とに振り分けられて、明日の相撲大会のために早速準備研に取り組んだ。出場力士を選び、その四股名を決めるのに、各人の特徴や出身地などから案を出してゆくのだが、髪の毛が薄く、歳より老けて見られる「お父さん」は、「年寄り若」、酒好きな「お父さん」は、「千鳥足」、本職が獣医で風采の立派な青年は文字通り「獣威」、富士山麓で蕎麦屋を営む「お父さん」は「富士之側」などユーモラスな四股名が考え出され研鑽されていった。この過程でいっそうに和気藹々となり、大人の「仲良し」が深まってゆく。B班部屋は「二十一世紀を創る部屋」と名付けられ、部屋の幟も描かれた。

この新春「お父さん研鑽会」は実に良く仕組まれていて、会運営も事前に深く研鑽されていたことを伺わせる。行事は日程表に沿ってきっちりと実行されていった。二日目の朝は五時起床である。大安農場から日の出を見るためである。宿舎の前に集合したときには、まだ外は真っ暗で、空には月が弦を描いて輝いていた。寒いけれど、マフラーを巻きジャンバーの下に十分に厚着をしてきたので、むしろ、これくらいの冷え込みは心地よい。

まだ新しい立派な観光バスが、広場に待っていた我々を迎えに来た。大安農場まで一時半の行程である。私はバスのなかで、昨夜の浅かった眠りを癒した。

大型バスは頂上までは登ることができず、我々は麓から白い息を吐きながら歩いて上った。その頃になってようやく白々と夜が明け始めた。頬を刺す、清々しい朝の大気を吸いながら、大安の梨農園に着いた時、そこでは焚き火の火を起こしながら、北原さんが待っていた。パチパチと燃えさかる火を囲むみんなに、彼は十一年前の正月を感慨深げに思い出すように、この地に入植した当時のことを語った。

付近の村人に不審の眼で見られ反対に遭いながらも、「全人幸福思う者に行き詰まりなし」と言って、雑木林を切り開き、今日に至る大安農場を切り開いていったことなど。

東の空がますます明るみを増して、はるか彼方にうっすらと浮かぶ水平線の向こうに、小さな太陽が揺れるようにしてその顔を現したとき、みんなから歓声がわき上がった。太陽は見る見る内にその全容を見せたが、そこに宇宙の構造を実感すると共に、その神秘に打たれた。日の這い上る早さに時の移ろいを思う。新しい春の日の出を見終わってから、食堂に戻って暖かい昆布茶を飲み、皆で歌を合唱した。

 七

再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。

男らしく、ただ「やる」と書いただけの者、「日々研鑽」「軽く出す」とか「一歩前進」、「父として男として」とか百人百様に書いた。私は何を書こうかと思ったが、巳代蔵さんの文章の一節から「光彩輝く将来」と書いた。 この書き初めは後になって廊下にすべて張り出された。
次いでお茶会があった。だが、この初釜は堅苦しいものではなく、控え室で正月らしく着飾った婦人たちから、作法について簡単に教わってから、席に出た。

色鮮やかな和服をそれぞれに着飾った高等部の学生の村の娘たちから、手作りの和菓子と抹茶で心からのもてなしを受けた。彼女たちの作法の上手下手を見る眼はなくとも、正月の引き締まった心を味わうには、この茶室と静々とした作法の雰囲気だけで十分である。
再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。

二日目の第二食で、はじめてお節料理と雑煮が出た。いつしか気取られぬように彼女の姿を眼で追っている自分に気づいた。二日目の圧巻はやはり相撲大会である。養鶏部、出版部、流通センター、蔬菜部、養牛部、肉鶏部などの各部門から、一部屋七名、また我々「お父さん研」から二部屋十四名の総計八十名近くの男が参加した。

行司も審判役も本格的な装束で、にわか力士たちを囲む。肌の白い西洋人も二人参加していた。子どもたちも、村の娘も、老蘇さんも皆こぞって、男たちの力闘に声援を送る。力士たちも持てる気力を振り絞って闘う。激しい闘志のぶつかり合いなので、胸や膝に擦り傷などはしょっちゅうである。顔面を強く打って脳震盪を起こし、鼻血を出す者もいた。時間のせいもあったのか、上位三部屋を出しただけで、優勝部屋を決めなかった。我々「お父さん研」の力士たちもよく闘った。

相撲が終わると、我々のメンバーは三つのコースに分かれた。宿舎に戻って自由に寛ぐ者、鶏舎入って卵を集める者、村の中を参観して回る者である。私は村をもう一度見たいと思った。村の中を歩いてゆっくりまわった。我々を案内してくれた人は、まだ参画して間もないのではないかと思った。

高等部の寮舎が完成まじかである。隣には立派な体育館兼講堂が建設中である。道路の向こうの山の上には健康特講の会場が建設中である。村全体が槌音高く建設途上にあることを感じさせる。

余儀なく畑を崩して作った駐車場には、ヤマギシのマークの入った真新しい観光バスが幾台も並んでいる。学生のための学育菜園には菊菜が植えられ、馥郁園では老蘇さんらの作った薔薇や菊、盆栽などが並んでいる。発酵した堆肥を実際に手にとって眺め、匂いを嗅いだ。

馥郁園の右手には「太陽の家」があり、そこでは子供たちが遊んでいた。小高い丘の上に立っている、太陽の家に通じる門には、「子放れの門」と「宇宙ステーション」の二つの大きな分厚い表札が掲げられ、ここでは親は子放れの練習をし、子供たちは無重力圏へと駆け出してゆくのだという。村人の衣服を洗濯し管理する黎明館、結婚式のある豊里会館、飼料センター、精乳部など、工場や倉庫などを抱えながら、ここに七百名ほどの村人が暮らしている。

参観が終わると、楽園村会場の風呂に入り、その後牛しゃぶ料理を皆で楽しんだ。この時私たちのテーブルで給仕してくれたのは、神戸から来ていた陽気な看護婦さんだった。

食後ふたたび研鑽会があった。この夜は、今後の我々の取り組みがテーマになった。資料には楽園村に参加した子供たちの作文と、その父親からの手紙がコピーして渡され、それを材料に「無償の行為」についての研鑽が進められた。三十名近い、社会経験も豊かな大人たちが集団で思考し、研鑽する。

十一

三日目の朝は軽い作業があった。作業着のうえにヤッケをまとい、長靴を履き、それぞれが、豚舎の建設、養牛部、養豚部に分かれた。私は希望通り養牛部に行った。作業は牛糞出しと、砂入れである。近くで見る牛は図体が大きいが柔和な眼をしている。この牛舎には千頭からの牛たちがいて壮観である。

牛の肛門から滝のように流れ落ちる尿と糞には驚かされるが、臭気は、肛門を出るとき少し臭うだけで、後は下水のドブ浚いの感覚と変わらない。ただ、牛の寝床に砂を入れていく作業は体力がいる。かっては木材のチップを使っていたが、乳房炎を起こしやすいとかで、今は砂を敷き詰めているそうだ。高等部の生徒も糞尿出し作業を手伝っていた。

十二

朝の六時から始まった作業が終わると、借りていたヤッケと長靴を返して、生活着に着替えて、ふたたび豊里温泉で汗を流した。宿舎に戻ると「お母さん」たちの書き初めも廊下に張り出されてあった。あの人は、女性らしい柔らかな筆跡で「やっぱり仲良し」と書いていた。

研鑽会の感想文に、古き良き日本の正月を味わって充実した三日間だったと私は書いた。最後の食事を終えると、AB両班がふたたび合同して、出発研鑽会があった。今まで主婦や子供たちの多かったヤマギシの会活動も、社会化運動に向けて、いよいよお父さんの出番であると、地域に帰ってネットワーク作りに尽くすことなどを確認しあった。一同揃って記念写真を撮った。皆いい笑顔を見せていた。

十三

徳島から来ていたH氏と、津の駅まで同行するはずだったが、津駅行きのバスがあるということで、氏はそれで行くことになった。大阪から来ていた男性とは握手をして別れた。そこで皆と別れてひとり駐車場まで車を取りに歩いた。

途中の広場に、モスグリーンのスーツに着換えたあの人が、仲たちと一緒に立って談笑していた。自動車に乗って村を出る際、ふたたび広場を横切ることになったが、その時あの人は確かに自分の方に向かって強く手を振った。

あの人はこの三日の間、食事の時も一度も私の座ったテーブルに来ることはなかったし、視線すら合うことはなかった。しかし、もし私の名を聞き知っていたとすれば決して見逃すはずはない。ちょうど私が食堂であの人がいつも気にかかったように。バックミラーの中に、強く手を振って見送るあの人の姿を眺めながら、一路帰途に就いた。                                                                                                                                                                                             (一九八九・一・四)

 

 

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Leonard Cohen

2011年01月29日 | 日記・紀行

 

I'm your man - sung by Leonard Cohen

Leonard Cohen - A Thousand Kisses Deep

"Dance Me To The End of Love" Leonard Cohen

Leonard Cohen: The Stranger Song

Leonard Cohen - Everybody Knows

Leonard cohen - the future. Jools Holland

 

 

 

 

 

 

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遅い秋

2010年09月30日 | 日記・紀行
 

 

遅い秋

今年の夏は暑かった。しかし、さすがに九月も末を迎えて、山の畑に向かう時にも、喉の渇きやシャツを濡らすような汗もすっかりなくなった。今は山の畑の木陰に横たわって、切れた息と疲れを癒すこともない。

多少の時間の前後、先行と遅れなどがあるとしても、自然のサイクルは必然的である。今年もまた秋は訪れ、稲畑の稲穂は頭を垂れ、畦には曼珠沙華が咲き、山辺には清楚な萩の花が姿を見せ始める。
遅れた秋の姿の片鱗を、今年も記録しておこうと思う。

 

                                                                     

                                        

  一時は野鹿にすっかり葉を食われてしまったけれど、再び芽吹き始めたビワ。

 山の辺に十四五本もありぬべし彼岸花

                               

   せっかく実ったイチジクもサルにやられて、今年は十個ぐらいしか味わえなかった。それでも、三年目で少しずつ実も増えた。

                                            

 

 Alma Cogan - Fly Me To The Moon

 

 

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琵琶湖の花火

2010年08月06日 | 日記・紀行

 

二〇一〇年八月六日(金)  晴れ一時雨


琵琶湖の花火


結局、四時近くになってようやく山畑に向かう。家をでるときには、夏らしい青空に、太陽がまだ煌々と照りつけていた。暑い日には自転車でも決して急がない。息が切れないように、まだ青い稲穂を付け始めたばかりの稲田を遠くに眺めたり、その上を低く飛び交うツバメの跡を追ったり、遠くの野原と家々を見晴るかしたりしながら、ゆっくりとペダルを踏みこんで行く。


山畑に向かうときに、とくに坂を登り行くときに、その日の自分の体調がどんな具合かはっきりと感じる。やはり寝不足のときなどは、疲労度が確実に違う。この日は睡眠も足りていたのか、急な坂もそれほどに苦痛に感じない。


ほとんど畑の中に入りかけたのに、空模様が急変したかと思うと、霙のような雨が降り出した。二百メートルほども走ると小屋もありそこで雨宿りもできるのだが、急な雨の激しさと、その距離の間にずぶ濡れになるのを恐れて、先の雨宿りの経験からこんなときのために小さな青いビニールシートを用意していたのを、早速バックの中から取りだした。そして、立てかけた自転車にその片方を括りつけ、もう一方は傍らの一本の立木に括り付けて、ちょうど公園などで時折見かける路上生活者の生活空間のようなものをつくって入り、そこで雨を凌いだ。


子供の頃の冒険ごっこを思い出すような気持ちで、京都タワーなどを遠くに見下ろせる霧雨に煙る市街地を眺めていた。雨は三四十分も続いただろうか。山の天気は変わりやすいのだ。夏の日の夕立は昔なら当たり前だった。


空に再び青空が広がり、雨に濡れそぶる小笹の間を抜けて、イチジクと柿と桃の木を見に行く。柿はこの春から、折られた根幹の脇から天空に向けてまっすぐに一本の枝を伸ばしている。猿に再び折られることのないように、先日、支っかえ棒を三四本打ち込んだ。


イチジクはすでに小さいながらひとかどの大人のような樹形を見せている。そこそこに実もつけている。しかし、どれもまだ小粒で青い。


このブログではすっかり報告はしていないが、桃の木もかなりの大きさに成長している。枝も四方に伸び放題になっていたので、秋になって涼しくなれば剪定鋏を入れて、枝振りを整えるつもりでいた。それなのに、先日サルに先手(剪定)を撃たれて、大切な枝を折られてしまう。洒落にも面白くない。


それでも山をさらに上がると、飛び交うトンボの群の数とヒグラシの鳴き声の繁さが増してくる。東の青空を流れ行く雲の形に、すでに秋の片鱗を感じる。


鎌や噴霧器などの畑の道具を出し入れしているときに、バックのチャックが毀れてしまった。脇に抱えて修理に取りかかったが、適当なペンチなどの道具がなく、どうにも直らない。結局畑仕事もそっちのけで、時計を見ると夕刻七時にも近い。


真夏だから、まだ十分に明るいけれども、闇の帳は早いので、畑を降りることにした。その帰り道の畦道から、夕闇の中に輝き始めた市街地を遠くに眺望することができる。視点の中心に写るのはいつもライトアップされた京都タワーだ。その見慣れた黄昏景色の中に、タワーの右手後方に、色鮮やかな小さなダリアの花のような花火の上がっているのが見えた。どこかで花火大会が開かれているに違いない。


市内を眺望できる場所は、この山畑の畦道からのほかに、もう一カ所ある。それは高畠稜のある丘陵からである。この御陵には桓武天皇の皇后であられた藤原乙牟漏さまが葬られている。長岡京の造営に失敗して平安京に都を移したとき、この地に亡くなられた美しいお后が新しい平安京を一望できるようにと、桓武天皇はお后をこの高台に葬られたに違いない。この場所からも市街地を眺望できる。もし花火大会がまだ終わっていなければ、帰路そこからも花火が見られるはずだ。


まだ畑仲間が一人残っていた。池に流れ落ちる水で、いつものように顔の汗と手の泥を洗って、畑を後にする。


帰り道に高畠御陵の傍らを通り過ぎるとき、その急坂の途中に自転車を止めて、まだ花火大会が終わっていないかどうか、京都タワーの右側後方のあたりをしばらく見つめていた。すると果たして遠くの山際のあたりがほのかに明るくなったかと思うと、さまざまな彩りの花火が、東山の稜線の上に輝いて見えた。いずれも山影に半円だけ切り取られた花火である。ときおり空高く打ち上げられる大型花火だけが、ボタンや菊のような小さな丸い花の全容を見せた。


しばらく自転車に腰掛けたまま、小さな花火を遠くに眺めていると、団扇を片手にした小柄な婦人が、坂の下から上がってきた。彼女はやがて立ち止まるとくるりと背を向けて、私のように同じ花火を眺め始めた。それから約二十分近くも、遙か遠くの東山の稜線に切られて頭の半円だけ顔を出す花火と、ときおり高く打ち上げられて、山影のうえ高く闇夜に浮かぶ小さな花々を眺める。打ち上げの音がここまで小さく響いてくる。


たたずまいを崩さずに、団扇をあおりながらいつまでも花火を見ている婦人の後ろ姿を見て、彼女ならこの花火がどこの花火か知っているかもしれないと思った。しかし、行き交う人に気軽に挨拶することさえ憚られる哀れな人間関係の日本では、見ず知らずの婦人に声を掛けるのも気後れし、尋ねても気まずい思いがするだけかもしれない。それでも、自転車を乗り直して再び坂を降りがけに、
「奥さん、どこの花火かご存じですか」と訊いて見た。
「ええ、琵琶湖の花火大会です。おおきに。」と言って応えてくれる。


家に帰り着きテレビを見ると、ちょうど菅直人首相が広島原爆の第65回記念式典で挨拶する姿が映っていた。

 

 

 

 

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津山(一)

2010年02月12日 | 日記・紀行

 

津山(一)

所用があって津山まで出張した。前回の時は、京都から岡山駅までは新幹線で、そこから津山線に乗り換えて行った。しかし、今回は中国道を走るJR西日本バスの路線バスに、津山エクスプレス京都号のあることを知り、それを利用した。交通費も安く済んだ。

津山城跡が鶴山公園になっていることを津山駅前の案内所で教えられ、時間に余裕もあったので、そこを訪れることにする。こぬか雨の時折降る中を歩いて行く。先日ほどではないけれどまだ寒い。

やがて城垣が正面に見えたが、その通りの脇に、キリスト教図書館と歴史民俗館の建物があった。その真向かいには自然博物館もあった。歴史民俗館には、森本慶三記念館の表札が掲げられてあった。

森本慶三が内村鑑三の弟子筋の人で、津山の人であることは知っていた。だから思いがけないところで出会ったという感じだった。同じく内村鑑三の弟子で、信州で教育に従事した井口喜源冶のいることも知っていた。ただ、それでも私には、森本慶三も井口喜源冶の二人の区別もよくわからないくらいの知識しかなかった。

記念館の向かいにある自然博物館で入場券を買うようにという張り紙があったので、きびすを返してその窓口まで行き、入場券を買おうとすると、売り場に座っていた男の人が「自然博物館は入場されませんか」と言う。時間も多少に余裕もあったこともあり、ついでに見てみようかという気になって買う。

森本慶三記念館には、内村鑑三ら無教会のキリスト者たちの刊行した多くの雑誌が陳列されていた。わが国おけるキリスト教の受容の歴史と、その特殊性の存在がここにも、一つの客観的な事実として確かめられる。

この記念館には、そのほかにも江戸末期や明治期の商人の暮らしの様子を示すさまざまな民俗品が展示されていた。江戸末期や明治初期の文化の一端に触れることができる。切支丹禁令の高札の実物も、皮肉にもここで見ることができる。この一枚の高札の裏には、さまざまの悲劇が存在したにちがいないのである。

森本慶三氏は津山の商人の家系の出身の人らしく、実家の商家の品々が並べられていた。森本慶三は、教育や実業における貢献によって、初代の津山名誉市民にも選ばれている。知識に断片として残っていた礼拝に使われたオルガンが、かっての小さな伝道の歴史の跡を留めるように、説教台に並んでいた。明治期の日本のキリスト教の、地方の小都市への伝道の、それら小さな足跡をゆっくりと時間を掛けて眺めた。

自然博物館には、それほど期待してもいなかったが、実際に展示されている鳥類、ほ乳類動物の剥製、化石、鉱物など蝶、昆虫など多様多彩なコレクションを見て、その充実ぶりに、地球上のさまざまな生物の多様さ、その豊かさにあらためて感動させられる。

それはおのずからに、神の御手になる創造の、天地自然の壮大さ、人体の構造の神秘などに驚嘆せざるをえないようなものである。自然に対する、神の創造物に対する、こうした展示に見られる限りない知的好奇心と博学は、当然のことながら森本慶三のキリスト教信仰とその思想の帰結として生まれたものにちがいない。

                        

                  

 

 

 

 

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天高群星近