天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

裁判官の人間観

2005年07月22日 | 文化・芸術

法の女神

 

近年司法の改革が進められて来た。昨年には裁判員法が公布され、五年以内に裁判員制度が発足することになった。よりよき司法制度に向かっての一歩前進として評価したい。昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、出来うる限りの多くの人の知恵、知識、経験を持ち寄って合議が行われれば、さらにいっそう正義と真実が実現されることになるだろう。市民が公共の問題に関心を持ち、認識を深めつつ公共の精神を培ってゆくのは良いことである。


とはいえ、現在の裁判制度のもとで下される判決の中には、首を傾げたくなるようなものも多い。1997年に神戸でおきたいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」に対する判決もその一つであった。この事件の犯罪者が14歳の少年であったということもあって、この特異な事件は世間の耳目を集めることにもなった。この事件を契機として、ますます凶悪化する少年犯罪にの傾向に対して、少年法の改正にも取り組まれることになった。事件に対しても判決が下されたが、少年は少年院ではなく、医療少年院に送致され、保護処分になることが明らかになった。そのときに、私は何かこの判決に不本意なものを感じたのだが、はっきりしないままに中途に放棄したままだった。


私が感じたそのときの違和感とは、要するにこの判決によっては正義が回復されないのではないかということから来るものである。この判決では、少年は犯罪者ではなく病人として、少なくとも一種の精神的な異常者として取り扱われることになる。しかし、これでは、犯罪と精神病理との区別を解消してしまうことになる。確かに、犯罪は一種の「精神的な病」といえるかも知れないが、しかし、少なくとも犯罪は肉体的な病理現象とは区別されなければならない。実際にこの判決で検討された協同鑑定書においても、少年が「普通の知能を有し、意識も清明で精神病であることを示唆する所見のないこと」を認めて裁判官もそれに同意している。

 

 もともと、犯罪とは精神的な機能においてはまったく「正常」な状態で実行されるものである。そうでなければそれは、もはや犯罪とは言えず、「病気」にすぎない。私には現在の裁判官がどのような人間観、刑法理論に基づいて判決を下す傾向があるのかよくわからない。しかし、裁判というのは、失われた正義を回復することが、根本的な使命である。欧米の裁判所の梁を飾っている、目隠しされた正義の女神の像が手に天秤を握っているのはこのことを象徴している。裁判官が医療者や精神的カウンセラーになってしまっては、裁判は裁判の意義を保てない。

 

 裁判官の中垣康弘判事も、被害女児の両親の「少年を見捨てることなく少年に本件の責任を十分に自覚させてください」ということばを引用し、そして、「いつの日か少年が更生し、被害者と被害者の遺族に心からわびる日の来ることを祈っている」といいながら判決文を結んでいる。ただ、私がこの井垣判決で感じた疑問点は、そこには少年の更正のための配慮はあっても、失われた正義を回復するという、裁判官の ──それは国家の意思でもある──確固とした意思のないことである。犯罪とは国家の法(正義)を侵害することである。そして、犯罪者による正義への、法へのこの不当な侵害については、犯罪者が正当に処罰されることによって、犯罪者に刑罰が課せられることによって、法と正義が回復されるのである。また、犯罪者自身も正しく処罰されることによって人格として尊重されることになる。なぜなら人間の尊厳は意思の自由の中にあるのであり、犯罪者といえども善悪を知る存在であり、かつ、明確に悪を選択し、正義を侵害する選択をしたからである。

 

 神戸児童連続殺傷事件の判決では、女神の天秤は著しく傾いたままで、失われた正義の均衡は回復していないようにも思える。社会と国家の正義は破損されたままである。そして、再び、神戸の犯罪少年の崇拝者が最近になって同じ犯罪を犯した。裁判官は今回の十七歳の少年をどのように処断するのだろうか。

 

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自由とは何か

2005年07月22日 | 文化・芸術

自由とは何か

自由とは、空気のようなものである。それがなければ息苦しくて仕方がない。もし、それがなければ窒息してしまう。だが、それが有り余るほどあっても、そのありがたさに誰も気づかない。

 

自由とは、太陽の光のようなものである。それは闇を照らす。闇の世界が好きな蝙蝠やモグラの嫌うものである。自由の光の暖かさによって、生命は活発に行動し始める。自由のない世界は、氷の星のように、すべてが凍てついた死の世界である。

 

自由とは、水のようなものである。それによって喉を潤すように、精神は自由にあって憩う。水が高いところから低いところに流れるように、自由のあふれる故郷から、水に飢える乾いた砂漠に流れるように、自由を求める国民のもとへ流れて行く。誰もそれを押し止めることはできない。

自由は緑なす生命の大樹。

 

 

 

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概念とは何か①

2005年07月12日 | 文化・芸術

言語学や論理学において、「概念とは何か」という問題を解くことは、すなわち、「概念の概念を明らかにすることは、核心的な課題であると思っている。
もちろん、私たちは、別に、概念の何たるかを特に問題にすることがなくとも、不自由はなく、日常的には自由に思考しながら、さまざまな問題を解決しつつ暮らしている。 」

しかし、少なくとも、言語や思考の本質を明らかにすることを目的とする哲学においては、その中心的な問題が「概念」にあることは言うまでもない。少なくとも、私にとってはそうである。


ここでは、特に二人の思想家の概念論について触れながら、私自身の概念観を深めて行きたいと思う。


一人は、マルクスである。マルクスは「概念」の発生、あるいは形成について、おおよそ、次のように説明している。(今、マルクスの『経哲草稿』が手元にないので、直接マルクスの考えを紹介することが出来ないが、参照出来次第ここに引用するつもりでいる。)「多くの事物を経験的に観察して、たとえば、バラや菊やナデシコなどを見て、それらが、いずれも緑色の葉や茎や根を持ち、また、色鮮やかな花を咲かせ、また、その生育に、光や土壌、空気などの共通の条件を必要としている。人間はこのように、経験を通じて個別的な事物を比較類推しながら、それらに共通の要素を抽出し、抽象化して「概念」を作る。そこから、たとえば「植物」という概念を形成する。」大体、マルクスの概念観はそのようなものであったと思う。そこでは、青年マルクスは概念を思考の形式、あるいは、一般的な表象として理解しているだけである。

それに対して、ヘーゲルの概念観はそこにとどまらない。もちろん、ヘーゲルの概念にはそうした意味も含まれるのであるが、さらに、概念を事物の運動の魂、主体として捉える。この概念観が、多くの唯物論者をしてヘーゲル批判に駆り立てることになった。

ヘーゲルはそうした誤解を招くことを知りながら、──概念について次のように規定している。「概念は自立的に存在する主体的な力として自由なものである」(小論理学§160)ヘーゲル自身がはっきりと述べているように、概念を単に思考の形式、もしくは単なる表象と見る見方は、概念についての低い理解であり、むしろ、概念は、「あらゆる生命の原理であり、したがって絶対に具体的なものである」とされている。おそらくチョムスキーらの生得観念もこうした概念観に共通するものを持っていると思われる。そして、唯物論者は、こうした概念観に異を唱えているのである。

ヘーゲルにあっては、概念は単に形式にとどまらず、同時に具体的な内容でもある。そして、また、ヘーゲルは「絶対者は概念である」と定義する。絶対者が神の論理的な規定であることからすれば、ここでは宗教的な「神」の表象が、「概念」として捉えられている。(小論理学§161参照)

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