そわかんぼちゃん日記

佛の子・そわかんぼの成長記録と佛道修行にいそしむ父(慈龍)・悪妻道邁進中の母(麦の花)の日々の覚え書きです。

いいお産の日in鹿児島 2006

2006年12月09日 | 自然育児
昨年、トークショウに出演させていただいた「いいお産の日」イベント。
今年も、出演させていただくことになった。
それぞれのお産体験を語る、このトークショウで、早産・死産のことに触れるのは初めて。
話すことに迷いもあったし、一時期は体調も不安だったけれど、ブログを再開出来た日に司会の方からお電話をいただいたことにご縁を感じて、出演させていただくことにした。
「お産の日」イベントなので、聞きに来る方には当然妊婦さんが多い。
そのことを、話を引き受けたときには忘れてしまっていて、ステージについてお腹の大きな女性たちの姿を見たとき、「どうしよう・・・」と、急に慌ててしまった。今から出産する人たちには、こんな話しても不安を煽るだけかも・・・でも、明るい面ばかりではないということも含めて「お産」を語ろう、と提案いただいてOKしたのだし、今、私は話したい。
今回の「小さなお産」で感じた、命の神秘、生と死のこと、キリクが命をかけて伝えようとしてくれたこと、伝えたい・・・残念ながら、思いが強すぎたためか、言葉が上手くまとまらず、自分では言い足りない感じになってしまったけれど、聞いてくださった方は、どう受け止められただろうか・・・。
「生きて産まれた子だけでなく、流産・死産で生まれた子の存在も同じように役割があり尊い」と感じていることを言いたかったのだけれど。

トークショウが終わり、舞台を降りると、昨年の舞台でご一緒したSさんがいらっしゃった。
お互い一年近く会っていなかったのに、まあ話が弾むこと
会っていなかったからか?
本当は、自己尊重プラクティスSEPAを受ける予定だったのだけれど、そわかんぼがどうしても託児に行きたがらなかったので、お昼ご飯を食べて会場に戻ってきたら、このブログにもよくコメントをくれるとうこん女史が、ドラゴンちゃんと一緒に来ている姿を発見。
去年のことを覚えていて、来てくれたらしい。

思いがけず、二年連続で関わった「いいお産の日」
トークショウに誘ってくださったYさん、体の様子を気遣って色々アドバイス下さった助産師のKさん、トークショウの司会のKさん、会の主催であるMさん、トークショウでご一緒したママさん達、みんなみんなありがとうございます。
二度あることは三度ある、というけれど、来年は自分から積極的に関わりたいな、と思っているので、もし実行委員会の方、このブログを見てらしたら宜しくお願いしますね 

めぐる命

2006年12月08日 | 思いつくままに
そわかんぼには、オットのほうで2人・私の方で4人、いとこがいる。
一昨日、いとこが一人増えた。
はじめて自分より年下のいとこが出来たそわかんぼに、「あかちゃん産まれたんだよ。会いに行こうね~。」と話して聞かせていたら、テレビで見る赤ちゃん・お店ですれ違う赤ちゃんを見るたび「いた、いた!」と、自分より小さい子の存在を、急に気にしだした。
いのちは、巡っているんだな。
嬉しい、と感じている自分が、何だか嬉しい。

STILL BORN

2006年12月07日 | 誕生死
11月8日深夜、そわかんぼはお兄ちゃんになりました。

ただ、ほんとうなら3月に産まれる予定だったキリク。
その体は、いのちの重さを受け止めるには、あまりに未熟だったのでしょう。

産声を上げることなく、この世の光を見ることなく、キリクは還っていきました。

オットが火葬・事務手続きいっさいを、一人で引き受けてくれました。
うちの寺には珍しく、お葬式や社会福祉士の仕事の方も重なって綱渡りのようなスケジュール。
「これで暇だったりしたら、きっと落ち込んでひきこもりみたいになっていたかも知れないから、ちょうど良かったかも」と、オットは言ってくれましたが・・・。

一月近く経った今、キリクを失った直後のように、激しい感情に捕らわれることはもうないけれど、なんと言えばよいのか。

心の奥の泉に、小さな石を落としてしまって、何とかして取りたいのだけれどもう取れないと分かっていて、その石を落としたことで、その泉の深さを知ってしまったような、もっと深いところへ導かれてしまったような感じがします。

体は今までのように日常生活を送るのに差し支えはないのだけれど、なにか、釈然としない。

夫婦共々、一見元気だけれど、明るくなれない。

でも、無理に明るくならなくていい、と思ってます。

友人の助産婦・こころちゃんが「運命を知っていながらも、どうしても麦さんと慈龍さんのところに少しでも産まれたかったのでしょうね。」とメールをくれました。

今の私たちは、キリクの死に出会ったことで、何か大きな謎というか問いのようなものを与えられてしまった。そういう感じなのです。
キリクはその生と死を通して、私たちの人生に新しい局面を開いてくれたように思います。

この世で生活を共にすることは出来なかったけれど、キリクのいのちは私たちに受け継がれ、新たな歩みを刻んでいきます。

早すぎる誕生だったけれど、よくぞ生まれし!
おめでとう、キリク。
そして、また何時か。