よく餃子を作る家に育った。
祖母と父が大陸でお大尽な暮らしをしていた頃の幸せな記憶が、餃子の湯気の中に立ち上るらしい。
百個、二百個作るのは当たり前だった。
「今日も北京と同じ味が出せなかった」
と父が呟くのもお約束。
しかし、ここ数年、実家で餃子を作る光景にはご無沙汰だ。
私たち兄妹も、家を出たしね。あ・・・出戻り兄貴がひとりいました
まあ、そんなわけで子供の頃から祖母と父に、中国・北京の話を聞かされて育った私は、気が付くと大学で漢文学を専攻しており、勢いのまま北京に留学してしまった。
北京は、私には実に楽しい街だった。
まだ、バスが土の道を走っているくらい都市整備が進んでおらず、裏道を歩くとまっぷたつに切られた豚の断面が横たわっていた。
赤ん坊はバスの中でまた割れパンツからお尻を出して用を足すし、店で店員の気に入らない注文をしようものなら「没有!」とおっぽり出される。
午前中の授業が終わって街に出ると、男たちは屋根の上や木陰でで昼寝してるし(いつ仕事しているんだろう?)、じいちゃんたちは道ばたに椅子を出し、碁に興じたり鳥を愛でたり。そんな男達とは対照的に、女性たちがイライラたくましく働く姿が目についた。学校の先生たちは、タイプが違ったけど。
夕方になると、景山公園や北海公園に行って、そのあとは夜市に行くものだった。
祖母や父から話に聞いた北京の暮らしが、私の眼前にある。
そのことに夢中になって、中国語も餃子の味を覚えることも、すっかり・・・とは言わないが、餃子のことはほとんど忘れていた。中国語は、少しは使えるようになって帰国した。今は使わなくなって、ニュースも何いってるか分からないけどね。
10年後、結婚前に親孝行と思って、父を北京に連れて行った。
「東単の交差点に立てば、昔住んでた家がどこにあったかすぐ分かる」
と、父は自信満々だった。
しかし、飛行機が空港に着き、迎えのリムジンに乗ってホテルに向かう道中、私の胸を嫌な予感が襲ってきた。
・・・土の道なんて、もうない・・・なんでこんなに立派なビルが建ってるの・・・?!ここ、ホントに北京だよね?
97年以降、中国全体の経済発展は著しく、都市化も進んできたと言うけれど、どれくらい変わってしまったんだろう・・・。
不安がる私に、それでも父は「東単の交差点に立てば」を繰り返した。
ホテル到着後、地図を頼りに交差点まで歩いた。
私も父も、愕然とした。
眼前に広がる景色は、父の記憶の北京でも、私の青春の北京でもなかった。
どこにでもある、ただの大都市の交差点だった。
一気に、父の肩から力が抜けていくのが分かった。
何か食べて元気になってもらおうと、近くの店に入り、餃子を注文した。
皿に30個ほど山盛りになった餃子が出てきた。一口食べて、箸を置きたくなる味だった。
次の日、万里の長城に行った後、父の住んでいた場所探しに歩き回った。
父の記憶と、私が確認した父の昔の住まいが一致せず、故郷探しは難航した。
歩き疲れたら、昔の北京には絶対になかった「お洒落なカフェ」に入り、アイスコーヒーを飲んだ。
前門から北京駅付近の胡同は、ほとんど見て回ったといって良いくらいだ。
最終的には、私が瑠璃庁で買った古地図で“駅が移転した”ことを発見し、やはり私が以前見つけた場所が、父の住んでいた胡同であると確認できた。
親孝行と思って父を北京に連れてきたけれど、却って哀しい思いをさせたのではないだろうか。帰りの機内で、父の老いた横顔を見ながら、切なくなった。
餃子ひとつで、ずいぶん話を引っ張ってしまった。
とまあ、餃子に関しては深い思い入れがあるのです。
父の求める「あの味」は、もう北京に行っても味わえないのだろうし、肉も粉も野菜も、昔よりエネルギーが衰えた現代の食材では、再現することは難しいのだろう。
だからせめて、「おまえの餃子も悪くないな」と言われるくらいのものを作れるようになりたいと、餃子を作るときはちょっと気合いを入れて野菜を刻み、せっせとタネを包む。
気がつくと、目の前には餃子100個。大人2人と乳児ひとり。
誰が食うんだ、あははは。
そして、我が家にはもう一つ「幻の餃子」がある。
それは、結婚前に私がオットに作った餃子。オットの実家では餃子は買って食べるものだったらしく、手作りというだけで感激していたのだが、その味を「こんなにうまい餃子は初めてだ!」と褒めちぎってくれた。
しかし、結婚してから作った餃子は、そのときの味を越えるものはないという。
そのころの私に対する思い入れもあって、特に美味しく感じたんじゃないか?と突っ込みを入れても、絶対違うという。
そう言われると、なんとしてもあのときの味を越える餃子を作らねばと、また餃子作りに熱が入る私。
そわかんぼが産まれてしばらく遠ざかっていた餃子作り。
白菜・長ネギが美味しい季節になってきたことだし、今年も気合いを入れてみましょうか。
祖母と父が大陸でお大尽な暮らしをしていた頃の幸せな記憶が、餃子の湯気の中に立ち上るらしい。
百個、二百個作るのは当たり前だった。
「今日も北京と同じ味が出せなかった」
と父が呟くのもお約束。
しかし、ここ数年、実家で餃子を作る光景にはご無沙汰だ。
私たち兄妹も、家を出たしね。あ・・・出戻り兄貴がひとりいました
まあ、そんなわけで子供の頃から祖母と父に、中国・北京の話を聞かされて育った私は、気が付くと大学で漢文学を専攻しており、勢いのまま北京に留学してしまった。
北京は、私には実に楽しい街だった。
まだ、バスが土の道を走っているくらい都市整備が進んでおらず、裏道を歩くとまっぷたつに切られた豚の断面が横たわっていた。
赤ん坊はバスの中でまた割れパンツからお尻を出して用を足すし、店で店員の気に入らない注文をしようものなら「没有!」とおっぽり出される。
午前中の授業が終わって街に出ると、男たちは屋根の上や木陰でで昼寝してるし(いつ仕事しているんだろう?)、じいちゃんたちは道ばたに椅子を出し、碁に興じたり鳥を愛でたり。そんな男達とは対照的に、女性たちがイライラたくましく働く姿が目についた。学校の先生たちは、タイプが違ったけど。
夕方になると、景山公園や北海公園に行って、そのあとは夜市に行くものだった。
祖母や父から話に聞いた北京の暮らしが、私の眼前にある。
そのことに夢中になって、中国語も餃子の味を覚えることも、すっかり・・・とは言わないが、餃子のことはほとんど忘れていた。中国語は、少しは使えるようになって帰国した。今は使わなくなって、ニュースも何いってるか分からないけどね。
10年後、結婚前に親孝行と思って、父を北京に連れて行った。
「東単の交差点に立てば、昔住んでた家がどこにあったかすぐ分かる」
と、父は自信満々だった。
しかし、飛行機が空港に着き、迎えのリムジンに乗ってホテルに向かう道中、私の胸を嫌な予感が襲ってきた。
・・・土の道なんて、もうない・・・なんでこんなに立派なビルが建ってるの・・・?!ここ、ホントに北京だよね?
97年以降、中国全体の経済発展は著しく、都市化も進んできたと言うけれど、どれくらい変わってしまったんだろう・・・。
不安がる私に、それでも父は「東単の交差点に立てば」を繰り返した。
ホテル到着後、地図を頼りに交差点まで歩いた。
私も父も、愕然とした。
眼前に広がる景色は、父の記憶の北京でも、私の青春の北京でもなかった。
どこにでもある、ただの大都市の交差点だった。
一気に、父の肩から力が抜けていくのが分かった。
何か食べて元気になってもらおうと、近くの店に入り、餃子を注文した。
皿に30個ほど山盛りになった餃子が出てきた。一口食べて、箸を置きたくなる味だった。
次の日、万里の長城に行った後、父の住んでいた場所探しに歩き回った。
父の記憶と、私が確認した父の昔の住まいが一致せず、故郷探しは難航した。
歩き疲れたら、昔の北京には絶対になかった「お洒落なカフェ」に入り、アイスコーヒーを飲んだ。
前門から北京駅付近の胡同は、ほとんど見て回ったといって良いくらいだ。
最終的には、私が瑠璃庁で買った古地図で“駅が移転した”ことを発見し、やはり私が以前見つけた場所が、父の住んでいた胡同であると確認できた。
親孝行と思って父を北京に連れてきたけれど、却って哀しい思いをさせたのではないだろうか。帰りの機内で、父の老いた横顔を見ながら、切なくなった。
餃子ひとつで、ずいぶん話を引っ張ってしまった。
とまあ、餃子に関しては深い思い入れがあるのです。
父の求める「あの味」は、もう北京に行っても味わえないのだろうし、肉も粉も野菜も、昔よりエネルギーが衰えた現代の食材では、再現することは難しいのだろう。
だからせめて、「おまえの餃子も悪くないな」と言われるくらいのものを作れるようになりたいと、餃子を作るときはちょっと気合いを入れて野菜を刻み、せっせとタネを包む。
気がつくと、目の前には餃子100個。大人2人と乳児ひとり。
誰が食うんだ、あははは。
そして、我が家にはもう一つ「幻の餃子」がある。
それは、結婚前に私がオットに作った餃子。オットの実家では餃子は買って食べるものだったらしく、手作りというだけで感激していたのだが、その味を「こんなにうまい餃子は初めてだ!」と褒めちぎってくれた。
しかし、結婚してから作った餃子は、そのときの味を越えるものはないという。
そのころの私に対する思い入れもあって、特に美味しく感じたんじゃないか?と突っ込みを入れても、絶対違うという。
そう言われると、なんとしてもあのときの味を越える餃子を作らねばと、また餃子作りに熱が入る私。
そわかんぼが産まれてしばらく遠ざかっていた餃子作り。
白菜・長ネギが美味しい季節になってきたことだし、今年も気合いを入れてみましょうか。