宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

言葉を超えた心

2016-11-24 09:16:03 | 祈り
 言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、
人間には沢山あります。よく、あの人は論客だ
という言葉を耳にします。たしかに雄弁な人の
言葉は、ちょっときくと耳にさわやかなものです。

 しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた
思想や哲学でも、たとえば、人間やいのちという
ものを突きつめてゆくと、どうしても答えが出て
こなくなってしまうのです。

 なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、
人間の存在というものを科学的に説明しょうと
するからであって、究極まで参りますと、
おのずから言葉にならない世界に突きあたる
のであります。

 そこで、ここからが宗教の領域ということに
なるのでありますが、シュヴァイツァーが、
生命への畏敬といったあの言葉は、科学者として、
また、一人の人間として、実に真理の的を得た
言葉だと思うのであります。


 人が、科学の究極まで人間というもの、いのち
というものを、それぞれの分野で追いつめた
その時に、生まれるものは、畏れをもった沈黙
でありますが、生命の畏敬という彼の言葉は、
この沈黙の前に、人間が発した尊い言葉である
と思うのであります。

 ところで、ここまでのことではなくても、
人間には、いわくいいがたい思いというものが
ありまして、それは言葉では表わせない
ということがいくらもあるのであります。

 目は口ほどにものをいうということは、我々が
日常に経験していることであります。こういう
ときには、我々は、言葉よりも、直接に、相手の
心にじかに、自分の心をぶつけてゆくことに
なるのです。

 無言であっても、その無言であることが、
百万言をついやすよりも、その人の心を
あらわしているということです。

 私ども、宗教にたずさわります者は、
こうした心、言葉を超えた人間の心
というものに敏感でなければなりません。

 心というものを言葉でおおうことは
出来ません。言葉を心でおおうことを、
むしろ、私達は心がけるべきであります。

 そして、自分の心と、人の心を大事にして、
ともに祈りの座につきながら、愛という、
人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
         昭和61年8月29日
            五井 昌久

愛について

2016-11-23 09:14:21 | 祈り
 皆さんおはようございます。今日は、愛
ということについてお話したいと思います。

 人間が生きてゆくなかで、欠かすことの
出来ないものは、いくつかあります。水、空気、
その他考えれば色々ある。これらは、私達の
肉体が生命を保つ上で、欠かせないものです。
 よく、山道に迷って、一週間、水だけで
生きのびたなんていう記事がありますが、
水は、本当に、我々の生命の源なんですね。

 ところで、この生命の源ということも、
ずっと考えてゆきますと、最終的には、愛に、
神様の愛にたどり着くわけです。

 空気や、水は、我々の肉体の生命を
生かしめるために、是非とも必要な、欠かす
ことのできないものでありますが、その肉体を
養い、またかたちづくっている根元は、愛
という神の心なのであります。

 我々一人一人の生命は、神の愛、神の光を
受けなければ、とても生きつづけられるもの
ではありません。

 人間は、神の愛によって生かされている。
 そして又、神の愛が、この身に、心に、
喰い込んでいる存在なのであります。

 このことを忘れて、本当に生き生きと生きる
ことはむずかしいのであります。
 思いやりを持つこと、人をおもうこと、
愛深くあること。神の愛は、私たちの中に、
光となって宿っているのです。

 一人が一人に、やさしく接する時、そこに
神様の光はかがやくのであります。私どもの
心も平和になるのであります。

 愛というものがあって、はじめて生きることが
出来る。人間とはそういう存在なのであります。

 愛すること、愛されることを知り、祈ること、
祈られることのなかに、真のよろこびを見出して
ゆく、私達はそこにこそ存在のよろこびを
見出してゆくのであります。
        昭和61年8月27日 記
            五井 昌久

光について

2016-11-22 06:45:44 | 祈り
 みなさんおはようございます。
 今日は光について、よく、光明光明と私が
申し上げておりますが、そういうことについて、
ひらたくお話をしてみたいとおもいます。

 そこで光というのは、どんな性質を持って
いるかというと、一口にいえば、闇を消して
しまうという性質を持っているのであります。
 太陽が沈んで、夕ぐれになり、かすかな光も
消えて、夜になりますと、私どもは電気を
つけますね、電燈をつける。何だ五井先生
あたり前のこといってなんて思って
きかないのよ。あたり前の質問を、じゃ
こちらからしますが、では、どうして電燈を
つけるんでしょう、明るくなるからですね。

 みんな、電気をつければ明るいということは
知ってる、けれども、じゃ、その電気、電流が
ながれてるところというのは、みたことない
筈です。

 みていなくても、スイッチを入れれば、
電気がついて、明るくなるということを、
何の不思議もなく、私達は納得している
のであります。

 私の申し上げている光、光明ということも、
実はそのとおりでありまして、人間は本来闇
ではなく、光そのものなんだということを、
申し上げているわけであります。

 神の愛という本当に真実無償の光が、この
私達のからだを生かし、心を生かしている
のであります。

 生命の源をたどってゆけば、霊妙な神秘、
神の世界にゆきつく他はないといった科学者が
おります。

 夜の闇が辺りをおおった時に、電気を用いて
明るくするという科学を、うたがわない私達の
心を、もう一つ奥の深い生命というひびきに
合わせて、私達に真に生かしめているものが
光であることを、神の愛であることを知り、
祈りを深めてゆくべきであります。
       昭和61年7月31日
          五井 昌久

神のひびき

2016-11-21 08:09:54 | 祈り
 神のひびきというものは霊妙である。我々の
おもいも、肉体も、すべては波動から出来上がって
いるが、神のひびき、神様のひびきは、おもいを
はるかに超えた愛そのものなのだ。
 我々は、そのひびきを、この身にも、心にも
受けて生きているのである。

 本当のことをいえば、我々一人一人のなかに、
愛である神のひびき(生命の流れ、神の
こころ)は流れ込んでいるのである。

 このひびきに気付くには、世界平和の祈りを
祈り抜くことである。

 祈る内に、自分の本心があらわれ、守護霊、
守護神と一体の自分を感じられるようになる。

 そして、祈っていることも忘れて、
いつの間にか神様を呼んでいる─という
真の祈りに入る時、神とともにいる自分、
神のひびき、大愛のなかにつつまれている自分を、
観じることが出来るのである。

 神のひびきは、あなたがたの中にすでに
あるのであって、心をすみ切らせ、そのひびきと
一体になる為の助力を、守護霊様、守護神様が
して下さるのである。

 世界人類が平和でありますように
 日本が平和でありますように
 私達の天命が完うされますように
 守護霊様
 守護神様
 ありがとうございます
 という世界平和の祈りは、神のひびき、愛と
調和のなかに、あなた方がそのまま溶け込む祈り
なのである。

 心を澄ませて、それぞれに、神のひびきの
ままなる生活へと入ってゆきたいものである。
        昭和61年7月23日
           五井 昌久