(前日からの続き)
いろんなことを申しましたけれども、
自分をまず高めてゆく。
高めるというのも、ただ単に知識を
高めるとか智恵を磨くとかということだけで
なくて、自分の中の本心、霊性というものを
磨いてゆく、肉体だけではない、自分の生命
というものに目をそそいで生きてゆく。
そうしてゆく内に、だんだんだんだん愛という
ものが深まっていって、そして、愛だけじゃ
なくって、愛につれて働いてゆく生命
そのものも、今度は愛を呼んでくれる
ようになるんですね。
それは何かと言うと、例えば、この世の中で
働くということは、生きる為にはお金を得る
ということです。
そのお金にも愛憎がこもってくる訳ですね。
つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いが
お金の中にこもっちゃう訳です。
苦しいが来るんです。
そうすると、お金が入って来ても苦しい、
入って来なくっても苦しいという状態が
くるんですね。
あるいは不安とか不平とか不満とかね。
そういう想いが積もり積もった上で、例えば
お金を受けとると、そのお金はちっとも嬉しく
ないでしょ。
つまり、お金が入って来ても自分の心が
自由じゃないね。
想いが自由じゃない。
何か解き放たれない。
そういう中でお金を受け取ってもね、
そのお金は死んでるんですね。
お金ってものは、この世の中を生きてゆく
一つの手段であって絶対的なもんじゃ
ありません。
肉体を養うためのものですけれども、
それでもこの現象世界の中の一つ一つの
ものを尋ねてゆけば、全部それは
生命体です。
本来の生命に帰ってゆくもんですから、
やはり物質世界のものであっても、そこへ
向ける愛念というものが浅ければ、
つらい想いの方が強ければ、それは
それだけ現象なんだけれども、その
現象を通して自分の中の本心開発が
鈍ることになる訳ですね。
だから、受けとるもの、暮してゆくために
受け取るお金にしろ人にしろ、関わってゆく
関わり方にしろ、ここでどういう働きを
しなきゃいけないか、つまり自分が
どう接してゆかなきゃならないか
ということは、祈りをずうっと深く
してゆくと、自然自然にその自分の中の
想いがですね、掃除をされていって、
そうしていつの間にかしら、人に対しても
やさしい気持ちになって和らいだ気持ちに
なって、一つ二つは還せるようになってく。
最初から何も完全にこうしなきゃなんない
ということはないんです。
そんなことは考える必要ないんですよ。
ちっとも考える必要なくってね。
私はもうこんなふうにまた言い返しを
してしまった。
こんなふうにまた主人に口ごたえをして
しまった。
ね、奥さんにまたこんなふうに思いやりの
無いことを言っちゃった。
そりゃあ夫婦だったら夫婦喧嘩も
するでしょう。
親子喧嘩もあるでしょう。
ね、それから同僚だって、本当に虫が
好かない奴もいればね。
会の中だって、いつもいつもニコニコ顔
という訳じゃないだろうしね。
人間の集団なんだから。
それでもそれを浄めてね、そうして生きて
いく術ということになれば何かと言えば、
それは祈りなんですね。
祈りの中に光があるし、祈りの中に
愛があるし、そうして祈り一念になって、自分の
中にある光明というものを、確認をその祈りの
中で奥の体がしていって、いつのまにかしら、
やってゆくと、そういう大きな深い愛の生命の
中へ自分がさーっと入ってゆける様になるんです。
(つづく)
いろんなことを申しましたけれども、
自分をまず高めてゆく。
高めるというのも、ただ単に知識を
高めるとか智恵を磨くとかということだけで
なくて、自分の中の本心、霊性というものを
磨いてゆく、肉体だけではない、自分の生命
というものに目をそそいで生きてゆく。
そうしてゆく内に、だんだんだんだん愛という
ものが深まっていって、そして、愛だけじゃ
なくって、愛につれて働いてゆく生命
そのものも、今度は愛を呼んでくれる
ようになるんですね。
それは何かと言うと、例えば、この世の中で
働くということは、生きる為にはお金を得る
ということです。
そのお金にも愛憎がこもってくる訳ですね。
つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いが
お金の中にこもっちゃう訳です。
苦しいが来るんです。
そうすると、お金が入って来ても苦しい、
入って来なくっても苦しいという状態が
くるんですね。
あるいは不安とか不平とか不満とかね。
そういう想いが積もり積もった上で、例えば
お金を受けとると、そのお金はちっとも嬉しく
ないでしょ。
つまり、お金が入って来ても自分の心が
自由じゃないね。
想いが自由じゃない。
何か解き放たれない。
そういう中でお金を受け取ってもね、
そのお金は死んでるんですね。
お金ってものは、この世の中を生きてゆく
一つの手段であって絶対的なもんじゃ
ありません。
肉体を養うためのものですけれども、
それでもこの現象世界の中の一つ一つの
ものを尋ねてゆけば、全部それは
生命体です。
本来の生命に帰ってゆくもんですから、
やはり物質世界のものであっても、そこへ
向ける愛念というものが浅ければ、
つらい想いの方が強ければ、それは
それだけ現象なんだけれども、その
現象を通して自分の中の本心開発が
鈍ることになる訳ですね。
だから、受けとるもの、暮してゆくために
受け取るお金にしろ人にしろ、関わってゆく
関わり方にしろ、ここでどういう働きを
しなきゃいけないか、つまり自分が
どう接してゆかなきゃならないか
ということは、祈りをずうっと深く
してゆくと、自然自然にその自分の中の
想いがですね、掃除をされていって、
そうしていつの間にかしら、人に対しても
やさしい気持ちになって和らいだ気持ちに
なって、一つ二つは還せるようになってく。
最初から何も完全にこうしなきゃなんない
ということはないんです。
そんなことは考える必要ないんですよ。
ちっとも考える必要なくってね。
私はもうこんなふうにまた言い返しを
してしまった。
こんなふうにまた主人に口ごたえをして
しまった。
ね、奥さんにまたこんなふうに思いやりの
無いことを言っちゃった。
そりゃあ夫婦だったら夫婦喧嘩も
するでしょう。
親子喧嘩もあるでしょう。
ね、それから同僚だって、本当に虫が
好かない奴もいればね。
会の中だって、いつもいつもニコニコ顔
という訳じゃないだろうしね。
人間の集団なんだから。
それでもそれを浄めてね、そうして生きて
いく術ということになれば何かと言えば、
それは祈りなんですね。
祈りの中に光があるし、祈りの中に
愛があるし、そうして祈り一念になって、自分の
中にある光明というものを、確認をその祈りの
中で奥の体がしていって、いつのまにかしら、
やってゆくと、そういう大きな深い愛の生命の
中へ自分がさーっと入ってゆける様になるんです。
(つづく)