妹尾太郎兼康公墓
福隆寺縄手の戦い 1183 2016.03.02
早くから平氏に仕え、『保元物語』『平治物語』『平家物語』などに平家方の侍としてその名が記されている。
治承4年(1180年)には南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため多くの死傷者を出した。
このことが後に平重衡らによる南都焼討へとつながっている。
その後寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れてその捕虜となる。
しかし、備前国で逃亡を図り、監視役の倉光次郎成氏を殺害し、2000人もの兵を集めて福隆寺縄手・笹の迫に立てこもって義仲に反旗を翻す。
(笹が瀬川の流域、坊主山と鳥山の間の津島笹が瀬付近)
成氏の兄・倉光三郎成澄を討ち取るなど奮戦したが、そこでも敗れて敗走。
その後、肥満の為自分で身体を動かす事ができない嫡子・妹尾宗康を助けるために引き返すが、
備中国板倉宿付近(現・岡山県岡山市北区)で討たれた。
源義仲をして、「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたという(福隆寺縄手の戦い)。
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湛井堰 たたいせき
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