浦田の浜(渋川)写真 西行 2014.06.15
生涯にわたって花と月を愛し、歌い続けたことで知られる西行は、平安末期の代表的歌人である。
俗名は佐藤義清(ノリキヨ)、法名は円位。元永元(1118)年に名門の武士の家に生まれ、鳥羽上皇の北面の武士として出仕していたが、
二十三歳の時に出家。以後諸国行脚に日を送り、歌壇の外にいながら、高い尊崇を受けた。
その西行が岡山を訪れているのは、生涯に二度。西行35歳の仁平二(1152)年と51歳の仁安三(1168)年である。
『児島風土記』 (昭57・倉敷の自然をまもる会)によると、最初の西国旅行は、平清盛による厳島神社の社殿修造が成り、それへの参拝の途中立ち寄ったものらしい。
再度の旅は、嵩徳院の讃岐白峯御陵に参拝し御霊を鎮め、また弘法大師の遺跡を巡礼することが目的であった。
この時、児島・渋川・ 真鍋島・牛窓に足跡を残していることが歌集『山家集』から知られる。
この旅において西行は、海辺に暮らす海人や商人たちの生業を眼前にし、
仏者としてもどうすることもできない人間の根源的な罪と生への営みに、思いをはせている。
そしてその思いは渋川で詠まれた歌に端的に表れている。最後にこの歌を挙げて結びに換える。
下り立ちて浦田に拾ふ海士(アマ)の
子はつみ(ツブ貝)より罪を
習ふなりけり
次のページ 浦田の浜(渋川) 西行 2014.06.15「159」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます