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岩屋城 下見 2014.10.28

2023-01-05 12:06:30 | 歴史

岩屋城 下見 2014.10.28

 

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岩屋城は、嘉吉元年(1441)、山名敬清が赤松満祐討伐の論功行賞により、

美作国の守護に任ぜられた際に築城されたという。

 その後、応仁の乱の勃発(応仁元年‐1467)に伴い、

山名政清(教清の子)が上洛した虚に乗じた播磨の赤松政則によって落城し、

さらに文明5年(1473)政則が美作国の守護となったことから、岩屋城には部将の大河原治久が在城した。

 永正17年(1520)春、赤松氏の部将であった備前の浦上村宗が謀叛し岩屋城を奪取、

部将の中村則久を岩屋城においた。

これに対し、赤松政村(政則の子)は、同年4月、部将小寺範職・大河原を将として半年に及び城を囲んだものの

落城せず、赤松氏の支配は終わるところとなった。

岩屋城 

このことから24年後の天文13年(1544)、出雲尼子氏の美作進出に伴い、岩屋城においても接収戦が行われ、城主中村則治(則久の子)は、尼子氏に従属した。

しかしながら、永禄11年(1568)頃、中村則治は、芦田正家に殺害され、芦田正家は浦上氏に代わって勢力をのばしていた宇喜多氏の傘下に投じたが、

5年後の天正元年(1573)には、宇喜多直家の宿将である浜口家職が岩屋城の城主となるに至った。

 その後、しばらくは比較的平穏であったが、天正7年(1579)以降、宇喜多氏が毛利氏を離れ、織田氏に属したことから、再び美作の諸城は風雲急を告げるところとなり、

天正9年(1581)、毛利氏配下の中村頼宗(苫西郡山城村葛下城主)や、大原主計介(苫西郡養野村西浦城主)らにより、岩屋城は攻略され、中村頼宗が城主となり、再び毛利氏の勢力下となった。

 織田氏と毛利氏の攻防は、天正10年(1582)、備中高松城の開城により終了したが、

領土境を備中の高梁川とすることについて、美作の毛利方の諸勢力はこれに服さなかったため、宇喜多氏の武力接収戦が部将花房職秀を将として行われた。

 この接収戦は、長期にわたり決戦の機会に恵まれず、当時備後の鞆にいた足利義昭の調停により戦闘は収束した。

 これ以降、宇喜多氏に属することとなった岩屋城には、宇喜多氏の宿将長船越中守が入城した。

しかしながら、6年後の天正18年(1590)8月、野火により焼失し廃城となったと伝えられている。

  

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