
神様のレシピについての考察。
無限の選択肢の存在。
僕は自由に生きている。
誰もが自由に生きている。
想うように選択を繰り返し、ここまでやって来た。
思うような結果に結び付いていないとするならば、それは自分の選択の失敗によるものだ。もしくは、未だ結果への過程なのかもしれない。
価値観や倫理観や常識は人それぞれにあるものである。それぞれのそれに則って、選択を繰り返す。
自分の選択に限りがあると想ってしまうのは、そのそれによるものであって、そのそれさえもが自らの意思により決められていく。
残念なことに、今の自分が自由ではないと想う人は、自分が自由な選択肢を山ほども持っていることに気付くべきである。
自分が自由な選択を繰り返し、今に至ることに気付くべきである。
自由な選択を繰り返し生きている人が、今自由でないわけがないということだ。
種々のしがらみや環境の違いや持って生まれたモノの差異は少なからずあれど、個々が抱くそれぞれの感情に大きな影響を及ぼすほどのものではないと思われる。
神様が描くレシピは存在するのか?
長らくこの命題に頭を悩ませ続けてきた。
それが今、明らかな光と共に答となった。
神様のレシピは存在しない。
存在しないと断言はしない。存在するのかもしれない。ただ、僕は信じないこととする。ことに決めた。
なぜなら、僕がイチゴジェラートと栗アズキジェラートのどちらにするか、心底悩んだ末に、イチゴを選んだことが、元々決められていた事だなんて、到底思えないからである。
そして、その選択は結果として失敗であり、イチゴジェラートは不味かった。
不味いイチゴジェラートを食べたせいで、口の中が甘ったるくなり、お口直しに大判焼きを食べたことが、神様のレシピに描かれているなんて、到底思えっこない。
いや、これは、本筋とは離れた話である。
やはり、僕は見えない未来に向かって歩いている。
選択によって未来は書き換えられるし、次の選択によって、その次の未来もまた書き換えられる。
つまり、書き換えるべき未来は存在しないということ。
つまりのつまり、未来は白紙だ。
白紙だから面白い。
明日終わるかも知れぬ人生だからこそ、今が今としての価値を持つ。そきて、意味を持つ。
僕のグチャグチャな人生を、更に面白くさせることが出来るのは、まさに僕自身である。今日の、明日の、明後日の・・・無数の選択肢の選び方によるものなのである。
大人と書いて「自由」と読む。
早く大人になりたかった、少年時代の僕が羨んでいるようだ。