終焉が目睫の間に迫っている。
物語の現在が治承4(1180)年初夏、清盛の没年が翌治承5(1181)年冬ですので、残す所あと1年を切りました。
大局から見ると清盛個人としても平氏一門としても非常にクリティカルな局面を迎えているのですが、治承三年の軍事クーデターで政敵を一掃し、また外孫言仁親王が即位して安徳天皇になるなど、正に我が世の春。
はい。この歌を送りましょう。
この世をばわが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば (藤原道長)
●治承三年の政変
前回の放送で清盛は後白河法皇の院政を停止した上で鳥羽離宮に幽閉、後白河院と組んだ関白藤原基房・師家父子を実質配流、院近臣を解官しました。
北面の武士等近習の人間も随分処刑されたようで、ついでに言えば弟であり正室の子、清盛に対して一定の距離を保っていた平頼盛もこの時に所領を没収されている。院と距離が近かったということもあったようです。
この政変の特徴は武力で治天の君より強引に政権を奪い取ったことにある。
とはいえ清盛、後白河院を幽閉した後はすぐに神戸・福原に帰っています。
政務は高倉天皇(甥・娘婿)、関白藤原基通(娘婿)、平宗盛(息子)に任せているのですが、この人たち大変政治に不慣れというか、政務の経験がほっとんどないっちゅーか…
なんとも頼りない!^^;
藤原基通は基実の息子になりますが、継母が平清盛の娘盛子。
盛子は前回、重盛が亡くなる前に亡くなった女性で、夫基実の死後幼い基通に代わり摂関家の所領を管理をしていました(清盛が後見)。
そんでもって基道の妻は清盛の娘(※書き間違いではない)。
基実が死去した際、基通はまだ子供で摂関家を継ぐことができず、叔父の基房が中継ぎとして家を継いでいます。
(基実の子が基通、基房の子が師家)
ただその中継ぎ期間が2桁になるともう中継ぎじゃなくても…という感じになってきた。(基房的に)
盛子が亡くなった際に後白河が介入して荘園を取り上げ基房に与えていましたが、清盛との関係の他にそうしたごたごたもあったんですね。
政変後、基通は関白になります。
しかしこの方、それまで公卿として政務につくような官職についた事がなく、全くの経験不足。
宗盛も政治に対するやる気が薄い。
新院も経験不足、関白も経験不足、宗盛はやる気もなければ政治担当能力もあまりない。oh…
他に政務をまわす公卿がいるとは言っても、重要事を決める際には清盛が出てこざるを得ないような状態にいずれはなったのではないかと思われます。
そういう感じで、経緯はどうあれ結果的には治承三年の政変で清盛は独裁体制を作り上げたことになった。
しかしながら武力で政権奪取したこと、安徳天皇の擁立や高倉院の厳島神社への行幸など、強引な物事の運び方に大きな反感を持つ人間が多くおり、それが以仁王を初めとする反平氏の武力蜂起に繋がっていきます。
●以仁王の令旨
後白河院の子だけれど、親王宣下されていないのでいつまでも王のまま…
八条院の猶子になっています。
八条院は今や懐かしい鳥羽院と美福門院の皇女で、両親の荘園の大半を相続していたのが彼女。
鳥羽院は美福門院との間の子を正当な皇統継承者としていたようで、八条院の猶子となっている以仁王はその系統にいるため有力な皇位継承者のひとりであった。
八条院・以仁王からすると、清盛が擁立した高倉天皇・安徳天皇は正当ではないという認識があり、特に以仁王はそれまでの行きがかりから平氏に対し非常に大きな不満、反感があったと思われます。
清盛からすると安徳天皇の位置を脅かす一番の存在は以仁王。
ドラマでは政変の際に王が「所領を没収された」と言ってましたが、以仁王の力を削ぐためであったと思われます。
また同じく描かれていましたが、以仁王が立ち上がる際には八条院が大きな役割を果たしていました。
というか、以仁王の蜂起は八条院を舞台とする出来事だった。
以仁王は八条院の猶子、源三位頼政は八条院に仕える人物、今回初登場の源行家も同左、八条院蔵人。
王と源三位の武力蜂起は実に簡単に終息したのですが、八条院は特に追及されずに終わっています。
ドラマからは分からないけれど、八条院は平氏とも源氏とも結構な関わりがあり、無体な事ができない一種独特の政治勢力であったようです。
その為政争で敗れた人なんかが身を寄せるような場所になっていたと『藤原定家の時代』にあった。
●源頼政・仲綱、源行家
八条院より源三位(げんざんみ)と呼ばれていました。
頼政は2年ほど前に清盛の推挙で従三位となっており、源三位という呼称はそこから。
源氏のそれまでの極位は正四位下。
三位となると公卿の仲間入りで、頼政からすると正に悲願達成であったと思われます。
その為に子供に代を継がせず現役でがんばっていた。
宇梶さんみてるとそうは思えないけど、以仁王の令旨が出た際、既に御年77。
なんてーか、当時としてはもう棺桶に足突っ込んでる感じだったと思われ…^^;
頼政の鵺退治はおとぎ話で有名な話ですが、京都に鵺退治に使った鏃を祀った神明神社があります。
宗盛が仲綱の愛馬「木の下」を奪ったという話は『平家物語』に出てくる話。
この話を聞いて頼政は平氏打倒に動くようになったというもの。
ついでに八条院で出てきた源行家は当時八条院の蔵人になります。
新宮十郎とか、新宮行家とも言われますが、源為義の十男、つまり義朝の弟で頼朝・義経から見ると叔父になる。
この人はーなんとゆーかー私はあまり好きではないんだがー…
うん、はっきり言おう。嫌いである^^;
私木曽義仲が大好きなんだ(これで察して下さい)
一言で表現すれば風見鶏だけれど、まあこの辺りの話はもうドラマでは出て来ないだろう。
●平泉
引いた。
違うだろーあれは違うだろーorz
平氏サゲの為かは知らないがあんな約束させんなよ…というか、しないだろ。
秀衡の中にあったのはどうやって平泉を保全するかだけで、源平いずれにも深く肩入れするつもりはなかったと思う。
ちなみに秀衡の制止を振り切って義経が平泉を出て行った際、平泉からついて行ったのは佐藤兄弟だけ。
●祇王・祇女、仏御前
「ぎにょ」なんだ。「ぎじょ」だと思ってた。
祇王は清盛の寵愛を受けた白拍子で、祇女はその妹。
押しかけでやってきた仏御前を清盛は追い返そうとしたのですが、同じ立場であった祇王に取りなされ目の前で舞う事を許した。
…ら、祇王は捨てられてしまった。
仏御前が驚いて取りなそうとするも聞いてもらえず…
所が仏御前も後に清盛に捨てられ、祇王祇女姉妹が世を儚んで移り住んだ嵯峨野で共に暮らしたというのが『平家物語』。
以前サイトの史跡紹介で兵庫にある築島寺を紹介しましたが、そちらに祇王祇女の塔という供養塔があります。
また京都の嵯峨野にも祇王寺がある。
今頃紅葉できれいだろうなー^^
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