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平泉、つれづれ

2011-07-25 | ヒストリ:平安の風

平泉の話はもう一区切りだと思ったのに、何となく続けてしまう。
これが本当のつれづれですね(笑)

平泉を作り上げたのは初代の藤原清衡ですが、隆盛期を齎したのは2代目の基衡でしょうか。
ただ清衡の治世が30数年ある事を考えると、どうなのだろう…さらなる安定期、という感じ?
基衡は初代清衡と3代目の秀衡に挟まれて影が薄いんですが(笑)、かなりの力を持った御館だと思われます。
 
以前多くの財を以て毛越寺の仏像を作らせた話を紹介しましたが、荘園の年貢を巡ってあの悪左府、源頼長と対等にやりとりをしているんですよね。
それだけでも結構やり手だったのではないかなーと思いますが、安定している=平和=取り立てて事件もない=記録もあまりない=よく分からない
oh…
 
ただその強気が陸奥守との争いでは裏目に出たか、腹心である信夫(福島県)の大庄司、佐藤季春(すえはる)の命を奪う羽目に陥っています。
この佐藤氏というのは祖先が藤原秀郷で奥州藤原氏と同じなんですよ。
奥州藤原氏も秀郷流。広い目で見れば同族になります。

また基衡の弟か叔父の子が佐藤氏に嫁いでいまして、その子が佐藤継信、忠信の、佐藤兄弟になります。
源義経が平泉を出て源頼朝の許に駆け付ける際、彼の家臣になった佐藤兄弟です。
御館の親戚だったんですな、このふたり。
下の系図ではそこまで細かい所は書いてないですが。
    

  
以前、源義経が平泉に向かったのは、親戚である藤原基成(血の繋がりはない)がいたからだろうという事を書きましたが、そう見ると義経の周りって、奥州藤原氏の血縁多いね。

基衡と言えば、奥さんが安倍宗任の娘なんですよね。
でもこれ、ちょっと「?」な感じでして。何故かというと、清衡の父、藤原経清って安倍貞任とか宗任と似たような世代だと思うんです。
彼等のその姉か妹を妻にしているんで。
 
宗任の娘が清衡の妻に、ならすんなりいくんですが、基衡か…
そう考えたら結構年の差があったのでは?と思いますが、宗任は北九州に配流されてますからねえ。
そこで若い子に手を付けたか宗任、とも思うのですが、衣川近辺に残っていた娘なのかもしれませんね。
既に平泉の御館であった清衡の、しかも宗任から見たら甥の、後継ぎになるかもしれない子供に嫁がせるという事を考えると、そうそう変な出自ではなかっただろうとは思いますが…
まあ、娘じゃなくて、孫娘じゃない?なんても言われています。
  
奥さんと言えば、平泉に進出した後なのか、後三年の役の最中なのか、清衡は再婚しています。
戦後かなと思いますが……
清衡も32・3才と若いですし、このままでは子孫が残らない。
 
清衡は何人かの妻を迎えていまして、その内のひとりが清衡の没後に上洛し、都の検非違使源義成と再婚している。
へーと思うのですが、平泉にいた方がよっぽど豊かに暮らせるのではないかなーと。
ごめん、下世話で(笑)
いや、意外だったんですよ…私だったら平泉の残るなあ(笑)
 
ただ、清衡の没後、平泉では家督争いがありまして。
それが長男、小館と呼ばれていた惟常と、次男、御曹子と呼ばれていた基衡の間で起こったもの。
呼ばれ方から、清衡存命中に基衡が跡継ぎとされていたのではないかと言われています。
戦になりまして、といっても随分一方的に終わったようですが、最終的に小館殿は首を刎ねられて終わる。(清衡の次代ですぐにこんな争いが起るなんて皮肉だ)
 
この平泉の話、早々に都に伝わっていまして、その話を伝えたのがこの清衡没後に上洛した妻なんです。
なので、この清衡妻、もしかしたら小館殿の母親だったのでは?とも言われている。
…平泉に居辛かったんじゃないかな。
分からないなりに、色んな話が残っていますね。
  
■サイト更新 平安創作 先日の話の続きです。

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