Forth!

移転しました(2014/1/1)

平清盛 #21保元の乱

2012-05-29 | ヒストリ:平清盛

始まりました。長かった!
場所は大体こんな感じです。
 
…………。ははh…
 
鴨川を挟んでの対峙になります。
後白河天皇側が高松殿。すぐ北側に藤原氏の正邸東三条院が隣接。
崇徳上皇側が白河北殿。平安神宮をもう少し西に行った所になります。琵琶湖疏水の周辺。
高松殿から白河北殿まで歩いてもそんなに時間かからない。
かかっても30~40分くらいじゃないかなあ。

上の緑が源義康100騎、青が源義朝200騎、藤色が平清盛300騎。
ドラマでは義康100騎が省かれて500騎と言われていた…(^^;
先生!義康くんが息してません!(笑)

●夜襲
両陣営で夜襲をかける是非が論ぜられる。
夜襲を主張する義朝と為朝、それに対する藤原信西と藤原頼長の対比が鮮やかでした。
夜討ちは卑怯でも何でもない立派な戦法のひとつという事を去年後三年役の話を進めていた時に書いたのですが、全体的に言える話ではなかったようです。
でも頼長が「夜討ち卑怯!夜討ち反対!」と主張して為朝の主張を退ける話は有名で、これは公家ならではの感覚からかと思っていたんですけど。
うーん?と思ってちょっと調べたのですが、どうも東国、西国、当時の感覚から言うと辺境とされていた所でなら、という感じみたいで。
それなら、後三年はもろ東国。義朝も東国、為朝は西国…
もう少し詰めて調べてみないと、一概にこう、とはいえないような感じがしますなあ。

頼長が大和からの軍勢を待てと言っていましたが、あれは奈良の興福寺の僧兵のことです。
加勢しようとしたものの間に合わなかった。(興福寺は藤原氏の氏寺)
 
●信西と頼長
実は仲がよかったふたり。ひと回り程年の差はあるのだけれども。
頼長の学問の師は信西です。以前書いたように信西は学問の家に生まれた人物になる。
信西の家を巡る変転を巡りその不遇に共に涙を流したのは頼長です。
頼長は来週亡くなるのかな?
死後は奈良の辺りに葬られますが、その墓も信西によって暴かれている。この浮き沈みの激しさよ…
孫子の夜襲に対する解釈の仕方が真逆で面白かったですな。
政治家としての脇の甘さが目立つ頼長と、段々凄味が増していく信西。
後白河サイドではイニシアティブが完全に関白藤原忠通から信西に移ってもいました。
頼長と信西の対比、摂関家と院の近臣の関係と色々なドラマが詰め込まれてますなー。
頼長は頼長で今回は公家の脆さが出てましたな。オウムがいい味出してるよ…

信西は腹黒くなってきたなー^^;
義朝に「破格の恩賞を与えよう」って、これは平治の乱への引きですね、きっと。
 
●藤原信頼
3年後に起こる平治の乱の主要人物のひとりで、院の近臣。寵臣。
年齢を見ればこの時まだ23・4才。
確か数週間前の初登場の時に「後白河が一目で気に入った」という紹介がされていたかと思います。
はい…私この塚地信頼を見た時ものすっごい笑ってしまいました…
あのね、寵臣なんです。一目で気に入った寵愛されている臣下なんです。
要するに男色関係なんですよ!(笑)まあ色白ぽっちゃり系ではあったみたいなんですけど。
もしかして後白河てデブせ(自粛

●鎮西八郎為朝
何かと伝説の多い鎮西八郎。
背が2m強あっただとか、左右の手の長さが10センチだか12センチだか違ったとか。
剛の者だったと言う事は確からしいけれども、あまり良く分からないらしい。
あまりに乱暴でお前ちょっと九州に行って来いと言われ出向いた先でも暴れまわって終いには為義とーちゃんがその乱行の責任を取れという事で解官される始末。マジか。笑。
崇徳院側の一の兵(つわもの)であったのは確かでしょうねえ。
初めは平氏が相手をするもどうにもならず、後に駆け付けた義朝勢、義朝の乳母子鎌田正清辺りが随分奮戦したようです。

●源頼政
義朝勢が為朝にてこずっている間に到着した第2陣が源頼政。
こうした加勢が到着するも中々勝敗を決することができず、ついに後白河側が火を放ったのはドラマでも描かれていた通りです。
頼政は源三位(げんさんみ)ですな。
この方、かなり長生きされた方で以仁王と共に平氏討伐の計画を立て、兵を上げた人物になります。
それまでは源氏は正四位下が極位(最高位)だったのですが、平清盛の口添えで三位に上った。
書きたい事が沢山あるけれどそれはまた後に譲って、とりあえず郎党に渡辺党がいます。

●源氏パート
通清が男を見せて亡くなってしまいました…(;;
由良御前と常盤御前もいい感じじゃないですか。
平氏よりもいい感じに見せてきますな!どちらが主役か分かりません…
こちらの方の一族分裂がより強烈で深刻だからという点もあるかと思いますが、平氏より脇役の方が熱いドラマを魅せてくる。

●大鎧
大興奮です!ギャース!大鎧大好き!
平清盛が黒絲威、忠正叔父が逆沢瀉威(さかおもだかおどし)、清盛の子供は裾濃威(すそごおどし)と中威かな…よく見えん。
義朝は白絲威、為義は裾濃、正清は肩威(わだおどし)、父の通清も色違いの肩威で親子揃ってますな!(※鎧の威のデザインの話です)
めちゃめちゃ燃える一方で、大鎧はねー上下合わせて40キロあるんだよ!
騎射専用、対弓矢用の防具であって、刀で切り結ぶこと(接近戦)は考えられておりません…
当時の主力武器は弓矢です。
刀で切り結ぶような戦が出てきはじめたのは南北朝時代位かららしい。
戦国時代でもさ、徳川家康や今川義元をさして「海道一の弓取り」って言うでしょ?
八幡太郎義家の時代では「弓馬の達者」ですが、弓が上手いというのは武士に対する最大の賛辞です。

●平氏パート
うーん。相変わらずよく分からない清盛…もうちょっと何とかならないか主人公。
忠正に対しては家族大事イエー!な感じなのに、弟に対してのスタンスは一体何なのか…
頼盛が可哀想な感じになってきました。
随分前にも触れましたが、頼盛は清盛とは距離のある弟です。
一門の都落ちの際も同行はせず、鎌倉時代を迎えている。
実母が池禅尼という事で源頼朝は平治の乱の際に彼女に命を助けられたという恩があり、そのまま所領を安堵されていたような記憶があります。
そういう事もあってのあの扱いなのだろうと思うのですが、ちょっと清盛の心の動きについていけません。
唐突過ぎて何が起ったのか良く分からないことが多い^^; 



最新の画像もっと見る

2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ジゴロウ)
2012-05-30 04:30:00
あ…知ってる話が出てきた…

弓もそうですが、武士は馬に乗ってこそ!みたいのもあったんですかね?大鎧なんかも、防御もそうですが、遠くから目立つからでしょうし…
この時代、足軽みたいのはまだいないでしょうし。(小物はついてたみたいですが)

時代が下り、兵器が強くなると、武装がシンプルになるというのが、なんか面白いですね。
返信する
>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2012-05-30 05:52:51
そうですね、恐らく騎馬が普通であったと思います。
そもそもあの格好、重さといい足をガードする草摺といい、どう見ても走る装束ではないです(笑)

武装がシンプルになって行くのは、戦争の形態の変化と大鎧ではその変化した戦場では物理的について行けないという点があったからだと思います。
返信する