太 極 拳 最 高 

健 康 を デ ザ イ ン す る

内外相合

2009-09-27 17:20:35 | 太極拳
 太極拳の格言に内外相合 (ないがいそうごう) というのがあります。体の内と外を合致させることです。内というのは心のことで、外というのは体のことです。この両方の連携を密にして、意思の表示を最高に体現するということです。
 もう少し具体的に見てみますと、内というのは「精・気・神 (しん)」のことで、「精」が満ち、「気」が足り、「神」が旺盛であることを指しています。この精・気・神によって豊かな生命力が維持されます。
 精とはあらゆる物質を構成するエッセンスのことで、生命体を構成する最も原初的な物質であり、気とは生命エネルギーのことであり、意識と肉体を結ぶ介添え役のことです。神とは、精神、意識、知覚、思惟などの精神活動をいい、精と気が結合化成したものをいいます。
 神のことをもう少し詳しくみておきましょう。神とは「元神・げんしん」と「識神・しきしん」を指し、脳の二つの異なる機能を指しています。「元神」は生まれながらにして備わっている、脳の深いところで感知する、直観力や感性をいい、脳幹や大脳の旧皮質の働きをいいます。いわば右脳的な働きの、美しいものを見て美しいと感じる瑞々しい心の働きといえますでしょう。「識神」は後天的な脳の働きのことで、学習や経験によって得られた、いわゆる理性といわれるもので、認識、理解、分析、総合、判断などの新皮質、特に左脳的な働きといえますでしょう。
精・気・神のことを内三宝 (ないさんぼう) といい、「天に三宝あり日・月・星、人に三宝あり精・気・神」といわれて重要視されているものです。
 精・気・神の鍛錬法は、「練精化気・れんせいかき」精を練って気と化す小周天 (しょうしゅうてん)。「練気化神・れんきかしん」気を練って神と化す大周天 (だいしゅうてん)。「練神還虚・れんしんかんきょ」神を練り虚に還る、つまり虚とは太虚のことで宇宙全体を指しますから、宇宙に同化することを意味しています。
 外といいますのは外面に表れた動作のことで、それは全身の構えであり、手や足の四肢の動きであり、眼の動きなどの外に表れた動作のことです。その外に表れた部分と内にある部分を一致させようというものです。
 「外練筋骨皮、内練一口気」体の外側は、筋肉、骨格、皮膚を鍛錬し、体の内面は気を鍛錬する。
 「以心行気・しんをもってきをめぐらせ」「以気運身・しんをもってきをめぐらす」意思の力で気を全身の各部へ巡らせ、気によって体を操作することを実践する。
「神為主師・身為駆使」内面に神 (精神・心) を主宰して体を思いのままに使う。
 以上のような格言もあり、要は如何にして集中力を養うかにあり、内なる意識を一点に集中させ、その集中された意識に基づいて動作を導くというものです。
太極拳で言う意識の集中については、もう少し深いものがあって、意識が意識のままでは意味がありません。太極拳で言う意識の集中の意識とは、意識と無意識の中間、変性意識状態つまり覚醒と睡眠の中間の状態を導き出さないことには所期の目的が達せられないのです。その状態のときには脳波は、α・アルファ波からθ・シータ波、あるいはδ・デルタ波にまで到達しているはずです。

よりよい人生を

2009-09-19 14:49:56 | Weblog
 よりよい人生を送るためには健康でなければなりません。健康は人生の目的ではありませんが、健康でなくては日常生活そのものに潤いがなくなりますし、何をするにも制約されてしまいます。
 いま日本は、世界一の長命国として君臨していますが、寝たきりの人も世界一という有り難くない現実も抱えています。寝たきりでは人生の喜びの半分は失ってしまうでしょう。
 人間、生きていくうえで健康以上に大切なものがあるのでしょうか。健康についての有為の士の言葉を聞いてみましょう。
 スイスの哲学者アミエル「健康には自由がある。健康は全ての自由の第一のものである」
 健康と科学の著者エディ夫人「健康は身体の問題ではなく、心の問題である」
 アメリカの遺伝学者エマーソン「健康は第一の富である」
 英国の哲学者スペンサー「健康の維持はわれわれの義務である。生理学的道徳ともいうべきものの存することを知る人は稀である」
 ハールゲドン警句集「ただ健康のみが人生である」
 武者小路実篤「人生にとって健康は目的ではない。しかし最初の条件なのである」
 ユヴェナリス「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
 ピタゴラス「人の病は、飲食を慎まざることによる。健康を保たんとするには、精神を清くし、有害な食物を避けよ」
 そして世界保健機関は憲章の中でこう言っています。「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態である」と。さらにその目的を「全ての人民が可能な最高の健康水準に達すること」と定めています。
 今日本の人口は1億2千7百万人ですが、このうち頭痛持ちが3700万人(内女性の偏頭痛1000人)、高血圧2000万人、花粉症2000万人、水虫2000万人、糖尿病予備軍を含めて1600万人、低血圧1000万人、COPDと呼ばれる慢性閉塞性肺疾患600万人、その他死亡率の一番高いガンから次の心臓疾患、呼吸器系の病気から消化器系の病気までを加えると、健康な人はほとんどいなくなってしまいます。
 あの時こうしておけばよかった、というような悔いが残らないように、健康について、改めて考えておきたいものです。

太極拳の始まりは

2009-09-12 09:35:28 | 太極拳
 太極拳が始められたのは、約四百年ほど前の清の時代 (1616~1911) の初めの頃といわれているが、茶道や禅などと同じように、その極意とか奥儀というものは、門外不出のものとして口伝で継承されてきたから、いつ頃誰によって始められたのかは、文書が残っていないだけに信頼に足る定説がない。
 定説がないながらも、創始者についてはいくつかの説がある。
 明史 (みんし) にあるように道教の仙人「張三丰・ちょうさんぼう」が創始したという説は、氏が少林寺拳法を修めた後、武当山 (ぶとうざん) で修行したとする太極武当説が多くの支持を得ている。
 楊家の始祖である楊露禅 (ようろぜん) が師事した、河南省温県陳家溝 (ちんかこう) の陳氏一族の祖先で、明末の武将「陳王庭・ちんおうてい」という説も有力である。
 また、太極拳経の著者「王宗岳・おうそうがく」創始説も捨てきれない。
 中国民族には、古くから不老長生の強い願望があった。大自然の厳しい環境にわが身の生体を適合させ、外敵から身を守り、人類が安定的に生存するための、生命維持活動の原理原則を探究し、紀元前八~五世紀頃には既に導引、按摩などが行われていたとされている。
 紀元二~三世紀の頃、三国志で有名な曹操の侍医をしていた華陀 (かだ) は、病気をしない動物を見習えば、長生きができるのではないかと考えた。先生は動物の動きがある時は伸び、ある時は身を屈め、跳んでは跳ねるその姿が実にゆったりとして、よどみがなくいかにも自然で、こせこせした人間の動きとは大いに異なることに気が付いた。
 そこで動物の動きを丹念に観察し、五種類の動物「熊」「虎」「鹿」「猿」「鳥」の動きに集大成し、その動きを真似た導引、「五禽戯・ごきんぎ・五種の獣の戯れ」を編み出した。導引というのは、腰を中心にして、体を曲げたり伸ばしたりする運動のことで、呼吸法が加味されている。これが、気功の始まりであり、太極拳に発展したとされている。

宰相の資格 五

2009-09-10 09:21:36 | Weblog
五、貧にしては其の取らざるところを視る
 懐具合がよく金周りのいい時には、人間は慌てたりうろたえたりすることはまずないが、その同じ人間が、一旦貧乏して苦しくなると、途端に悪くなる。悪くならないまでも尾羽打ち枯らしプライドも捨てきって、飲み呆けて騒ぎ出す。そしてついには、不正の金と分かっていても手を出してしまうことになる。
 貧乏であろうと泰然自若としていればいい。
 目的を持って生きればいい。己の信ずるところに従って生き、修養に努めれば、そこに積極的な人生の楽しみが生まれる。
 貧乏にも「赤貧」と「清貧」とがある。徳のない貧乏人を赤貧といい、徳のある人の貧乏を清貧という。十六世紀の始め、日本を訪れたフランシスコ・ザビエル神父が、この清貧について驚きと感激を著した文章が残っている。「日本人には、キリスト教国民の持っていない一つの特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が富裕な人々から、富豪と同様に尊敬されていることだ。彼らは武士、平民を問わず、貧しさを恥だと思う人は一人もいない」と。
 今度の選挙で野に下った多くの自民党代議士の内、選挙費用の借金が何千万という人がいるが、果たして「武士は喰わねど高楊枝」と、清貧に甘んじることができるか。

宰相の資格 四

2009-09-09 06:47:13 | Weblog
四、窮しては其の為さざるところを視る
 窮するというのは、二進も三進もいかなくなったときのことで、切羽詰まった状態のことをいう。そうした状態のときに、しなかったことを見るというのである。人の一生には晴れる日もあれば、雨に降られる日もある。曇る日もあれば風が吹く日もある。
 人生、火の時と、灰のときとがある。火が燃え盛ったように、一人フットライトを浴びる時と、だれも振り向いてはくれない、冷やかな灰のときとがある。そのような風雪を味わって、それを凌ぐことによって、人生に深い味わいが出てくることも事実である。
 炎のときは、燃え盛る焔のように運命にも弾みがついて、大抵のことはうまくいく。こういうときは少々無理をしても、万事好都合に運ばれて行くものだ。だが灰の時となると、何をやってもうまくいかないし、やることなすこと、全てが裏目裏目に出てしまうものだ。
 そうした時には何もしない方がいい。為すべきものが何もないときには、何もしないでいるのが一番いい。「灰の時に入った」と自覚したら、静かに灰の中に入ってジッとして、自己の中に埋没して人間を磨けばいい。
 とはいえ、これが一番難しい。
 今度の選挙で野に下った自民党の代議士が、四年に亘る灰の時の間、如何にして過ごすか。

宰相の資格 三

2009-09-08 08:42:05 | Weblog
三、達しては其の挙ぐるところを視る
 自分が最高の地位についたとき、どのような人物を登用し、どのような書籍を推挙したかを見る。
 宋名臣言行録の発想からすると、「人を挙ぐるには須らく退を好む者を挙ぐべし」という推挙の仕方が最高といえる。その地位に就くのを嫌がっている人を挙げるのが人事の大原則なのであろう。
 その理由をこのように説明している。

 退を好む者は廉謹 (れんきん・私欲がなく慎み深い) にして恥を知る
 もし、これを挙げなば、志節いよいよ堅くして敗事あること少なからん
 奔競 (ほんきょう・猛然と競争する) の者を挙ぐることなかれ
 奔競する者は能く曲げて諂媚 (てんぴ・こびへつらう) を事とし、人の己を知らんことを求む
 もし、これを挙ぐれば、必ず、能く才に矜 (ほこ) り、利を好み、累 (わずらい)、挙官 (その人物を推薦した人) に及ぶこと、もとより少なからざん
 その人、既に奔競を解すれば、またいずくんぞ挙ぐるを用いん

 このように奔競の人を抜擢したら、それだけで宰相の資格はなくなる。
 いまの政治家、奔競でない人はどのくらいいるのだろうか。

宰相の資格 二

2009-09-07 08:30:32 | Weblog
二、富みては其の与うるところを視る
 財を成したときに、その財を何に投じるかを視る。
 人間、何が難しいかといっても、金の使い方くらい難しいものはない。それは人間性がそっくりそのまま映し出されるからである。金ができると女遊びに憂き身をやつしたり、書画骨董にうつつをぬかすようでは、とてものことに宰相としての資格はない。
 それでは、どんな金の使い方が最上とされるのであろうか。
 昭和天皇の師傅 (しふ) として「倫理御進講草案」を著した杉浦重剛は、管子の「一年の計は田を耕すにあり。十年の計は樹を植うるにあり。百年の計は人を養うにあり」という言葉を引用して、「人材の養成のために巧みに時と金を使うことが経済の極意である、と言っている。経済というのは経世済民、世を治め人を救うということで、人材の育成に金を使うのが一番の道と説いている。

宰相の資格 一

2009-09-06 15:00:45 | 太極拳
一、居てはその親しむところを視る
 「居ては」というのは、官を辞して、あるいは辞職して家にいるとき、どんな人と付き合っているのかを見る。つまり一線を退いて肩書き、地位、名誉などの虚飾を全て取り去った、裸の人間になったときの交友関係を見るものである。
 この時、アリストテレスのいうように「交友は第二の自己である」という箴言が、現実味を帯びてくる。
 要するに、失業中に、くだらない低俗な人たちと付き合っていると、その人自身が低俗とみなされても仕方がない。
 逆に、素晴らしい一級品の人物が周りを取り巻いていたら、それはまさしく本物であるとみていい。

宰相の資格

2009-09-02 10:35:33 | Weblog
 いま日本の主相が変わろうとしています。宰相論を展開してみることにしましょう。
 魏の文帝 (187~226年) の幕賓 (ばくひん・ブレーン) に李克 (りこく) がいました。彼は中国史上稀に見る幕賓として名を馳せ、師傅 (しふ・父ともいえる師) として遇され、右に出る者はいないであろうといわれたほどの、傑出した人物です。
 ある日彼は文公に呼び出されてこう質問されました。
「先生はかつて、家が貧乏したときには、家政の切り盛りをうまくして家を治めてくれる、しっかり者の妻がいればいいと考え、国が乱れて民が喰うや食わずの苦しみにあるときには、うまく国を治めてくれる宰相が欲しいものだと教えてくれました。
 今まさしく戦国乱世の時代に入り、国家存亡のときに当たり、国を治めるに足る良い宰相がいなければ、この魏の国が立ち行かないギリギリの決着を付けなければならない時機にあります。日夜腐心の末ようやく「魏成・ぎせい」か「翟璜・てっこう」の二人の候補に絞りましたが、何れを宰相にすべきかの最終判断に迷い、是非とも先生の意見を承りたい」。と、文候は幕賓の李克に対し師礼を以て尋ねました。
 一国の宰相を選ぶに当たり、その重大さを考えると、軽々には答えられない問題です。そこで李克は、「宰相たる条件を五つお教え申すから、その条件に適った方を宰相にするのが宜しかろう」といって、宰相の器たるべき五つの物差しを提示しました。