1973年の末に、中国の湖南省長沙市近郊の「馬王堆・まおたい」の遺跡から、約2150年前の前漢初期の頃の墳墓が発掘された。そこから発見された大量の古代文献の中に、絹布に色彩豊かに描かれた「帛書・はくしょ」が見つかった。
この帛書は「導引図」と名付けられ、図解された型の内44の型がはっきりと識別することができた。その導引は今では気功として集約されているが、昔はさまざまに呼び習わされていた。「吐納・とのう・吐古納新・とこのうしんの略」「道行」「按蹻・あんきょう」「行気」「煉丹」「静功」「坐禅」などと呼ばれていた。このような原型からさまざまなカンフーに発展していった。
そうした中から太極拳に発展したものがある。
張三丰が太極拳を創始したという説をみてみることにしたい。
武当山で修行をしていた張三丰が、書斎で読経しているときに、外でただならぬ気配を感じ、窓から外を見てみると、木の上の鵲 (かささぎ) が、地上でとぐろを巻いている蛇とにらみ合っていた。鵲は鋭く鳴きながら枝から飛び降りて蛇に襲いかかるが、蛇はのらりくらりと攻撃をかわし、鵲を寄せ付けない。
飛び上ってはまた降りて、何度となく繰り返して攻撃するが、蛇は体を変化させて円形を作り、鵲に隙をみせない。ついに鵲は業を煮やし飛び去って行ってしまったという。
これを見た張三丰は「柔よく剛を制す」の理を悟って易の真理に照らし、陰陽の極意に迫って太極拳を編み出した。という説である。
この帛書は「導引図」と名付けられ、図解された型の内44の型がはっきりと識別することができた。その導引は今では気功として集約されているが、昔はさまざまに呼び習わされていた。「吐納・とのう・吐古納新・とこのうしんの略」「道行」「按蹻・あんきょう」「行気」「煉丹」「静功」「坐禅」などと呼ばれていた。このような原型からさまざまなカンフーに発展していった。
そうした中から太極拳に発展したものがある。
張三丰が太極拳を創始したという説をみてみることにしたい。
武当山で修行をしていた張三丰が、書斎で読経しているときに、外でただならぬ気配を感じ、窓から外を見てみると、木の上の鵲 (かささぎ) が、地上でとぐろを巻いている蛇とにらみ合っていた。鵲は鋭く鳴きながら枝から飛び降りて蛇に襲いかかるが、蛇はのらりくらりと攻撃をかわし、鵲を寄せ付けない。
飛び上ってはまた降りて、何度となく繰り返して攻撃するが、蛇は体を変化させて円形を作り、鵲に隙をみせない。ついに鵲は業を煮やし飛び去って行ってしまったという。
これを見た張三丰は「柔よく剛を制す」の理を悟って易の真理に照らし、陰陽の極意に迫って太極拳を編み出した。という説である。