太 極 拳 最 高 

健 康 を デ ザ イ ン す る

簡化二十四式太極拳 21

2010-02-28 07:22:07 | 太極拳
8.内外相合

 内と外を合致させることです。内は意識あるいは精神のことであり、またイメージの世界のことでもあります。イメージは想像力を駆使することで、自分の思考回路を限定的に抑えることなく、その幅を広げてあらゆる方面からの視点を集約させ、プラス思考に仕立て上げることです。
 別の見方をしますと、内は内三宝 (ないさんぼう) の「精・気・神」をいい、パワー・エネルギー・イメージと言い換えられます。
 「精」はあらゆる物質を構成するエッセンスのことで、生命体を構成する最も原初的な物質です。生殖を始めとする生命体の、さまざまな活動に必要な物質を作り出す基礎となるものです。
 「気」を広辞苑で引いてみますと、天地間に起きる自然現象、万物の生成する根元の精気、生命力の保存力の生気、光・熱・電気などの働きなど20項目に及んでいます。
太極拳の立場としては、創始者といわれている張三丰 (ちょうさんぼう) の言葉を引用したいと思います。「心液与腎水相合而太極復生於気。心液与腎気相合太極生気」、心液と腎水が出合うことによって「気」が生まれると、記されています。
 「神」は、生命活動を維持する精と気が結合化成したものをいい、人間の精神、意識、知覚、思惟などの精神活動のことで、人体の機能が働くときに物質が運行転化する高度な働きを意味しています。
 神はまた、先天的意識を「元神」といい、大脳の後天的活動を「識神」といっています。太極拳で「入静」に至るには、元神を最大限発揮させなければなりませんが、それには識神の働きを極力抑えておく必要があります。簡単に言いますと「欲」を抑えることです。もう一つ言いますと、大脳皮質の働きを停止させることです。
 内外というのは、外に広がる勢いの「開」と、中心に集まる勢いの「合」のことでもあります。
 外といいますのは、外面に現れた動作のことで、全身の構えであり、手や足の四肢の動作であり、眼の動きをいいます。その外に表れた部分の動作と、内面の精神を一致させることです。格言を引用しておきます。
「神為主師、身為駆使」
  内面に神を主宰して、体躯を駆使する。
「外練筋骨皮、内練一口気」
  体の外側は、筋肉、骨格、皮膚を鍛錬し、体の内面は気を鍛錬する。
「以心行気、以気運身」
  心で全身に気を巡らせ、気で体を動かす。
 これらを要約してみますと、如何に意識を集中させて、自分の思い通りに体を動かすかということになりそうです。
 日本には「心身不二」の思想があります。心と体は別物ではないとする「心身一如」の思想です。古事記の最初の方に国土生みがあります。「天地のはじめのころ」に始まり、始め三神だった神が葦の芽のように、さまざまな神が現れ、やがて男神のイザナギノ命と、女神のイザナミノ命が現れます。イザナは「誘う」のことですから、イザナを省略しますと、男神に残るのは「ギ」で、「気」のことです。気は心といいますね。女神のイザナを省略した部分は「ミ」で「身」を表しています。君が代の君の「キ」と「ミ」の原初です。
 中国の最も古い医学書の「黄帝内経素問」に、こだわりのない心で、己を虚しくしていれば、元気といわれる真気が充満し、精神が充実して病が入ってくる余地はなくなる。心を広々とさせて欲を亡くし、心安らかにして恐れることなく、疲れない程度に働いていれば、気は順調に流れる。そうすれば人々はその欲するところに随い望み通りになる。とあります。
 内気を充実させれば、気がからだ中をくまなく流れ、精神活動の「意」も、動作姿勢の「形」も整うことになります。
 内外相合の原文です。
 太極拳所練在身、故云「神為主師」、「身為駆使」。精神能提得起、自然挙動軽霊。架子不外虚実開合。所謂開者、不但手足開、心意亦与倶開。所謂合者、不但手足合、心意亦与倶合。能内外為一気、則濁然无間矣。

簡化二十四式太極拳 20

2010-02-27 15:52:27 | 太極拳
7.上下相随

 上半身と下半身がお互いに影響し合ってバラバラにならないことです。上半身と下半身がバラバラにならないためには、上下をつなげている腰に注意を向けなければならないことになります。腰は当に体の要です。要というのはもともと「両手で絞めつけて細く締まった腰」の意味ですから、ここで言い直すのもおかしい話ではありますが。
 この上下相随のところで、太極拳論を引用して腰の重要さを説いています。 「其根在脚、発于腿、主宰于腰、形于手指、由脚而腿而腰」 その大本は脚にあり、腿に発し、腰が主宰し、手指に現れるのは、脚・腿・腰による。と。
 腰の重要性は今更申し上げるまでもありませんが、その腰の中心になるべき筋肉が、腰骨の直近にあります。インナーマッスルいわゆる深層筋ですが、一流のアスリートたちは、この深層筋を鍛えるべく努力しています。その筋肉の名を腸腰筋といい、大腿骨を一番内側で吊るし中心を形成しています。胸椎の12番と腰椎の1番~5番から出ている 「大腰筋」 と、腸骨から出ている 「腸骨筋」 によって大腿骨を支えています。
 この上下相随がいわんとしているところは、からだ全体の総合力を発揮させるためのもので、目からの視覚情報、相手と合わせている皮膚からの触覚情報を、脳が処理して体に伝達し四肢を働かせようとするものです。
 上下相随の原文です。
 上下相随者、即太極拳論中所云「其根在脚、発于腿、主宰于腰、形于手指。由脚而腿、而腰、総須完整一気」。手功、足功、眼神亦随之功、如是方可謂之上下相随。有一不動、即散乱矣。

簡化二十四式太極拳 19

2010-02-26 07:46:28 | 太極拳
6.用意不用力

 力を用いるのではなく意を用いるということです。太極拳では意・気・血といって意志を一番大切なものとして扱っています。但し意というのは、単に意志というだけではなくもう少し深い意味を含んでいます。
 意は洞察力ともいうべき透察する力、未来を予知するような察知する力、最良の現状認識をすることができる判断力、そして事態の発生・変化にも臨機応変に対処できる即応力などを総合したものを「意」といい、それらを集中力によって統合することです。
 力を用いるのではないとする「力」というのは、骨と筋肉によって梃子の原理に基づいて組成されていますから、あまり大きく影響するようなものは期待できません。その上、こちらの力より相手の力の方が勝っていれば、力は通用しないことになります。
 太極拳のバイブルといわれています王宗岳の太極拳経にこうあります。「察四両撥千斤之句、顕非力勝」、小さな力で大きな力をはじき返すという句を曇りのない目で良く見なさい。力がないことが勝るものであることを顕 (あらわ) しなさい。と。四両といいますのは重量の単位で、1両は約50g、10両で1斤、千斤は約550kgになります。
 四両は約200gということになります。ですからこの文章は、200gの力で550kgを弾き飛ばすほどの力を発揮する、ということになります。
 このことから分かりますように、太極拳というのは、ボクシングのように速さを競って、あるいは力を込めて打突するものではないということです。こんな逸話が残されています。その昔、空手の大家が太極拳と対戦し勝つことができなかったということがありました。その空手の大家は何故?勝てなかったのか随分と考えたそうです。
 このことは何を意味しているかお気づきでしょうか。
 太極拳は力を使うものではないということです。力ではなく「勁・けい」を使います。
 この項目は太極拳の神髄に属する部分ですから、カルチャーセンターの性質を持つフィットネスクラブや一般の太極拳教室では、あまり話題に上ることのない事柄です。
 太極拳が使う「勁」を言葉で説明するのはとても難しいです。力に似てはいるものの力ではなく、物体から導き出されるものであるが物体ではない、意思の力と集中力を必要とするが意志力ではない、というような摩訶不思議な存在です。
 ここにある実験の記録があります。学研が2004年に編纂した「中国武術の本」の中で、中部大学工学部吉福康郎教授が「発勁の威力」を測定した記録です。勁を発したのは松田隆智老師で、70kgのコンクリートの塊を、僅か3cm手前の所から勁を発して飛ばしたというものです。
普通に考えますと、これだけ重量のある物を飛ばすには、相当な技量を持っているキックボクシングの選手であるとか、かなりの体重の格闘家が相当の距離をおいて、体当たりでもしないと動かないようなものです。
 松田老師の勁に対する言葉を拝借します。「勁は段階を経て習得される。まず物理的に動作によって勁を生み出すことを学ぶ。力から勁に換えるという意味でこれを換勁という。次に生じた勁を整え、集中統一することを学んでいく。これが整勁だ。ここまできたら、次は実際にさまざまな用途によって勁を使い分ける段階になる。これを用勁という。発勁は用勁のひとつで、勁の力を爆発的に相手にぶつける技法のことだ。ほかにも、相手の力を受け流して無力化する化勁と呼ばれる技法もあれば、知覚神経を研ぎ澄ませて未然に相手の動きを察する聴勁など、勁にはさまざまな種類があり、活用法がある」というものですが、少しはご理解の足しになったでしょうか。
 用意不用力の原文です。
 太極拳論曰、此全是用意不用力。練太極拳、全身鬆開、不使有分毫之拙勁、以留滞于筋骨血脉之間、以自束縛、然后能軽霊変化、圓転自如。或疑、不用力何以能長力?蓋人身之有経絡、如地之有溝洫。溝洫不塞而水流、経絡不閉而気通。如渾身僵勁充満経絡、気血停滞、転動不霊、牽動一発而全身動矣。若不用力而用意、意之所至、気即焉。如是気血注、日々貫輸、周流全身、无時停滞、久々練習、則得真正内経、即太極拳譜所云、「極柔軟、然后能極堅剛」。
 太極功夫純熟之人、臂膊如錦裹鉄、分量極沈。練外家拳者、用力則顕有力。不用力時、則甚軽浮。可見其力、乃外経、浮面之経也。外家之力、最易引功、故不尚也。

簡化二十四式太極拳 18

2010-02-25 05:24:26 | 太極拳
5.沈肩墜肘 (ちんけんついちゅう)

 またまた力を抜くための動作の格言です。肩を沈めるというのは、肩の力を抜くことです。肩の力が抜けさえすれば肩は自然に落ちます。
 日常生活で人は、緊張したり、注意力を発揮したりするときに、自分では気がつかないうちに必ずと言っていいほど肩が上がっています。緊張を反映して、肩を聳 (そび) やかす「聳肩・しょうけん」、あるいは寒い時に肩をすぼめる「寒肩・かんけん」になっています。この聳肩が曲者なのです。聳肩というのは、緊張のことですから、いわゆるストレスを呼ぶ姿勢ということができます。
 私たちの認識では、肩というのは腕の付け根くらいの認識しかありませんが、実際には、肩は首のすぐ脇にある鎖骨から始まり、末端の後ろ側に肩甲骨を具え、かなり大きな範囲が肩ということになります。
 太極拳術十要の中で「両肩端起、則気亦随之而上」、両肩が立つように起きていれば、気もこれに随って上がる、とあります。気が上がるとどうなるのでしょう。太極拳では意・気・血 (けつ) といって、意思の力で気を導き、気の力で血を導くとされています。つまり気が上に上がれば血も上がりますから、それに随って重心も上がる、ということになりバランスを崩しやすくします。
 一方の墜肘は、肘をピンと張らせないようにすることです。腕の構えをする時に、肘を少し曲げて落とすようにします。革の鞭のようにしなやかに使いたいからです。太極拳術十要には「墜肘者、肘往下鬆垂之意」、墜肘というのは、肘を緩めてどんどん垂らす意味であるとしています。続いて、墜肘ができないと、肩を沈めることもできなくなると言っています。
 私はそれ以上に、手首の力を抜くことのほうがもっと重要ではないかと思っています。手首の力を抜けば、肘の力も抜け、肘の力が抜ければ肩の力も抜けると思っています。例えば二十四式の最初の「起勢」のとき、手を上げるときには手首が先導して上げ、下ろす時には肘が先導して下ろしていくのが順当ではないかと思っています。
 日常用語で「肩肘張る」といえば、肩と肘を怒らせて偉そうな態度をとるということになりますし、「肩肘いからせる」といえば、興奮して堅苦しい態度をとるということになり、何れにしても好ましい姿ではありません。
 肩関節をしなやかにしておくことは、胸や背も柔らかく保つことに関わり、別に要求される上虚下実の姿勢をとることからしても、有効なことであるといえます。
 肩に力が入ると、呼吸にも影響を及ぼします。肩に力が入ることによって気が上がり、呼吸が乱れ、集中力が乏しくなります。肩の力を抜くことができれば、胸や背中の力が抜けて上体を柔らかく保つことができ、技に切れが備わり、動作全体がしなやかになります。このことは太極拳論の冒頭にあります、「ひとたび動けば全身を軽やかにして」という要求にも沿うことになります。
 太極拳術十要の原文をご紹介します。
 沈肩者、肩鬆開下垂也。若不能鬆垂、両肩端起、則気亦随之而上、全身皆不得力矣。墜肘者、肘往下鬆垂之意。肘若懸起、則肩不能沈、放人不遠、近于外家之断勁矣。

簡化二十四式太極拳 17

2010-02-24 07:02:35 | 太極拳
4.分虚実 (ぶんきょじつ)

 これは虚と実をハッキリと分けることです。ここでもまた弛める意味の「虚」が出てきました。太極拳がいかに体を緩めることに心を砕いているかが分かります。太極拳では虚は陰に、実は陽に見立てています。
 虚と実につきましては、太極拳の創始者といわれています王宗岳の太極拳経に、「双重なれば即ち滞る」とありまして、両方に均等に重心をかけていたのでは動きが鈍るという指摘があります。太極拳経は太極拳のバイブルともいわれるもので、上記の他、不偏不倚 (ふへんふき・へんせず、もたれず) といい、また、左重ければ即ち左は虚、右重ければ即ち右が暗くなると、過ぎたるは及ばざるが如しと偏り過ぎを戒めています。
 また、太極拳の孫派を起こした孫禄堂 (そんろくどう) 老師は、その著「拳意術真」で次のように言っています。
 拳術は虚を練って、道と合するに至る。
 これ将 (まさ) に真意が化して至虚、至無の境に到らんとす。
 この文言は、太極拳の根底に流れている、「練精化気・れんせいかき」「練気化神・れんきかしん」「練神還虚・れんしんかんきょ」、精を練って気と化し、気を練って神と化し、神を練って虚に還るということを、言葉を変えて表したもので、虚を尽くし切ったところに無があり、無を尽くし切ったところに人間の真の心があらねばならないとしたものです。
 ここで孫禄堂老師の略歴を記しておきましょう。太極拳を武氏太極拳の三代郝為真 (かくいしん) に学び、形意拳を郭雲深 (かくうんしん) に、八卦掌を程廷華 (ていていか) に学んで三拳を融合させて孫式太極拳を編みだしました。
 太極拳は今では保健法として普及していますが、本来は拳法ですから、相手の攻撃に対して自在に変化できることが要求されているわけです。仮に太極拳経にあります「双重則滞」、両足に重心がかかっている「実」の状態であれば、「虚」とのバランスを崩してメリハリをなくし、即応できなくなるということです。
 虚と実は単なる区分のことではなく、軽・浮・沈・重の要素も内在しています。
 「軽」は、動作が軽やかでキビキビとしていながら安定していることです。
 「浮」は、踵が浮き上がって不安定な状態をいい、虚であり過ぎる浮ついた状態です。
 「沈」は、ドッシリと安定していながら、素早く変化することができる機敏性を具えていることです。
 「重」は、中身が詰まり過ぎてボテッと重く、動作が緩慢になることです。
 分虚実を別の言葉で言い表した「上虚下実」という言葉があります。攻撃側の上半身は虚にして、身を守る側の下半身を実にするというものですが、戦のない現代に置き換えてみますと、40代からは、持って生まれた先天の気である腎の気が弱くなって、生活環境の面から、どうしても上半身に気が上がりやすくなる。そこで気を丹田に沈めて気を下半身に下ろし、からだ全体の安定をはかるというのが、現代流の解釈なのかもしれません。
 分虚実の原文を載せておきます。
 太極拳術、以分虚実分第一要義。如全身皆坐在右腿、則右腿為実、左腿為虚、全身坐在左腿、則左腿為実、右腿為虚。虚実能分、而后転動軽霊、毫不費力、如不能分、則邁歩渋滞、自立不穏、而易為人所牽動。

簡化二十四式太極拳 16

2010-02-23 06:05:08 | 太極拳
3.鬆腰 (しょうよう)

 ここでもまた、弛めるという鬆の字が出てきました。腰は月 (からだ) の要と書きます。腰というのは、人間が二本足歩行をするようになってから、上半身を支える重要な役割を果たしています。腰のことを検討する前に、腰の位置を確認しておきましょう。腰は脊椎の一番下にある、仙骨の上に続く腰椎の1番から5番までの部分を指しています。ベルトの位置から下、仙骨から上の部分です。
 脊柱を横から見てみますと、長く引き伸ばされたS字形をして、前に向かって湾曲しています。この姿勢は、スポーツや武術も同じように、尻を後ろに突き出し、同時に胸も突き出す挺胸 (ていきょう) にして、Sの字に輪をかけるような姿勢にしています。
 それを修正しようというのが太極拳です。尻を少し前に出し、出っ尻の反対を行ってS字を解消しようとするのが太極拳です。身に五弓を具えるのところでご説明した通り、上半身を弓状にすることで、気の通りを良くします。
 そうしますと腰の緊張が解け、鬆腰が出来上がります。もう少し詳しく説明しますと、この姿勢によって仙骨が締まり、尾骨が巻き上がって、尾骨の先端にある「長強・ちょうきょう」のツボ (別名尾閭・びろ) が頭のテッペンにある百会 (ひゃくえ) の真下に来て、上体を垂直に保つことができるようになります。
 もう一つ重要な動作があります。抵肛 (ていこう・肛門を締める) です。この動作によって腎の陽の気が上昇して、泥丸 (でいがん・視床下部の辺り) を潤わせます。するとどうなるかは、一度ご自身で試してみてください。
 腰の重要性につきましては、多くの格言が残されていることを見ましても、当に体の要としての役割を果たすものである、ということの認識を深めてくれます。「腰で主宰する」「絶えず腰間に心を留める」「気は車輪のごとく腰を車軸とし」「機を得、勢を得ない所があれば、その欠点は必ず腰、足に求めなければならない」などの言葉です。
 太極拳論に「主宰于腰」腰が主宰するという言葉があります。腰の働きが重要な要素を担っているということで、「練拳不練腰、終生芸不高」武術を鍛錬するときには、腰の鍛錬を疎かにしていると、一生かかっても上達することはない。とまで、言い切っています。腰はやはり体の主軸であるところから、手を動かす場合でも、腰を入れて、腰の動きに従って全体の動きを同調させたいものです。
 太極拳術十要では腰だけを取り上げていますが、一般的には跨も一緒にして鬆腰鬆跨 (しょうようしょうこ) と四字熟語にする場合が多いです。「跨」は「股」と同じで、股肱 (ここう・またとひじ) と熟語して頼みになる大切なところを言い表してもいます。
 太極拳術十要の鬆腰の原文をご紹介しておきます。
 腰為一身之主宰。能鬆腰、然后両足有力、下盤穏固。虚実変化、皆由腰転動、故曰、命意源実在腰隙。有不得力、必于腰腿求之也。

簡化二十四式太極拳 15

2010-02-22 06:11:49 | 太極拳
2.含胸抜背 (がんきょうばっぱい)

 これもまた力を抜くための格言です。
 本題に入ります前に、大事なことですので「放鬆・ほうしょう」について、もう一度確認しておきましょう。放鬆はリラックスのことで、意識的に緊張を解くというものです。「放」は自由にする、放すことで、「鬆」は解きほぐす、緩める、ほどけることをいいます。両方とも同じような意味の言葉ですが、中国では意味合いを深めるときに、似たような意味を持つ字を二つ重ねて双音詞 (そうおんし) として使うことが多いのです。
 鬆はもう一つ太極拳特有の意味を具えています。鬆はスと読み、大根やゴボウにある穴のことを「ス」といっています。そのスは気を通すための管という見方です。
 本題に入ります。
 「含胸」は胸を含むように、肩の力を抜いて胸を楽にして、肩甲骨を横に広げて背中の面積を広くし、両肩を僅かに前に出すと含胸が完成します。
 胸を広辞苑で引きますと「体の前面、首と腹の間」とありますが、太極拳では「心以上為胸」とありますように心臓から上の部分を指しています。武術には胸を張りだすようにする「挺胸・ていきょう」、胸を凹ませる「凹胸・おうきょう」、胸を含ませるようにする「含胸・がんきょう」があります。
 この含胸の目的は、胸の緊張を解いて、胸の外側 (胸郭) を変えずに、内側 (内腔) をノビノビとイメージで広げ、内腔を空にすることです。こうしますと気の流れがスムーズになり、気を丹田に貯めやすくなります。
 「抜背」は背骨を上下に伸ばすようにすることです。背中の筋肉を緩めて下に沈め、脊椎を使って上体を上に引き伸ばすようにしますと、背中の面積が広がって背中が伸びやかになります。抜という字には「高める」という意味もありますから、このように解釈しました。
 この抜背について著者の楊澄甫 (ようちょうほ) は、「気を背に貼 (てん) するなり、抜背を能 (よ) くすれば即ち、力を脊より発するを能くし、向かうところ敵無なり」と表現しています。
この姿勢をとりますと、横隔膜の下降が促されて腹式呼吸が容易になり、肺活量が増して循環機能が改善されます。横隔膜の伸縮が大きくなることで、内臓がマッサージされ、消化吸収機能が高まって新陳代謝が促され、細胞が活性化します。
 日本の「気を付け」の姿勢では、胸を突き出すようにした「挺胸・ていきょう」にしますが、これですと力が篭ってしまいます。胸を含むようにするのは胸を緩めることで、同時に背骨を上下に伸ばすようにしますと、脊椎の間が開きますから、そこから出ている神経を圧迫することがありませんので、内臓の働きも、手や足の働きも活発になるというものです。
 背中の筋肉を緩めることには、もう一つ理由があります。気は緊張したところに集まって滞るという性質がありますから、背中を緊張させてはならないのです。背中には膀胱経の経絡があって、そこには内臓と直結している兪穴 (ゆけつ) がある一方で、「気は背より発す」という言葉の通り、気を貯め (蓄勁)、気を発する (発勁) 重要なセクションであるということに注目したいところです。発勁は螺旋を描いて、足の底→脚→大腿→腰→背→肩→手へと伝えていくものです。
 「含胸抜背」の太極拳術十要の原文をご紹介しておきます。
 含胸者、胸略内涵、使気沈于丹田也。胸忌挺出、挺出則気涌胸際、上重下軽、脚根易于浮起。抜背者、気貼于背也。能含胸則自然能抜背。能抜背則力由脊発、所向无也。

簡化二十四式太極拳 14

2010-02-21 07:14:27 | 太極拳
もう一つの虚領頂勁

 虚霊の霊が「領」に変わっています。領は首の後ろ・うなじを意味しています。ですが、そのこと以外にも率いる、才能、持っているものなどの意味も併せ持っています。虚領は首の後ろ部分を虚にするというように理解することが可能です。
 実際問題として、この虚領が期待するものは、「頭の天辺が上から吊られている」状態を実現することですが、その頭頂部が天から吊られている状態をつかむというのは、なかなかのことにつかみにくいものがあります。
 そこで、こんな説明を試みたのですがいかがでしょうか。「頭の後ろを壁に付ける」。こうしますと自然に顎が引けて、頭頂部後方にある「百会・ひゃくえ」が上から吊られている感じに仕立て上がると思いますが。どんなものでしょうか。
 王宗岳 (おうそうがく) が著した「十三勢歌・じゅうさんせいか」には「尾閭 (びりょ) は中正、神は頂に貫し、全身を軽利にし、頭は頭頂で懸すべし」。尾閭 (尾骨の先端にある長強・ちょうきょうのツボをいう) を中正に保つには、後から出てきます鬆腰 (しょうよう・尻を前に出して腰を緩める) をした上で抵肛 (ていこう・肛門の括約筋を締める) をしますと、尾閭の位置が百会の真下に来て、上半身を垂直に保つことができます。
 たった一か所、首の後ろのことを完成しようとしますと、あれもこれも注意しなければならないことに気がつきます。太極拳は奥が深いです。途中でやめてしまう人が多いですが、とても勿体ないと思います。
 虚領頂勁の働きを見ておきましょう。
①中枢神経の働きを促し、人体のバランスを保つ作用を高める。
②体に掛かる頭部の重さを分散し、動作を敏活にする。(頭の重さは5~6kgあります)
③気持ちを引き締めてハツラツとさせ、意識を明敏にします。
④この姿勢により柔軟性が発揮され、勁を発するのに適した姿勢をとることができます。
 因みに、この虚領頂勁と同じような意味の言葉を列記しておきます。「正身懸頂」「吊頂」「頭頂懸」「正頭起頂」。

簡化二十四式太極拳 13

2010-02-20 06:29:14 | 太極拳
太極拳術十要に従って

 楊家太極門に伝わる太極拳術十要の身法に関わる部分を、順を追って説明してまいりたいと思います。

1.虚霊頂勁 (きよれいちょうけい)
 虚霊頂勁を虚領頂勁といい表す場合もあります。虚は力を抜くこと、霊は頭あるいは頭の働きのことです。頂は頭頂部 (百会・ひゃくえ)、勁は気のエネルギーのことです。
 虚は放鬆 (ほうしょう・緩めること) と同じことです。放鬆は常に太極拳の根底にあるもので、虚は太極拳では「陰」に引き当てて考えられています。虚が陰、実が陽として扱われています。太極拳の全ての基本が放鬆にあります。ここでもその緩めるということが要求されています。太極拳ではどうして体を緩めることが要求されるのでしょうか。
 脳の指令は神経を通じて行われていますが、どこかに力が入る「実」の状態にあると、指令はそこで滞り、気の流れも滞って体の自由が利かなくなるからです。
 霊は神に譬えられ「叡智」と解釈されています。人間が生まれながらにして持つ「神性」というほどの理解でしょうか。頭の働きを虚しくして勁 (けい・気のエネルギー) を頂きに貫くことです。全身の気の通りを良くすることによって、勁の働きが全身くまなく行き届くことです。
 これは左脳の働きを停止して思考回路を遮断することによって、何物にもとらわれない環境を調えることであると、私は解釈しています。太極拳が動く禅 「動禅」 といわれる所以がここにある、ということではないかと考えてそう結論付けるのですが。
 頭の働き、つまり脳の働きを最大限に発揮するためには、拘りをなくさなければなりません。拘りがありますとそこで思考回路が止まってしまうからです。何か一つの考えにとらわれていますと集中できませんし、イメージが湧くこともありません。少し見方を変えてみますと、太極拳は集中力を駆使したイメージの健康法であるということができます。
 太極拳術十要の虚霊頂勁の原文をご紹介しておきます。
 頂勁者、頭容正直、神貫于頂也。不可用力、用力則頂強、気血不能通流、須有虚霊自然之意。非有虚霊頂勁、則精神不能提起也。

簡化二十四式太極拳 12

2010-02-19 08:42:00 | 太極拳
身法のこと

 太極拳を演舞 (太極拳は武術なので本来は演武であるが舞いに近いところから) する時の正しい姿勢と動作を身法といいますが、太極拳と同じ思考形態にある中医では、「形正しからざれば気従わず、気従わざれば意安からず、意安からずんば気散ずる」といっています。つまり正しい姿勢ができなければ気の通りを良くすることはできないし、気の通りを良くすることができなければ、精神的に安定を図ることができないまま気は散ってしまうとあります。
 いまではスポーツにも科学的手法が取り入れられて、生理学的・栄養学的見地から、練習法にも科学的練習法が提唱されています。これは武術に於いても例外ではなく、理論やデータの裏付けのない、古くから伝わる練習法は意味がないとまで決めつける風潮もあります。
 ですが科学的合理主義だけでは、実践による体得しかない武術の根本精神までは、伝えることができないものであるということもまた確かです。理論だけでは割り切れないものがある、ということでしょう。
 身法を考えるとき、一番参考になるのは楊家太極門に伝わる、太極拳術十要です。身の処し方が微に入り細に入り、事細かに要諦が説かれています。

簡化二十四式太極拳 11

2010-02-18 06:05:06 | 太極拳
架子・太極拳の型

 太極拳の型あるいは構えを、「架式・かしき」または「架子・かし」といっています。それぞれの架子には、その架子に期待される効用が備わっています。ですからその架子の特性を理解し、正確に身につける必要があります。
 技術的な検討に入ります前に、太極拳の特性を理解しておきましょう。
 太極拳とスポーツとの違いは、太極拳には勝ち負けがないことです。太極拳のベースになっている気功はもともと、病気をせずに長生きをする目的で開発されたものですから、中国で早朝に公園などで太極拳を演舞している姿というのが、本来あるべき姿といえますでしょう。つまり架子の優劣を競うものではないということです。気功の功には錬るという意味があります。
 また、先のWHOの太極拳を紹介する文章がありましたが、太極拳が気を扱うものであるという点で、スポーツとは一線を画するものであるということも大きな特色といえますでしょう。
太極拳の場合には、自分の意志の力で気を導き、気の力で血 (けつ・血液とホルモンやリンパ液などの体液) を導きます。そのことによって細胞の新陳代謝を促して、細胞を活性化させ、体力と元気を目覚めさせます。
 元気といいますのは文字通り元の気のことで、両親から受け継いだ「先天の気」をいいます。先天の気は生まれた時の一度しか受けることができませんから、その元気を維持するためには栄養素と酸素の「後天の気」の補充が必要です。
 蛇足ながら、元気は「真気」とか「正気」とも呼ばれています。

簡化二十四式太極拳 10

2010-02-17 06:13:05 | 太極拳
身に五弓を具える

 太極拳の基本姿勢を「身に五弓を具える」姿勢といいます。
 腕で胸の前に大きなボールを抱えて太極を手のうちにする姿勢をとります。このときの二本の腕の形が弓二本。膝を少し曲げて腰を落とす姿勢の脚の形で弓二本。先の上半身の弓の形で弓五本ということになります。
 この弓を五本備えた形で立つことを「站樁・たんとう」といいます。その昔中国では、太極拳を覚える前に、三年間はこの站樁をやらされたそうです。なぜ「たんとう」を三年もやらされたのでしょうか。
 それは、下肢にストレスをかけることにあります。からだ全体の筋肉の70%は下肢にあり、下肢の一番大きな筋肉は大腿四頭筋ですが、太極拳では、表層筋の大腿四頭筋ではなく、内部の深層部を受け持つ腸腰筋がその重要な役割を果たしています。
 腸腰筋は胸椎12番と腰椎の1~5番から出ている大腰筋と、腸骨から出ている腸骨筋とで、大腿骨の内側から大腿骨を吊り上げ、中心部を構成しています。
 表層筋は主に素早い動作を必要とする部分にあって、瞬発力を発揮します。その色が赤いところから赤筋と呼ばれています。内部にある深層筋は、持続力を持っていますから粘り強さを発揮します。その色が白いところから白筋と呼ばれています。スポーツで譬えますと赤筋は瞬発力を発揮するボクシングで、白筋は持続力を発揮するマラソンということができます。
 一流のアスリートたちは、この深層筋である腸腰筋を如何に鍛錬し、中心感覚を磨くかということに懸命に取り組んでいます。

簡化二十四式太極拳 9

2010-02-16 04:08:31 | 太極拳
太極拳の基本「調身」

 太極拳の第一段階は調身 (ちょうしん) です。太極拳で真っ先に修めるのが姿勢を調える調身法です。それは身法、手法、歩法、眼法、手型、足型などで構成され、武術の型として発展してきました。今では健康法としての価値が評価され、多くの人が太極拳に勤しんでいます。舞いを連想させるその律動にはムダがなく、体の内外がまとまりを見せて、一体となって統一されています。 
 スポーツや芸事にしてもそうですが、形から入ることを前提としています。それは基本をマスターすることが、その道を極める近道になるからです。
 先ず太極拳の身法、姿勢から入ります。
 姿勢に入る前に、太極拳には一つの前提条件があります。全身の力を抜くことです。立つ姿勢を保つための筋肉以外の力を全て抜き切ります。これを放鬆 (ほうしょう) といいます。体の力を抜いてリラックスした状態になりますと、筋肉がゆるむことによって中枢神経の内の交感神経の緊張が解け、副交感神経が優位になり、脳内物質のセロトニンやノルアドレナリンが分泌され、精神的に安定した状態が醸し出されます。
 最初にお尻を前に出します。スポーツでは出っ尻にしますが太極拳では逆に前に出して腰と股を弛めます。それを太極拳用語では「鬆腰鬆跨・しょうようしょうこ」といいます。この行為は実際には仙骨を締めるという意味があります。普通上半身を横から見ますと背骨がS字状になっていますが、これを弓状に直すのがこの尻を前に出すことの意味です。
 尻を前に出すことで、仙骨の先にある尾てい骨の先端が中央に寄ります。加えて肛門を締めて「抵肛・ていこう」にしますと、更に尾てい骨が巻き上がって中央を形成します。尾てい骨の先端にあるツボを長強 (ちょうきょう) といい、太極拳では「尾閭・びろ」といっています。
 上記の尻を少し前に出す、鬆腰鬆跨の姿勢にしますと、頭の一番高いところにある百会 (ひゃくえ) と尾閭を結ぶ線が垂直になります。太極拳用語ではその姿勢のことを「尾閭中正・びろちゅうせい」といっています。
 鬆腰鬆跨を正確に把握するために、「腰」と「跨」の場所を確認しておきましょう。先ず腰です、腰はベルトの位置の腰椎の一番から仙骨の上にある腰椎の五番までを指します。跨は股のことで、腰骨・こしぼね (寛骨・かんこつ・腸骨と仙骨)  の横から取り付いている大腿骨のあたりのことです。

湯治から戻りました

2010-02-16 04:05:20 | Weblog
 五日間、ゆつくりと湯に浸かってきました。五日間もボーッとしていると思考回路が途切れてしまって、文章が纏まりません。

川古温泉

 ここは群馬県の西部、新潟県境にある三国峠の近くである。
 関越を月夜野で降りて、国道17号線を新潟に向けて走らせると、猿ヶ京温泉の少し手前、赤谷川を堰き止めて作った赤谷ダムがある。その脇にある相俣の信号を右折して山道に入ると、入った途端に道路の両脇に積もっている雪の量が目立つ。
 3㎞ほど車を走らせた頃、低く垂れている雲から、雪が降り始めた。高度が増すにつれて、道路が吹きだまりになっているところに雪が積もっている。シフトダウンしてセカンドでゆっくり進む。できるだけブレーキを踏まない算段である。それでも尻を振る。
 ほどなくして川古温泉への取り付き道路に出る。そこからは赤谷川の流れに向かって急な坂を下ることになる。大通りでギアを一旦ドライブに戻したものを、下り坂にかかってギアをロウに入れ換え、ブレーキを踏まないように雪の坂道をそろりそろりと下る。
 坂道の途中に、何十メートルかおきに、車がすれ違えるように広くなっている場所があるが、いまは雪でふさがれていてすれ違える場所がない。こちらは下りだから、上りの車が来れば避けなければならないが、その場所がないので、車の来ないことを願った。
 坂を下りきって川沿いの道へ出ると、後は平坦である。ここでほっとする。おかげでチェーンを巻かずに目的地に到着することができた。やれやれ。
 宿の部屋は、湯治のための長期滞在向きに、入り口を入ったところにある洗面台は、洗濯もできるようにシンクが大きく設えてある。部屋は八畳の畳と、四畳の板の間があり、板の間の部分にカーペットを敷いて、炬燵が置いてある。窓は大きく、畳一枚半ほどのガラスが嵌め殺しになっている。
 荷物を片づけた後早速湯に浸かりに行く。ここの湯の泉質はカルシウム・ナトリウム-硫酸泉 (弱アルカリ性低張性温泉) という。古い呼び方では石膏泉という。適応症は、神経痛、筋肉痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進、動脈硬化症、切り傷、火傷、慢性皮膚病などである。
 ここに最初に来始めたのは、家内がお茶で膝を痛めて、整形外科でもなかなか治らないので、インターネットや本で調べ、関東地方で痛みに効く温泉を探したら、この川湯が最高ということであったので、一昨年から通い始めた。ここは源泉で39.6℃であるから、首まで湯に浸かって温まっていないと、この時期、外に出ると寒い。
 通い始めて三年、今年初めてその良さが分かった。前回まではいくら長い間入っていても、体が温まるという感触はなかったが、今回は短い時間で体が温まるという実感をしている。体が温泉の泉質と同調してきたのであろうか。
 食事は、湯治客の場合には一日三食出るが、湯治に合わせて食事の時間が変則である。昼は変わらないが、朝は八時、夕飯は五時である。風呂に入る以外には動くことはないので、一般客に比べて量的には少ない。第一日目の夕飯は「鹿鍋」である。鹿刺しやぼたん鍋は食べたことはあるが、鹿鍋は初体験である。
 二日目の朝食は、朝から刺身が出た。鮭の刺身である。百合根の入った茶わん蒸しも出た。朝から御馳走である。昼は山菜うどんとお焼きである。山菜はなめこ、しめじ、ワラビである。お焼きは野沢菜かな?と思っていたら案に相違して餡であった。
 今回は免疫について勉強しようと、免疫に関する本を15冊ほど持ちこんできたが、二日目からはリラックスが効きすぎて、頭の回転が悪い。少しも先に進まないのである。