Shpfiveのgooブログ

主にネットでの過去投稿をまとめたものです

ライダイハン問題

2017-06-02 21:51:32 | 近現代史関連
韓国は、従軍慰安婦問題でこれでもか、っていうくらいに日本を叩いてますが、では韓国は戦争時に韓国軍人達は戦場で聖人君子のような軍人ばかりだったのでしょうか?

それは「違う」というべきでしょう。

アメリカ軍などと同様、虐殺も強姦もありました。
こちらから抜粋します。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89

>韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺

1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した[151][157]。
1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した[151]。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した[151]。
さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民[151]を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)
1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件[147])、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、化学薬で殺害したり、目を潰したといわれる[151]。
1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した[151]。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した[151]。さらにブガツ省では3万5千人のベトナム人が「死の谷」で虐殺された[151]。
1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)[158]もベトナムに上陸する。
同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生[151]。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される[151]。
1966年10月9日、大韓民国国軍によるen:Dien Nien-Phuoc Binh Massacre。
12月6日、大韓民国国軍によるen:Binh Hoa massacre。
こうした一連の韓国軍による暴行・虐殺について韓国政府は1967年5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「お返し」の意味と、またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国がアジア平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである、と記者会見で答えている[151]。
韓国海兵隊による「索敵殺害」その後、韓国海兵隊(青龍師団)が1968年2月12日にクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を殺害(フォンニィ・フォンニャットの虐殺)、同2月25日には同省ハミ村で村民135人を虐殺する(ハミの虐殺)。
>韓国軍による虐殺事件[編集]
※経緯や各事件については上記「サーチアンドデストロイ作戦」節も参照。
詳細は「フォンニィ・フォンニャットの虐殺‎」、「ライタイハン」、「ゴダイの虐殺」、「タイビン村虐殺事件」、および「タイヴィン虐殺」を参照

>この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、韓国軍兵士は少なくともベトナム人住民9000人を虐殺し[147]、強姦事件なども起こした。また、30万人を超す犠牲者の数だったとも言われている[170]。 生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機銃掃射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などが挙げられている[171]。1966年2月、ビンディン省タイビン村では韓国軍猛虎部隊が住民68名を集めて婦女子を含む65名を虐殺している[147]。
ジャーナリストのD・W・W・コンデは1969年の著書『朝鮮』で「これは、たった一都市に起きた "南京大虐殺"どころの話ではないのだ。これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても語ることのできない、今日の"ベトナム民族大虐殺"なのである」と評している[151]。

また戦間期において、猛虎師団、青龍師団、白馬師団などの兵士が村の娘を強姦して軍法会議にかけられる事件が頻発していたとされています。

ただ、いわゆる「ライダイハン問題」というのは、一般に流布されている話と、実情は少々異なるようです。

例えば、野村進氏のルポルタージュ「コリアン世界の旅」(講談社/1996年)に、ベトナムでライタイハンの支援活動をする金永寛という牧師が登場しますが、金牧師はライダイハンについて、

「この子たちの父親の90パーセントは、韓国人のビジネスマン」

「ベトナム戦争中に技術者や労働者として南ベトナムに来ていた韓国人が、ベトナム人女性との間に子供をもうけ、そのまま母子を置き去りにして帰国してしまった例が圧倒的に多い」

と、発言しています。

90%の信憑性はともかくとして、これは第二次世界大戦における日本軍、ドイツ軍、あるいは朝鮮戦争における韓国軍自身による、軍中央の方針に基づいて慰安所を組織的に設置した、というケースと、性格は異なる、という事は、ご理解いただけると思います。

よく韓国軍による強姦があったら混血児が生まれた、その結果がライダイハンであると言われていますが、別の例で言うと、ソ連軍の満州侵攻時に日本人女性に対する強姦がなされたのは間違いありませんが、その結果、ロシア人との混血児が多数生まれただろうか。生まれたという話を聞いたことがありますか?

ベトナムで韓国兵による混血児が多く出産した、とよく言われますが、実はこの子供達の大半は強姦によるものではなく、韓国人が現地女性との間に子供を作っておきながら、妻子を置き去りにして帰ってしまったというのが実態です。

えっ、強姦の結果産まれたはずの子供は?

大半は生きながらえる事はなかったと思われます。


これはアメリカ軍などについても言える事ですが、そもそも住民の虐殺をともなっています。

そうしたとき、強姦された女性は直後にどうなるでしょうか?

考えられるのは

殺害された

子どもを産むことができない体になった

精神的なショックから自殺に追い込まれた

あとは堕胎、出産直後の間引きなども考えられます。
(ちなみにベトナム戦争に限った話ではなく、戦場では一般的にそのようなケースが多いです)

アメリカ人と現地女性との間にできた、とされるアメラジアンについても見てみましょう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%B3

>アジア諸国は人種的に均一な国が多く、アジアの外からはアジア人は混血児に対して排他的とのステレオタイプ的解釈がなされることもあるが、アメラジアンへの処遇にはより複雑な面がある。アジアが貧しかった時代、朝鮮戦争やベトナム戦争当時は、アメリカ兵が出入りする店で働く女性を現地妻とするアメリカ兵もおり、そこから多くの子供が生まれた。このため、アメリカ兵相手の商売をする女性への偏見が、アメラジアンと称される子供への差別につながった。またこの差別は、貧しさのために多くの女性が豊かなアメリカ人になびいたという現地の住民感情にも結びつき、母の職業がどうあれ米亜混血児全体に拡散した。

ライダイハンも、似た立場です。
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20100202/p1

>ライタイハンを「レイプによる大量出産」の事例として「性暴力と混血児の因果の証」としたがる人々がその根拠として持ち出す釜山日報の記事
http://www.busanilbo.com/news2000/html/2004/0918/051G20040918.1009094544.html

によると、この記事の時点(2004年)において韓国政府はアメリカ政府が行ったような対応を取っていません。
この記事によるとライタイハンの人数は推算で5000人から30000人とされています。
しかしながら、この記事でライタイハンを「レイプによる大量出産」の事例とするのには無理があります。

ライタイハン問題は韓国人たちがベトナム戦争の期間及び特に1975年のベトナムの共産化後にベトナム人の「妻」と子供たちを捨てて無責任に韓国へ帰国したことに始まる。
というように翻訳して読んでみた限り、この記事ではライタイハンは現地妻の子として扱われています。
また、この記事を翻訳して読むと、

1992年の韓国とベトナムの修交以後、両国間で経済的及び人的交流が増大される過程で「新ライタイハン」が生まれている。彼らは事業上ベトナムに長期的に行っている韓国人たちと現地妻の間で生まれた混血二世たちだ。韓国人たちがベトナムを撤収する際、現地妻と子供を捨てることが問題になっている。ベトナム戦争で見せた韓国人たちの姿が繰り返されている。

という記述もありますが、これもライタイハンが韓国人とベトナム人現地妻との子をさす言葉として扱われていることを示しています。
この記事を「レイプによる大量出産」の事例の根拠として扱うのは明らかにおかしいというものでしょう。

韓国軍による強姦と、現在の「ライダイハン問題」に直接の因果関係はありません。

ベトナム戦争における混血児の問題は古来よりの「駐留軍と現地妻」の問題です。

それとは別に、韓国によるベトナム戦争の性暴力被害は当然存在しているわけですが、元日本軍慰安婦だった方の中には、ベトナム戦争の性暴力被害者の救済・支援に取り組んでいらっしゃる方もいらっしゃいます。
http://blog.goo.ne.jp/sanzenri2010/e/8c09c36c3f974d657d415fab72efe017

あと、時々

ベトナム戦争の『ライダイハン問題』にしても韓国はドキュメンタリー番組「ダイハンの涙」を通して『ライダイハン問題』に向き合い補償を開始してるのでこれもネット右翼の間抜けな的外れになりますね。

みたいな指摘も見かけますが、これはこれで一面的ではないでしょうか?

以下に李恵慶氏の指摘を、ご紹介します。

不純な“野合”
──『ライダイハン』にみるジェンダー・表象・文化の政治学
   
http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2013-03.pdf#search='ダイハンの涙'

>ライダイハンの存在が初めて韓国に知られた時期は明確ではないが、一般的にその存在を認識できるようになったのはかれらをめぐるTVドキュメンタリー『ライダイハンの涙』(1992年)の放映後と思われる。このドキュメンタリーの反響はかなり大きく、後にその続編が作られ、さらには多数のライダイハンドキュメンタリー制作ラッシュの起爆剤ともなった(9)。1994年に上映された『ライダイハン』はそのドキュメンタリーの延長線上にあるものといえる。た
だ、この映画は上記のドキュメンタリーに比べて政治性が非常に強いのが特徴である。ベトナムとの国交樹立後まもなく制作されたことや、「ライダイハンの援助」が映画の制作意図であった(10)ことからもそれは窺える。
ところが、これまでこの映画が注目されることはほとんどなく、先行研究も皆無である。そ
れには映画の完成度が低く興行的にも失敗したというこの映画自体の問題から、ライダイハンのドキュメンタリーが話題となったとはいえ、まだかれらへの韓国社会全体の関心がさほど高くなく、時期的にも韓国社会がかれらの存在を受け入れられるほどには成熟していなかったという社会的な要因まで、様々な理由が挙げられる。しかし、だからといってこの映画の先駆性が損なわれることはないし、端的に言ってこの映画はかなりの問題作である。なぜならライダイハンの女性と韓国人男性との純粋で切ないラブ・ストーリーとは裏腹に、ベトナムと韓国の間のきわめて不純な政治的関係が見え隠れしているからだ。

後に明らかになるが、ベトナムの女優によって演じられた女主人公は、もっぱら韓国の男性
中心的家父長制の視点から描かれた人種的かつ性的他者でしかない。さらにはベトナムと韓国の国交樹立当時からの不純で隠密な「内縁関係」(11)とそれによる政治的象徴性が集約された人物でもある。これは看過できない大きな問題である。『ライダイハン』はライダイハンへの理解を促す映画どころか、むしろ韓国のいう「不幸な過去」をベトナムの手助けによって癒すというきわめて政治的な映画なのである。本稿では国交樹立の際の韓国とベトナムの関係を念頭に置きながら、女主人公を中心としたライダイハンの表象上の特徴とライダイハンの女性化をめぐるドラマに焦点を当てて、この映画の政治性を浮き彫りにする。

物事をきれいごとの側面から評価するのは、それはそれで問題があるのではないでしょうか?

なお、2001年に金大中大統領(当時)がベトナムを訪問した際に韓国軍の残虐行為を謝罪していますが、帰国後この発言は野党ハンナラ党や退役軍人を中心とする国内の保守派の反発により、次の大統領も金大中大統領の路線を引き継いだ左派の盧武鉉大統領でしたが、補償などの検討についてはなされていません。

それが現実です。

重慶爆撃は国際法違反か?

2017-06-02 21:35:50 | 近現代史関連
重慶爆撃というのは、日中戦争において日本軍により重慶に対して断続的に行われた218回に及ぶといわれる戦略爆撃のことです。
対日徹底抗戦を決定した国民党政権の重慶への首都移転実行により、大本営は地上軍による重慶の攻略を計画しましたが、要害の地である事などの様々な問題のため地上部隊を投入することができませんでした。

このため大本営は1938年12月2日、中支那方面軍に対し「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加えると共に航空撃滅戦の決行」との指示を出します。

ただし、当時の日本軍には大規模な爆撃を行なう能力はなく、また中国軍の航空部隊の迎撃も無視する事は出来ませんでした。

中央統帥部も現地部隊に対し

「航空侵攻作戦は概ね1939年秋以降に実施するので、各部隊はそれを目処として、整備訓練に勤めるように」

と通達し、結局、稼働率や航空性能の劣るイ式100型重爆撃機(イタリアフィアット社製BR.20、陸軍の九七式重爆撃機が完成・配備される迄の代用機)や防御火器が貧弱な九三式重爆撃機では、中国軍の迎撃や対空砲火で被害が増大したため、防備の固められた重慶に対しては、より新鋭の九七式重爆撃機、九六式陸上攻撃機を主体とする陸・海軍の航空兵力による長距離侵攻を実施する事となったわけです。
臨時首都・重慶に爆撃を繰り返した爆撃は、218回に及ぶとされ、空襲による直接死者だけで1万1885人に上るといわれます。

軍事目標と市民を区別しない無差別爆撃は1937年4月、ドイツ空軍がスペイン内戦下で実行したゲルニカ爆撃が最初とされていますが、結果的にははるかに大規模の連続無差別爆撃となりました。

なお1938年12月26日の爆撃の前日に陸軍第一飛行団長寺倉少将による

「飛行団ハ主力ヲ以テ重慶市街ヲ攻撃シ敵政権ノ上下ヲ震撼セントス」

「目標ハ両戦隊共重慶市街中央公園都軍公署(以下略)」

という指示をあったとされており、戦意喪失を狙ったいわゆる「戦略爆撃」の走りとして、非軍事施設を目標とした事は、否定できないでしょう。

さて、まずハーグ陸戦条約の交戦規定について確認してみます。

ハーグ陸戦協定

第2款「戦闘」中の第1 章「害敵手段、攻囲及砲撃」に爆撃規制に関わる条項がありますが、このようになっています。

まず、害敵手段に関しては第22条にの次の規定があります。

第二二條 交戰者ハ、害敵手段ノ選択ニ付、無制限ノ權利ヲ有スルモノニ非ス。

この規定は、害敵手段全般にわたる規制ですが、当然、爆撃の場合も、使用兵器と攻撃対象の双方で、重要な規制基準として機能する事になります。

次に第23条には、害敵手段に関して次のような禁止事項が規定されています。

第二三條 特別ノ條約ヲ以テ定メタル禁止ノ外、特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。

このうち

(ホ)不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト
が、使用兵器と攻撃対象の双方で、規制基準に該当します。

それから第25条~27条までは、主に爆撃そのものに関する規制を定めています。

第二五條 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。

これについて、重慶は攻守された都市であり、第25条には該当しない、という反論も考えられます。
当然、空爆を予期していなかったはずの広島、長崎と状況は異なるという論も成り立つでしょう。

ただし、前田哲男氏(軍事史研究家・評論家、元東京国際大学国際関係学部教授)ほか戦争と空爆問題研究会による、『重慶爆撃とは何だったのか もうひとつの日中戦争』(高文研)には、こうあります。

重慶爆撃の思想とは、地上戦との関係はまったくなく、ともかく空から爆弾、それも殺傷兵器をひたすら投下し続けるというものだ。何のためか、敵国国民の「継戦意志破壊」がそれである。日本軍は、首都となった重慶を徹底的に破壊することによって、蒋介石政権の降伏を導き出そうとしたのである。「テルミット焼夷弾」といわれる「弾着の衝撃で発火すると激しく燃え上がり、2000~3000度の熱を10分間以上発し続ける」、「7番6号爆弾2型」という、「着弾すると固形油脂剤が溶け出して火災を拡大させる」、「カ4弾」という陸軍が開発したそれは、「空気に触れると自然発火」し「ひどい悪臭と白煙を放つ」という(イスラエルがガザに撃ち込んだものも、こういう特性を持っていた)。そのような爆弾が、重慶に無数に投下されたのだ。まさに無差別爆撃である。
時に対空砲火などで爆撃機が「被害」を受けることもあろうが、しかし地上の被害と、投下する側の「被害」には圧倒的な差がある(非対称性!)。一種の「虐殺」
(67頁)。

こう考えたとき

第26条による爆撃予告の原則

第二六條 攻撃軍隊ノ指揮官ハ、強襲ノ場合ヲ除クノ外、砲撃ヲ始ムルニ先チ其ノ旨官憲ニ通告スル爲、施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘキモノトス。

が、意味を持ってきます。

あるいは第27条により

第二七條 攻囲及砲撃ヲ爲スニ當リテハ、宗教、技芸、学術及慈善ノ用ニ供セラルル建物、歴史上ノ記念建造物、病院並病者及傷者ノ収容所ハ、同時ニ軍事上ノ目的ニ使用セラレサル限、之ヲシテ成ルヘク損害ヲ免レシムル爲、必要ナル一切ノ手段ヲ執ルヘキモノトス。
被囲者ハ、看易キ特別ノ徽章ヲ以テ、右建物又ハ収容所ヲ表示スルノ義務ヲ負フ。右徽章ハ予メ之ヲ攻囲者ニ通告スヘシ。

により、原則的には軍事上の目的に使用されない限り、損害発生回避の措置義務があることもあきらかです。

なので、第25条に違反していないことを根拠に「国際法違反ではない」という結論を導き出すことはできません。

ちなみに 東京地方裁判所昭和38年12月7日判決(広島・長崎原爆投下事件 下田事
件)(下民集14巻12号2435号)(甲C11ないし甲C14)判決には、こうあります。

空襲についての国際法について「空戦法規案はまだ条約として発効していないから、これを直ちに実定法ということはできないとはいえ、国際法学者の間では空戦に関して権威のあるものと評価されており、この法規の趣旨を軍隊の行動の規範としている国もあり、基本的な規定はすべて当時の国際法規及び慣例に一貫して従っている。それ故、そこに規定されている無防守都市に対する無差別爆撃の禁止、軍事目標の原則は、それが陸戦及び海戦における原則と共通している点からみても、これを慣習国際法であるといって妨げないであろう。

言うまでもなく、私自身は東京大空襲は残虐な無差別爆撃である、と認識しています。

ただし、無差別爆撃の先例としての重慶爆撃を考えたとき、同様の理由によりこれを「国際法違反ではないと断じるのも、またダブルスタンダードということになります。

日本軍による空爆が戦略思想の転換をもたらし、アメリカの対日政策に大きな影響を与え、より大規模な無差別絨毯爆撃となった、と考えられる以上、東京空襲、日本各都市空襲、広島、長崎への原爆投下が「国際法違反」である、と断じるのであれば、重慶爆撃も
「国際法違反」と考えざるをえません。

もちろん、東京空襲、日本各都市空襲、広島、長崎への原爆投下が「国際法上合法」と考えるのであれば、それは一つの考え方ですし、実際にアメリカは「合法」と主張しています。

いずれにしても重慶爆撃が、都市爆撃と焼夷弾とを組み合わせ、民間人を殺傷し、戦争遂行の戦意を挫くことを目的とした戦略爆撃であった、という事は否定できません。

前記、前田哲男氏作成の「都市無差別爆撃の先例としての重慶爆撃」意見書(甲A5)によると

東京空襲と重慶爆撃との関連について、Ⅰ「空の戦争」の誕生、Ⅱ日本における航空主兵理論の生成と展開、Ⅲ重慶爆撃の実態、Ⅳ「重慶爆撃」と対日都市爆撃との項目の考察、論証をなし、以下を結論としています。

① 重慶に対する日本軍の空襲は、都市無差別爆撃の先例として世界に開示された。そこは臨時首都であったので、米・英・ソ連などの在外公館が設置されており、また多くの外国特派員も駐在していた。したがって、空襲の実態は即座に各国政府およびメディアにより(日本を除く)世界に伝達された。イギリスのチャーチル首相が「ゲルニカの暴虐」を対独地域爆撃に利用したように、ルーズベルト大統領も、中国諸都市への爆撃 を「野蛮な日
本」イメージに転化させ、対日無差別爆撃の口実に使うことができた。

② 直接的にも、アメリカの空軍力運用に、それまでタブーだった対都市爆撃の戦略が 採り入れられ、それまで保有していなかった焼夷弾開発に進むのは、「真珠湾以後」ではなく「重慶以後」である。ついで、ヨーロッパでは自制した都市無差別爆撃を日本に対してためらうことなく実行した背景にはー遠因としての「人種偏見」、または直因としての「真珠湾攻撃」や「バターン死の行進」があったとしても、近因に「重慶爆撃」が介在していたことは 明らかである。

③ 1944年、B‐29爆撃機が完成すると、ただちに対日都市爆撃が推進された。6月から、四川省・成都周辺を発進地とする対日爆撃が開始されるが、初期の「昼間高々度精密爆撃」が効果不十分と判定されるや、指揮官は更迭され、ヨーロッパ戦線から転戦してきたカーチス・ルメイ将軍が、クレア・シェンノート将軍(中国空軍顧問として「重慶爆撃」を観察し、焼夷弾攻撃の有効性を政府に進言した人物) の助言を受けつつ、「夜間低高度無
差別爆撃」に戦術転換する。この変更にワシントン政府は一切口をさしはさまなかった。

これらの時系列的な対日観の醸成経過と政策決定過程を見ていくかぎり、「重慶に対する無差別爆撃が東京空襲の先行行為となった事実」は動かしがたい。すなわち、「重慶爆撃」が「東京空襲への道」となったものである。

以上のように前田氏は、「重慶爆撃」が「東京空襲への道」となったと結論づけています。

また同氏は「戦略爆撃の思想」でも

重慶爆撃とアメリカの日本都市爆撃は同根とし、「日本軍が重慶爆撃に当たって採用した戦術は、第二次大戦中および、それ以後の地域戦争において米軍が採用する原則とまったく変わりない。同時にそれは20世記後半の核抑止戦略の中に生き続けている思想とも同根のものである。

と指摘しています。

本来は、東京空襲も重慶爆撃も、そして原爆投下も極東国際軍事裁判が掲げた国際法に違反する犯罪行為に該当するもののはずです。

裁かれなかったのは、はっきり言えば国際政治上の力学によるものではないでしょうか?

ご判断は、ここまでお読みいただいたすべての方にお任せします。