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パール判事の判決文に「弁論主義」による解釈を加える事の是非

2017-06-12 19:30:28 | 近現代史関連
この文章は極東国際軍事裁判におけるパール判事の判決について

「南京事件」についての該当部分に対して「弁論主義」から考えるのは妥当か?

という趣旨についてのものであるということを、あらかじめお断りしておきます。


なぜ、そのようなことをわざわざ指摘するのかというと、ネットの一部にはこのような主張をする人物がおり
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-175.html

>ようするに、弁護側から数万の虐殺があったことについての否定がなされなかったから、その点については判事として裁判上のルールにしたがって認めざるを得なかったわけであって、検察側から提出された証拠をすべて認定したわけではありません。むしろ「検察の提示した十数万から数十万もの大虐殺とする証言や証拠に強い疑問を呈した」のです。数万の虐殺行為は事実関係を争われなかったのです。

>どうしても「弁論主義」というものを理解したくない(理解できない?)お方がいらっしゃるようです。

→それを鵜呑みにする一部ネトウヨもいるようなので

そもそもキミらは「弁論主義」って、なんだかしってるの?

ということを確認してみたくなったというのが動機となっています。


(以下は本文です)

とりあえず弁論主義というのは、判決の基礎となる事実に関する資料の収集・提出は「当事者の権能・責任」であるとする原則の事を指します。
なお、訴訟の開始や決対象の設定、判決によらない訴訟の終了などを当事者の意思に任せる処分権主義を含む場合もあります。

一応言っておくと、事実関係が、弁論主義により自動的に認定される事はありません。

弁論主義というのは要するに、裁判官が予断を持たないようにさせるための原則であり、また弁論主義は主に民事訴訟法上の原則です。

どちらかというと軍律法廷に近い性質も持つ東京裁判においては、立証責任は純粋に検察側にあるはずです。

弁論主義とはあくまでも立証責任が誰にあるかということを明確にするための原則で認識で間違いありません。

そもそも「極東国際軍事裁判」に対して、なぜ弁論主義が採用された、という事を前提とした主張をするのかが、まず理解できませんけど。


「東京裁判」は国際法を無視した裁判である、と主張していた方が随分といらっしゃったように思いますが(笑)。


弁論主義というのは、そもそも民事訴訟において採用される事がほとんどで、これは私的自治の訴訟上の反映とするのが通説とされています。

なお私的自治というのは

「個人の私法上の法律関係を、個人の自由な意思に基づいて律すること」

を言い、近代私法の一原理です。

さて、これには3つのテーゼがあります。

第1に、当事者が主張しない事実の扱いとして、その事実を当事者が主張しなければ、判断の基礎とすることはできません。

例えば、貸金返還請求訴訟の場合に、被告が既に弁済していることが証拠として認められる場合であっても、当事者が弁済の事実を主張していない限り、弁済の事実があったことを前提に判断をすることはできません。

第2として、当事者間に争いのない事実の扱いについてですが、当事者間に争いがない事実はそのまま判断の基礎としなければいけません。

再び貸金返還請求訴訟の例をあげると、被告が既に弁済していることが証拠上認められる場合であっても、「被告自身が未だ弁済していないという自己に不利益な事実を認めている」場合は、弁済をしていないことを前提に判断する必要があります。
ただし通説では、判断の基礎とされる「当事者間に争いがない事実」というのは「主要事実」であるとされます。
間接事実にかかわる証拠や自白については、たとえ当事者間に争いがなかったとしても、それがそのまま判断の基礎とされるわけではありません。

第3に、職権証拠調べの禁止というものがあり、事実認定の基礎となる証拠は、当事者が申し出たものに限定されます。

例えば貸金返還請求訴訟において、被告が既に弁済したか否か証拠上はっきりしない場合で、裁判所としては別の証拠があれば事実認定できると考えた場合でも、当事者が申出をしない限りその別の証拠を調べることはできません。

さて、そもそも「極東国際軍事裁判」に「弁論主義が採用されていた」というなら、その挙証責任がまず、主張している側にあるはずですが

仮にそれはおくとしても、例えば

「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らはたんに誇張されていることを言っているのであり、かつ退却中の中国兵が、 相当数残虐を犯したことを暗示したのである」という部分を持ち出し、パル判事は弁論主義の原則により自動的に事実認定しただけというのであれば

弁論主義によれば、当事者が事実を主張していない限り、その事実があったことを前提に判断をすることはできないわけです。

また、判断の基礎とされる「当事者間に争いがない事実」というのは「主要事実」であるとされます。

なぜ弁護側は

南京において「日本軍により」残虐行為が行われたとの事実を否定しなかったのでしょうか?

少なくとも、この点において「当事者間に争いがなかった」以上は、「主要事実」として認定されます。

また当事者(日本側)が事実を主張していない限り、その事実があったことを前提に判断をする事はできませんから、逆にいうと弁護側も、その事実を認めた(否認しなかった)という事になってしまいます。

以上2点だけをもってしても、パル判事は弁論主義の原則により自動的に事実認定しただけ、という主張は成立しません。少なくとも弁護側が事実関係を否認しなかった事は、結果のみから見ても、疑う余地がないからです。

仮に他の方から反論らしきものがあったとして

「極東国際軍事裁判」に「弁論主義が採用されていた」というなら、その挙証責任。

なぜ弁護側が、南京において「日本軍により」残虐行為が行われたとの事実を否定しなかったのか、根拠をあげての説明。

少なくとも、この2つについて、第三者を納得させられるような主張がなければ、特に対応しませんので、ご了承ください。