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「為替差益」による「慰安婦高給説」について

2017-06-25 19:36:32 | 近現代史関連
「慰安婦問題」について、ネットでは

例え 慰安婦の人達がビルマで王宮のような暮らしで有ったとしても
奴隷の様な暮らしであっても
そこで得た報酬を祖国に持ち帰れば幾らになるのか?・・(為替)

そのお金で 家が買えたのか? タバコ1箱しか買えなかったのか?・・(物価指数)

「為替」を検証することは彼女達の「報酬」であり
「物価指数」を検証することは時代を考えることになる。
東京の銀行頭取は「高給取り」ですが 
戦時中は物価狂乱と物不足で生活困窮したから
「銀行頭取は高給取りでは無い」とは結論が出せないと言う事

というように「慰安婦高給説」ともとれる発言をする方もいらっしゃるようですので、ここでは専門家の見解を紹介した上で、あえて皆様のご判断に任せたいと思います。

経済学者である堀和生氏の論文より
http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html

>日々書かれたこの日記には、慰安婦と慰安所従業員・経営者の貯金、預金、送金の話が頻繁に出てくる。この件に関して、経済史研究者として若干コメントしておく必要を感じる。というのは、慰安婦の経済的地位について、「将軍以上のより高収入」とか、「陸軍大臣よりも、総理大臣よりも、高収入であった慰安婦のリッチな生活」いう俗説が流布されているからである。
この日記には慰安婦や従業員が野戦郵便局(軍隊酒保内部に設けられた軍専用の郵便局で、郵便、貯金、軍事郵便為替を業務とする)で貯金や送金をする話がよく出てくる。金額は200~600円が多いが、1,000円を越える例もある。慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局の対象が軍人と軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦と慰安所従業員は軍属待遇であったことを確認できる。
そもそも、日本占領時代の南方(東南アジア地域)において円は全く使われていなかったにもかかわらず、この日記中の貨幣単位はすべて円である。このことがもつ意義を理解するには、あらかじめ戦時期南方の通貨決済システムを理解しておく必要がある。

(中略)

1941年11月「南方外貨表示軍票」が決定され、日本軍は円表示ではない、占領現地通貨表示の軍票を発行した。たとえばマラヤ・シンガポールであれば海峡ドル、ビルマはルピー、フィリピンはペソ等、多種類の軍票が使用された。1942年設立の南方開発金庫はこの軍票発行業務を受け継いだが、ここで発行された南発券も現地通貨表示である。券面のどこにも円やYENの表示はないが、日本人はこれらを皆「円」とよんでいた。日本側が代価となる物資を提供することなく、日本軍や日本商社がこの軍票によって現地物資を「買収」調達したので、経済の原則どおりすぐにハイパーインフレーションが起こった。1941年12月を100とした物価指数は、44年末にシンガポールは10,766、ラングーンは8,707まで急騰した。東京126、京城132のような日本帝国の中心地域とは全く異なる、異次元の経済空間がつくりあげられた(日本銀行調査『日本金融史資料』第30巻)。このようなハイパーインフレが日本内地・朝鮮に波及しないようにするには、先述のように資金移動を完全に遮断する必要がある。
1942年6月南方総軍軍政部総監部「本邦向送金取締規則」では、「南方占領地域に在りては軍政部の許可を得くるに非らざれば本邦(内地、朝鮮……)への送金を為すことを得ず。」として、南方と日本との貿易以外の資金移動を厳格に遮断する制度を設けた。しかし、この占領地通貨システムにはいくつも問題点があった。その一つは、この資金移動を管理するのは軍政当局であったが、資金移動に関わる主体も軍なのであった。軍の財政は臨時軍事費特別会計であり、一律円によって処理される。物資調達のみでなく将兵の給与も円で支払われる。ところが、支払われる円は南方現地では使えない。朝鮮・台湾・満州では問題にならないが、ハイパーインフレが起こっている地域では、様々な不都合が出てくる。まず、現地物資を調達するために、帳簿上の日本円を、急激に価値が下落している現地通貨(軍票・南発券)に換えねばならない。一方で、現地軍当局は現地の運営は現地通貨(軍票・南発券)を使っておこなう。他方で、日本が南方から資金移動を制限するといっても、軍将兵・軍属が日本内地の留守家族に送金したいという要求を抑えることはできない。1945年8月時点に南方に展開した日本軍将兵は83万人、満州を除く中国では122.4万人という膨大なものになった(旧厚生省援護局調)。このハイパーインフレ地域から、日本への資金移動を制限管理するのが軍であり、送金という資金移動を求めるのも軍人・軍関係者であった。制度上の送金制限額はしだいに圧縮されたが、許認可が軍当局であれば実際には軍関係者の送金は止められない。1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。その内実はつまびらかではないが、軍上層部も関わった合法・非合法の送金も相当に含まれていたと想像される。許可する主体が送金するのならば、当事者の規制はあまり意味を持たない。将兵の給与額自体は変化がないのであるが、乱発された軍票を、為替レートが導入されていないので、1軍票単位(ビルマはルピー・シンガポールは海峡ドル)は日本1円という原則を利用して、大もうけしようとする軍関係者もでてくることは必然である。こうしてインフレが日本に流入する道が開かれた。
この事態に直面した大蔵官僚は、これらインフレ資金の内地流入を防ぐべく知恵を尽くしてさまざまな制度を設けて対応した。占領地からの資金流入の封殺措置として、送金額の制限圧縮、強制現地預金制度、送金額に一定比率の負担を課する調整金徴収制度、預金凍結措置等が次々と導入された。最後の預金凍結とは、送金分を外貨表示内地特別措置預金と内地特別預金に分割し、そのうえ内地特別預金でも月々の引き出し額を厳しく規制するものであった。1945年5月華中華南の事例でいえば、送金者は送金額の69倍を現地通貨現地預金とさせられ、内地預金として受け取れるのは外貨表示地預金のわずか1/69にすぎなかった。南方地域についても、内地(朝鮮を含む)に送金しようとする資金については、一部は外貨表示内地特別預金として凍結され、残りを内地特別措置預金としてその引き出しを管理する措置が実施された。このように日本に流入した資金を封鎖することで、資金の「浮動化」の阻止がはかられた。(東京銀行編『横浜正金銀行全史』第5巻(上) 1983年 第7部。柴田善雅『占領地通貨金融政策の展開』日本経済評論社 1999年 第15章)。ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない。このように占領地域から日本への送金には様々な規制があり、預金凍結措置によってその引き出しには厳しい制限が加えられていたことだけは確かである。
このような日本占領地におけるハイパーインフレの実態、内地送金の規制、日本円との交換制限等の問題は、多くの旧軍人や引き揚げ者が実際に体験しており、終戦直後には広く知られていたことであった。また、学問的には1970年代に原朗氏(原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会 2013年、第3章。論文の初出は1976年)によってそのメカニズムが明らかにされ、近年は柴田善雅氏や山本有造氏の精緻な研究(柴田善雅 前掲書、山本有造『「大東亜共栄圏」経済史研究』名古屋大学出版会、 2011年 第Ⅱ部)によって、両地域間の物価乖離の中で固定相場を維持した運用の実態が解明されてきている。ところが、そのような研究成果による知見は、南方の従軍慰安婦問題を考えるときには活かされていない。

この日記が作成された慰安所は、軍兵站部酒保の管理下にあったが、完全な軍機関ではなく軍組織と民間にまたがる領域に存在していた。性サービスの提供については軍が管理していたが、日々の生活で慰安所は市場に依拠しなければならない面もあった。慰安婦や慰安所経営者・従業員はハイパーインフレのなかで生きているのであり、そこは軍事費特別会計の円や物資配給が支配する領域ではない。このように慰安所は、日本帝国内で将兵の給与はどこでも同一であるごとく完全に統一されている軍の内部経済と、ハイパーインフレが進行している外部経済にまたがって存在していた。慰安所が兵士から受け取る花代は日記史料では円と書かれているが、実際はすべてルピーや海峡ドル表示の軍票(あるいは南発券)であった。そして、日本内地の円貨表示の水準でルピーや海峡ドル軍票を支払われても、それでは現地では到底生きていけない。これが、インフレ下で生きる慰安婦達の名目上の収入膨張が発生するメカニズムである。この日記によっても、慰安婦達の個別の収入全体は把握できない。ビルマにいた慰安婦の収入を確実に補足できる史料は、先に名前の出た文玉珠さんの事例である。1992年文玉珠さんが来日し日本政府に強く要求した結果、熊本貯金事務センター(現在、戦前の軍事郵便貯金を管理している機関 現在はゆうちょう銀行に移管)は、彼女の軍事郵便貯金通帳の貯金実績一覧を公表した(帳簿自体ではない)。これによって、ビルマにいた慰安婦の収入状態が明らかになった。文さんの場合、1943年3月6日からビルマの日本統治が崩壊する45年5月23日までに25,846 円が貯金されている。マンダレー駐屯慰安所規定」(1943年5月26日 駐屯地司令部)の遊興料金表は、兵士30分1円50銭であった。彼女が先の収入をこの遊興料金(花代)で稼ごうとすると、稼働日や経営主の取り分を考慮すると、1日平均100人をこえる兵士を相手にしなければならない計算になる。もちろん、それはあり得ないことである。慰安所にも休業日もあり、将兵が全く来ない日もあったことは日記によく出てくる。連日フル稼働などということは不可能である。それが意味するとことはただ一つ、文さんの貯金は日本内地の円貨ではない、ハイパーインフレで価値が暴落しているルピー建ての収入であったということである。それが具体的にどのように彼女の手にはいったのかまではわからない。南方の慰安所は、日本軍の内部経済とハイパーインフレのなかにある軍外の現地経済にまたがって存在していたために、慰安婦達の収入にはこのような名目上の膨張が生じた。このようなハイパーインフレ下の見かけの収入額をもって、秦郁彦氏(2013年06月13日TBSラジオ番組「『慰安婦問題』の論点」)のように慰安婦が「日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたと評価することは、過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている。

慰安婦が慰安所での稼働で一定の収入を得ていたことは事実である。しかし、この収入の成果を享受する条件があったかどうかは別の問題である。

(引用ここまで)

私見として言わせてもらうと

そもそも「為替差益」により利益を得ることが出来るのは
「送金を受けとることが出来た側」であって、慰安婦自身は、その恩恵を受けることは(その時点では)出来ません。

そして、慰安婦が「高給」を得られたかどうかも別の話です。

百歩譲っても、その収入は名目上の膨張であり、かつ送金という資金移動も、その多くは軍人・軍関係者でした。

仮に慰安婦本人が恩恵を受けたとしても、それこそイレギュラーなケースだったと見ていいでしょう。

この件をもって「慰安婦高給説」というのは筋違いのように思います。