《初級》
一.日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 (経王殿御返事・新編六八五)
二.今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益 有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事なるべし。此の妙法の大曼陀羅を身に持ち心に 念じ口に唱へ奉るべき時なり。
(御講聞書・新編一八一八)
三.有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心ある ものは成仏すべし。 (新池御書・新編一四六一)
四.行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法は あるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。(諸法実相抄・新編六六八)
五.総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。
(生死一大事血脈抄・新編五一四)
六.何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。「毒気深入、失本心故」とは是なり。
(曽谷殿御返事・新編一〇四〇)
七.夫浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云ふ。これをさとるは法華経なり。 (上野殿後家尼御返事・新編三三六)
八.末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。
(諸法実相抄・新編六六六)
九.一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。
(開目抄・新編五二六)
十.在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり。 (観心本尊抄・新編六五六)
《中級》
一、深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべ し。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。
(一生成仏抄・新編四六)
二、願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみ こそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。 (持妙法華問答抄・新編三〇〇)
三、日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。 (開目抄・新編五六三)
四、正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し、智者は麟角よりも希ならん。月を待つまでは灯を憑むべし。宝珠のなき処には金銀も宝なり。白烏の恩をば黒烏に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。 (祈祷抄・新編六三〇)
五、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。(観心本尊抄・新編六五三)
六、此の経をきゝうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども「憶持不忘」の人は希なるなり。受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり。(四条金吾殿御返事・新編七七五)
七、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。 (報恩抄・新編一〇三六)
八、在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。 (松野殿御返事・新編一〇五一)
九、今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり(上野殿御返事・新編一二〇六)
十、種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり。南無阿弥陀仏は仏種にはあらず。真言五戒等も種ならず。能く能く此の事を習ひ給ふべし。 (秋元御書・新編一四四七)
《上級》
一、只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし。 (持妙法華問答抄・新編二九六)
二、相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。(生死一大事血脈抄・新編五一五)
三、一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。 (草木成仏口決・新編五二三)
四、諸天善神等の此の国をすてゝ去り給へるか。かたがた疑はし。而るに、法華経の第五の巻、勧持品の二十行の偈は、日蓮だにも此の国に生まれずば、ほとをど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は 提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。経に云はく「有諸無智人、悪口罵詈等」「加刀杖瓦石」等云云。 (開目抄・新編五四一)
五、我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時 はわするゝなるべし。 (開目抄・新編五七四)
六、一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。 (観心本尊抄・新編六六二)
七、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。 (諸法実相抄・新編六六六)
八、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏 果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。 (当体義抄・新編六九五)
九、然るに日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。(当体義抄・新編七〇一)
十、問うて曰く、迦葉・阿難等の諸の小聖、何ぞ大乗経を弘めざるや。答へて曰く、一には自身堪へざるが故に。二には所被の機無きが故に。三には仏より譲り与へざるが故に。四には時来たらざるが故なり。問うて曰く、竜樹・天親等何ぞ一乗経を弘めざるや。答へて曰く、四つの義有り。先の如し。(曾谷入道殿許御書・新編七八〇)
十一、法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。 (妙一尼御前御消息・新編八三二)
十二、此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門下の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。 (兄弟抄・新編九八六)
十三、釈尊より上行菩薩へ譲り与え給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。 (曾谷殿御返事・新編一〇三九)
十四、法華経と爾前と引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。 (常忍抄・新編一二八四)
十五、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。 (法華初心成仏抄・新編一三一六)
十六、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」「不受余経一偈」と無二に信ずる故によて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。 (日女御前御返事・新編一三八八)
十七、根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流れ長しと申して、一切の経は根あさく流れちかく、法華経は根ふかく源とをし。 (四条金吾殿御返事・新編一三九一)
十八、天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。 (諌暁八幡抄・新編一五四三)
十九、戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。
(三大秘法禀承事・新編一五九五)
二十、此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。 (三大秘法禀承事・新編一五九五)
〈日興遺誡置文〉
一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。 (新編一八八四)
二、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶ふべからざる事。 (新編一八八四)
三、未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事。 (新編一八八四)
四、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如敬仏の道理に任せて信敬を致すべき事。 (新編一八八四)
五、謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。 (新編一八八五)
〈化儀抄〉
一、貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦い人愚癡にして等閑有りとも、我は其の心中を不便に思うべきか、之れに於いて在家・出家の不同有るべし、等閑の義をなお不便に思うは出家、悪く思うは在家なり、是れ則ち世間・仏法の二なり。 (聖典九七三)
二、手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云云。 (聖典九七四)
三、行体行儀の所は信心なり妙法蓮華経なり、爾るに高祖・開山の内証も妙法蓮華経なり、爾るに行体の人をば崇敬すべき事なり云云。 (聖典九七四)
四、信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中八億四千の念あり、念念中の所作皆是れ三途の業因と文。 (聖典九七七)
五、門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を乖背せらるる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり。(聖典九八三)
〈①.八相作仏〉
釈尊の生涯の中で主要な八つの事柄。
①下 天 兜率天からこの世に降下すること。
②託 胎 母摩耶夫人の胎内に宿ること。
③出 胎 ルンビニー園に誕生すること。
④出 家 修行のため王宮を出ること。
⑤降 魔 悟りの障害となる魔を打破すること。
⑥成 道 菩提樹下において悟りを開き仏となること。
⑦転法輪 衆生のために種々の説法をし、教化すること。
⑧入涅槃 拘尸那掲羅において涅槃に入ること。
〈②.五逆罪〉
人倫や仏道に逆らう五種の極悪罪のこと。一つでも犯すと無間地獄に堕ちる。
①殺 母 母親を殺すこと。
②殺 父 父親を殺すこと。
③殺阿羅漢 阿羅漢を殺すこと。
④出仏身血 仏の身体を傷つけて出血させること。
⑤破和合僧 教団の和合一致を破壊し、分裂させること。
〈③.三災七難〉
三災には、世界の破壊期に起こる大の三災と、世界の存続期に起きて人々を滅ぼす小の三災がある。
大の三災
①火災 ②水災 ③風災
小の三災
①穀貴 穀物の不作。飢饉のこと。
②兵革 戦争のこと。
③疫病 伝染病・流行病のこと。
七難は、戦争・内乱・天災などの七種の災難をいう。『薬師経』『仁王経』『法華経』などに説かれているが、それぞれ名目に異同がある。ここでは『薬師経』の七難を挙げる。
薬師経の七難
①人衆疾疫難 伝染病・流行病により多くの死者が出る難。
②他国侵逼難 他国より侵略される難。
③自界叛逆難 自国に内乱が起きる難。
④星宿変化難 彗星や流星が現われたり、星の運行に異変が生じる難。
⑤日月薄蝕難 太陽や月の異常現象の難。
⑥非時風雨難 季節はずれの暴風雨などの天候異変による難。
⑦過時不雨難 雨季に入っても雨が降らない難。
〈④.三因仏性〉
成仏するための三つの要因のこと。
①正因仏性 すべてのものに本来具わっている真如の理、すなわち仏となる本性のこと。
②了因仏性 真如の理を照らし顕わす智慧のこと。
③縁因仏性 智慧を起こす縁となるすべての善行のこと。
天台大師は三因仏性を土中の金に譬えている。金が土中に埋まっている状態を正因仏性、土中の金を知ることを了因仏性、雑草を取り、金を掘り出すことを縁因仏性に譬えている。
〈⑤.六難九易〉
法華経の見宝塔品第十一に、例を挙げて仏の滅後に法華経を受持することの難しさを明かしたもの。九易自体は大難事であるが、仏の滅後に法華経を受持・弘通する六難に比べれば易しいことを教示したもの。
六 難
①広説難 仏の滅後に悪世の中で法華経を説くこと。
②書写難 仏の滅後に法華経を書き写すこと。
③読誦難 仏の滅後に悪世の中でしばらくの間でも法華経を読むこと。
④潜説難 仏の滅後に一人のためにも法華経を説くこと。
⑤問義難 仏の滅後に法華経を聴聞し、その義趣を質問すること。
⑥奉持難 仏の滅後によく法華経を持ち奉ること。
九 易
①法華経以外の無数の経を説くこと。
②須弥山を他方の仏土に擲げ置くこと。
③足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げること。
④有頂天に立って無量の余経を演説すること。
⑤手に虚空・大空を把って遊行すること。
⑥大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること。
⑦枯れ草を背負って大火に入っても焼けないこと。
⑧八万四千の法門を演説して、聴く者に六神通を得させること。
⑨無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通を具えさせること。
〈⑥.五十二位〉
菩薩が菩提心を発こして修行し、仏となるまでの段階(位)を五十二に分けたもの。十信・十住・十行・十回向・十地の各十位と等覚・妙覚の二位をいう。
五十二位には、別教の五十二位と円教の五十二位があるが、六即と円教の五十二位との関係を図示すると次のようになる。
〔六即〕 〔円教の五十二位〕
理 即
名字即──┐
観行即──┴─── (滅後の五品の位)
相似即────── 十 信
┌─ 十 住
├─ 十 行
分真即────────┼─ 十回向
├─ 十 地
└─ 等 覚
究竟即────── 妙 覚
〈⑦.五戒〉
仏教信者が守るべき五つの戒めのこと。
①不殺生戒 生き物を殺さないこと。
②不偸盗戒 盗みをしないこと。
③不邪婬戒 邪な婬行をしないこと。
④不妄語戒 嘘をつかないこと。
⑤不飲酒戒 酒を飲まないこと。
〈⑧.十善戒〉
世俗の人の守るべき十の戒めのこと。
①不殺生戒 五戒に同じ
②不偸盗戒 五戒に同じ
③不邪婬戒 五戒に同じ
④不妄語戒 五戒に同じ
⑤不綺語戒 いつわり飾る言葉を用いないこと。
⑥不悪口戒 悪口を言わないこと。
⑦不両舌戒 仲違いさせるようなことを言わないこと。
⑧不貪欲戒 貪ることをしないこと。
⑨不瞋恚戒 瞋らないこと。
⑩不邪見戒 邪な見解を懐かないこと。
〈⑨.三毒〉
人間の心を毒する貪、瞋、癡の煩悩をいう。
①貪欲 貪りの心。
②瞋恚 瞋る心。
③愚癡 事物の理に迷う愚かな心。
〈⑩.三惑〉
苦果を招き、仏道修行を妨げる三つの煩悩をいう。
①見思惑 見惑と思惑のこと。見惑とは真理に迷う思想上の偏った見解。思惑とは物事を見て起こす本能的・感情的な妄想のこと。
②塵沙惑 菩薩が衆生を教化するために断じなければならない実際の相に暗い無数の煩悩をい う。
③無明惑 非有非無の理に迷い、中道の障りとなる煩悩のこと。等覚から妙覚に至る最後の無明を元品の無明という。
〈⑪.四苦八苦〉
人生の苦悩の根本原因である生・老・病・死を四苦に、次の四苦を加えて八苦という。
①愛別離苦 愛する者と別れる苦しみ。
②怨憎会苦 怨み憎む者と会わなければなららない苦しみ。
③求不得苦 求めても得られない苦しみ。
④五陰盛苦 五陰(色・受・想・行・識)が盛んになって生ずる苦しみ。
〈⑫.十八界〉
感覚的・知覚的認識を六根・六境・六識の三つに分類したものをいう。六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)とは身体にある六つの感覚能力および器官をいう。また六根それぞれの対象を六境(色境・声境・香境・味境・触境・法境)といい、六根が六境を認識するはたらきを六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)という。この六根・六境を併せて十二処といい、さらに六識を加えたものを十八界という。
〈⑬.五味〉
牛乳を精製する五段階の味のこと。天台大師はこれを釈尊一代の説法にあてはめて、五時教判を説いた。
①乳 味 生乳そのもの。 (華厳時)
②酪 味 生乳を精製したもの。(阿含時)
③生酥味 酪より精製したもの。(方等時)
④熟酥味 生酥を精製したもの。(般若時)
⑤醍醐味 熟酥を精製したもの。(法華涅槃時)
〈⑭.五眼〉
『大智度論』に説かれている五つの眼力のこと。
①肉眼 肉身に具わる眼。
②天眼 天人が所用している眼。遠近内外昼夜の別なく見る。また未来の生死を知る能力がある。
③慧眼 一切の現象は空であると達観し、その理を見抜く二乗の眼。
④法眼 菩薩が一切衆生を救うために一切の法門を照らし見る眼。
⑤仏眼 真理のすべてに徹して一切に観ずる仏の眼。他の四眼もことごとく具足する。
〈⑮.四土〉
四種の仏土のこと。
①凡聖同居土 裟婆世界や極楽世界のように、凡夫と聖者が同居する住処。
②方便有余土 方便道を修して見思を断じ、いまだ塵沙・無明の惑を残す二乗、菩薩の住処。
③実報無障礙土 分々の無明を断じ、一分の中道を悟った菩薩の住処。
④常寂光土 一切の煩悩を断ち、真理を悟った仏の住処。
一、正しい仏法を教える折伏の必要性
折伏とは腐敗堕落した世の中を正していく、日蓮大聖人が御指南される日蓮正宗の伝統的な修行です。世の中における腐敗堕落の原因には、主師親の三徳に報恩申し上げ、敬っていく姿を失っているところにあります。つまり、主人と師匠と親に対する気持ちが形骸化し忘れられているからであります。
折伏では、この腐敗堕落の根本的原因である、主師親の三徳を敬う気持ちを教える大切な修行です。 宗祖日蓮大聖人は、末法の御本仏として後世の私達に欠けている主師親の三徳について余すところなく御教示下さっております。それが「御書」として残され、正しい師匠について御相伝の上から、御書を正しく学び勉強していくところに、主師親の三徳を学んでいくことができます。
主師親の三徳については、世界でも日蓮正宗でしか教えていません。世間一般の教育施設学校では、教えない教義が日蓮正宗では七〇〇年間伝わっており、折伏という形で布教し知らない人に教えています。
折伏は、親に対する感謝の気持ちを育てていきます。現在の日本は、親を親とも思わない風潮が、末法の様相として現証がはっきり出ております。親を親とも思わない背景には、若者を釘付けにする思想や間違った宗教・仏教を信じ信仰するところにあります。
仏教に親しみのない方には、理解しにくい面がありますが、永い歴史のなかで無意識のうちに命に染み付いた謗法の垢であり、日蓮大聖人は厳しく糾弾されています。今ではその間違った思想・考えが、特に若い世代において根強く入り込んでいます。まさしく正しい仏法を学んでいない証拠です。唯一正しい仏法を教えていく行いが折伏です。
折伏は、私達における不幸の原因を根元から取り去る行為です。不幸の原因を折り伏していくということです。それが折伏です。
日蓮大聖人は『開目抄』に、
邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす
(御書五七五頁)
と仰せであります。主師親の三徳を忘れた邪な智慧をもった者、謗法といわれる正しい仏法を無視し破壊する者には、間違った考えをもった人に正しい仏法をもって、折り伏していく折伏が大事であるということです。
折伏をしないで、自分だけの成仏を願っている人は、知らぬ間に主師親の三徳を忘れた謗法の人から、謗法の考えを貰いやすい気持ちと体質になっていることを知るべきです。折伏によって、防非止悪といわれる非を防ぎ悪を自他共に止めていくことができます。自ずと折伏をしなければ自分の成仏が危ういことを気付くことが大事です。謗法与同罪になり、我が身が無間地獄に堕ちないよう折伏を行じていくことが折伏を行う理由です。我が身の信心を外部(謗法)から護るために折伏が必要であります。折伏をしなければ純粋な信心が周りの謗法の害毒に汚染されることになります。皆様の純粋な信心が濁らないように折伏をしていき、信心に精進する同志をたくさん増やしましょう。
二、折伏は何気ない自然の対話からはじまる
現在の折伏は、邪宗教の大きな影響もあり非常に難しくなっています。難しいなかでも地道に折伏を行うことが大切です。
いきなり相手に折伏をしても実りにくいため、相手をよく知り理解することがまず大事です。そのなかで自然と信頼関係もでき、相手に折伏しやすい気持ちと心の準備が出来上がることでしょう。
何気ない自然な対話とは、普段皆様が話している会話です。この会話のなかへどのように折伏につなげるかであります。
まず日蓮大聖人は五義といわれる教機時国教法流布の先後を御指南であり、相手をよく理解する上でどのような教えに基づいて生活し人生観はどうであるか(教)、性格や生活習慣はどうか(機)、どのような場合、どのような時に一番話しやすく聞き入れやすい時か観察し(時)、どのような生活環境に生き・仕事場での立場など理解し(国)、相手の現在の立場や今までの人生を対話のなかで知ることが重要です。
肩の荷を下ろし自然な話しのなかで、さり気なく相手の状況を把握しましょう。
以上の理解なくして折伏を成果につなげることは不可能であります。五つの義を心得て自然の対話のなかで常に折伏できる瞬間を伺うことです。
創価学会の方には「折伏教本」をもって対話をしましょう。
三、折伏では成仏する種を植えよう(下種)
折伏したいという人を見つけて、幸せにしてあげたいという気持ちを持つことが大切です。折伏をする下種の対象者は、信心をしていない日蓮正宗以外すべての人が対象になります。折伏する人がいないという人は、視点をかえてみましょう。
特に話しやすい人から慈悲と熱意を持ち折伏します。弱腰な姿勢を見せることなく日蓮大聖人の末弟である自覚を持って折伏することです。
下種とは幸せになる種を信心していない人の心に植えることです。具体的には、御題目の南無妙法蓮華経を聞かせて御本尊様の素晴らしさを教えることです。確信を持って御題目の南無妙法蓮華経を唱えていけば必ず幸せになると訴えることです。
成仏の種を実際に植えられるのは寺院で御授戒を受けることにより本当の下種ができます。ここでの下種は御題目を聞かせるという意味です。折伏は御本尊様に御題目を唱えることで幸せになることを教えます。
四、一人が一人の折伏を
御法主日顕上人猊下は「一年に一人が一人の折伏を」と御指南であります。最低でも一年に一人を法華講員であれば折伏していかなければ地涌の菩薩としての自覚が足りません。
自分一人では折伏できないという人や不安な人は、法華講の役員の人などに相談して折伏できるように勤めます。法華講の役員の方では難しい場合、住職に相談して折伏が成就するように心がけます。折伏すべてを他人に頼ることなく、どうしてもという困難に直面した時に相談することです。また自分一人では抱えきれない問題にも接する可能性があります。大きな問題に発展する前に相談することも必要です。折伏の方法が解らない人は折伏経験豊かな人に色々と聞くことが大事です。試行錯誤して折伏をすることなく法華講の折伏経験者から豊富な知識を多く得ることで一人が一人の折伏成就につなげることができます。そして勤行唱題根本に精進することです。
五、勤行唱題なくして折伏は成就しない
勤行唱題により自らの姿勢を正すことで、折伏を成就させることができます。また勤行唱題を知らなくては相手に勤行唱題を教えることもできません。そのために勤行唱題なくして折伏は成就しないのであります。
御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで折伏を成就させる力と知恵を御本尊様から頂くためにも勤行唱題は欠かせません。この力を付けるために折伏をする上で勤行唱題が必要であります。
勤行唱題では広宣流布の御祈念を中心に考えて唱えることが大事で、地涌の菩薩の眷属として自覚を持って唱えます。勤行唱題をすることで折伏する相手・対話のなかで知り得た相手の立場が御本尊様を通して更に見えてくるはずです。相手の立場をよく理解するために勤行唱題をして折伏成就につなげることができます。
毎月行われる第一日曜日(午前九時)の広布唱題会はまさに折伏を成就するための大事な唱題会です。全国一斉に同じ時間唱題会を寺院において行うことで日蓮正宗僧俗の意識を一つにし広宣流布達成を目指して行われる唱題会です。広布唱題会には必ず参加しましょう。
六、勤行唱題の姿勢
折伏は朝夕の勤行唱題を基本に御本尊様へのお給仕を欠かさず、その姿勢を間違いなく折伏する相手に教えられるように朝夕の勤行唱題とお給仕は重要です。
御本尊様に向かう時は、気持ちを落ち着けて冷静になり、雑念を一切払うことが大切です。姿勢は正座をして両手に御念珠をして合掌し、その手は胸の当たりであわせます。背筋を曲げることなく伸ばし、あごを引き、足を崩すことなく姿勢を維持することが勤行唱題では大事です。足がしびれて痛くても我慢することが大切です。我慢することで忍耐力や忍辱の衣を御本尊様から頂くことができます。その痛さを忍ぶことが、人生を生きていく上での辛さを乗り越える力が養われます。その痛さが本来受けるべき痛みが和らげられることになり転重軽受されていきます。
御経文がまだ暗唱できない人は、御経本を見ながら正確に発音して読みましょう。暗唱できる人は御本尊様の「妙」の一字や「南無妙法蓮華経」の文字を拝して唱えます。
信心をしてすぐには完全に暗唱できる人はいません。人間誰でも生まれてすぐに歩くことができないように、はじめは勤行唱題が習慣化するまで慣れません。 持続することで自然と勤行唱題ができるようになります。とにかく繰り返すことです。赤ちゃんも歩けるようになるまでに無我夢中で歩こうとします。この気持ちが勤行唱題に必要であり、勤行唱題に関わらず信心において初心の気持ちを維持する上で大切な要素になります。勤行唱題ができるようになれば自分自身の幸せと成仏につながることを更に信じ怠ることなく毎日持続することです。
正しい勤行唱題の姿勢を身に付けるには、寺院に参詣し広布唱題会に参加したり、寺院の勤行にも住職の姿勢を見て真似ることが大事です。我意我見で勤行唱題を身に付けることなく、正しい勤行唱題の姿勢を身に付けましょう。その姿勢を身に付けることで折伏相手に勤行唱題を正しく教えることができます。
七、家庭訪問の心得と折伏姿勢
日蓮大聖人は『教行証御書』に、
雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猿き事なるべし。弥身口意を調へ、謹んで主人に向かふべし、主人に向かふべし(御書一一一〇)
と主人に向かう折伏の姿勢・心得を御指南であります。家庭訪問でも、身口意の三業を調え姿勢を正し、日蓮大聖人の弟子として地涌の菩薩の自覚を持ち訪問することが大事です。
家庭訪問の心得として注意するところは、自分自身の生命力が弱っているときや感情が高ぶり、身口意の三業が乱れているときは避けるべきです。勤行唱題で歓喜に満ちた生命力を漲らせ、相手の心を動かす生命力で訪問し折伏と教化育成をすることです。
また家庭に訪問をする「時・時間帯」ということが大切になります。節度を保ち常識のある行動を心得て、家庭訪問すべき時を考えていくべきです。基本的な節度と常識が損なわれると、法を下げることになり逆効果です。逆縁を結ぶことは出来ても、確実な成果に結び付けることは出来ません。人間関係が気まずくなる訪問は避けましょう。仕事中や食事中など他に取り込んでいる時は、集中力と注意力が散漫し信心の話しを聞き流され、相手の心に信心の素晴らしさを残すことが出来かねます。相手の立場と心の状態もしっかり見つめていきましょう。勤行唱題が出来ていれば見えるはずです。
家庭訪問における教化育成は、御本尊様が御安置されていれば、まず「御題目を唱えさせて頂けますか」とお願いすることが大切です。そして御仏壇を拝見させて頂き、信心状態を把握していくことが必要です。過去帳が毎日めくられているか、御仏壇の汚れ具合やほこりの着き具合をさり気なく、御題目を唱えさせていただく時、不快感を与えないように観察することで、その家庭の信心状態に大凡の察しがつくでしょう。
更に話しの中で、はじめは今日の天気の事を話し始めたり、お互いにリラックスした話せる雰囲気つくりが大事です。この雰囲気つくりが後々大きな効果をもたらします。次に差し障りのない世間的な話題や家族のこと、お子さんに法統相続出来ているか、そして四苦八苦という人生の苦しみに直面していないか伺い、一緒に考える一時を持つことが大事です。そして日蓮正宗の化儀化法を教えながら、人間関係を深め家庭訪問における教化育成を円滑にしていきます。また相手に不快感を与えないように話しをし、さり気なく家庭の状況を聞くことが好ましいです。一回の訪問で全て行おうとせず、「一年に一人以上の折伏」の御指南を心得、一年間じっくり時間をかけることが必要です。
そして寺院参詣の大切さや総本山大石寺登山のこと、日蓮正宗の機関誌である大日蓮や大白法を通して対話を持つことが大事でしょう。
家庭訪問での教化育成は、長い目をもってじっくり時間をかける必要があります。あせらずに気長に行うことで相手の発心を育て、一人でも立派に信心できる姿勢が出来上がります。家庭訪問は歓喜を持ち、更に訪問する家庭に「歓喜」を施し明るさを与える「抜苦与楽」の修行であります。