人は生きていく時、知識が必要です。知識がなければ生きることは出来ません。人は本能的に無意識のうちに学んで知識を身に付けています。これを身に付けよう、あれを身に付けようと、その都度、確認をして知識を身に付けることは少ない方です。興味のあるものには、直ぐに飛びつく性質を持っているのが人間です。本能的に行うところが多いことでしょう。ここがまた危険なところであり、注意しなければいけません。この本能的な部分を有効に活用すれば、勉強は苦になりませんが、現実問題として難しい面があります。また善悪を識別しない知識には、人道から脱線する可能性があります。
日蓮正宗の信心は、この善悪の知識を正しく判別し、仏様の眼を御本尊様から頂いて現実を冷静に判断し、生活を有効にするよう説かれた教えです。その修行が勤行唱題にあります。知識の中にも「善知識」と「悪知識」があります。『御講聞書』に、
「末法当今に於て悪知識と云ふは、法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人々なり。善知識と申すは日蓮等の類の事なり。総じて知識に於て重々之(これ)有り。外護(げご)の知識、同行の知識、実相の知識是なり。所詮実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり。知識とは形を知り、心を知るを云ふなり。是即ち色心の二法なり。謗法の色心を捨て法華経の妙境妙智の色心を顕はすべきなり。悪友は謗法の人々なり。善友は日蓮等の類なり云云」(御書1837)
と説かれていますように、仏教においても善知識と悪知識があります。御題目を御本尊様に唱えるところに最高の善知識を得ることが出来ます。謗法の知識が悪知識となり人々の心を迷わす原因になります。悪知識を正して、善知識を教えていく行が折伏です。世の中を混乱させる悪知識は折伏によって消滅させることが出来ます。そのため折伏は重要であります。
世の中には悪知識に心身が汚染された人は多くいます。外見は悪知識に染まっていないようでも、心の方が悪知識に浸かっている人や、心は悪知識に染まっていなくても、周囲の影響で外見が悪知識に浸っている人、心身両面が悪知識にどっぷり浸かっている人と悪知識の汚染のされ方も生活環境や縁する人によって千差万別です。折伏では悪知識の染まり具合を入念に分析することが大切です。
知識も善と悪の判断基準を持ち合わせていませんと非常に危険です。法統相続でも教えることが大事ですし、自分自身にとって迷いや悩みの種になり、三毒強盛となって心身を害する要素を秘めています。『富木殿御返事』に、
「諸の悪人は又善知識なり」(御書584)
と仰せのように、「人の振り見て我が振り直せ」という悪人の言動を真似ないよう、善知識と考えるように御指南です。これも法統相続では必要です。
正しい善悪の知識を判断する基準を得る唯一の場所が、日蓮正宗の寺院です。寺院で行われる永代経や御講の御住職様による御法話を聴聞することで正しい知識を得ることが出来ます。特に仏法における善知識と悪知識といわれる正邪を判別する教えは日蓮正宗以外にはありません。お寺へ参詣して正しい知識を身に付け、生活を安泰にしていきましょう。
『開目抄』に、
「願兼於業(がんけんおごう)と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かた(形)のごとく其の業を造りて、願って地獄に堕ちて苦しむに同じ。苦に代はれるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし。当時の責めはたう(堪)べくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり」(御書541)
と「願兼於業」について日蓮大聖人は御教示であります。「願(ねがい)、業を兼(か)ぬ」と読みます。「願兼於業」は四弘誓願(しぐせいがん)における衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)です。世の中には、自ら進んで地獄の苦しみを経験し、その経験を活かして悩み苦しんでいる人達を、救おうという人は非常に稀であります。それが「願兼於業」であります。願兼於業を私達に化儀化法の形で、具体的に大慈大悲の上から御指南下されたのが、宗祖日蓮大聖人であります。
日蓮大聖人は、末法である現代の仏様として、私達が経験する苦悩(四苦八苦)を我が身に全て受けられ、更に様々な大難小難を体験された上から有り難い教えを残されました。文証理証現証という三証から「御書」という書物に残されたのであります。御書が「願兼於業」の御一代記です。この御書を私達の心に刻み、信心に励むところ願兼於業の一分を拝することが出来ます。
信心をしていて、様々な苦難や法難にあう意味には、願兼於業が含まれます。苦難や法難にあうことで、マイナス思考になることなく、信心が更に向上し善知識であるプラス思考と、苦難と法難を考えることが大事です。そして地涌の菩薩という自覚に立ち、苦難を乗り越えるわけであります。人生の苦難と法難で経験したことが、成仏において大切な仏果に結びつきます。
「願兼於業」はプラス思考の眼力を高め、仏様になるための必要不可欠になる修行です。ふつうは好き好んで悪業をつくることを忌み嫌います。信心をしていても、棚ぼた式の御利益主義になりやすいですが、順境に甘んじることなく、更にその順境をあえて退け、願って悪業をつくることが願兼於業です。
過去世においてあらゆる功徳に満足した人は、最終的に他の迷える人を救済しようという願望に変わります。それが「願兼於業」という衆生無辺誓願度です。真の地涌の菩薩における誓願であり願望であります。
『御講聞書』に、
「四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外(ほか)には所詮無きなり」(御書1862)
と仰せでありますように、御題目の南無妙法蓮華経を唱える以外に、苦悩に喘ぐ人々を救うことが出来ません。
信心をして四苦八苦などの苦難を経験し、日蓮正宗の信心をもって克服していくことで苦難に彷徨う、世の中の人達を折伏して救っていくことが出来ます。自他共に幸せになる願いが「願兼於業」です。寺院に御安置されております御本尊様に、御題目を唱えるとき個々の様々な苦難は消滅され、我此土安穏な境遇にかわります。
『法華取要抄』に、
「然りと雖も略開近顕遠・動執生疑の文に云はく「然(しか)も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て、若し是の語を聞かば、或は信受せずして、法を破する罪業の因縁を起こさん」等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に堕せん等なり」(御書753)
と仰せであります。「動執生疑」は法華経の従地涌出品第十五にある、低い教えに満足し、更に上の教えを信じ難い声聞縁覚等の執着心を打ち破るものです。動執生疑とは、拘(こだわ)っている間違った教えや邪な仏教に執着している心に疑いを生じさせ、正しい仏教に目覚めさせることです。
私達の正法を教える布教・折伏では、動執生疑を起こさせることが大事です。全く宗教や仏教に理解のない人に、あまり必要ありませんが、爾前権教という低級な教えに固執している人には、動執生疑を起こさせる必要があります。折伏では、動執生疑を誘発させるまで非常に悪戦苦闘します。
動執生疑を起こさせる「時」というのがあります。必要なことは折伏する相手を分析する観察眼と私達の振る舞いです。そして動執生疑が起きやすい時を見逃さず、正法の鉄槌を加えることです。観察眼を勤行唱題で磨き、動執生疑の起こりやすい時を狙って折伏することです。
動執生疑が起こりやすい生まれやすい時とは、相手が必ず人生において経験する「四苦八苦」を見逃さないことです。家庭訪問では、人間関係を徐々に深めつつ、動執生疑を起こしやすい時を見計らって、一気に世間的な話題から信心の話に持っていきます。例外もありますが、人間関係が深くなっていれば聞く耳を持ちます。人間関係という土台があやふやであれば敬遠されます。親友と呼ばれるような関係まで、作り上げていることが理想的です。家庭訪問は、人間関係を深めることが大切です。さり気なく相手が不快に感じない時を、見定めて訪問することがまた折伏成就の近道です。五義という時を知り機を知ることです。
その反面、時と場合により謗法厳戒(ほうぼうげんかい)・破邪顕正(はじゃけんしょう)の精神をもって強折する必要もあります。その時の状況に応じて、御本尊様を信じ御題目を唱えていけば、その時が見えることを信じます。
『佐渡御書』に、
「仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時によるべし」(御書578)
と御指南でありますように、摂受と折伏を心得ていくことが大事です。末法は折伏が主でありますが、『開目抄』に、
「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす、常不軽品のごとし」(御書575)
と御指南のように、人の性格や育つ環境によって、摂受と折伏を使い分けていくことが望ましいと仰せです。時を無視し、摂受と折伏を間違えますと、動執生疑は起こらず折伏は成功しません。
この動執生疑を起こさせるコツを折伏で磨けば、生活の場や仕事場での相手を納得させる交渉術に活用し応用できます。まさしくそこに信心即生活の法則があり、それを身に付ける大切な道場が、日蓮正宗寺院の御本尊様在す本堂です。
日蓮大聖人は『崇峻天皇御書』に、
「孔子と申せし賢人は九思一言とて、こヽのたび(九度)おもひて一度(ひとたび)申す」(御書1174)
と外道である儒教の孔子でさえも、九回も思い止まって慎重に言葉を選んで話しなさいと言っているのであるから、尚更、仏法を信ずるものは言葉を選んで話していきなさいという御指南です。
人間は、「一言」で人生を棒に振ることもあり、何気なく発した言葉には相手の受け止め方により千差万別です。相手を十分に知って慎重に話していくところに「我此土安穏」があります。日々の勤行唱題は、「九思一言」を心がける信心が大切です。『十字御書』に、
「わざわいは口より出でて身をやぶる」(御書1551)
と御指南であります。災(わざわ)いは、口から出て私達の身を破っていくと仰せです。「口は禍(わざわい)の門 舌は禍の根」という諺もありますように、六根の舌根によって身を滅ぼすことがあります。
信心は、「六根清浄」を得る功徳があります。口からわざわいが出そうな時は、御本尊様の御前で唱題することを心がけましょう。そこにまた煩悩即菩提の意義があり、掛け替えのない成仏の因を積むことが出来ます。同じ口から出す言葉でも、話す言葉の内容によって人生を大きく左右するものです。勤行唱題根本に、言葉を選んで生活していくことが「九思一言」です。
私達の迷いの根源である貪瞋癡の三毒が強盛になりますと、九思一言を忘れる傾向があります。三毒の貪瞋癡を感じたときに、一歩踏み止まり御題目を心で三唱して冷静になり言葉を選んで振る舞うか、三毒の感情にまかせて思ったことを率直に言葉に出すかで未来が変わります。出来れば良い方向に変えたいと思うのが常でしょう。しかし、言わなければ気が済まないと言う人も居られるでしょう。言葉の内容にもよりますが、日蓮大聖人の教えにそった姿で話すことが大事です。我見や我慢偏執からくる言葉には後味が悪いものです。
「九思一言」は、貪瞋癡の三毒を正しい方向へ扱う時に大切なことです。貪る気持ちや瞋る命、愚癡を変毒為薬させる作用が「九思一言」にはあります。三毒が、私達の表情に出るときは、意識せず無意識のうちがほとんどです。ここに十分注意し、九思一言を実行することが大事です。九思一言は外道で説く教えですが、日蓮大聖人は『法門申さるべき様の事』に、
「外道の法と申すは本(もと)内道より出でて候」(御書431)
と御指南のように、外道の教えは内道である仏教から出ているということです。長い歴史の中で、様々な形で仏教は伝わってきております。更に低い教えも法華経という最高の経典に会入されることで、本来の意味が活かされます。難しくなりますが、相待妙と絶待妙という法門によって低い教えも本当の意味を持ちます。
私達は毎日の生活において、御本尊様を信じるところ勤行唱題を根本に「九思一言」を心がけていくことが大切です。その心がけが人間関係を円滑にし、成仏の境界、常寂光土へと着実に向かいます。
「病は気から」という諺もありますように、気の持ちようによって、気の緩みから、病気は起こります。信心は、病にならないよう事前に心の準備を調えるものであり、また、すでに病になっていても、病から立ち直って御本尊様を信じ境界を高めることが信心です。信心によって人間に本来具わっている自然治癒力を高めます。それが仏様の生命を御本尊様から功徳として頂くことになります。
お医者さんも見放してしまう病を、信心によって自ら治し、克服した例はいくつもあります。信心で自然治癒力を向上させ、免疫力や抵抗力を高めます。自然治癒力などを高めるには、病気に悩むことなく悲観的にならず、病気のことを忘れ、未来に希望を持ち、更に「歓喜」という喜びが大切です。前向きになり喜ぶことで、私達の脳内から様々な病を治療する物質を放出します。それが自然治癒力であり、仏様の生命の一分です。御本尊様を信じ御題目を唱えるところに、その力が生命に涌現されます。「歓喜」という歓びを感じるところに仏界は涌現されます。
日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(御書1801)
と仰せであり、『御講聞書』に、
「題目を唱へ奉る者は心大歓喜せり」(御書1844)
とも仰せであります。御題目の南無妙法蓮華経を御本尊様に唱えるところ、心に大歓喜が呼び起こされます。唱題中は、楽しいことを心にイメージし、人生に生き甲斐を見出していくことが大切です。人生に目標や目的、生き甲斐を持つところに大歓喜を呼ぶ要素があります。大歓喜を呼ぶ基礎をつくる修行が勤行唱題です。
日蓮大聖人は『太田入道殿御返事』に、
「法華経に云はく『少病少悩』云云。止観の第八に云はく『若し毘耶(びや)に偃臥(えんが)し疾(やまい)に託して教を興す、乃至如来は滅に寄せて常を談じ、病に因って力を説く』云云。又云はく『病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病(や)む、二には飲食(おんじき)節せざる故に病む、三には坐禅調(ととの)はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む』云云。大涅槃経に『世に三人の其の病治し難き有り。一には大乗を謗ず、二には五逆罪、三には一闡提(いっせんだい)。是くの如き三病は世の中の極重なり』云云」(御書910)
と仰せであり、御本尊様を持ち御題目を唱えれば、病は少なく悩みも少なくなることを御指南です。更に病が起こる因縁も天台の摩訶止観を引用され仰せです。
『妙心尼御前御返事』に、
「病によりて道心はおこり候か」(御書900)
と仰せであり、病気になって信心に目覚める場合があります。持病や病気に悩んでいる人は、御本尊様から大歓喜を頂き、病気を治す絶好の機会であります。道心という信心の気持ちを起こすところに病は必ず治ります。信心を持ち、病気が絶対に治るという確信を持つことで、仏様の命が私達の心に躍動します。毎日の勤行唱題には自然と病を治す力が秘められています。それが信心です。
私達は、信心する上で御本尊様に「正座」をし「合掌」をすることが基本です。素朴な疑問ですが、信心に縁の薄い方には生まれる疑問ではないでしょうか。正座をし合掌するという姿勢は、気持ちを落ち着かせ冷静になる一番の方法です。「禅定」を得る近道であり、御本尊様から智慧を頂きやすい姿勢が「正座」と「合掌」になります。この姿勢を持ち体を動かさずに、不動を持つところ、御題目を朗々と唱えれば「歓喜」が呼び起こされ、人生の迷いや悩みを払拭させることが出来ます。更に道が開かれることになるわけです。
日蓮大聖人は「合掌」について『御義口伝』に、
「合掌とは法華経の異名なり。向仏とは法華経に値(あ)ひ奉るを云ふなり。合掌は色法(しきほう)なり、向仏は心法なり。色心二法妙法と開悟するを歓喜踊躍(かんぎゆやく)と説くなり。合掌に於て又二の意之有り。合とは妙なり、掌とは法なり」(御書1734)
と御指南であります。両手を合わせる「合掌」には、「歓喜」という喜びを呼ぶ働きがあります。「正座」について『守護国家論』に、
「散心(さんしん)に法華を誦(じゅ)し禅三昧に入らず。坐立行一心(ざりゅうぎょういっしん)に法華の文字を念ぜよ」已上。此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり。散心とは定心(じょうしん)に対する語なり。誦法華とは八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目・一心一念随喜(ずいき)の者五十展転(てんでん)等なり。坐立行とは四威儀を嫌はざるなり。一心とは定の一心にも非ず、理の一心にも非ず、散心の中の一心なり。念法華の文字とは此の経は諸経の文字に似ず、一字を誦(じゅ)すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり」(御書138)
と妙楽大師の弘決を引用され、正座をすることで乱れた心(散心)をおさえる働きがあることを御教示であります。
つまり「正座」と「合掌」をすることで、悪道の因縁を断つことが出来ます。御本尊様に正座と合掌する習慣を毎日持つことで、生活が快適になるわけです。更に自分自身の心の中が明らかに見えるようになります。長所や短所など、客観的に見たときの自分自身が、気持ちを落ち着けたとき見えてきます。見えたら成仏に向かって、自分自身の人格を直しながら、自分の理想的な人格を日蓮大聖人の御指南にそった形で作り替えていきます。気持ちを落ち着かせ心を柔和に持ち、正座をし合掌して唱題することで実現します。常日頃の振る舞いも自然と変わってきます。正座と合掌するところにその全てが具わっております。
御本尊様に向かって「正座」をし「合掌」するときは、御念珠をすることを心がけましょう。御念珠は、修行で積んだ功徳を貯金する大切な金庫です。御念珠の房にある壷に功徳が貯まります。御念珠をかけることで、私達の心の迷い煩悩が間違った方向へ行かないよう食い止め、更にその煩悩を活用して人生を優雅にしてくれます。そのため御念珠をすることが大切です。
お寺へ参詣の際は必ず御念珠を持参し、更に御経本も袱紗(ふくさ)に包み持参しましょう。御念珠は「常自随身(じょうじずいしん)」という常に肌身離さず持つことが望ましいとされています。