史報

中国史・現代中国関係のブログ

地方の人材養成と社会再建

2012-06-29 07:22:10 | Weblog

宣朝慶「地方の人材養成と社会再建――民国郷村建設運動の中で長く軽視されてきた問題」

宣朝庆「地方人才培养与社会重建———民国乡村建设研究中长期轻忽的一个问题」『天津社会科学』2011年第4期 http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/05/d20120509222537131.pdf

-----------------------------------------------

1 地方の人材――農村再建の基礎と希望1

 中国農村社会の基本モデルは、まさに費孝通が『郷土中国与郷土重建』で描き出しているように、郷村は長老(紳士)と伝統によって秩序が維持されている、閉鎖的で独立した、地域的な社会であり、横暴な権力は儒家の思想と土地利用の境界の制限を受けており、上から下への政治のルートは県の役所までしか敷設されず、政府の統治は「無為にして治める」に任せて、郷村は自立と「自治」を得ることができていた。こうした状況の下では、主に郷村の土地と人口の組み合わせや構造が、その地域社会が繁栄するかどうかを制約している。近代以来、中国は中央の王国から世界システムのメンバーへと転換するに伴って、農村社会の地域制、閉鎖性の生存の構造は次第に解体され、世界の生産分業のシステムに強制的に引き込まれただけではなく、近代国家の高度な集権的制度および規則を受け入れなければならず、内外の二重の作用で農村社会は「天は皇帝よりはるかに高い」という優越性を失い、生存の環境は極端に悪化し、これに伴う郷村の手工業も崩壊、労働力は流出、金融の欠如は、農村経済の落ち込みと社会の解体をもたらした。農村を救うために、かつて学者は、農業社会が工業社会に転換すると、自ずと「都市が農村を救う」という連帯の効果が生み出されると希望を寄せていたが、半封建・半植民地社会である古い城鎮や執行の都市は、むしろその天性として農村から離れる傾向を有している。古い城鎮は政治的な堡塁であると同時に非工業の産業の中心であり、それは郷村と経済上の相互扶助の紐帯を持たなかった。開港都市ではじまった新しい工商業都市は、生産と生活の点で海外市場に重く依存しており、本国の農産品を市場に提供するだけではなく、さらに農村の手工業を圧迫した(费孝通:《乡土中国与乡土重建》,台北,风云时代出版公司,1993年,第61~72、105~127页)。農村社会の生存環境の危機に対して、国人はマクロな観点からいくつかの考え方を提出した。ひとつは革命の手段を通じて、政権をてこに農村が西洋の資本主義の環境から受けている状態を変えることで、独立と生存の機会を獲得するというものである。二つには技術を追求し、新しい社会組織と先進の科学技術を導入し、農村の社会組織と生産力を改進することである。三つには土地制度改革を行い、生産関係の変革によって生産力の上昇を図るものである。1920~30年代において、国人はこれらの考え方の実行可能性について様々な実験と探索を展開し、晏陽初、梁漱溟を代表とする中国郷村建設派は、技術追求派の代表である。彼らの郷村建設は、農民が伝統の閉鎖的で、村落を基礎として生計を立てる生活から、積極的に外部の現代政治、経済、文化、社会生活への参加へと転換することを支援して、生活の質の改善という目標を達成しようとするものであった。工業化、資本主義市場の経済グロバール化の発展という大きな背景の下、これは止む得ない選択であったというだけではなく、重要な変化のチャンスでもあった。
 外部の圧力の下で、一つのシステムが組織形態の改変を通じて新しい発展の方向を確定したことは、きわめて自然なことである。しかしある社会システムについて言うと、こうした要求の実現には条件があり、その中で最も重要なのはさまざまな人材をを生み出すことで、様々な発展のルートのなかから選択を行って、外からの挑戦に対応できるようになることである。伝統的な農村の現代的な農村への転換で、必要とされるのは現代の経済、政治、社会制度と付き合っていく外向型の人材なのである。これに比較して言えば、伝統農村社会の領袖となっている人物および人材は、その多くが紳士や地主階級から来ており、彼らは中間人として村落以外の世界と交流していたが、この生産組織の外に遊離していた階級は近代以来農村社会を指導する活力をすでに失っていた。例えば陶希聖が観察していたように、「帝国主義勢力が中国に侵入して以降この身分階級は既に破壊と紊乱の時期に陥っており」「一部は帝国主義や軍閥にくっついて生存を図り、一部は苦しむ民衆の中に落ち込んで、生業も学問も失い、次第に士大夫階級の特徴を消失している」(陶希圣:《中国社会之史的分析》,岳麓书社2009年版,第26、42頁)。構造的な社会の流動性のなかで、少数の優秀な層が西洋式の教育体制によって都市に行き、教育、文化、法政、行政、実業などのそれぞれの世界に移った者を除けば、大部分は兵士になったり、会党に入ったり、あるいは「孔乙己」のような失業者に転落した。農村のなかの「失業失学」の「孔乙己」たちが苦力として笑われる対象となった以上、それではどこで農村を指導する責任を担うのであろうか。この後、保甲制度が遂行されるに従って、農村のエリート階層は次第に流民化し、土豪劣紳が村長、保長を担うようになり、農村社区の転換を指導することは根本的に不可能であった。
 人材の欠乏は、農村社会建設の最大の障害となっていた。このため、李景漢は定県の社会調査を行った後に、こう呼びかけている。「郷村の間の人民の知識は単純で、才能と道徳を兼ね備えた人が村民の領主となっていなければ、何も規模の大きな事業を起こすことが不可能である。しかし明らかな理由は、才能のある人の大半は郷村の中で奉仕することを嫌がり、農村のなかの優秀な人たちもみな都市に行ってしまっている。これと農村を改革する事業は大きな関係がある。いかに郷村のリーダーを養成し、そして郷村の元々の人材を引き留め、そして有用な人にすすんで郷村のなかで働いてもらうことは、目下非常に注意・研究すべき問題である」(李景汉:《住在农村从事社会调查所得的印象》,《社会学界》
1930年第4卷第4期)。郷土中国について言えば、社会の転換が大規模な地方の人材の流出を招き、近代化に必要な時期には地方の更生・再建の準備のために相応しい人の力という基礎を失っていた。この深刻な問題と土地制度、外部環境などの構造的な条件は、1920~40年代の農村に幾重にも重なった危機をもたらしている。この時、郷村建設の運動家で社会学者である楊開道は、前向きに(前瞻性地)こう指摘している。「中国の農村はもし一群の平民のリーダーを得て、『田畑の中で』実際に仕事をさせることができなければ、おそらく20年、40年以降も苦境から脱することはないだろう。農村のリーダーの地位は実に重要なものであり、農村リーダの必要性はまさに切迫している」(杨开道:《农村领袖》自序,世界书局1930年版)。激しく変化する外部環境に対応するために、郷村社会は地方の人材を養成する道を歩まなければならない。ここから、教育体制を改革し、農村建設の人材を養成するための掛け声が日に高まっていく。晏陽初などの人々は、郷村の建設と実践を組み合わせ、この方面で20年にも長きにわたる探求を行い、一定の成果を上げてきたのである。


2 郷紳を超えて――地方のために現地で平民の人材を養成する

 晏陽初の人材養成計画は、「中華平民教育促進会」(以下「平教会」と略する)で郷村の平民教育から郷村建設実験への転換したことに始まる。当時、各種の社団組織が大きな勢いで出現していたが、経済の協同組合組織を除けば、息訟会、戒賭会、互助会、婦女会など、民衆的な団体が、廟会、鼓会、香会などの旧式の農村組織に取って代わり、農民が社区の管理に参加して、外部世界と接触する重要な媒介となった。新型の社団の発展は、組織を立ち上げ、指導し、協調していく責任を負う、大規模な人材を必要とするものであるが、伝統的な郷紳は身分と格調を保持するために、直接的に新しい社団の運営に参加するよりも、旧式の組織の中でリーダーを担い、場所や経費などの支援を提供することで既に高い風格と節義を示せることを好み、より多く新型の社団活動にけちをつけて阻害することになった。こうした状況の下では、すべての協働の事業が、平民学校の卒業同窓会を中心的な力(骨干力量)としていた。平民教育の簡単な訓練を受けただけであったため、同窓会のメンバーは実際の活動のなかでの処理能力が一般的に高くなく、活動のやり方も粗雑であるという問題が存在し、そのことが郷村建設事件に対して意見を持つ何人かの人士による批判を招くことになった。「同学会は質の良し悪しがばらばらで、大部分は無業のならず者であり(有業者は平協会に取り合っている暇などないから)、受けている教育は非現実的で大げさなものであり、その性質を結局のところ傲慢でわがままな気性に作り変えるものである・・・そこで同学会は村の政治に干渉して権力と利益を争って奪い、劣悪な分子が着に乗じて暴虐をほしいままにし、郷里を食い物にしている」(李明镜:《平教会与定县》,《独立评论》1933年第79号)。ここで明らかなのは、幹部の素質が低いことが定県民衆の郷村建設運動に対する不満を既に生み出していることである。こうした状況の下で、郷村建設に賛成する人士は、これらの青年が比較的強い組織性と活動の能力を持ち、奉仕と犠牲の精神を有し、教育、政治、経済において彼らに活路を与えることを重視しなければならない、と提案されていた(衡哲:《定县农村中见到的平教事业》,《独立评论》1932年第51号)。人材の質の問題が郷村建設事件に影響を与える重大な問題になっていることを考慮して、晏陽初や傅葆琛などは人材養成のシステムを探求し、新しい農村社区の人材を養成し、幹部の質の問題を解決していくことを決断していく。郷村建設の運動家たちは、歴史上の農村における人材の隊列は主に郷紳・地主の階層から出ているが、郷村建設の人材の隊列の養成は、必ず平民の青年を中軸にすべきであると考えていた。晏陽初が指摘するように、「農村の中の青年の農民は、郷村活動を推進する中心的な力」なのであり(宋恩荣编:《晏阳初文集》,教育科学出版社1989年版,第77页)、農村建設が成功するためには、必ず農村青年の養成に希望を寄せるべきであって、「今日の農村運動の主要な目標は、農村の青年男女を特に重視しなければならない」(晏阳初:《农村运动的使命》,中华平民教育促进会,1935年,第5頁)。郷村建設の新しい要求に適応するために、こうした青年に対する新式の教育を実行しなければならなかった。こうした養成を通じて、これらの青年の俊才は三つの点における素質を備えるべきものとされていた。「一つには、専門的な学識であり、二つには創造力であり、三つには世の中に適応する能力(应世手腕)である」(宋恩荣编:《晏阳初全集》第1卷,湖南教育出版社1989年版,第306页)。「应世」は事実、開放された時代における農村が必要とする人材の基本的な要求であり、それは人間関係の交流を通じて身に付ける社交のルールや社会の規範において表現されるだけではなく、知識体系と観察問題、分析問題という観点においても表現されるものであった。
 こうした指導理念の下で、定県は高級平民学校を設立するだけではなく、その他の短期的な訓練で郷村建設の人材を養成し、さらに視線ははるか遠く、現代の高等教育体制の農村の人材育成の面における改革を探求した。大学を利用した農村人材の養成という主張は、提示されるとすぐに広い範囲から異論を受けることになった、これは主に、当時の中国の大学生がエリートの人材として、その総数は三万人あまりに過ぎず、大多数の学生は修文学、法学、理学、医学、工学を学び、農業科の人数はきわめて少なかく、彼らの卒業後の大多数の希望は都市に留まって仕事をすることであったからである。たとえ少ない農業科の学生が農村に帰ったところで、実践に取り掛かる能力は欠けており、農村に深く分け入って農業科学を普及させる素養と精神にも欠けていた。しかし、晏陽初は「農村運動は偉大なものであり、必ず大学を基礎とすることで、安定で堅固なものにしなければならない。・・・・大学に次々と絶えず農村建設の人材を養成することができれば、この運動の発揚は広大なものになるだろう」(宋恩荣编:《晏阳初文集》,第168页)。
 この時に「平教総会」の郷村教育部主任を任されていた傅葆琛も、こうした心配は完全に必要ないものであり、大学教育のシステムを利用して農村の人材を養成することは、一定の社会心理的な基礎があると、楽観的に考えていた。そうした郷村出身の学生は、家族や郷里観念の関係のために、郷村に帰って仕事をし、家と郷里のために力を尽くすという夢を持っている。大学はこうした求めに適応し、適切な訓練を与えて、彼らに郷村社会の改革事業の任に堪えさせるべきである、という。傅葆琛はさらに、農村の人材が緊急に必要されているなかで、その一部は必ず大学の文化的な水準を身に着けているべきであると教育界に注意を呼びかけ、その中には教育人材、社会奉仕の人材、体育および衛生の人材、農業技術の人材などが含まれているとしていた。このため、大学教育は近代以来の、都市に設けられて学生が農村を認識し、農村に献身するのに不利であった状況を改変し、農村の近くに資源を配置して、農村の専門的な人材を養成する学校を農村に設置すべきであり、さらに要求に応じて、それに加えた各種の郷村の科目を設けて、郷村建設に適合した大学の教育課程のシステムを打ち立てなければならなかった。
 傅葆琛は12種類の主要な科目を詳細に計画している。

 ・・・・・・・・・・・・・


4 比較と討論――郷村建設経験の普遍性およびその意義

 短期間の訓練である、郷村師範教育や郷村建設専科学院から大学の郷村建設系の設立に至るまで、晏陽初などの人は十数年の独力を経て、孜孜として農村の人材養成のシステムの完成を模索し、当時における「知識人は郷村の目線に立てない(知识分子下乡难)」ことと、農村の人材が欠乏している問題を有効に解決しようとした。戦乱や政局などの外からの干渉や騒乱を受けたけれども、彼らはなお部分的に実績を獲得し、現代農業の科学技術の知識を養成し、農民と農村の基本問題を了解し、現代民主主義の議事のプロセスを理解する人材の隊列が、現在の新しい農村建設のために残した最初の貴重な経験である。特に注意しなければならないのは、この個人の養成システムは閉鎖的なものではなく、現代教育システムの外で自主的に作り出されたものであり(自创一套?)、開放的なもので、とくに現代教育事業の発展と、現代教育方法の創造的な運用に依拠し、農業の人材養成と現代教育システムとをうまく組み合わせたことである。これは現在の農村の人材養成に志を持つ者が軽視することができないものである。こうした歴史的経験は、1950年代後に国際的に承認あるいは模倣されるようなった。国民党が敗れて台湾に行った後、晏陽初は政治的見解が合わなかったため、アフリカの発展途上国に行って彼の農村社会改造の経験を推し広め、国際平民教育運動委員会を創設し(その後晏氏郷村改造促進会に改称)、そしてフィリピンで国際郷村改造学院を成立させ、現地の農村人材を養成し、郷村建設を展開し、晏氏に特色ある郷村建設が国際社会で大きな異彩を放つようになっている。しかし、時がたち状況が変わり、完全な農村人材養成システムは、結局のところ回復することはなかった。

 ・・・・・・・・・


-------------------------------------------------

 前にも訳した宣朝慶の郷村建設運動の論文。宣朝慶は南開大学に所属する社会学者で、『泰州学派的精神世界与郷村建設』という著作がある。http://www.bookschina.com/4751725.htm

 民国期の郷村建設運動において、在地リーダーの育成が喫緊の課題となっており、そこで共通して直面していた問題は「土豪劣紳」の克服であった。晏陽初などはここで描かれている通り、平民教育促進会や大学などの外部の機関で人材を養成することを目指したのに対して、梁漱溟は農村のなかで人望のある人を発掘していく方法を選択した。前に訳した論文は晏陽初のエリート的な方法論の矛盾を問題にしたものだったが、今回先見の明があったという少々凡庸な結論になっている。