日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

【特集】日本と亜細亜~大東亜戦争【シリーズ】第二弾「美麗島の高砂」

2017年12月17日 13時36分41秒 | 歴史
日本と亜細亜の闘いの特集第二回は台湾です。

美麗島とは台湾のポルトガル語における古称・フォルモサ(Ila Formosa/美しい島)の訳語であり、台湾独立運動派の中には好んで使う方々もおられる。
現在、台湾を実効支配しているのは「中華民国」という政府であり、台湾人にとっては「中華民国」(国民党)「中華人民共和国」(共産党)も侵略者に過ぎないのだ。

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台湾という島は古来、様々な先住民族が暮らす島で中世には漢民族や日本人、オランダ人やスペイン人も来訪し貿易や海賊の拠点として知られた。

1662年、日本人と漢民族の血を引く鄭成功はオランダが築いたゼーランディア城を攻略し、台湾の地にはじめて国家といえる政権を立てたが成功の死後、数十年続いて清朝の版図に取り込まれた。



しかし、清朝からは「化外の地」(統治外の蛮族の地)と扱われ長くまともな開発も行われなかった。

近代になり欧米列強や近代化した日本を目にして本格的に開発され始めたが、1895年の日清戦争の結果、台湾は日本に割譲された。

しかし、大部分は未開のままで、国内の開発も行き届いていない日本では海外領土は手に余るもので「病人が馬を貰ったようなもの」と形容された。
清国の李鴻章も「日本はそのうち、この島はとんでもない悪い買い物であったと気付くであろう」と言った。



この時、台湾住民には日本への割譲を知らされておらず、日本人を恐れた。
台湾を日本に渡したくない清国の役人は「台湾民主国」を名乗り独立、彼ら抗日軍は「日本軍は婦女を暴行し、家屋の中を荒らし、田畑を奪う」と民衆に宣伝(プロパガンダ)したために台湾の民衆は日本軍を攻撃した。

日本軍の台湾平定は困難を極めた。
後の支那事変(日中戦争)でもそうであったように、民衆に紛れた清国人が占領地の後方で民衆を扇動して日本軍を攻撃したからだ。
対応に苦慮した日本軍は村々を焼き払ったために、かえって民衆を抗日軍の側に追いやってしまった。

台湾の扱いに悩んだ日本では欧米への売却論まで出る始末であった。

第四代台湾総督児玉源太郎(任期 1898年2月-1906年4月)は、「征服するのではなく統治をしにきたのだ」、とこれまでの戦時体制をやめ、鎮圧を前面に出した高圧的な統治と、民生政策を充実させる硬軟折衷の政策を実施した。

児玉将軍は内務省の官僚だった後藤新平(後の関東大震災復興でも活躍する)を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。また、1902年(明治35年)末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった。


(児玉源太郎)


(後藤新平)

可能な限り住民の伝統的風俗に敬意を表し、文明の路を強要するよりもむしろ、穏やかに指導することに気を配ったのである。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や、火災、洪水、その他自然災害から住民を守るために、古来から支那がつくっていた「平和兵団 (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したが、同時に日本の進歩的な「成文法」を導入している。
(註:むしろこの組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えている。)

1898年(明治31年)から1906年(明治39年)にかけて民政長官を務めた後藤は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施した。この間、台湾総督は六三法により「特別立法権」が授権され、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となっていた。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与した。
また、当時流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功した(阿片漸禁策)。

阿片常用者の治療(漸禁策)

阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪です。
けれど日本は、台湾の原住民に対しては、阿片常用を認められてきている限りにおいて罰しないものとしました。
日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法で、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも、阿片吸引の許容にも、阿片吸引の抑制にも利用したのです。
そして、公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみ、阿片を確保できるようにしています。

日本政府は、阿片供給をコントロールしながら、認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者に分け与え、警察は最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視しました。
そして同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えました。

医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に諭しました。
教師は皆、阿片常用者の不法性や、それがもたらすモラル低下を子供達に教えました。

台湾島の人口は、現在ざっと300万人です。
1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者でした。
1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていました。

17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いありません。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になっているからです。

財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましいものではありません。
なぜなら国家にとっては、阿片の制限は一面では深刻な収入減をもたらし、反面では阿片吸飲者の管理・監視のための経費増をもたらすからです。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足(てんそく)婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)

日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明しました。
最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなりました。


日本が変えた台湾 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2901.html

↑この記事でも紹介されているように1904年9月24日のロンドンタイムス、及び翌日のニューヨークタイムスでも台湾統治は絶賛されている。


(1904年9月24日のニューヨークタイムス)

1919年(大正8年)、台湾総督には初の文官出身である田健治郎が就任した。田は赴任する前に当時首相であった原と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表された。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、国家国民としての観念を涵養するものと述べている。

その後20年にわたり台湾総督府は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現した。また後藤の政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い、同化政策は具体的に推進されていった。

そして、時代は再び支那との戦争、そして欧米列強への抵抗に向かっていった。

日本は中国と戦争を行っていたことから、台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったが、兵力不足からやむをえず志願兵制、1945年(昭和20年)からは徴兵制度が施行された。

すると、上述の懸念を覆すように21万人もの軍人軍属が日本軍に志願したのである。

陸軍志願兵への倍率は、1942年から始まった応募受付第一回で倍率426倍、第二回で601倍を記録した。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)

同じく、日本領であった朝鮮でも24万人が志願して闘った。

まさに、日本・台湾・朝鮮は一体となった皇国として大東亜戦争を遂行したのである。

特に、最も激しく闘った部隊が「高砂族」と呼ばれていた台湾先住民族たちの「高砂義勇隊」であった。

「高砂族」とは台湾奥地で暮らしていた様々な部族の総称であり、先述の日本による台湾植民地化の過程で日本軍を苦しめた密林の荒武者である。

彼らは今度は日本のためにアジアのために、そして己の武勇の誇りのために戦場へ赴いたのである。


(高砂義勇隊)

彼らは世界最強の傭兵と知られた同じく密林の戦士であるネパール出身の英国のグルカ兵と互角に渡り合い、密林の知識で日本軍を支えた。

このようなエピソードがある。

ある高砂義勇隊員は、前線で飢餓に苦しむ日本人の戦友のため、自分自身も空腹であるにもかかわらず、山を越えて米を取りに行った。

そして前線に戻る途上で力尽き、死んだ。

背中に米50キロを背負ったまま。自らは一粒も手をつけることなく餓死していた。


高砂義勇隊の心 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-583.html

しかし、戦後の日本政府は日本国籍を喪失し日本人でなくなったとの理由で、元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかった。現在でも多くの未払給与があり、一部の人が弔慰金を受け取ったのみである。

1974年末にインドネシアのモロタイ島で発見された台湾人日本兵、中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)も、台湾原住民アミ族出身の義勇隊員である。彼の確認が、日本の世論において「高砂義勇軍」が話題に上った最初のきっかけとなった。彼の発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに関する世論の批判もおき、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払われたが、給与は現在でも未払である(以下の柳本の文献参照)。また、当時強制的に軍事郵便貯金とされた給与も引き出せなかったが、これは120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け取った。しかし平均1000円ほどの残高を所持し、当時としては大金だったのに120倍で引き出しても12万円にしかならない。これに抗議して、1996年6月に、日本大使館に相当する台北の交流協会を元隊員が襲撃する事件が起こった。現在でも、物価上昇を考慮すると、数年間の戦闘の対価としてはあまりに少額として抗議する元隊員も多い。

(高砂義勇隊 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8A)

戦友に対する何と冷たい仕打ちであろうか。

戦時中に高砂義勇隊を部下に持った元陸軍少尉は日本政府の薄情さに、「我々日本人の恥である。戦友として誠に忍びない。国が補償しないなら、俺がする。ほんの気持ちだ」と言って高砂義勇隊の部下20数名に10万円ずつ贈った。
これには元高砂義勇隊の方たちは皆涙し、そして、「この金を戴くわけにはいかない」と言って全額お返しになった。
(ちょっといい話。最強であった日本兵と高砂義勇兵とグルカ兵の話を知っておいてもいいのではないか https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/32160831.html?__ysp=44Kw44Or44Kr5YW1IOaXpeacrOi7jQ%3D%3D)

今からでも遅くはないから元台湾志願兵たちに十分な補償を行うべきである。

何故、日本政府は敵軍であるアメリカ軍人には媚びへつらい、巨額の思いやり予算を差し出し、アメリカ兵器を購入する予算を割くのに、台湾や朝鮮の元軍人軍属へ十分な補償を行わないのだろうか。

これこそ、戦後の「日本政府」と称するまがい物がアメリカの占領政府であり、皇国の政府ではないことの証拠ではなかろうか。

戦後、台湾は中華民国(中国国民党)の支配下に移った。

当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、中国大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、日本軍の代わりに台湾にやってきた国民党軍(国府軍)を見て、民衆は失望した。

1945年の第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が1945年10月17日に約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸して来た。その兵士達は鍋釜をさげ、薄汚れた綿入れを着込み、ほとんどが草履履きで素足のものもいて、隊列はだらしなく曲がり、だらだら歩いていた。

大陸から来た軍人・官僚は、当時の国共内戦の影響で(人格的にも能力的にも精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が罰せられぬことがしばしばあり、もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。
(二・二八事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

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中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。
しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。
ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。

国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。
しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。
それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。
ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。

そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。
更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。

日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。
その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。

敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。
私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージがものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。

不安な気持ちで一杯でした。

そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。
これはヒドイ!と思ったのです。
出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。
恐ろしい光景に見えました。

それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと思っていました。
それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。

まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。
今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。

女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。
台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。

(楊素秋著「日本人はとても素敵だった」)

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(国民党軍の末端兵)

彼らは身なりだけではなく、素行も悪かった。

国府軍は民衆に暴力を振るい、略奪をした。

さらに、行政公所の要職は新来の外省人が独占し、彼らの腐敗が激しく公共の資材が国民党官僚によって接収・横領され、横領された物資は、上海の国際市場で競売にかけられた。
そのため台湾の物価は高騰し、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、短期間のうちに失業も深刻化したのである。

日本統治時代の台湾では、厳しい同化政策(皇民化教育)などはあったが、不正は少なく、帝国大学も創設され、インフラストラクチャも整備した台湾の経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい汚職、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。当時の台湾人たちは、「何日君再来」(1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌)を歌ったり、「犬去りて、豚来たる(中国語:狗去豬來)」(意味:犬〔日本人〕が去れば、今度は豚〔国民党〕が来た。)と揶揄した(犬〔日本人〕はうるさくても番犬として役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみで役に立たないという意味が込められている)。

そして、1947年2月27日に事件は起こった。

その日、台北市の街頭に、ひとりの女性がいた。
彼女は闇タバコを販売していた。
戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩は、大陸から来た国民党が強制的に専売にしていた。
しかし、同じ時期の中国大陸では、国民党はそれらの自由販売を認めていた。
つまり、強制専売は、台湾の人々から少しでも財産を巻き上げようとする意図で行われていたのだ。

その女性は40歳で、2人の子がいた。
彼女は国民党の官憲に逮捕された。
女性は土下座して許しを懇願したが、取締官ら(取締官6名、警察官4名の計10名)は、よってたかって女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を全部没収した。

同じ漢民族(少なくとも台湾側はそう思っていた)というのに、台湾だけが専売という差別的な措置に不満を持っていたところに殴打事件である。

彼女に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人に命中し死亡させた後に逃亡した。

この事件をきっかけとし、民衆の中華民国への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけたが、中華民国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。この後、国府軍は台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を行っている。


(専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日))

この時、虐殺された市民の人数は未だに公表されていない。
何故なら、その統計すら存在していないからだ。

これが何を意味するかというと殺された市民たちは新たな支配者となった国民党にとって人でなかったということだ。
人でないから数をかぞえる必要もない。知ろうともしない。

(台湾二二八事件 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2185.html)

台湾人側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せないグループもいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、台湾人側はラジオ放送局を占拠。

軍艦行進曲と共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。

50年前、清国人の「煽動」によって日本に抵抗した台湾人は、今度は自らの「意志」で国民党に抵抗したのである。


劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示したが、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。

つまり、「対話」というのはただの時間稼ぎで本当は対話するつもりなどなかったのだ。

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台湾の市民たちは、日本の法治政治に慣れ親しんでいました。
それを「あたりまえのもの」と考えていました。
だから、陳儀の対話姿勢に対して、素直に応じたのです。
ところが、その対話姿勢というのは、ただの時間稼ぎでしかありませんでした。


(台湾二二八事件 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2185.html)

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蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。

今度はボロボロの末端兵とは違い国府軍の精鋭であった。



これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。

台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。


前回の記事、「花郎道と太極旗」に書いた朝鮮戦争の元日本・満州国軍の韓国人が「大韓の皇軍」ならば、二・二八事件で国府軍に抵抗した彼らは「台湾の皇軍」だろう。
http://blog.goo.ne.jp/shishisamurai/e/5d7f5599cd6269ab48b6a592ff121c10

しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まった。
中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した上で、1947年に台湾省政府による台湾統治を開始した。二・二八事件以降、国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている。
(台湾の歴史 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)

その二年後の1949年には、国共内戦に敗れた国民党の本体、数十万人が台湾に逃げ込んできた。

これ以降は事実上蒋介石・国民政府による台湾の直接統治が行なわれることとなった。



少数派の外省人による台湾人支配を行うために、1949年5月19日台湾全土に戒厳令が敷かれ、38年後の1987年まで継続した。
普通、戒厳令というのは非常時に軍を中心に秩序を維持するために発令されるものである。

台湾では38年も非常時が続いていたのだ。

白色テロという国民党政府による反体制派知識人に対する暴力が行われ、多くの台湾人が投獄、処刑された。

上手く海外に脱出した亡命者の中には反国民党を掲げたものもあったが、当時は東西冷戦の時代であり、反国民党=親共産党とみなされて、日本やアメリカではその主張は理解されなかった。


戦後日本の保守・右翼は「反共」のために蒋介石を支持した。


戦後、日本の歴代政権は中華民国を反共陣営の一員として、また国連の常任理事国として修好に努めていたが、日本と中華人民共和国の間に国交樹立の機運が高まると中国国民党は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった(代表例としてサンケイ新聞による蒋介石秘録の連載、國民新聞による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行)。そのような中で多くの自民党政治家や保守言論人が蒋介石が主張したとされる「以徳報怨」を引用して蒋介石礼賛を行った。2008年に平沼赳夫は「蒋介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」との批判を行った。2009年には森喜朗が、金美齢の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った。
(蒋介石 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3)

そのために、蒋介石の非道が不問にされたのである。

私は、蒋介石という人物に対しては複雑な感情がある。

蒋介石は、中華民国主席として反日政策を行い、支那事変では自国民をも犠牲にする黄河ダム決壊という暴挙に出た。
戦後は台湾人に対する白色テロを行った。

大陸の毛沢東はそれ以上に残虐であったが、蒋介石も負けてはいない。

しかし、日本人の真面目な性格を評価し、中国人にも見習わせようとした。
明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている。
戦争中も、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している。

それだけに、日本との対決を選び、台湾人を弾圧した蒋介石という人物は残念極まりないのだ。

蒋介石と、子供の蒋経国によって行われた白色テロによる台湾支配は1988年に蒋経国が死去したことによって終わりを迎えた。

跡を継いだ李登輝氏は国民党による強権支配に幕を引き、台湾独立への道を開いた。



彼の兄、李登欽(日本名:岩里武則)は、日本統治時代にフィリピンで大日本帝国海軍二等機関兵(戦死後、「上等機関兵」)として従軍し戦死している。
李登輝氏自身、1944年に学徒出陣によって軍務に就いておられた。

李登輝氏の後、台湾では外省人の中国国民党と台湾人中心の民主進歩党による二大政党制の様相を呈している。

台湾の完全独立には様々な困難があるが、日本人は台湾と連帯しなくてはならない。


台湾は今も美しい自然と美しい人の心がある美麗島なのだ。

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