日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

社民党は、愛国社会主義に回帰せよ

2017年03月23日 23時14分36秒 | 政治情勢
ついに「都落ち」の社民党 2度目の党本部移転


産経新聞 3/20(月) 9:05配信



 護憲の老舗政党、社民党(正式名称・社会民主党)が5月に党本部を移転し、永田町から“撤退”する。近くの坂の名前にちなんで「三宅坂」と呼ばれた旧党本部から首相官邸近くの現在の党本部に移転したのは平成25年。今度は賃料の安い東京・中央区の隅田川沿いの物件に移り、「都落ち」の印象はぬぐえない。長引く党勢低迷が響き、党財政は火の車。背に腹は代えられない苦渋の決断だが、ヤドカリ政党の住まいは狭くなるばかりだ。

 「安倍政治の暴走を止め、改憲を阻止するため、自民党や補完勢力の議席をどれだけ減らせるかが問われる」。吉田忠智党首は2月26日の全国代表者会議で次期衆院選に向けて気勢を上げた。だが、現実は国政選挙のたびに社民党は党存亡の危機に直面している。党を率いる吉田氏も昨年の参院選であえなく落選し、国会議員は現在、衆参2人ずつの4人しかいない。

 「55年体制」の下、前身の社会党は自民党の対抗勢力として一翼を担い、最盛期は200人以上の大所帯を誇った。平成元年の参院選では土井たか子委員長(当時)の「おたかさんブーム」で大勝。自民党を過半数割れに追い込み、土井氏は「山が動いた」との名言を残した。東京都議会第1党の時代もあった。

 だが、かつての栄光は「今は昔」。しかも党勢の長期低迷は党財政を直撃している。議員数の減少が影響し、今年の政党交付金は前年比4600万円減の約3億9千万円まで落ち込む見通しなのだ。このため、党本部の移転も、党職員の希望退職募集や党費値上げの検討など、党財政再建の一環だ。

 5月から新たな党本部が入る民間ビルは、現在の賃料年約4500万円の3分の1程度で済み、浮いた資金を次期衆院選対策に充てる。代わりに移転先の広さは現在の半分と手狭になり、国会までも遠くなる。

 今回の引っ越しをめぐっては「後知恵だが…。三宅坂の『社会文化会館』から出るときに、今の場所ではなく、今度の入居先に移っておけばよかった。反省している」(吉田氏)との声が漏れる。長期の党勢低迷にあえぐ中、将来の党財政に考慮し、最初から身の丈にあった場所に移転すべきだったというわけだ。

 どういうことか-。25年に老朽化した「社会文化会館」から現在の党本部に移る際、「党の基金から高い賃料を捻出しながら、その間に党勢を拡大する」(党関係者)というシナリオだった。

 いわば貯金の取り崩しでしのごうという腹づもりだったが、そんな見通しは最初から破綻必至だった。移転当時の国会議員は計6人(衆院2人、参院4人)で、現在の4人とほとんど変わらないミニ政党だったからだ。

 肝心の党勢拡大に向けた有効打もなく、国会や首相官邸に近い一等地に移転。福島瑞穂党首(当時)は移転当初、「心を新たに、頑張る党をアピールしたい」と胸を張ったが、その後も反転攻勢のきっかけさえつかめず、頼みの基金が底をつき始めているのが実情だ。

 党関係者は「党勢回復に向けて党はいろいろ手を打ったというが、効果がない以上、何もしなかったに等しい。すでに反転攻勢ができないぐらい党勢は沈んでしまった」と手厳しい。その上で「党本部の今回の引っ越しは単なる延命措置だ」と断じる。

 現在、党本部の入り口にある浅沼稲次郎元社会党委員長の胸像も党職員とともに、新たな党本部に移転する。昭和35年、演説中に17歳の右翼、山口二矢に刺殺された浅沼氏の胸像は党のシンボルでもある。ある党職員は悲哀を漂わせながら、こうつぶやいた。

 「この胸像をわれわれと一緒に持っていけなくなる時は、党が消滅する時だ」(政治部 岡田浩明)

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【本文】


社民党(社会民主党)と言えば、説明不要の反日左翼勢力ですが、結党においては寧ろ反米愛国的な要素の方が大きい、敢えて表現すれば愛国左翼と呼ぶことも出来る政党でした。

今回は社民党(社会党)の歴史を遡りながら、健全な愛国左翼復権について考えましょう。


【社会党の源流「国家社会党」】

日本社会党の源流は大きく3つあります。
右派左派中間派です。


日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の社会大衆党などを母体に、非共産党系の合法社会主義勢力が一同団結する形で結成された。社会大衆党は左派の労働農民党中間派の日本労農党右派の社会民衆党(後の民社党)などが合同したもので、右派・中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、特に分裂して民社党を結成していく右派は反共主義でもあった。日本労農党の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、社会大衆党が結党後、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒とソ連型のマルクス・レーニン主義を目指そうとした者が多かった。
(Wikipediaより)


中間派の源流である日本労農党は、日本で社会主義を実現するためには皇室尊重が必要であるとして、「皇室を頂いた社会主義」を主張しました。
これは、元社会主義者で戦前は建国会、戦後は大日本愛国党を率いた赤尾敏先生とも共通する考え方(天皇制社会主義)です。

右派の社会民衆党は三反主義(反資本主義、反共主義、反ファシズム)を掲げるなど、前後の民社党(民主社会党)の源流になっています。

そして、国家社会党という勢力も日本社会党の源流になりました。


日本社会主義研究所(にほんしゃかいしゅぎけんきゅうしょ)は昭和初期の政治団体。

1931年(昭和6年)9月に設立された国家社会主義の研究・実践指導団体。行地社で労働組合の担当であった松延繁次(鉄道従業員組合長)を中心とし、この松延が率いる知友社、社会民衆党の赤松克麿一派、「日協」関係の津久井龍雄一派を結びつけて設立した。右翼国家主義団体の資金援助を得、社会民衆党・全国労農大衆党の一部を取り込んで、日本国家社会党を形成した。
(Wikipediaより)


この、国家社会党について更に掘り下げて、瀬戸弘幸氏のブログ「日本よ何処へ」の

<勉強会の報告>「議会政治と政党を考える」戦前の国家社会主義政党を現代に問う
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/53105907.html


からの引用です。


日本には数多くの政党が誕生しては消えていますが、その中で私が戦前・戦後を通して一番注目する政党があります。それは国家社会党という政党です。日本は明治維新後、急速に西欧社会を真似た産業国家として変貌して行きますが、その中で資本主義社会特有の大資本ばかりを優先する余り三菱・三井・住友などの大財閥が出来ていった。

 その一方では農村の疲弊や工場で働く労働者の過酷な現場が放置されて、それを改革する社会主義運動も活発になって行く。多くの社会主義思想はマルクスの唱えた資本論に基づく社会主義でしたが、日本独自の道を模索していこうと言う日本独自の社会主義を唱える人も出てきた。前の勉強会で述べた北一輝の純正社会主義もその一つでした。

 他にも日本独自の社会主義者がおり、政党も多く作られました。ではどのような政党があったのか?

先ず、これが戦前の日本国家社会党のポスターです。私は戦前のこのような国家社会主義者の政治活動を調べる為に資料を集めて来ました。

 国家社会党については設立趣意書、機関紙、声明文、手書きの文書など30数種類以上を保有しています。

 おそらく日本では一番日本国家社会党に関する歴史的資料を持つ人間だと思います。それらの資料の一部をご覧頂きながら説明させてもらいます。

 出演者の中にある赤松克麻が党首で作られた政党で、ここには名前はありませんが平野力三なども参加している。その後国議会議員になった人もおり、決して泡沫的な候補者ばかりの政党ではありませんでした。

尚、収集した文書で一番多いのは三国軍事同盟締結に関するものです。政府ではなく民間の組織や当時の右翼団体がどのように反応していたかです。それらの資料を基に引退したらゆっくりと日独伊三国軍事同盟と当時の庶民の反応を記録として残しておきたいものです。


 本日はこの中で陶山篤太郎という人物について述べてみます。



 実はこの人をネットで検索すると<政治活動家>という簡単な文字はありましたが、詩人としての紹介ばかりでした。

 この陶山篤太郎は詩人としても有名であり、ネットで検索するとたくさん検出されました。北原白秋、与謝野晶子と詩人の会と作っている。高村光太郎とも親交があり高村はこの陶山の為に銅像まで作っています。

 しかし、国家社会党から立候補して川崎市議会の議員を務めていたことは余り知られていません。この陶山篤太郎が選挙に出馬した時の、推薦団体がビラの裏に多数書かれていますが、それを見ればこの国家社会党がどのような政党だったか直ぐにわかります。

 屋井乾電池従業員組合、京浜電気従業員組合、川崎建築労働組合、日本鋼材株式会社従業員組合 富士紡績川崎工場従業員組合、明治製菓工場従業員組合、日本鋼管従業員組合、東京製線従業員組合、東京電気従業員組合

 つまり労働者の党だったことが分ります。先に書いた平野力三は農民運動を興した人で労農が一体となった政党でした。ポスターには小池四郎の名もありますが、この人物は日本中小工連盟という団体の会長でもあり、中小商店主の支持を受けていた。

 この陶山を全国的に有名にしたのは川崎の京浜デパート襲撃事件でした。大型店舗が出来ることによって閉店に追い込まれる中小零細商店主が京浜デパートを襲いました。この責任を取らされたのが当時川崎市議であった陶山篤太郎だったのです。
 今回ネットで検索していたら、陶山の顔写真がどこにもないことが判明した。紹介ページで写真を探している記述があったので今回顔写真を紹介しておくことにした。

 さて、この国家社会党がその後どうなったかですが?
赤松を除く人たちは、戦後の日本社会党の発足に参加した。日本社会党の発足式では国歌・君が代が歌われ、天皇陛下万歳三唱が行なわれた。


(引用終わり)

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つまり、日本社会党は結党当初においては反皇室左翼だけではなく、皇室護持と社会主義の両立を訴える天皇社会主義者や、国粋的な国家社会主義者が参加していたのです。


【皇民儀礼】

終戦後の1945年に結党された日本社会党は、その発足式において皇居遥拝・聖寿奉唱を行いました。

四宮正貴先生の「四宮政治文化研究所」から以下の記事を引用します。

『皇室を戴く社会主義』について
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2013/03/post-533c.html



2013年3月30日 (土)

『皇室を戴く社会主義』について

本日、國體政治研究会にて講演された梅澤昇平尚美学園大学前教授は、民社党の本部書記、政策審議会事務局長、広報局長などを歴任された民主社会主義の理論家である。河合栄治郎の學統を継ぐ方である。最近展転社より『皇室を戴く社会主義』という著書を刊行された。

梅澤氏は著書の「序文」に、「本書は『革新派』の社会主義者が、『伝統』の中心にある皇室とどう向き合って来たのかを探ったものである。…本書ではそれ(註・共産党)以外の社会主義を幅広く検証し、日本における『革新』と『伝統』の関わり合いを模索している。…この問題は決して過去の問題ではなく、これからも続く問題である」と書いている。

傳統と革新の一致・融合は、日本的変革の原理である。維新とは「復古即革新」である。日本の伝統精神の「核」は言うまでもなく「天皇・皇室」である。天皇中心の國體を明らかにすることによって、国家革新を断行したのが明治維新である。

昭和の御代の革新運動も、明治維新の精神と行動を継承した。所謂社会主義者も、「天皇制打倒」を目指した共産党は別として、「天皇・皇室」を戴く革新を目指した政治勢力は多い。「錦旗革命」「国家社会主義」とはそういう思想であり運動であろう。

二二六事件の将校には「天皇中心社会主義」という事を主張した人があった。北一輝の「国体論及び純正社会主義」の影響を受けたと思われる。また、権藤成卿も橘孝三郎も大川周明も、天皇を変革の中心に置いた国家変革を志向したと思われる。

赤尾敏氏は、戦前は勿論戦後においても「天皇中心社会主義」を主張した。また三島由紀夫氏は全共闘との対話で「君たちか『天皇陛下万歳』と言ったら手を結ぶ」と言った。

強く印象に残っているのは、昭和三十四年四月十日、今上陛下御成婚の賢所(宮中で三種の神器のひとつである八咫鏡を祀る場所。八咫鏡そのものを祀るというより、八咫鏡を天照大御神の神魂として祀るといった方が正しい。かつては内侍が管理したため内侍所(ないしどころ)とも称された。現在は宮中三殿の中央が賢所とされる)の儀に、当時日本社会党の委員長か書記長だった浅沼稲次郎氏が参列し、かしこまって座っていた。梅澤氏の著書によると、浅沼氏は毎朝、神棚を拝み、皇居を遥拝していたという。

梅澤氏の著書によると、戦争直後の「日本社会党結党大会」では、賀川豊彦氏の発声で「聖壽万歳」を三唱し、浅沼氏の先導で「皇居遥拝」を行ったという。今日、国会に議員を送っている政党の党大会で「聖壽万歳」「皇居遥拝」を行うことはない。国旗も掲げず、国歌も斉唱しない政党すらある。

ともかく、日本の傳統の核である天皇・皇室は変革の核でもある。過去から今日において「天皇・皇室」は「無くてはならぬご存在」あった。そしてそれと共に、未来においても「無くてはならないご存在」である。今日においてこそ、「天皇・皇室」を原基とする維新変革を断行しなければならない。


(引用終わり)

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とても、今の社民党の姿からは想像もできないでしょう。


【尊皇家浅沼稲次郎】
浅沼氏は毎朝、神棚を拝み、皇居を遥拝していたという。
(先述の「『皇室を戴く社会主義』について」から)

昭和天皇・皇室を敬愛していたことでも知られ、雑談中に昭和天皇を揶揄する発言をした新聞記者をいきなり怒鳴りつけたこともあるという。
(wikipedia「浅沼稲次郎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E6%B2%BC%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9%83%8Eから)

今の社民党に皇室を敬愛する人間がいるでしょうか。


【社民党は尊皇愛国の精神に回帰せよ!】

最早、泡沫政党と化しつつある社民党に敢えて助言をしてみましょう。

現在、圧倒的な与党として君臨している自民党ですが、国民の絶対的な支持を得ている訳ではありません。

戦後体制に君臨してきた自民党は官僚と結び付いて腐敗の限りを尽くしました。
そして、2009年に民主党(この党も社会党の流れを汲んでいる)に政権交代しました。

しかし、その民主党も結局反日売国勢力に過ぎないことが明らかになって、「仕方なく」自民党に政権が帰ってきただけの話でしかありません。
自民党が推進してきたアベノミクスは格差社会しか残しませんでした。


(引用)
政治ブログ「大和民族の団結」より

二〇一七年三月一二日
トリクルダウン崩壊、内部留保過去最高 国民を欺いたアベノミクス

http://blog.livedoor.jp/yamatodanketsu/archives/14884555.html












(引用終わり)

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↓は分かりやすいトリクルダウン理論の図です。



また、自民党は皇室に対する反逆者です。


二〇一七年一月二六日
政府の設置した有識者会議が発表した論点整理は頓珍漢でふざけた内容、譲位の恒久化を

http://blog.livedoor.jp/yamatodanketsu/archives/12743998.html?_f=jp











































この状況下で、社民党が結党の精神に立ち返り、尊皇愛国の国民社会主義政党になれば自民党の天下を覆すことも可能でしょう。


天皇陛下のご意志を尊重して朝敵政府を倒し、自民党の新自由主義政策から脱却して社会主義的な格差是正や福祉の充実を行う。

反米・反共産主義の外交を基本にして、日米安保から脱却し国防を充実させて、中共・北鮮に立ち向かう。

このような政党が現れれば、国民から支持を集め、戦後体制を破壊することも出来るでしょう。

もっとも、社民党がこの道を歩むことは考えられないので、彼らは歴史から退場する以外に道はありません。

故に、尊皇愛国の愛国社会主義(民族社会主義)政党は一から建設しなければなりません。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-03-24 15:27:33
社会党時代は、党内に多くのグループが存在してたから、票を得ることができたとおもいますが社民党は社会民主主義の仮面を被ったソ連式社会主義ぐらいしかグループがありませんからね。
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