梅の花の歌で先ず思い浮かぶのは、万葉集に載せられている大宰府の帥・大伴旅人邸で開かれた梅花の宴で詠まれた梅花の歌三十二首のことである。
梅 実梅「豊後」
大伴旅人は神亀五年(726)春以来、大宰の帥として府務をとり、妻を失い、瘡(そう)を病んで生命の危機におののき、酒によって憂いをまぎらしていたという。その大伴旅人が天平二年(730)正月十三日、自邸において、府官および管下諸国の国史から、沙弥満誓(さみまんせい)までを招き、盛大な梅花の宴をもよおした。それが万葉集巻五ー815~846に「梅花の歌三十二首」と題して集録されている。
わが園に梅の花散るひさかたの
天(あめ)より雪の流れ来るかも 主人(大伴旅人)
巻五ー822
青柳(あおやなぎ)梅との花を折りかざし
飲みての後は散りぬともよし 笠沙弥(沙弥満誓)
巻五ー821
注。沙弥満誓(さみまんせい)
俗名は笠朝臣麿。慶雲元年(704)従五位下。美濃・尾張の守、按察使を経て、養老四年右大弁。その間、守としての政績と木曽路を通じた功とにより、再度賞を受け、養老の泉への元正天皇行幸の際、従四位上を授かった。養老五年元正太上天皇の御病気平癒を願って出家、七年(723)観世音寺を造るための長官として九州に遣わされた。大伴旅人と歌の交わりがあった。 (岩波日本古典文学大系の注釈による。)
梅 実梅「豊後」
大伴旅人は神亀五年(726)春以来、大宰の帥として府務をとり、妻を失い、瘡(そう)を病んで生命の危機におののき、酒によって憂いをまぎらしていたという。その大伴旅人が天平二年(730)正月十三日、自邸において、府官および管下諸国の国史から、沙弥満誓(さみまんせい)までを招き、盛大な梅花の宴をもよおした。それが万葉集巻五ー815~846に「梅花の歌三十二首」と題して集録されている。
わが園に梅の花散るひさかたの
天(あめ)より雪の流れ来るかも 主人(大伴旅人)
巻五ー822
青柳(あおやなぎ)梅との花を折りかざし
飲みての後は散りぬともよし 笠沙弥(沙弥満誓)
巻五ー821
注。沙弥満誓(さみまんせい)
俗名は笠朝臣麿。慶雲元年(704)従五位下。美濃・尾張の守、按察使を経て、養老四年右大弁。その間、守としての政績と木曽路を通じた功とにより、再度賞を受け、養老の泉への元正天皇行幸の際、従四位上を授かった。養老五年元正太上天皇の御病気平癒を願って出家、七年(723)観世音寺を造るための長官として九州に遣わされた。大伴旅人と歌の交わりがあった。 (岩波日本古典文学大系の注釈による。)