できるだけ端的に、かつ正確に表現するならば、
「『愛国心は強制的に教えられるものではない』から、卒業式や入学式における国旗掲揚・国歌斉唱を『生徒の内心の自由の問題』であるとし、『掲揚時の起立や国歌斉唱を生徒に強制してはならない』とする、日教組組合員を中心とする学校教師たちは、
『自殺をしてはいけない』ということを、『生徒の内心の自由を侵さず』に『教える』ことなど、できるのだろうか?」
という問題提起である。
自殺をしてはいけないということは、他ならぬ「自分の命を愛すること」である。
「国を愛することを」を「強制」してはいけないと必死に叫んでいる連中が、
「自分の命を愛する、大切にすること」を「強制」などできるのだろうか?
「強制」でなくてもかまわない。「教育」でもかまわない。しかし、日教組組合員を始めとするバカ教師どもは、
「国を愛すること」を「教育」することにさえ猛烈に反対してきたのだが。そんな連中が、
「自分の命を愛する、大切にする」ことを、ヌケヌケと「教育」などできるのだろうか?
それができると言うのなら、
「自分の命を愛する」ことは「教育」できて、「国を愛すること」を「教育できない」のはなぜなのか、ぜひ教えていただきたい。
生徒から見れば、どちらも「内心の自由」に他ならないのだから。
それとも、「何かを愛することは教えられない」などと、一見もっともな能書きを垂れてきたバカ教師どもは、
4月23日に、14歳の中学生が、硫化水素自殺したことなど「どうでもいいこと」に過ぎないのだろうか?
だとしたら、そういう連中は、「教師」などではなく、
「教師のフリをした税金泥棒オナニスト」に過ぎないのだろうな。
「何かを愛すること」を教えることは「強制」になじまない、などと、誰に向けてなのかが全く理解できないメッセージを発するのにうつつを抜かしてきたバカ教師どもは、今回の一件で心から反省するがいい。
・「何かを愛することを教えることが強制になじまない理由」を、どれだけ本気で、徹底的に考え抜いたのかを。
・「何かを愛することを教えることが強制になじまない」などという言葉は、思想などではなく、ただの組合運動の合い言葉として、自己陶酔するために「消費」してきた「ワンフレーズ」に過ぎなかったのではないのかを。
・だとすれば、自分がやってきたことは、あのにっくき「小泉純一郎」がやってきた「ワンフレーズ・ポリティックス」(あくまでも彼らの認識に基づくものだが)と何ら変わらないではないかということを。
まあムリだろうな(笑)。子どもの教育より、組合としての「思想」の方がよほど重要な連中だろうからな。
私は、子どもの内心の自由は限定できると心から思っている人間だから、声高らかに生徒に教えよう。
「人間には、自殺をする権利などないのだ」ということを。
そもそも、判断材料に偏りがあり、判断能力が未熟な未成年に、無制限の内心の自由などを認めるから、日教組のバカ教師どもが自分で自分のクビを締めることになるわけだ。
硫化水素自殺:14歳死亡 住民80人が避難--高知・香南(毎日、08/04/24)
(引用ここから)
23日午後8時ごろ、高知県香南市の市営住宅で、公立中学3年の女子生徒(14)が硫化水素によるとみられる中毒で死亡した。自殺とみられる。玄関に「ガス発生中」の張り紙があった。救出しようとした近隣住民が硫化水素を吸って一時意識不明になったほか、住民70~80人が近くの体育館に避難し、うち約10人が気分が悪くなって病院に搬送された。
県警香南署や関係者によると、女子生徒は母親と2人暮らし。現場は市営住宅の3階。付近住民は同8時半ごろから、体育館に避難した。
(引用ここまで)
教師の政治思想が、子どもには何の助けにもなっていないいい例だろう。