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さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

CM批評でも強引に反原発メッセージに持って行く天野祐吉さんが読めるのは朝日さんだけ!

2011-11-25 04:32:27 | Weblog

昨日扱った朝日さんの記事の下に、「CM天気図」なるコラムが。こちらは天野祐吉氏が、これまた朝日さんの方向にピタリと合わせた「コラム」で援護射撃にいそしんでいる。

「コラム」を、こういう「政治思想的援護射撃」に使っていると、

「ああ、この人は、明確な『政治的意見』を、『コラム』という肩書きで使う人なんだ」

と認識され、「コラム」の価値を自ら貶めることになると思うよ。天野さんがそれでいいと思ってるならそれでいいけどさ。

ま、とりあえず全文引用。

 

「異見広告」 CM天気図 天野祐吉 2011.11.23

 こういうテレビCM、見た?

 黒い画面に白い文字の文章があらわれ、それを読む大滝秀治さんの声が流れる。

 「原発、いつ、やめるのか、それともいつ、再開するのか。それを決めるのは、電力会社でも役所でも政治家でもなくて、私たち国民一人一人。通販生活秋冬号の巻頭特集は、『原発国民投票』」

 見た人はいない。だってテレビに流れてないんだから。カタログハウスがそういうCMを作ったんだけど、テレビ局に放送を断られたんだって。

 理由は、たぶんこうだろうね。原発問題について国民投票をやるかやらないか、そんな大きな政治的問題を、一企業の一雑誌がCMで言っちゃいけん。

 つまりこれ、意見広告だっていう判断なんだろう。いまのテレビは、新聞や雑誌とは違って、意見広告はほとんど扱っていないからね。

 でも、これって、意見広告かなあ。秋冬号の特集は原発国民投票の問題です、と言っているんであって、原発に反対しようとか賛成しようとか言ってるわけじゃない。それとも、原発の問題を決めるのは「電力会社でも役所でも政治家でもなくて、私たち国民一人一人」というのが意見だということなんだろうか。

 もしそうなら、原発問題で国民投票をやろうよとか、そんな必要はないといったテーマが出てくる雑誌は、いっさいテレビでCMはできないことになってしまう。そういうのって商品広告であって、別に意見広告じゃないと思うけどね。

 わからん。テレビの見過ぎでボケたぼくの頭ではいくら考えてもわからんので、ここはひとつ、国民投票で決めてもらおうか。

(コラムニスト)

 

>秋冬号の特集は原発国民投票の問題です、と言っているんであって、原発に反対しようとか賛成しようとか言ってるわけじゃない。

「秋冬号の特集」の主語は「通販生活」という雑誌であるから、それを補うと、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が原発国民投票の問題です」

となる。この文が、「原発に反対しようとか賛成しようとか言ってるわけじゃない」と、天野さんによって判断できる文であるということが、このコラムの論理的な前提になってるってことには、天野さんも賛成してくれるだろう。

しかし、この文が、「原発に反対しようとか賛成しようとか言ってるわけじゃない」と、第三者が判断できる文であるかどうか以前に、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が原発国民投票の問題です」

という文が、そもそも理解可能な文なのか、という、「もう一段階前の前提」が、天野さんによってきれいにスルーされている。

 

少なくとも私には理解できないが、天野さんには理解できるのだろう。不思議だ(笑)。

 

例えば、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、節電です」

という文と比べれば、その違いは一目瞭然である。通販生活という雑誌は、「通販」と「生活」という言葉を組み合わせて作られた言葉をタイトルにした雑誌なのだから、

・生活に役立つ通販情報を提供してくれる雑誌なのだろう。

と、顧客になりうる第三者が理解することはごく自然なことである。だとすれば、節電を特集することで、節電に役立つ通販グッズをこれでもかこれでもかと紹介する雑誌になっているのだなあ、と、こちらなら簡単に理解できるし、その点は天野さんでも天野さんでなくても、少なくとも中1の平均的な学力以上の日本語力を持つ人間なら、誰でも理解できるだろう。

 

しかし、今回は

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が原発国民投票の問題です」

である。公平を期するために、読点(、)をつけてみても良い。

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、原発国民投票の問題です」

 

さて。この文は、通販生活という雑誌の説明をする文として、理解可能だろうか?

繰り返すが、少なくとも私には理解不可能である。

なぜなら、原発国民投票が、どのように「通販」につながるのかが、まったく連想できないからである。国民投票をするときに必要な筆記用具であるとか、国民投票をするときに寒くないストールであったり使い捨てじゃないカイロであったりと、そういう通販グッズの紹介なり特集をしたければ、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、国民投票です」

でかまわないどころか、こちらの方が広告としても字数はより少ないし、言いたいことや焦点化したいことがより明確だからだ。そこに、わざわざ、「通販生活」という雑誌を紹介するために、それをわかりにくくする

「原発」

「問題」

という言葉を、あえて入れているのはなぜなのだ?と考え、言葉にすることが、「広告批評」なんでないの?と私は思うのだが、私の方がおかしいのだろうか??少なくとも天野さんは、こういう方面からのツッコミをまったく行わなくても、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、原発国民投票の問題です」

という文が、スルスルッと理解できるらしい。実に不思議だ。

 

なぜ理解できるの?

 

それは、「通販生活」という雑誌のイメージを「どうでもいいもの」としてスルーしているからであるとしか、少なくとも私には考えられない。「あえてわかりにくいコピーにすることで、逆に顧客の注目を引きつけたい」という理由があるにしても、その「言葉」が

「原発国民投票の問題」

であるならば、原発だけなぜ国民投票になるの?と思ってる私などから見れば、かえって政治色が強いメッセージであるだけに、逆に見たり読んだりしたいとは思わなくなるだろう。つまり、

「原発国民投票の問題」

という言葉自体が、読者の政治的姿勢を喚起する言葉、すなわち、政治的なメッセージをぬぐえない言葉であるということになる。

だとすれば、こういうコピーにすることで、逆に顧客の注目を引きつけたいという狙いも、当の言葉が

「原発国民投票の問題」

である限り、達成はできないだろう。注目を引きつけたいコピーなら、

「通販生活という雑誌だけど、原発国民投票の話をしてもいいかな?」

の方が、よほどインパクトも狙いも明確である。何より、「政治的な話をしたい」という狙いが明確なだけに、私のような原発だけなぜ国民投票になるの?と思ってる人間でも、よし、その主張を読んでやろうじゃないかという気持ちにもなる。

 

つまり、広告には金銭的利益が絡む限りは必ず「狙い」があって、その「狙い」をどれだけ達成できるかが、その広告の持つ「金銭的価値」である。

 

と定式化できる限りは、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、原発国民投票の問題です」

という「コピー」はどっちつかずも甚だしく、

「通販生活という雑誌だけど、原発国民投票の話をしてもいいかな?」

あるいは、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、節電です」

のどっちかに寄せる方が、はるかに「狙い」がわかりやすい分だけ、広告としては高価値である、ということになる。

 

そこで、私がこの記事で問題にしたいのは、なぜ天野祐吉ともあろう「このスジの大御所様」が、シロウトでもできるこういう「批評」をあえて行わず、スルーしているのかという点だ。

 

これまた答えは簡単だ。

「通販生活という雑誌だけど、原発国民投票の話をしてもいいかな?」

にしてしまうと、通販生活という雑誌が、原発国民投票という政治的イシュー(issue)を扱いますよという態度表明に解釈される余地が大きくできすぎてしまい、この「コラム」とやらで天野さんが言いたかった、

>でも、これって、意見広告かなあ。

この発言ができなくなるからだ。天野さんとしては、この広告が「意見広告」と第三者に解釈される余地を極力排除したかったわけだ。

また、

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、節電です」

にしてしまうと、これまた天野さんがこの「コラム」とやらで扱いたかった、

「原発国民投票」

というイシューを完全にスルーしてしまうことになる。

 

わかりやすいね(笑)。どっちに転んでも、結局「雑誌で原発国民投票というイシューを扱うと意見広告になるかもしれない」という問題から逃げられないから、そこはもう

「通販生活という雑誌の秋冬号の特集が、原発国民投票の問題です」

で、広告としての意味は成立していることにしてしまいたかったのだろう。あとはもうやりたい放題だ(笑)。これは単なる雑誌の宣伝文句であって、意見広告ではない。そんなものを規制する「今のテレビ局の空気」をチクリと刺した気になってご満悦といったところだろう。

 

いやー天野さん、それはさすがに強引ではないですかい?(笑)そういう姿勢だと、あくまでも現状のテレビ界を皮肉ることが「主」になってしまい、当の「CM」の理解可能性という、広告批評においては本来「主」であるはずの(あるいは前提であるはずの)部分が「従」どころか「どうでもいいもの」になっちゃっている。ってことはこの「CM天気図」という名の「コラム」は、

・原発は国民投票すべきだ!

という「政治的思想(思考、発想など、この辺はどうぞご調整を)」が色濃く反映された「コラム」であって、そういう思想なり思考なり発想なりを、後半で必死にとぼけた言い方で

「そんなもんないよ~ん♪」

という「雰囲気づくり」で隠そうとする。

 

いやいや、天野先生、尻見えてまっせ(笑)。かっこ悪いわホンマに(苦笑)。

>わからん。テレビの見過ぎでボケたぼくの頭ではいくら考えてもわからんので、ここはひとつ、国民投票で決めてもらおうか。

のセリフが白々しすぎますわ。「国民投票」でかけたつもりなんだろうけど、それ以前の

・原発は国民投票すべきだ!

という価値観(前提)がスケスケに見えすぎちゃって、コラムとしてはひじょ~に浅ましい。うん。「浅ましい」ってこういうときに使うんだろうね。

 

もっと、天野さん自身の政治色を隠したコラムを書きたければ、

・通販生活という雑誌が原発国民投票について考えるっていう広告を、意見広告として出してなんでいけないんだ!テレビは何を怖がってるんだ!!

と、「ど直球」に投げる方が、よほどシンプルだし、読んでいても支持を得やすいと思うよ。こういう直球なら、私も大賛成だ。雑誌の特集で意見広告、いいじゃないの。なぜテレビがそれを止めてるのよと。

 

だって朝日さん、毎日がこんな紙面なんだから、「報道の不偏不党」なんかないも同然だって、朝日さん自身が前提にして紙面を作ってるじゃないの(笑)。テレビだけ「意見広告はダメ」は不平等でしょ(笑)。

 

あー、こういう方向になると、執筆料を出してくれる朝日さん批判になるからダメだったのかな(苦笑)。まあ朝日さんは天野さんの文章をそこまで読めているとは思わないけど。

 

天野さんって昔からこういう人だと思ってたけど、年を取ってあざとさがひどくなってきたというか、狙いの狡いところが鼻につくようになりましたな。

 

 

こんなCMに字数使うよりも、ケータイなどというどうでもいいモノを渡辺謙に演じさせ続けるドコモの外し具合あたりをズバッと斬る方がいいと思うけどね。ドコモも何なんだろうねあれは?ケータイにせよスマホにせよ、渡辺謙のような暑苦しさを持つ存在として誰も見てないって。見るたびに白々しい。昨日の新機種発表会では堀北真希が引きつった笑顔で登場て(笑)。そりゃ笑顔もひきつるわ。狙いがわからんのやもの。

 

ま、こんなところかね。結論。コラムでも何でも、言いたいことがあったらズバッと言った方が、長い目で見ると結局はいいと思うよ。カサコソ隠しながら書いているのが一番みっともない。

 



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