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「サヨク」が民主主義など守る気がない良い例-社民党の菅総理への「ゴリ押し」

2010-12-12 21:31:50 | Weblog

私が中学生だったころは、まだ中国には「人民公社」なるものがあった。ロシアは当時「ソ連」であり、中学地理の時間に「コルホーズ(非国営集団農場)」、「ソフホーズ(国営農場)」という言葉も習った。

また、中3の公民か、高3の政経の時間に、以下のようなことを習った記憶がある。すなわち、

こういう社会主義国家の政治体制は「民主集中制」というものが特徴で、民主集中制とは、

「集中的に民主主義を行うことで、効率的に民主主義を実践するものである。」

だと。ハッキリしないのは、そもそも民主集中制とはなんなのかで、上記の説明を聞いても(読んでも)当時からよくわからなかった。そりゃ子どもにはわからないだろう。この言葉には実に深い意味があったのだから。当時、「集中的に民主主義を行う」って何なの?と、日教組べったりの教育を受けていた私でさえチンプンカンプンであったのもごく自然なことだ。

しかし今日、その意味がようやく心の底から合点がいった気がする。以下のニュースである。

 

社民、思いやり予算削減要請へ 菅首相に強気の提言(朝日さん 10.12.10)

社民党は10日、来年度予算編成についての提言を菅直人首相に提出する。日米両政府が現行水準の維持で合意した在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)について「基地従業員の給与水準を維持した上で、総額を削減すること」と明記するなど、菅政権が社民党に接近する中、安保政策で強気の姿勢だ。

提言は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の沖縄県名護市辺野古への移転について「環境影響評価関連経費などすべての予算計上を見送ること」と要求ミサイル防衛関連予算も「費用対効果の観点から見直すこと」とした。

憲法改正の国民投票に関係する予算も「計上を見送ること」。菅政権が検討している南西諸島の防衛力強化については「『南西防衛』の関連予算は調査費を含めて一切計上しないこととしている。

菅首相は武器輸出三原則の見直しについて、社民党の反対に配慮して防衛大綱への明記を見送った。(ここまで)

 

問題にしたいのは、社民党が上記のような売国的政策を平気で提案していることではなく(そこへのツッコミは他の方がたくさんおやりになっていると思うので)、自民党時代には真顔で

「国会での議論を大切に」

「民主主義的プロセスを大切に」

「まだ議論は尽くされていない」

などと平気で語っておきながら、来年度予算を衆議院で2/3の人数で再可決して成立させようとする菅政権からラブコールを送られると、たちまちその「数の力(笑)」でやりたいことをゴリ押ししようとする、その権力主義的なふるまいである。そこには「国会での議論」や、「民主主義的プロセス」や、「議論を尽くそうとする姿勢」は微塵も感じられない。衆参合わせてたかだか10人ちょっとの勢力が、衆議院で2/3の議席を取るためにキャスティングボートを握るとわかると、このときばかりと必死で己の欲望をねじ込もうとする。

そう。欲望である。少なくとも己と異なる主張を持つものに対して、必死に言葉を尽くして説得を試みようともしなければ、衆参合わせてたかだか10人ちょっとという数は、他ならぬ選挙での「民意」を反映したものだから、その規模に見合った行動をしようという慎ましさも全くない。議会制民主主義とは、その言葉が表すとおり、選挙を経て議席を確定した上での民主主義なのだから、「その議席数に見合った強引さ」の範囲内であればそれはまだ「政治」という言葉の範疇に入るであろう。しかしながら、これだけの要求を平気でできる社民党は、もはや「政治を行っている」のではなく、「欲望のままに動いている」としか表現のしようがない。このチャンスに要求が結果として満たされれば良い。そのプロセスは全く問わない。これは、例えばレイプ犯や強盗犯の心理と全く変わらないのだから。まあ、これをチャンスに、この要求のうち少しでも通ればいいなと計算しているのであれば、いわゆるチンピラレベルのゆすりを行ってるのと同じであるが。


そこで冒頭の「民主集中制」である。「集中的に民主主義を行う」などというのは単なるクチだけのいいわけであって、例えば日本の年金制度が本当は「賦課方式」であるのに、名前だけは「修正積立方式(笑)」などと厚労省が呼んでいるのと全く同じだ。民主集中制とは、

権力を取るまではひたすら「弱者のため」「民主主義を」などと有権者に尻尾を振りながら、実際に権力を取るところまで行くと

「民主主義的に我々は権力を握ったのだから、あとは権力を持つ我々に従ってもらおう」

と、己の欲望をひたすら他者に押しつけるだけの制度であると。鋭い読者ならもうおわかりであろう。こういうプロセスで己の「欲望」を解放した/解放し続けている政体を。そう、ナチスドイツと現在の北朝鮮である。この点ではまだ中国は人口が多すぎて欲望を解放し切れていないくらいだ(それはそれでどうなのよって話だが)。

今や、中学校で習った人民公社もコルホーズもソフホーズも今や「何それ?」と言われるくらいに消え去ってしまったが、北朝鮮は未だにしぶとくその体制を残している。そしてその北朝鮮の朝鮮労働党と「友党」関係をずっと維持してきた日本の社民党が今、ここぞとばかりに己の欲望を解放しつつある。何回かここでも書いてきたが、我々は、これを機に、サヨクどもの言う

「民主主義」

という言葉は、権力を握るためのただの方便に過ぎないのだということをしっかり覚えておくべきだ。昨年から自民党も真っ青になるくらいに審議打ち切り・強行採決を繰り返してきた民主党も「民主集中制」を志向しているようだが(笑)、この社民党のえげつなさとは比べものにならない。

このえげつなさの裏には、「自分たちの政策が一番正しいのだ。だから、他の政策と議論したり、政策を調整すること自体が『日和ること(ああ懐かしい)』に他ならないのだ」という絶対の自信があるのだろう。民主主義を平気で否定できるレイプ犯的心性は、己の考えの絶対的な無謬性(絶対に間違いはないこと)に裏打ちされているということだ。

 

だから唯物論者は信用できないんだよな。いわゆる「史的唯物論」という考え方に従うと、「正しく考えれば、誰でも唯一無二の絶対の『正しい答え』にたどり着ける」ということになる。だから、その「正しい答え」にたどり着いている「高学歴者」が「指導者」となり、まだその答えにたどり着いていない「低学歴者」は「よく働く民衆」として、指導者の指導に絶対的に従えという論理が出てくる。文化大革命に限らず、まさに今の中国や北朝鮮と同じ論理である。外見にかかわらず、今の社民党がそれらと同根の発想に染まりきっているということが、同じ日本の政党として極めて情けないことだと言わざるを得ない。

頭の悪いネトサヨに学歴差別者が多いこともこれでおわかりいただけるであろう。頭の悪いネトサヨは、例えば

「東大の大学院の教授が発言していること

だから

正しいのだ」

という「論理」が大好きなのだ。それはただの「バカ」に他ならない。そう、例えば、高橋哲哉や姜尚中の著書や発言をただ受け売りしてご満悦のネトサヨのことである。

まあ、自称「保守的論者」でも、ただ「この偉い人が言っているから正しいのだ」などと平気で言ってるバカはいるな。あまりの頭の悪さに苦笑するしかなくなる。昔ここでさんざん暴れていったクズがいただろう?そう、「生粋」とか名乗るクズがさ。あいつ、未だにRSSリーダーでここをチェックしては陰口叩いてるからねえ。しかもはてブとかで(笑)。そのわりに、何一つ論理的な反論になっていないという(苦笑)。ああいうバカも、頭が唯物論なのか、それともただ自分で考える能力が足りないのか、両方なのかのどれかなんだろうが、とにかく唯物論者には、学歴的権威に弱い者が多いということは覚えていて損はないだろう。

http://megalodon.jp/2010-1212-2122-26/b.hatena.ne.jp/entry/blog.goo.ne.jp/shirakawayofune001/e/3fd9ee78343775bde910d97433e9f8e6

 

最後に、社民党の党則を紹介しておこう。この党則自体が、社民党本部のHPにはもう掲載されておらず、かろうじて「社民党大阪」のHPに残っていただけというのも、これまた象徴的である。

 

社会民主党党則

前文

私たち社会民主党は、民主主義の共同の家であり、社会民主主義者、リベラル勢力などさまざまな人びとが参加し、共同の力で人びとの幸福の実現に努める開かれた市民の政党である。国家や経済は、すべて人々の幸福の達成に貢献するものであり、政権担当によって、これを実現する。私たちは、何よりも人間の精神の自由を尊重し、個人の自立と連帯、公正と公平を求める人々にふさわしい政治を行う。

私たち社会民主党は、日本国憲法の理念を生かし、恒久平和を希求し、この星における人間と自然が共存できる文化の創造を理想にかかげ、国際社会との協調によってこれを実現する。私たちは地球市民の安全と平和の確保が、自国民の安全と平和につながることを信頼し、国家主義ではなく、国際主義の道を選びとる。

私たち社会民主党は、歴史の転換期における移行期の政党であり、変革の理念と政策を軸に、さらに多くの人々と合流して、新たに飛躍する。私たちは天空のように澄みきった透明度の高いスカイ・ブルーの政党であることを理想とする。

 

社民党的には、スカイ・ブルーとは赤い色のことなのだろう。こんなゴリ押しをする政党が、どの面下げて「精神の自由」などと言っているのか。



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