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日の丸・君が代は「儀礼的行為」次元の話。いい加減に特別扱いにすんな(その2)

2011-02-03 00:28:34 | 根っこのところ
この記事はその2である。その1はこちら。読売の社説も、その1に朝日と一緒に載せている。

読売の社説には一見、まともな根拠がちりばめられているように見えるが、これまた受験生がよくやりがちなミスが多い。

>日の丸・君が代は国旗・国歌として、多くの国民に定着している。自国はもとより、他国の国旗や国歌に敬意を表すのは、国際社会で当然のマナーである。高裁判決は妥当な司法判断と言えよう。

ここが理由として最も重要な部分であるはずなのに、字数は100字にも満たない。しかも挙げているのは

・日の丸・君が代が多くの国民に定着している点。

・自国や他国の国旗や国歌に敬意を表すのは、国際社会で当然のマナーであること。

の2点だけである。あくまでもこの文章を「主張」として読むのであれば、理由の説明がたったこれだけというのが極めてまずい。量が足りない。質も足りない。

特に、上記の一点目の理由は、「要するに数なの?」と読者に思わせてしまうに十分な記述で終わっている点が非常に弱い。儀式における国旗掲揚・国歌斉唱の正当な理由として、国民が日の丸、君が代を国旗、国歌として受け入れている割合(すなわち数)は重要なのだ!ということを読者にしっかりと納得させるためには、こういうところにこそ具体例を挙げ、積極的に読者を説得する努力が必要だ。

例えば、「以前から、一部のメディアや論者によって、日の丸や君が代とは別の国旗、国歌を設定しようという主張がなされてきたが、そういう運動はいっこうに拡大していない。このように、仮に諸外国への配慮から国旗や国歌を変えるべきだと考えたとしても、現実には『ではどれにするのか』という非常に難しい問題が生じる。世代ごとに『国歌にしたい歌』が割れたらどうするのか。その場合も多数決で押して良いのかという、さらに難しい問題が生じる」ぐらいの「思考実験」を示す必要がある。

そうでなければ、朝日さん信者のネトサヨさん(笑)的には、

「朝日の社説には『司法では少数意見を尊重しろ』って書いてあるだろ!朝日の勝ち!!」

などと脳髄反射(笑)し、またレベルの低い「書いてある/書いてない」論争を仕掛け始める。頭の悪いネトサヨ(笑)は、旗色が悪い時は、論点を限りなく小分けにし、相手がその説明を聞くのをいやがるくらいに延々と説明を続けようとする。これを応用したのが、官僚が閣僚をコントロールしたい時は、官僚がその閣僚を数人でローテーションを組んで「レクチャー責め」にし、その閣僚に「もういい!お前たちに任せた!」と音を上げるまで続けるという「レクチャー責めテクニック」である。強引に他者を説き伏せる技術はどこでもそんなに変わるものではない。

※私が直に知る限りでは、20年ほど前から国歌を「さくらさくら」、国旗を「白地にピンクの桜の五角形的な模様」、にするべきだという主張が、特に朝日さんの「読者」欄を中心になされてきたが、20年経ってもその運動は全く拡大していない。その「桜」でさえ、「同期の桜」などという表現が日本の「軍国主義の時代」になされてきたがゆえに、「桜だからなにも問題ナシ」と言えないところが非常に厳しいところだ(笑)。こういう思考実験をすることでわかることは、「どんなものを国旗や国歌のシンボルにしても、いちゃもんをつけようとすればいくらでもできる」ということである。そこまで具体的に書かないと、理由としては弱いと私がここで主張する理由も、これでおわかりいただけるだろう。


上記二点目の理由は、私が前の記事で書いたことと大きく重なるが、「マナー」という言葉で押そうとしているのが弱い点だ。「『マナー』ということは、破っても罰則はないのが『望ましい制度』のはずだ」などという反論に極めて弱い。例えばJTなどが「歩きタバコをしないのがマナー」などとキャンペーンを必死にすることで「喫煙権」を必死に守ろうとしているが、私でさえ、毎日歩きタバコをしているバカを見かける。しかし、そういう「歩きタバコバカ」をJTの代わりに(笑)私が殴ったら、傷害容疑で警察に逮捕されかねないのと同じである。「マナー」という表現をする限りは、罰則に正当性を与えることはできないのだ。

したがって、二点目の理由にしても、

「国際社会において日本が尊敬される国であり続けるためにも、儀式における国旗や国歌は自国のも他国のもしっかり尊重することは『ルール』と設定されても何らおかしいことはない。その意味で、東京都の当該通達は何ら問題はない」

くらいの「くどさ」が必要である。こういう声に応えるように、読売は、この後の部分で

>教師が個人的に様々な歴史観や世界観を持つのは構わない。だが、指導要領に反してもいいということにはなるまい。

と記述することで、そう「言いたげな雰囲気」をかもし出しているようにも見えるが、これだけの記述では、

「その指導要領自体が問題だという訴訟ですよ、読売さん」

と反論されてしまう。一つの主張を数カ所に分けて「分散させた」つもりでいても、各箇所での説明は薄くならざるを得ず、結局はこのように、説得力を持たせるのはなかなか難しくなる。

だからこそ、主張の根拠はまず一カ所にまとめ、そこをガッツリと、想像力が弱い読者にもわかるくらいに「思考実験の結果」を展開することが、「主張」として読者に読ませるためには必要不可欠なことである。

また、「マナー」なのか「ルール」なのかという線引きも、主張を組み立てる上では極めて重要だ。一般的には

・「マナー」には罰則はついておらず、ついていても「なぜついてるの?罰則お断り!!」と反抗されても仕方がなく、

・「ルール」には罰則がついていても文句は言えない

として良い。したがって、この読売の社説には、東京都の通達を明確に「ルール」として位置づける記述と、その位置づけが妥当な理由がもっと必要なのだ。

>子どもの手本となるべき教師が、入学・卒業式を厳粛な雰囲気で行うのは当たり前のことだ。

最後のここも甘い。最後に字数が余った時に、字数調整としてあくまでも「お茶濁し」的にこう書くことがあるとしても、言論でメシを食っている大新聞が、この締め方では字数の無駄遣いと言われておしまいである。

何より、「厳粛な雰囲気」という言葉が、ここまでの主張とイメージ的なズレを生じさせる。反日の丸・反君が代運動の方が、「本気」という意味では、よほど「厳粛」に行われてきたからだ。ここは、

「教師自らが、儀式における行動と内心は別次元の問題であるということを明確に示すべきだ。」

と締める方が、字数もほとんど変わらず、かつはるかに「正しいお茶濁し」である。正しいお茶濁しとは、自分の主張とずれることなく、改めて強調したい「論争の焦点」をもう一度繰り返すことである。


まだまだいくらでも話はふくらむが、とりあえずこの記事はここで止めておく。


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