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「アマルフィ」を初めてCSで観る

2011-06-27 06:17:45 | 映画などのエンタメレビュー

※今劇場で公開している「アンダルシア」ではなく、「アマルフィ」なので、誤解なきように。

 

CSで、「外交官 黒田なんちゃらシリーズ 第一弾」の「アマルフィ」を初めて観た。正直なところ、織田裕二は一番厳しく言うと賞味期限切れ、ややフォロー気味に言うと、「青島俊作」以外の「はまりキャラクター」を必死にさぐっているところであろう。このアマルフィの頃からの、フジテレビの必死なゴリ押し宣伝作戦が鼻についたのと、周りのキャストがいかにも「座長」である織田裕二を盛り立てるために演技をしてますよ!という、言うなれば木村拓哉の「HERO」と同じニオイがしたので、劇場公開時点では全く観る気がなかった。

この映画が売れたのかどうかは知らないが、その後、「外交官 黒田なんちゃら」というのがフジテレビで連続ドラマ化され、その続きとして劇場版第二弾、「アンダルシア」とストーリーが続くようだ。「アンダルシア」を売り込むために「外交官 黒田なんちゃら」を連続ドラマにしたのか、その逆なのかはわからないが、おそらく前者だろう。いつか読んだ週刊誌に「外交官 黒田なんちゃら」は、ほとんど外国ロケをしなければならないので、制作費がむちゃくちゃかかるのに、視聴率がさっぱり上がらないせいで現場は戦々恐々としている、と書いてあったから、「外交官 黒田なんちゃら」の人気が上がったから劇場版第二弾を作る、という順ではないのだろう。

 

外堀を埋めたところで、内容の批評に入るが、思ったほどひどくはないかな、というのが率直な印象。TBSラジオで、ライムスターの宇多丸氏がこの映画をけちょんけちょんに酷評していたのを何となく覚えていたので、どれほどひどいのかと思って観たというのが多少は影響しているのかも知れないが。

前向きに評価するなら、この映画を、織田裕二で判断すべきでない、ということになろうか。この映画における外交官の黒田なんちゃら(ゴメン、本当に覚えるつもりすらない)は、NHKドラマの「ハゲタカ」で言うところの大森南朋のようなポジションだと思えばよいだろう。「踊る大捜査線」や「振り返れば奴がいる」での織田裕二は、画面の中で「前」に出るための積極的なキャラづけが必要だったポジションであるが、この映画は、在外邦人の安全を守りつつ、できるだけ素性がばれないように動く必要があることから、画面の中でも客席側に出てくる必要がないというか、そういう役柄の設定をしている時点で、すでに画面の中ではむしろ「奥」に引っ込むようなキャラづけが求められるはずだ。そんな中で、織田裕二が必死に例の「目ヂカラ」でしぶい顔を作っても、そりゃ監督にダメ出しされるわ(映画前後のインタビューで、監督に「目ヂカラ出さないで下さい」と念押しされたことを笑って語っていた。本当にそのメッセージの意味をわかっていて笑って語っていたのか、この映画を見ると、私自身が渋面にならざるを得ない)。目ヂカラ100%でしぶい顔を作ってしまうと、常識的に考えれば、その顔が印象に残り、結果として黒田の顔を覚えている人が増えてしまうだろう。そんな目立つポジションを、そもそも設定として要求されていないのだ。普段は静かに、そして裏では狡猾に振る舞いながら、最終目標である邦人警護を達成する。そして目標を達成すると、他の地域へまた呼ばれると。宇多丸氏は「007的だ」と言っていたが、私に言わせれば007のような派手さも求められておらず、むしろ「MASTERキートン」のような、一歩も二歩も引いたキャラづけが求められているのだろうと思う。

主役がそのように、一歩引いた、薄味のキャラづけになっていることで、当然のごとく、主役も背景の一部になることが多くなる。その、主役も背景になった「舞台」の中で、抜き差しならない状況に陥っている邦人(天海祐希)や、黒田の本当の役職や任務がよくわからないまま手伝ったり、周りをかぎ回る連中(戸田恵梨香や福山雅治など)がどれだけ踊れるか、というところが、この映画&ドラマが最終的にめざしている「絵図」なのだと思った。織田裕二を使って、そういう「絵図」は作れるか。織田裕二という俳優は、そういう「絵図」を作ることのできる俳優になれるのか。この映画とドラマによって、織田裕二が、自分の演技の引き出しの「桁・次元」を一つ増やせるかどうかが試されているわけだ。かっこよく言えば、「織田裕二が、舞台の背景の一部としても演じられる、硬軟取り混ぜた引き出しを持つ『名優』になれるかどうか」が試されている映画である。

そうやってこの映画を観ると、けっこう興味深い。というより、そういう見方しか、少なくとも私にはできなかった。

 

で、この観点でこの映画を批評すると、まず天海祐希が実にグッと来る。織田裕二を背景に、実にうまく踊る。母が子を思う心、そして年端もいかない子を誘拐された母の気持ちが、痛いほど伝わってくる演技だけでも、この映画は(CSで)観て良かったと思えるくらいだ。例えば医療裁判でも、母が子を医師の過失によって殺された!と訴える状況を私は実際に見てきているが、この件とは関係ないとある弁護士でさえ、この件とは関係なくこう言っていたのを私は今でも覚えている。

「母親というものは、子どもに関する医療裁判についての執念は驚くほど深い。それが正しいものかどうかは置いておいて、深さ、しつこさに関しては頭が下がるくらい、執念深いんですよね。」

天海祐希は、自分が母親になり、子どもができたら、きっとこれだけ我が子を溺愛するのだろうなと観客に思わせるほど、誘拐されてからの取り乱し方が真に迫っている。織田裕二との距離感や、途中で助けに入ろうとする佐藤浩市に対する顔や仕草、そして後半、もうどうにもならなくなって織田に抱きついて号泣する場面など、天海祐希に関しては100%、文句のつけようがないと太鼓判を押したい。失礼ながら、宝塚で、こういう内面的リアリズムの訓練を10代から行っていたのか、あるいは宝塚を出てから、その道のプロをうまく使いながらこういう技術を会得したのかどうかわからないが、昨今、ドラマでとかく「姉御キャラ」を求められる天海祐希とは全く別のオーラでバキバキに固められている。CMでの天海祐希とも違う。

ところが、織田裕二の「受け(reaction)」がウンコすぎる。演出なのか本人のプランなのかわからないが、一度「子どもの父(すなわち、天海の夫)」という立場で脅迫者からの電話に応え、外見上は「夫婦」としてイタリア中を移動するのなら、当然のごとく、移動中も演技でもいいから夫婦らしくすべきだであると冷静に提案することが、どこから見ているかわからない脅迫者に対する当然の対策なのではないか?しかしそのような提案や命令は全くなかった。また、天海が抱きついてきて号泣したときも、「え?」的なリアクションを普通にやっている。いや、「え?」じゃないでしょ(笑)。ここは宇多丸氏が批評したとおり、黒田童貞決定!とでも言わんばかりの戸惑いようであった。

こういうところからも、織田は、この映画での立ち位置、要求されている役柄がまだわかっていないなと推察する。

 

一方で残念なのは佐藤浩市(織田裕二も言うまでもなく)。ただ、佐藤浩市が薄っぺらく見えるのは、脚本のせい、という側面が大きいだろう。ネタバレになるが、(以下しばらく文字を白色に反転するので、読みたくない人は飛ばすこと。読みたい人はドラッグすること。)

この一連の誘拐&取引劇を裏で操っていた張本人がこの佐藤浩市扮する「藤井」である。近日中にイタリアに公式訪問することになっていた外務大臣である川越(平田満)が、まだ外務官僚だったときに、ある架空の国にODA(政府開発援助)を行う。そのODAはその国の軍事政権に使われ、その国の内戦で、ボランティアとしてその国に入っていた佐藤浩市の妻が殺されてしまう。しかも川越は、その事実を闇に葬った。それへの報復として、天海の娘を誘拐し、取引場所にある監視カメラに気づかせ、その監視カメラが編集されていることにも気づかせる。じつはその監視カメラは、イタリア内で多くの監視カメラを画像ごと管理している巨大企業のものであり、織田裕二や現地ローマ市警がその巨大企業に行くように仕向ける。その直前に佐藤浩市は天海を脅迫し、その巨大企業に入ったときに、システムがオールダウンするボタンを押すように指示する。娘を助けてほしくてその指示通りに、必死にそのボタンを天海は押すが、その会社がシステムを再起動するときに佐藤浩市率いるゲリラ隊(被害者は他にも何人もいた)が、その監視カメラシステムをハッキングし、ローマ中を混乱に陥れる。なんとローマ市内の信号機でさえ、この一民間企業が管理していたのだから驚きだ。その監視システムをハッキングすることで、佐藤浩市たちは、川越が日本人関係者対象に行う演説会場を乗っ取ろうとした・・・。

 

というか、そんなめんどくさいことしないでしょ。そもそも不思議なのは、佐藤浩市の奥さんを殺したのはあくまでもその軍事政権であって、資金が日本から得られなくても、軍事政権である以上、国内で自国民を虐殺することぐらいは平気でやると考える方が自然であるということだ。すなわち、川越大臣と、佐藤浩市の奥さんが殺されたことのつながりがきわめて弱いのである。その、きわめて弱いつながりを、きわめて大げさなシナリオで、きわめてめんどくさい方法(天海の娘を誘拐して、イタリア中引きずり回す)で、必死に極大化しているだけなのだ。

だから、観ていると、私は宇多丸氏の10分の1も映画を観ていないが、「あーここは古畑任三郎的だな~」などと感じることばかりが多くて、後半で、事件の全容が明らかになればなるほど、ストーリーのムリヤリさに萎えるだけなのだ。いわゆる、映画における「無理筋」というやつだ。

 

無理筋なストーリーを、世界遺産も含め、「世界でこの映画が初めて撮影許可を得た」とスタッフが自慢する、数々の美しい風景の中で組み立てても、私は何も面白いとは思わない。美しい風景が観たければ、もっと効率的に観れば済むからだ。そこに織田裕二の目ヂカラギンギンの顔などジャマで仕方がない。イタリア観光当局が、よくこのストーリーで撮影OKを出したなと思うくらいひどかった。簡単に言えば、イタリアの風景とエキストラと俳優がもったいなくて仕方がなかった。あらそうなると全部なくなっちゃう(笑)。

 

平田満さんの川越大臣も安っぽくて仕方がなかった。「SP」での平田さんはなかなかニヒルな役どころだったので面白かったが、今回はあのチョビヒゲで、信頼ならない人間と言うより、単にピエロみたいな場違いさしか感じなかった。

さらに、このくらいのチョイ役の扱いなら、小野寺昭さんや佐野史郎さんも「友情出演・特別出演」扱いにすべきでしょと言いたい。というくらい、ほとんど出番も役割もなかった。戸田恵梨香はもともと好きなので甘くなるが(笑)、「BOSS」でのキャラとけっこうかぶっているし、役作りとしては多少上品ぎみに、でもドジっぽく、という、若い女優としてはとてもやりやすい(笑)ポジションなので、この機会にいろんな俳優の技を盗めれば、それが将来大女優になれるとすれば肥やしになるだろうくらいかな。もう二押しほど役割を持たせることができれば、「戸田恵梨香もこの映画に必要だ」と言う観客が増えるだろう。少なくとも3割くらいには。

 

こんなところかな。あ、ローマ市警の警部、バルトリーニと織田の掛け合いもちぐはぐだらけ。「あぁこの二人は大事なところで信頼しあえるようになったのね」という部分が見えないまま、最後に抱き合って別れるので、ここも宇多丸氏の言うように、「ブラックレイン」のマネをして終わったのだなあと私も思った。

 

 

そんなわけで、「アンダルシア」も、CSで流すまでは観ないと思う。織田裕二が俳優としての正念場になる材料を提示されていると、頭ではなく体で気づけるかどうか。気づければ織田はこの後化けるだろう。化けたら映画館で観たい。

 

点数化すると、50/100かな。天海の一人勝ちだけでこのくらい。レンタルする価値はあると思うよ。

 

 



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