きっかけはこのニュースから。
市民団体が独自改憲案 「国民の義務」削除など
>最大の特徴は、憲法の中にある「国民」という言葉をやめ、「市民」にしたこと。そのうえで、義務の規定をなくし、在日外国人の人権保障を充実させたり、外国人や先住民族など少数者の文化の多様性を確保したりする条文を追加する。
>同機構の須田春海・共同事務局長は「憲法はだれが作るのか。政界の議論のように、国家ありきではなく、一人ひとりの市民が法を定め、政府を作っていくことを明らかにしたかった」という。
そもそも、なぜ「国民」ではなく、何かにつけて「市民」という言葉を使いたかるのか。彼らだけでなく、社民党党首の福島瑞穂なども、とにかく「国民」ではなく「市民」という言葉をよく使う。
この提言を行った「市民」団体の「市民立憲フォーラム」(東京・麹町)のHPを読んだ。
市民立憲を討議するにあたって
このページの、「○「法」に基づいて「政府」をつくる主体は誰か 臣民→国民→市民」というコーナーを見ると、
>国連憲章や国際人権規約などでは、多くの場合に主語は「人民」です。同じ文脈での国内文書(日本国憲法を含めて)の主語は「国民」です。どちらも英文ではthe peopleです。
>わたしたちは、普通の「人びと」を表現する日本語の造語に成功していません。「国民」は、列島に生活する普通の人びとが集い、「法」を制定し「政府」をつくり「国民」の要件を定めて、はじめて生まれる概念です。社会の主体としての主語としてはふさわしくありません。先ず「国家ありき」の文化象徴とさえいえます。国という制度が無くなっても当然のこととして存在する「人びと」を何と呼んだらよいでしょうか。
>わたしたちは、多義的であり歴史的含意もさまざまで、異論が存在することを承知で、あえてこの語に「市民」を当てることを提案します。その根拠は、通常語として現代では一番定着しているという判断です。
ここの筆者は、普通の「人びと」を表現する日本語の造語に成功していないと言っているが、「普通の人々」と言えばすむ話である。まずここからがわからない。
日本の主権者を「普通の人々」言ってしまうと、日本とは利害関係を持たない、地球の裏側の人間でさえ、日本の主権者となりうるから、提案者としてはこの言葉が使えなかったのであろう。また、主権者を「日本にいる住民」としてしまうと、在外邦人が日本国憲法の主権者とならない。こういう事情が裏にあると思える。
とすると、国民をわざわざ市民と言い換える意図が見えてくる。それは、日本国内にはいるが「日本国民」とは見なされていない人々を、日本の主権者として堂々と認めようというものだ。すなわち、「在日外国人」のことである。
主権は「国家の最終的な意思決定を行う権力」と定義して良いだろうが、日本国の最終的な意志決定を行う主体が、日本国民でなくて良いとは、相変わらずの売国思想にただただあきれるばかりだ。これは、国民としての義務をいくら果たしていなくても、日本に興味・関心がある人間は誰でも日本国の最終的な意志決定ができるという提案なのだから。
日本にいる自称「市民」は、日本が「国家」として様々なシステムを備えているからこそ、日々を安全に暮らせているのだということから想像すべきだろう。そのシステム維持にはカネや人的資源などの「コスト」が必要であり、そのコストを支払わない「フリーライダー」がその国の主権者となるべきではない、というのは、日本に限らずどの国も持っている発想であろう。
市民団体が独自改憲案 「国民の義務」削除など
>最大の特徴は、憲法の中にある「国民」という言葉をやめ、「市民」にしたこと。そのうえで、義務の規定をなくし、在日外国人の人権保障を充実させたり、外国人や先住民族など少数者の文化の多様性を確保したりする条文を追加する。
>同機構の須田春海・共同事務局長は「憲法はだれが作るのか。政界の議論のように、国家ありきではなく、一人ひとりの市民が法を定め、政府を作っていくことを明らかにしたかった」という。
そもそも、なぜ「国民」ではなく、何かにつけて「市民」という言葉を使いたかるのか。彼らだけでなく、社民党党首の福島瑞穂なども、とにかく「国民」ではなく「市民」という言葉をよく使う。
この提言を行った「市民」団体の「市民立憲フォーラム」(東京・麹町)のHPを読んだ。
市民立憲を討議するにあたって
このページの、「○「法」に基づいて「政府」をつくる主体は誰か 臣民→国民→市民」というコーナーを見ると、
>国連憲章や国際人権規約などでは、多くの場合に主語は「人民」です。同じ文脈での国内文書(日本国憲法を含めて)の主語は「国民」です。どちらも英文ではthe peopleです。
>わたしたちは、普通の「人びと」を表現する日本語の造語に成功していません。「国民」は、列島に生活する普通の人びとが集い、「法」を制定し「政府」をつくり「国民」の要件を定めて、はじめて生まれる概念です。社会の主体としての主語としてはふさわしくありません。先ず「国家ありき」の文化象徴とさえいえます。国という制度が無くなっても当然のこととして存在する「人びと」を何と呼んだらよいでしょうか。
>わたしたちは、多義的であり歴史的含意もさまざまで、異論が存在することを承知で、あえてこの語に「市民」を当てることを提案します。その根拠は、通常語として現代では一番定着しているという判断です。
ここの筆者は、普通の「人びと」を表現する日本語の造語に成功していないと言っているが、「普通の人々」と言えばすむ話である。まずここからがわからない。
日本の主権者を「普通の人々」言ってしまうと、日本とは利害関係を持たない、地球の裏側の人間でさえ、日本の主権者となりうるから、提案者としてはこの言葉が使えなかったのであろう。また、主権者を「日本にいる住民」としてしまうと、在外邦人が日本国憲法の主権者とならない。こういう事情が裏にあると思える。
とすると、国民をわざわざ市民と言い換える意図が見えてくる。それは、日本国内にはいるが「日本国民」とは見なされていない人々を、日本の主権者として堂々と認めようというものだ。すなわち、「在日外国人」のことである。
主権は「国家の最終的な意思決定を行う権力」と定義して良いだろうが、日本国の最終的な意志決定を行う主体が、日本国民でなくて良いとは、相変わらずの売国思想にただただあきれるばかりだ。これは、国民としての義務をいくら果たしていなくても、日本に興味・関心がある人間は誰でも日本国の最終的な意志決定ができるという提案なのだから。
日本にいる自称「市民」は、日本が「国家」として様々なシステムを備えているからこそ、日々を安全に暮らせているのだということから想像すべきだろう。そのシステム維持にはカネや人的資源などの「コスト」が必要であり、そのコストを支払わない「フリーライダー」がその国の主権者となるべきではない、というのは、日本に限らずどの国も持っている発想であろう。
>主権は「国家の最終的な意思決定を行う権力」と定義して良いだろうが、日本国の最終的な意志決定を行う主体が、日本国民でなくて良いとは、相変わらずの売国思想にただただあきれるばかりだ。
‥きちんと元の文章を読んだほうがいいですよ。
元の文は社会の構成員=「市民」が国というシステムをつくり、国民の要件を定めて、はじめて国家の構成員=「国民」が誕生する、という趣旨でしょ?
‥少し詳しく説明しましょうか。国が先にあるわけでなく、市民社会が先にあり、その市民社会が国家というシステムをつくる。国家システムを作ったとき、そのシステムの構成員となった市民は「国民」という属性をも持ち合わせることになる。これはハーバーマスの公共概念などでおなじみの社会概念で、特に奇異とも思えません。
‥ですから、国家の構成員が「非・国民」を含むことはありえません。従って、「日本国の最終的な意志決定を行う主体が、日本国民でなくて良い」という趣旨は元の文にはありません。
‥例えば生協のような組織でも、組合員が集まって生協を結成するのではなく、市民・住民が集まって生協というシステムを作り、規約と組合員の要件を制定したときに、構成員となった市民・住民は「組合員」となるわけです。
「相変わらずの売国思想にただただあきれるばかりだ」などと感情的に噴きあがる前に、元の文章をきちんと読むことが肝心だと思います。
>国が先にあるわけでなく、市民社会が先にあり、その市民社会が国家というシステムをつくる。
今の日本をそういう考え方で捉えると、今の日本国憲法と何が変わるのでしょうか?
>国家の構成員が「非・国民」を含むことはありえません。
ということをあなた自身お認めになっているのですから、「国民主権」と意味内容は何ら変わるところがないと思いますが。
意味内容が変わらないとすれば、そういうところをさも鬼の首を取ったかのように批判する方がよほど感情的に見えますが。
また、発言意図のわからない「議論のための議論」を、あなたとするつもりはありませんので、そのこともご承知おき下さい。
そんなに難しい文章だったとは思えませんが。
では、要旨を再確認しますか?
・元の文には「‥日本国民でなくて良い」などという旨の言及はない
・にもかかわらず白河氏はそう誤読した
・そして「相変わらずの売国思想にただただあきれるばかりだ」と噴き上がった
・青狐は、白河氏に「感情的に噴きあがる前に、元の文章をきちんと読むことが肝心だ」と述べた
発言意図はまず「助言」であり、また、きちんと読みもせずに「売国思想」などと侮蔑的な言葉を発しないほうがいい、という「戒め」も含意しています。
>>ということをあなた自身お認めになっているのですから、「国民主権」と意味内容は何ら変わるところがないと思いますが。
とても奇異に感じるのですが、私が「日本国民‥」発言に関して誤読を指摘したのに対し、どうして「日本国憲法との差異」という別の論点を持ち出して論点を分散するのでしょうか。
誤読を認めたのなら、まずそのことに言及するのが自然だと思われますが。
白河さんの誤読は、元の文の「社会の主体」という記述を「国の意志決定主体」と勝手に読み違えていることにおそらく由来しているように思います。
なお、日本国憲法との「差異」という論点にしても、元のHPをきちんと読めば理解可能な事柄だと思いますが。団体名にある「立憲」というキーワードに留意して読めばいいのではないでしょうか。
>・にもかかわらず白河氏はそう誤読した
>発言意図はまず「助言」であり、また、きちんと読みもせずに「売国思想」などと侮蔑的な言葉を発しないほうがいい、という「戒め」も含意しています。
元の文に、「‥日本国民でなくて良い」などという旨の言及がなければ、絶対にそう読めないと言いたいのでしょうか?
主権は「国民」にあるとは言わずに、わざわざ「市民」と言い換えるところより、私は読者としてその「筆者の意図」を読み取ろうとしたまでです。「国民」を「市民」と言い換えても、その「市民」は「国民」と同範囲の人間であるならば、「市民」には「国民」とは違う意味があるはずだと考えるのは当然です。そういう根拠で推測した結果を書いたまでです。
ちなみに、あなたはこの文章の筆者でもないのに、そこまで偉そうに他人の文章を「誤読」と断定するその自信はどこから来るのでしょう?むしろそちらの方に私の興味はあります。
>とても奇異に感じるのですが、私が「日本国民‥」発言に関して誤読を指摘したのに対し、どうして「日本国憲法との差異」という別の論点を持ち出して論点を分散するのでしょうか。
>誤読を認めたのなら、まずそのことに言及するのが自然だと思われますが。
上記のことが理解できないから、このような発言になるわけですね。もう理解できましたか?
ちなみに、私はあなたに戒めてもらおうなどとはつゆほども思っていません。あなたは何様なのでしょうか?自分の立場もわきまえずに、他人を「戒めて」回るその傲慢な態度を、まず御自覚なさった方がよろしいと思います。しかも戒めにも助言にもなっていませんしね。
>主権は「国民」にあるとは言わずに、わざわざ「市民」と言い換えるところより、私は読者としてその「筆者の意図」を読み取ろうとしたまでです。「国民」を「市民」と言い換えても、その「市民」は「国民」と同範囲の人間であるならば、「市民」には「国民」とは違う意味があるはずだと考えるのは当然です。そういう根拠で推測した結果を書いたまでです。
なるほど、「推測」だったのですね。
・元の文には「‥日本国民でなくて良い」などという旨の言及はない。
・白河氏は筆者の意図を「推測」した。
・そして「相変わらずの売国思想にただただあきれるばかりだ」と発言した。
「相変わらずの売国思想」という侮蔑的発言の根拠が「推測した結果」とは、それはあまりに傲慢なのではありませんか。
仮にその「推測」の正確性が充分に明確に担保されるなら、侮蔑も根拠ありと判断されることもあるでしょう。
ただ現時点では、推測の根拠は極めて脆弱としか思えませんが‥
主権者を表す言葉として、「国民」ではなく頑なに「市民」という言葉を使い続けるところから見ても、当然の推測だと思いますよ。この文章を、「国民と市民は同範囲の人間を指すのだが、わざと『市民』という言葉を使っているのだ」と推測する方が無理があると思います。
少なくとも、主権者の範囲をぼやかした書き方であるという批判は免れないでしょうね。
『「国家の最終的な意思決定を行う権力」を持つ人間としての主権者』の定義があいまいである。これが売国的思想でなくて何だというのでしょうか。
>仮にその「推測」の正確性が充分に明確に担保されるなら、侮蔑も根拠ありと判断されることもあるでしょう。
>ただ現時点では、推測の根拠は極めて脆弱としか思えませんが‥
私とあなたは発想なり「政治哲学」と呼ぶべきものなりが違いますからね。あなたはそう思うのでしょうねと私が思うだけです。「国民の義務をなくして、権利にせよ」という主張を行うこの文章(群)について、推測の根拠を徹底的につきつめるつもりはありません。
ところで、
>国家の構成員が「非・国民」を含むことはありえません。従って、「日本国の最終的な意志決定を行う主体が、日本国民でなくて良い」という趣旨は元の文にはありません。
元の文章のどこをどう読めば、主権者として「市民」という言葉を使い続けるこの文章から、あなたのこの判断が導けるのでしょうか。あなたのこの「読み」は、あなたの政治思想や背景知識と無意識にシンクロさせ、補完した結果の「読み」に思えますが。
家族→地域→民族→国家という順序で私達は所属意識を保ち、社会を維持しているわけです。しかし、国家という枠組みに否定的で「市民」という横の連帯を夢見る人達が昔から居る。
言ってみれば、共産主義に憧れていた人達が少しだけ包装を変えて生き延びている。
本来、理想というものは現実世界での地道な積み重ねによってしか実現しません。順序や段階というものを無視して結論だけ示してもなんにもならない。
比較検討には「悪い見本」というのも必要なので、これはこれでいいような気もします(苦笑)。
>言ってみれば、共産主義に憧れていた人達が少しだけ包装を変えて生き延びている。
うーん。そんな身も蓋もないことを言ってしまうと、青狐氏からしつこい反論が来るのでは…。
「憲法には、国民が政府を規制するという角度からの理想を書くべきだ」という「不思議なべき論」も、日本の憲法学の一派には根強く残っているようですね。だったら最高裁の準拠先にすべきではないと思いますね。
「中国の台湾に対する態度は強者が弱者に対するものですよね? なぜ話題にしないのですか?」と聞いても無しのつぶて……(T_T)。
あらゆるタブーを排して批判する人達がなんで? と疑問に思っていたんですが、こういうことなのかもしれない。
あらゆる垣根を越えた形での「横の連帯」。市民の自由が達成された平等社会。そして清廉潔白で何一つ欠点もなく過ちを犯さない政治的指導者・・・。
まあ、日本特有の「話し合い主義」を理想化させたものではあるんですが、これって中国共産党や北朝鮮が「建前」としているものと同じだったりするんですよね(汗)。
「建前」だけで維持されている社会だからこそ、外部に「敵」を作って団結し、併呑し続けない限り維持できない宿命をはらんでいる。
たぶん、上記の案を作った人達もそういう現実を解っているはずなんですが、それが辛すぎるから純粋な「理想」だけを語ろうとするのかもしれません。
組織のトップをそういう人が占めるようになると、しばしば悲劇が起こります(汗)。
目の前の現実だけ見ているのもつまらないですから、バランスをとって考えたいものですね。