「概要」に書いたとおりである。
ぶぶさんは、昨年から積極的にコメントをいただいており、私がものを考えるときの「触媒」として、大変ありがたい存在になって下さっている。しかし、私からのコメント返しが日本語としてダメだなと思ったので、改めて本記事として書かせていただく。
そして、本記事は、私がこのブログに対して持っている姿勢の重要な一部を明らかにするものになると思うので、「根っこのところ」というカテゴリーに入れておく。
まず、ぶぶさんからいただいた二つのコメントを。昨日の記事に関していただいた。
放射能も原発も地球温暖化も (ぶぶ) 2012-05-09 17:27:13
いずれの問題も、「実際に日々研究している研究者・技術者が最も詳しい」ということが忘れ去られているように感じます。
私たちは所詮素人にすぎない。研究の中身をきちんと理解することは難しい。
でもその分野で「定説」「ほぼ定説と言ってよい」ものは、長い時間をかけて模索され、議論されてきた結果であることを抑えておく必要があるのかと。
個人的にご紹介したonkimoさんのブログに
http://onkimo.blog95.fc2.com/blog-entry-89.html『「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」
トルストイの小説、アンナ・カレーニナの冒頭の言葉である。
今回、懐疑論者を論じながら、
「人為起源 CO2 による温暖化を唱える者ははすべて互いに似かよったものであり、それに懐疑論を唱える者はだれもそのおもむきが異なっているものである」
と感じた。
温暖化論者は基本的に同じことを唱えている。少なくとも科学的な観点においては、IPCC の言うことと大した違いはない。それに比して、懐疑論者たちの唱える論は多様である。それだけではない。メディアを通じて伝わる温暖化論者達は総じて没個性的であるのに対し、懐疑論者達はそれぞれの著作物において強烈な個性を発揮している』
何故同じことを唱えているのか、というのは、長い時間をかけて模索し、議論してきた結果のものでもあります。
一方、放射能も原発も地球温暖化も、否定論者の論は様々で個性的です。
世論が否定論者に安易に飛びついてしまうのは、否定論者のほうがわかりやすいというのもあると思いますが、
否定論者の論が専門家に受け入れられないのは、特徴として、
「まず結論ありきで、自論に都合の良い状況・条件のみを取り上げ、結論づける」
からだと思います。
たとえば、もんじゅの件ですが、反原発の小林圭三氏が「もんじゅは核燃料増殖のために、核分裂しにくい高速の中性子で核分裂させようと、プルトニウムの燃料棒をぎゅうぎゅうに詰めている。だからトラブルが起きると核分裂反応が暴走しやすく大事故につながる」
と主張しています。これは、もんじゅはボイド反応度が負になりやすいから危険だ!という主張ですが、これは他の要素を考慮せず、一面だけを取り上げて「危険」と結論づけている良い例です。
原子炉における固有安全性(物理現象により安全性が担保される性質)においては、
『温度反応度係数が負(何らかの外乱により温度が上昇しても核分裂反応が暴走しない)』
という事が非常に重要で支配的です。
温度反応度係数の種類としては、
・ボイド反応度
・ドップラ反応度
・減速材(冷却材)温度反応度
・構造材膨張反応度等に分解でき、この総和が負であれば、固有安全性は担保されていると考えられます。
詳しく書くと長くなりますので・・・高速増殖炉においては、この総和が負になるように設計されており、燃料棒を短くし沸騰しなくすることで正になることを回避する工夫もされています。
チェルノブイリ事故の爆発は、この温度反応度係数が正になったのが原因でした。
「危険」という思い込みがあると、原発がないデメリット面が見えなくなります。
きちんと説明すると長くなりますし、専門用語も難しいのでしょうけれど・・・また、一般向けに出ている本やブログなども反原発のものが多いですから、情報が入りやすいのかもしれませんが、
「実際に日々研究している研究者・技術者が最も詳しい」ということを念頭において、情報の取捨選択を心がけたいと思います。
追加です・・・ (ぶぶ) 2012-05-09 17:32:48
否定論者の論がわかりやすいのは、正に
「まず結論ありきで、自論に都合の良い状況・条件のみを取り上げ、結論づける」
からと思います。物事を一面からしか見ていないぶん、シンプルでわかりやすいのかと。
しかし、そこが落とし穴でもあるのだと思います。
(ここまで)
では改めて。
温暖化については別の話になりますから、詳しくは別記事で今後書くことにします。
ご紹介のサイト、ざっと読みましたが、「余計な部分」が多すぎてダメですね。
赤祖父氏の本は読んでいたのですが、そのサイトによる赤祖父批判は人格攻撃ばかり。英文の和訳に至っては悪意に満ちています。普通に訳せば普通のことしか言っていないのに、例えば以下の部分です。
”I did not talk about causes of the Little Ice Age, because it is out of my own field.”
「わしは小氷期について議論したいわけではないぞ。別に専門家じゃないからな。ほっほっほ。」
などと訳すのは、この人、この程度の英語も普通に解釈できずに、何を「科学者」ぶってんの?と言わざるを得ません。私なら、
「私は、小氷河期の原因について話したのではない。なぜなら、その分野は私の専門からは外れているからだ。」
と普通に直訳しますし、それでも普通に赤祖父氏に反論できます。
例えば、これに対して、誠意を持って反論するなら、
"If you used the term "the Little Ice Age", why did you use it though it is out of your field?"
(なぜあなたは、「小氷河期」が専門ではないのに、「小氷河期」という言葉を使うのですか?)
となるでしょうし、それに対して赤祖父氏はきっと以下のように答えるでしょう。
"I used the term because I wanted to emphasize the phenomenon of "the Little Ice Age", not the causes of it."
(私は「小氷河期」という言葉を、その現象を強調するために使ったのであり、その原因を強調するためではない。)
と。
まあここは英語でも日本語でも良いのですが、元が英語だったことを重視して英語で揃えてみました。趣旨としては、実りのある散文を書く際は、「仮想の討論相手がどのように再反論してくるか」をあらかじめ想定し、それに答えるように書く、ということが重要だということです。
しかし、このブログ主であるonkimoさんは、上記のような、そのあたりについて突っ込んだ議論を展開しないまま、
「赤祖父氏はお気楽に批判しているなあ」
という「印象批判」のレベルで赤祖父批判を終えてしまっています。こういうところに、onkimoさんの文章の、「理詰めの議論」としての切れの悪さを感じざるを得ないのです。
さらに、onkimoさんのブログでは、「科学的な点で、私の気になったところの主だったところを網羅してくれている」と紹介したリンクのリンク先がもう消えてしまっています。一番重要なところなのに、そのリンク先がない。これでは、「赤祖父批判の質」をどうにも判断できません。
また、以下の書き出しも、論理的文章としてはダメな点です。
>『「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」
>トルストイの小説、アンナ・カレーニナの冒頭の言葉である。
(中略)
>温暖化論者は基本的に同じことを唱えている。少なくとも科学的な観点においては、IPCC の言うことと大した違いはない。それに比して、懐疑論者たちの唱える論は多様である。それだけではない。メディアを通じて伝わる温暖化論者達は総じて没個性的であるのに対し、懐疑論者達はそれぞれの著作物において強烈な個性を発揮している』
こういう前置きは、申し訳ありませんが「散文」としては全く意味がないものです。「論証」の材料に何らなっていません。こういうところも、リンク先の記事がダメな点です(あ、「論理的な文章」ではなく、「随想」とか、「ただ思ったこと」であるなら、私なんぞが評価する筋合いではないので、その点はご理解下さい)。
なぜ全く意味がないのか。この方が使っている「個性」という言葉は、見る人によっていかようにも表現ができるからです。
私のような原発賛成派から見れば、反原発論者こそ「没個性の極み」に見えますし、向こう側から見れば、こちらこそが「没個性」に見えるのでしょう。「御用」「エア御用」などとレッテル貼りをしたくなる気持ちの一つが、そういう「イメージ」であることは容易に想像ができます。したがって、
「個性がある/ない」
という枠組み、切り分けのしかたは、この問題(原発、地球温暖化)に関しては何ら有効なものになっていないわけです。
問題を分析する際に役に立たない言葉に関して、長々と「雑感」が語られているのを読むのは、論理的な文章を期待している読者にとっては、「無意味な苦役」以外の何物でもありません。
ただ、onkimoさんは、それをわかった上で、あえて駄文としてどうでもよい文章をふんだんに交えて書いているように見えます。いろいろな記事を読むと、そう思わざるを得ないくらい「どうでもいい記述」が多いですし、右側の「このブログについて」のところにも、
>好き勝手に、バカなことをながながと記事にしています。
ともお書きになっていいますし。
>いずれの問題も、「実際に日々研究している研究者・技術者が最も詳しい」ということが忘れ去られているように感じます。
>私たちは所詮素人にすぎない。研究の中身をきちんと理解することは難しい。
>でもその分野で「定説」「ほぼ定説と言ってよい」ものは、長い時間をかけて模索され、議論されてきた結果であることを抑えておく必要があるのかと。
ぶぶさん自身によるこの部分は、単にぶぶさんの考えが「権威主義者」と一致している、ということを盾にして、持論の正しさを主張しているようにしか読めません。残念なことですが。
例えば南京大虐殺問題にしても、「実際に日々研究している研究者が最も詳しいのだから、素人が口を出すな」という「ルール」を挟めば、いくら新しい証拠が出てこようとも、「歴史的事実は確定している」という「自称専門家」たちから、その証拠を提起した者に
「歴史修正主義者」
というレッテルを貼られるだけで、その証拠が何も採用されない、という危険性がありますし、実際に東大教授の高橋哲哉も、著作で「歴史修正主義」という言葉を使い、歴史修正主義者そのものを非難しています。
しかし、外見上、誰が「悪意を持って証拠を提起している」のか、「悪意を持たずに証拠を提起している」のか、誰も判断などできないはずです。にもかかわらず例えば、
・「聖徳太子」と呼ばれる人間は実はいなかったらしい。 という仮説を立てる研究者には「歴史修正主義者」というレッテルが貼られず、
・「南京大虐殺」で殺された中国人は、蒋介石らが南京を放棄した後の便衣兵だ。 という仮説を立てる研究者には、「歴史修正主義者」というレッテルが普通に貼られている、
という状態の区別が明確に語れないでいます。
すなわち、高橋はこういう言葉づかいで、「自分たちに都合がよい、確定した歴史」を変えようとする研究「姿勢」を批判しているわけで、その「姿勢」というのは、「外見」からは全くわからないものです。つまり高橋は、原理上「できない」とわかっていることを、著作にあえて書くことで、「権威」として、そういう実体が「存在する」かのように擬態しているわけです。
しかしそういう「擬態」は、結局は「時間」という要素には勝てませんでした。時とともにさまざまな史料が見つかり、今では、東京裁判時に中国が主張したような、「40万人虐殺説」は、「さまざまな説の一つ」という位置づけになりつつあります。
また、教科書採択問題の経過を見ても、新しいデータを入れた育鵬社の教科書を、「軍国主義に戻りかねない危険な教科書だ!」などと、「教える専門家集団」であるはずの日教組やその下部組織が必死にアジテーションを続けています。これなどは、専門家集団が、専門家であることをいいことに、素人に
「これが結論だ!」
ということを、根拠もなく押しつけている、きわめて象徴的な事例でもあります。
こういう現状を見るにつけ、「権威がこう言っているから正しいのだ」という姿勢は、ものごとを
・「正しい/間違っている」
という区別から、
・「信じる/信じない」
という区別に転換させる作用を持つ、ということがわかります。私が当ブログで使う「宗教」という言葉は、下の枠組みで世界や権威者を把握する営みを指し、「科学」とは、上の枠組みで世界や権威者を把握する営みを指します。
すなわち、「権威者」も、「素人」からの批判からは逃れられない、という考え方に私は立っているのです。
もちろん、「正しさの質」については、「すばらしい」から「どうしようもない」までの連続線のスケール(モノサシ)上のどこかに位置づけられると思います。ですから、「権威者」が、「素人」に対して、理由をつけて
「おまえのツッコミはどうしようもない!」
と表現する自由もあるわけで、あとは「権威者」と「素人」の間の対話が、どのくらいの深さと広がりで成り立つか、という「合意」の問題だとも思っています。
そういう営みが当ブログであり、私は「素人の一人」として、世の中の様々な問題に対して考えたことを記しているわけです。
したがって、ぶぶさんが「権威」をふりかざすようなものの書き方をなさっているとするならば、それは当ブログの方針と全く異なることですよ、と申し上げたいのです。
「権威者の判断」を「正しいと仮定する」ことの危険性を別角度からも考え直してみます。
「素人」が「権威者の判断」を判断できないとするならば、「権威者の判断」を判断するためには、「その権威者の判断を判断できる別の権威者」が必要となります。しかしそういうシステムを作っても、「権威者の判断を判断する際の根拠」が我々「一般人」に判断できなければ、ただの「ブラックボックス」を増やすだけになるわけです(ブラックボックス=外部者が、内部の判断の妥当性を判断できない装置もしくは組織)。
以上をまとめると、ぶぶさんが、
・専門家の意見を聞け!
というご主旨で上のコメントをなさったとすれば、姿勢として私はそれに全面的に賛成するものですが、もしも
・専門家の意見が絶対に正しいのだ!
という意味まで含んで語ってらっしゃっているとすれば、
「それは違いますよ。そう言った瞬間に、あなたもブラックボックスを作っているのですよ」
と言わざるを得ないのです。まるで、
「原発の安全性については政治家は専門家以上に正確に判断できない!」
と明確に言い切った、あの橋下徹のように。
というわけで、「権威者」と、「一般人=素人」との対話、というテーマに関しては、
・権威者は一般人にも理解できるような努力をすべきですし、
・一般人も、権威者の発言を理解するよう努力すべきである、という一般的な教訓しか導き出せません。
その間をいつも取り持つことのできる「上位の審級者(判断する者)」は、設定がそもそもできないのです。
しつこいですが、その設定をした瞬間から、「一般人=素人」は、「権威者」と「上位の審級者」に隷属するだけの存在になりますから。
奇しくも、毛沢東と紅衛兵が文化大革命と称してやったことと同じなのです。それは、共産主義の根底に流れている基本哲学と同じですから。
ということがなぜ私にわかるかというと、大学時代にマイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』という本を読んでいたからです。今は文庫版が出ていますね。あ、マイケル・ポラニーを「権威者」として設定し、「彼に従え」と言っているわけではありません。あくまでも「参考、思考の刺激に」ということでご紹介しているまでです。
やはり、正確に書こうとするとこれだけ長くなってしまった。今後ともよろしくお願いいたします。
白河さんの言う「専門家の意見が絶対正しい」という意味で書いたわけではないつもりです。「専門家の意見」も時代によって変わってきますし・・・。
私が言いたかったのは、「定説」と呼ばれていることは、それなりの議論の課程を経てきているのものなので、批判するにしても、その課程を知る必要があるのでは、ということなのです。
でも、特にネットの批判は、陰謀や利権を理由にするものが多く、なぜそういう結論に至っているのか、という課程を調べてみるとか、そういう情報自体も少ないように感じます。
地球温暖化問題については私は内容はよくわかりませんが、onkimoさんの文章を取り上げたのは、「温暖化論者は基本的には同じことを言っている」という部分を、私は、
「それなりに議論を尽くしてきた課程があるから」
と解釈したので、例として出してみました。
”一般人も、権威者の発言を理解するよう努力すべきである”・・・この部分において、権威者がもうクタクタに疲れている状況も併せて・・・。
こう書いた点ですが、わかりやすくても、わかったつもりになっているだけかもしれません。
全ての例が当てはまる、と書いたつもりではなかったのですが、特に原発問題を見ていると、この落とし穴が多いように思います。
一つの側面だけ見てわかったつもりになり、理由を陰謀や利権に求める。
アインシュタインは天才だが学校の成績は悪かった、と言われていますが、実は成績が良かったというニュースを最近見ました。ピカソの絵も、デッサンなどの確かな基礎があった上での斬新な表現だったのかと。
以前、仕事でデザイン系の勉強をしたことがあるのですが、「とにかく基礎が大事。その世界で評価されている人がどうしてそういう表現をしているのか、じっくり分析しろ。そういう表現をするのには、必ず意味があるからだ」と教わりました。その上で、自分の表現があるのだと。
あと、「一見、ランダムで混沌とした表現も、実はいったん綺麗に並べてから、崩している」ということも先生がおっしゃっていました。
「専門家がもっとも詳しい」というのは、「専門分野の基礎を持ち、議論の課程も知っている」という意味です。
現状はそれがあまりに忘れ去られているのではないかと。
デザインはシンプルがよい、と言われます。デザインの上での”シンプル”ですが・・・デザインは引き算といいます。
人はどうしても「あれも」「これも」つめこみたがってしまう傾向があります。要素が増えすぎて、伝えたいことがかえって伝わりにくくなる。私は正にこのタイプで・・・。
デザインをつくる上では、様々な要素を検討した上で、「どうやったらより効果的に伝わるか」、と考え、無駄をそぎ落としていく課程があります。
そういう課程を経たシンプルさと、例えば小林圭三氏の主張のようなシンプルさは、違うのかなと。
学校で教わった「その世界で評価されている人がどうしてそういう表現をしているのか、じっくり分析しろ。そういう表現をするのには、必ず意味があるからだ」
文字の大きさ、間隔、色等々・・・デザインんにはロジックが詰め込まれています。模写などもしましたが、何度もやると、どうしてこういう大きさにしたのか、間隔にしたのか、とかがぽや~っとですが、見えてきたり。
その世界で評価されている人であっても、好き嫌いはあると思うんですが(私は例えば佐藤かしわさんはあまり好きではないですし・・・)、学ぶべきところはおおいにあるのかと。
私は落ちこぼれで、デザインのロジックも殆ど体得できませんでしたが、これが権威主義と言われれば、権威主義なのか・・・。
人文系の学問にこの考えが当てはまるのかはちょっとわかりません・・・。特に歴史などになると・・・。