母27日の午前10:00急逝病院からの連絡で臨終に間に合った。最後まで立派だった母
私は、母他界の事は何事もなかったかのように平静を装い午後・村田のレッスンを終えて、夕刻車で1時間半ばかりかけて母の棺(ひつぎ)の元に駆け付けた・・とてもろうたけた美人でまるで生きてる様にお棺の中で横たわっていて切なかった。夜中高知に戻り・
28日・演奏の様々な用意ありて、お通夜にも出られず・・の親不孝だが通夜の式典には間に合わずも夜20:00に駆け付けて、母の好きな曲を二胡で弾いた広島から駆け付けた妹が合わせて歌ってくれた。思いなしか微笑んで聞いてくれたように感じた・・母の頬にお母さんと呼んで頬ずりをした。冷たかった。
29日14:00~から葬儀・・私はリハーサルの為・・生徒を捨てて母の葬儀に出ると言うのは、舞台人では絶対にしてはならないと、毅然として誰にも漏らさず耐えた。葬儀の行われてるだろう時間は胸が痛かった
母の人生は波乱万丈だったが不平は聞いた記憶が無い・・亡くなる3日前の24日迄・凛と日記を付けていた母・読むと悲しい。寂しくも仕事を持ってる私をオモンバカッテ病院に来て欲しいとは一言も言わなかった。
上の文は葬儀に出られず葬祭場セレモニーで読んでもらった
演奏も無事終わったので事実を書く・・今日最後の曲の演奏は泣きつつ演奏した・・実は子供の頃から祖母に武士の子孫は身内が亡くなっても泣くのは見苦しいと育てられたが・・