「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

島崎城跡から見た「富士山附近に太陽が沈む風景」の画像紹介

2021-01-31 19:04:09 | ボランティア活動

島崎城跡から見た「富士山附近に太陽が沈む風景」の画像紹介します。

本日(1月31日午後5時)、島崎城跡二の曲輪西より富士山の夕日が沈む風景を撮影しましたので紹介します。

 


「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-30 08:03:01 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その9】

 遂に徳一丸自刃 島崎諸士が首脳者会議

 案の定、雑兵や近郷の百姓をかりあつめての佐竹勢の松明行列は、島崎勢を驚かした。「あなおびただしき大軍かな。かの軍勢にとり巻かれなば、わが軍いかにしてもささえること能わず。むやみに死せんこと本意にあらず。今宵は引きて、ふたたび兵をととのえうっぷんを散らさん」と味方の軍勢をみれば、痛みに苦しむ者を合わせても300人に満たない。とはいうものの、そっくりこのまましりぞいては追い討ちをかけられるであろうと、5人あるいは10人ずつが肩を寄せ合い、思い思いにしりぞいていった。

 徳一丸は十六騎をしたがえ、木下の里というところまで落ち延び、一息いれた。だが、無数の切り傷が痛みだし、郎党の介抱も役たたず、馬に乗ることさえできないありさま。もはやこれまでと覚悟を決めたのであろうか。徳一丸は「われくやしくもここまで引きしりぞきたるが、この深手にてはしょせん島崎へ帰ることかなわじ。島崎家は断絶は天命とおぼゆるなり。なんじら介錯せよ」といいざま、腹十文字にかき切り、あえなく絶叫。あっという間のできごとであった。郎党はくやし涙をこらえ、泣きながら近隣の寺にあずけ、それぞれ島崎をめざして落ちていった。

 さて大生原へむかった大平、土子、窪谷などの島崎勢はどうなったか。まず、大生台にたてこもる敵を切りくずして、戦いを有利にすすめようということになった。

佐竹勢は佐竹左衛門督、佐竹淡路守、大内丹波守など総勢八千余人。島崎勢が大生台へむかっていることをきき、それぞれの配置を決めた。先陣に左衛門督三千余人、後陣へ丹波守二千余人、淡路守三千余人とし、大生台をはなれて待機。かくして島崎の先陣二千余人、この敵をなぎ倒し、太田までも乱入して主君の仇を討とうと必死の覚悟を決め、弓、鉄砲を打ちかけ、砂煙りをあげて押し寄せる。太刀の鍔音、ときの声、広野にひびき、槍、長刀の光は天にかがやき、地にひらめき、追いつ、返しつ、たがいにしりぞくなといましめ合い、命の限り攻め戦う。

この戦いでは、丹波守が押され気味。そこで島崎勢二陣、鴇田伊豆守、柏崎六左衛門、大生市正ら一千余人、そこをはずさず大浪のように攻めたてる。つづいて第三陣、大生紀伊守、柏崎小太郎など千二百余人は佐竹左衛門督の陣のうしろから切ってはいった。佐竹勢の各将声をからして激励したが、あとのまつり。もはや軍を敗たて直すこともできず、大生台めざして敗退。まずは佐竹勢の完敗に終った。

 有利に駒をすすめた島崎勢は、息もつかずの激戦に疲れたから、無謀な合戦をさけて大生の野まで引き返し、夜陣を□って一服。それから両陣たがいににらみ合い、あちこち火をたいて夜を明かし、そのままの状態で三日がすぎた。

 天正十九年二月十四日夜、島崎の陣に注進の兵がかけこんだ。徳一丸殿、木下の里でご最期との報であったが、まず一勝を島崎勢にとってこれは大変なショック。諸士一同大いにおどろき、まるで盲人が杖を失い、闇夜に火が消えたかのように気力おとろえ勇気をなくしていった。

 そこで、島崎家諸士の首脳者会議がはじまる。「主君義幹公憤死をとげたまい、いままた若君まで討死したまう。当家の運命これまでと思うなり。われわれ、死すべきときききたれり。されど、われわれみな残らず討死せば、だれが主君父子の仇を報果たせん」の声を中心に会議はすすんだものの、衆議は一決せず堂々めぐりするばかりであった。

「島崎盛衰記」その10につづく。


「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-26 08:04:50 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その8】

  乱戦の中で一騎打  徳一丸と戸村重太夫

 義幹の長子徳一丸が保内山へむかい、いままた四千三百余騎の軍勢を大生原におくりだした島崎城では、義幹の内室を中心に家名相続の討議がはじまった。島崎の地を後世に残すために、せめて姫君(徳一丸の妹)を城の外へ移し、時期をみてお家の再興をはかることこそ肝要と、その大事をになう勇士の人選にはいった。

 そこへ名乗りでたのが坂隼人。さいわい武州江戸城にある本田氏の家臣に縁者があり、そこを頼るということで、すぐさま話はまとまり、江戸への旅たちとなる。隼人は、内室から姫君と系図の巻物などを託され、侍女5人、郎党7人とともに、密かに島崎をたち、江戸の本田佐渡守正信の屋敷へおもむく。そこで、隼人の縁者、本田正信ともにあたたかくむかえ、姫君の扶助を約束してくれたから、隼人はとんで帰った。

 保内山へむかった徳一丸の軍勢は、そこにたてこもる佐竹勢と激突。佐竹勢は六百余騎をくりだし、砂塵をあげて押し寄せ、踏み散らし、獅子奮迅の勢い。島崎勢は、覚悟を決めた戦いだから少しも恐れず、山でもくずれるかのようになだれいり、死人を乗り越え、かちどきの声をあげて突っ込んでいった。

 佐竹勢は、弓、鉄砲を打ちだすこともできず突きたてられ、敵将戸村重太夫はくずれる味方を陣内に引きいれ、これを新たな軍勢に替えて戦おうと必死。加えて、弓手にあたり軍手にかかりつつ、前後左右、千変万化して切りまくる徳一丸の働きに、さしもの佐竹勢も足なみ乱れ、敗走するかにみえた。だが、こんなことで引き下がる重太夫ではない。押し込んで討ち取るだけど、采配(主将が軍隊の指揮に使う道具)を腰にはさみ、槍をとり、手元へすすんでくる島崎方三騎を突き倒し、逆に攻めかかる。

徳一丸は当年16歳といえども、最上の「業物」をふりまわし24人を切り捨てる。これにつづく、塙、井関、大川の諸将もここぞとばかり武勇をふるい、いのち限りに戦えば、さしもの佐竹勢もまずはこれまでと四方に散る。そこへかけつけたのが佐竹の勇士梅□半左衛門と七百余人の新手。ふたたび、砂塵をまきあげての乱戦となった。

島崎勢は数時間の戦いに、心身ともにつかれはて、すでに百人が討たれ、残る五百人もそれぞれ傷だらけのありさま。もはや合戦は無理とみた塙、井関の二人、われわれはここにとどまって防戦、主君には帰城をすすめたが、徳一丸は承知しない。そしてまた、血で血を洗う乱戦の幕あき。しかし、敵味方の判断もつかないという合戦とはいえ、徳一丸がめざすのは戸村重太夫、重太夫のねらいは徳一丸。一騎討となったのも当然の成り行き。

徳一丸は血染めの大刀ならば、方や大身の槍。まず、徳一丸が真っ向にふりかざし、突き、流して切りたてれば、重大夫これをめしらいかね槍先ひるむところ、血染めの大刀一閃。槍は中途からはずに切り落され、その切っ先は重太夫の馬の首筋を切ってとんだ。馬はおどろいてはねあがり、重太夫は落馬。あわててかけつけた部下に助けられ、いのちからがら味方の陣へ逃げ込んでしまった。

死人は野辺に横たわり、血は馬□に踏みたてられ、紅を流したかのようであった。春の日は長いといえども、月はすでに西山に姿をかくし、戦場にも夜のしじまが訪れた。佐竹の陣では、戦略会議がはじまっていた。「今日の戦い、島崎の働き尋常にあらず。これをむやみに討たんとせば、味方の損耗甚大なるべし」と、知恵をしぼった結果、部下をはじめ近郷の百姓をかり集め、多くの松明をともし、太田の方から大軍が押し寄せてくるように見せかければ、島崎勢もその数におどろき、逃げ出すであろうということであった。

島崎盛衰記 その9につづく。


「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-21 14:51:04 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その7】

銃声一発、義幹死ぬ   保内山に佐竹の伏兵

 佐竹義宣の奸計に対しては、臨機応変の方便をめぐらすべしと、島崎城をあとにした島崎義幹は、義宣が屈強の精兵五万余騎を配置した保内山(常陸太田市周辺の台地と思われる)にさしかかったのが2月9日。ふもとにさしかかると、耳をつんざく銃声一発。大将義幹きっと見て、伏兵ありとおぼえたり、者ども用意せよと命令する間もなく、つづいてとんできた鉄砲玉に胸板を打ち抜かれたからたまらない。馬から真っさかさまに落ちて、その場はおおさわぎ。

 義幹は苦しさにからだをよじりながら怒り、家臣にいった。「われ老臣の謹言をきかずして、かかる禍を引き起したり。後侮もはやすべなし。にくき佐竹のふるまいかな。なんじらここを切り抜けて島崎へ帰り、倅徳一丸にこのことつげ知らせ、わが無念を晴らすべし。かえすがえすも無念なり」

 そして死んだ。主君に先だたれた家臣とその郎党、保内山の敵陣めがけてのぼりはじめた。待ってましたと佐竹勢、鉄砲の筒先をそろえ、ねらい打ち。武具らしいものも持たず、平服だった島崎勢は、この鉄砲玉を防ぐこともできず、バッタバッタと倒れるばかり。

 だが、瀬能、大川、榊原、森、宮本の勇士、ともに死憤の猛威をふるい、とびくる矢玉を切り払い、わき目をふらず弓組の中へ突いてかかる。敵将戸村重太夫、馬にまたがり、逃すな、洩らすなと陣内を叫び回る。原、新橋、根本、平山、小幡、江口、人見らは、死んで帰るなの言葉をおめき叫んで切っている。

 一方の島崎城では、大平、土子、などの老臣があい寄り「このたびの参会の催し、いかんとも心得がたし」と、引きつづき評定談義にふけっていたが、そこへ保内山から注進の兵がまい戻り、老臣たちの危惧も現実のものとなった。義幹の長子徳一丸はなげき悲しみ、まだあどけない瞳に涙をため、怒った。で、ただ一騎に打ちまたがり、かけだそうとするから諸老臣はあわてた。

 「勝負なれたる大敵の中へかけいれば、たちまち敵のため討ちはたされんこと必定」といさめたものの、徳一丸はききいれず「父母の仇は、ともに天をいだかずといえり。われ一人なりとも敵陣へかけいり討死せん。なんじらよくよく城を固め、のちの合戦に向かうべし」といい残し、一むちくれて保内山にむかった。

 すぐさま、徳一丸のあとを追ったのは塙外記、井関舎人、吉田刑部、今泉源左衛門、森隼人、山口三郎兵衛、菅谷半平、大川市之亟、小浪勘助、茂手木判蔵、今泉太郎左衛門、浦橋平衛門、浦橋次郎左衛門をはじめ屈強の勇士50余人、雑兵600余人。

島崎盛衰記 その8につづく。


島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2021-01-20 14:56:29 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

令和2年1月17日(日)、午前8時30分より会員約30名が島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2~3日前の強風により落ちた枯れ枝や落ち葉を集めて集めて処分を行い、城跡の見学がしやすくなりました。

また休憩中は、先日作成した会の応援ソング「島崎城慕情」のCD音楽を流して聞きながら身体を休ませました。

会員の間では、「島崎城慕情」の曲は大変好評を得ました。

 

島崎城跡保全活動応援ソンク゛「島崎城慕情しまざきぼじょう」

 

島崎城慕情 しまざきぼじょう 島崎城跡保全活動応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

youtube#video