「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2021-03-29 13:10:03 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

先週の日曜日の予定が雨で延期になり、今週の日曜日3月28日(日)に環境整備活動を会員約30名で行いました。昨年後半より取り組んでいた、三の曲輪の伐採作業がほぼ終了し約100メートル?に及ぶ長い「土塁」の遺構が現れました。島崎城跡の見所が増えて見学者の方に喜んで頂けると思います。登城の際には、三の曲輪を一周して頂くとこの城の規模の大きさが実感できますのでお勧めです。また、三の曲輪には早くも「タケノコ」が出始めております。好きな方はどうぞ掘って楽しんで下さい。

景観が良い二の曲輪(西)には、会員から寄贈された休憩用のベンチを設置しました。また、一昨年「枝垂桜」を寄贈して頂き、順調に育っております。

今まで木製の「案内板」にラミネートを貼って表示しておりましたが、スチール製の丈夫なものに立て変えました。これなら、10年以上も持つこと請け合いです。(潮来市で作成して頂きました)


♪♪♪応援歌「島崎城慕情」CD・DVDを会員へ配布

2021-03-21 11:29:56 | ボランティア活動

♪♪♪応援歌「島崎城慕情」CD・DVDを会員へ配布♪♪♪

「島崎城跡を守る会」の会員117名に、決算資料と合せて当会の自主制作CD・DVDを配布致しました。この応援歌が長く歌われる共に、城跡の環境整備活動が長くつづくことを願っています。

 

島崎城慕情 しまざきぼじょう 島崎城跡保全活動応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

youtube#video

 

 

島崎城慕情カラオケ しまざきぼじょう カラオケ  島崎城跡保全活動の応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

youtube#video

 

 

 


「島崎氏滅亡のことども」❝麻生の歴史❞掲載文の紹介 その2          その2

2021-03-21 08:29:23 | 古文書

茨城県行方市(旧麻生町)の教育委員会および郷土史研究会が昭和59年に発行した「麻生の文化」第17号に、古文書から見た「島崎氏の滅亡」に関しての論文が掲載されていましたので二回に分けて紹介します。

島崎氏滅亡のことども 古文書研究会 根本義三郎

 ■小貫大蔵は救世主?

 さて、その小貫大蔵とは如何なる人物であったのだろうか?「早くから、宿敵佐竹氏と内通していて、主家を亡ぼし、己が野望を遂げた大悪党」と言われているが、果してそうであったのであろうか?

 潮来町の関戸文書(関戸正蔵氏所蔵)の中に、新嶋村争論に係わって、大貫大蔵に関し、次のような記録が残っている。正保三年(1646)の文書である。

『(前略)島崎左衛門殿は、天正十九年辛卯

(1591)極月亡び、関戸玄番丞殿は、文禄三年甲午(1594)七月廿五日に亡び候へば、行方は、佐竹領となり、島崎大台の城には、小貫大蔵と云う人御座候時に、常陸下総の堺あらそい、度々出会い、嶋崎村、上嶋村、西代村斗り出来候時分、牛堀村前へ出会い度々棒打ち候事。行方は小貫大蔵殿の指図、新嶋は西代五郎右衛門罷り出、互に争い、済みかね、双方江戸へ罷り出、常陸下総の境、利根川切りと仰せ付けられ候事。(後略)』

  筆者は、関戸玄番之丞の嫡男で、一時下総に難を逃れ、その後帰参した利右衛門(幼名国松)の嫡男関戸庄左衛門である。日付は正保三年丙戌(1646)となっている。島崎氏没落後五十五年、佐竹氏移封後四十四年が経過している。

 この頃、既に時代を隔てて、最早権力者としての影響が顕在していないとも思われるこの時期に、尚且、「殿」の敬称も以って語られているのである。果して是れが大悪人に対する対応であろうかと考える。

 時の勢いは、佐竹の南進は必然であったろうし、弱小地方政権が、必死の努力を傾注して、難を逃れ、生き残る途を模索したであろう事は想像に難くない。

 一方、佐竹方にしても「何とか戦わずして勝ち、而も一日も早く旧敵を己が陣営に引き入れる」べく、あらゆる手段を弄した事は当然であろう。斯くして暗黙の合意が働き、生臭い地下の戦略が続けられ、これらが、島崎氏の存亡に大きく係わったことは否めまい。その故にか、佐竹側は攻城に方って、窮鼠の害を除くとして囲みを解き、決戦を避けたとされている。それのみか、戦後の処理に方って、残党狩り等を行った気配すら見られない。

 一方、島崎の重臣達もいち早く近郷に土着してしまい、野に伏し山に潜んで、主家の仇を報ぜんと、必死の抵抗を試みた忠臣烈士のあった話も聞かない。

 主家存亡の秋、和戦両派が激しく対立して渦巻く情勢の中に、小貫大蔵は常に冷静に和睦の条件を探り、精力的に和平策の論陣を張ったに違いない。そして、不幸にして主家崩壊の現実に直面するや、いち早く時局を正しく認識して、一部の過激な行動を抑え、それ等家臣団の心身の安泰を図った救世主であったのかも知れない。そうでなければ、如何に小貫大蔵が能弁者であったとしても、幾多俊秀の重臣達を向うに廻して、長期に亘って、戦前、戦中の重大な政・戦略に参画して行く経緯には納得が得られるものではない。

 小貫大蔵の、このような生ぬるい戦中、戦後の処理を見聞きするに忍びず、切歯して、ずっと後世の第三者が(或いはひょっとして、島崎氏縁りの者が、為にする読物として)、「島崎盛衰記」なる物を書き起こしたのかも知れない。そして、この物語に起伏抑揚を付けるために、小貫大蔵を大悪人に仕立て上げ、薄幸の佳人、「お里の方」等を登場させたものであろう。

お里殿は二人?

 前記の関戸如水と云うは、所謂「お里由来」及び「稲荷山の由緒」等について、次のように書き残している。

『(前略)お里殿と云うは、丹波守殿室、玄番殿、御母公、嶋崎殿の姉也。丹波殿卒去の後、稲荷山を後にかまえ、閑居屋形を立て、お里殿と号して男女数人を指添へおかれ候由。嶋崎殿、玄番殿は、佐竹の為に亡ずともいへども、お里殿は尼にておわす故にや、何の構いもなく、其後十余年を経ておわり給ふと云ふ。国松流浪の内なれば、此山屋敷は此家に帰りたる様に聞き候へども、山は長勝寺支配に成し候や、御当家御一統の後、慶安年中(1648~51)に御朱印に定ける也。されば此山を古来長勝寺寺山とはいわず、稲荷山と云い伝へたり。此稲荷は、古来関戸家の鎮守として、玄番の丞殿より宮殿・拝殿を建立して、いなり税とて田畑を附け、中田外記という禰宜を附けて、是を守護させ候。(中略)端沢重友は、慶安四年辛卯(1654)ノ春廿四才にて此家を継ぐ。玄番殿没落より五十八年目也。然るに、養母貞林は、五才にて母におくれ、七才にて父にはなれ祖母永寿尼の養育にて人となる。其間、女わらんべの取りはからいにて内証うすく、しとけなき体なれば、鎮守の修理を加へべき力もなく、大破に及ぶ。従って重友来る翌年辰(1655)ノ春、宮殿拝殿を造立する。其後二拾四年を経て延宝年中(1673~80)に、水戸の大軍源義公、御国に、弐拾八万石の内、大寺大社をば御取立て、小寺小社をことごとく破却成られ候。此宮も其列になれば是非に及ばず。其後重友は、稲荷宮を屋敷の内へ観賞して是を祭る。然るに、壱丁目弐丁目の者共は、此いなりの下に生れ、数年氏神としてあがめ奉る所の社を失い、重友方へなげくに付き、ひそかに禰宜勘三郎屋敷の内へ観賞して、いまにおいて、両町の鎮守と是を祭る。

しかりといへ共、壱丁目の者共は、右山の下に住居すれば、たとへ社はなくとも、神霊のおわしますがごとくに志をはこび、破却の節より今において、思い思いに参詣致す事も止むを得ざる事也。

綱正(如水)此家を継ぐ事。貞享元年甲子(1684)二月九日に此家に来る。然るに、お里の畑の西南へ押廻し大きなる土手形あり。畑になにて居り候へども、雨振り候へば水たまり、作毛くさり損ない、依って元禄中に、綱正多くの人足を以って、土手をくぼき所へ切り平の畑となしたり。東北の上手は長勝寺の竹やぶの内に有り。

お里より東の方を向いて町へ出る道有り。此道は、はば四五間も之有るを覚えたる人有り。養父端沢覚えでも、三間斗りも之有り候処、段々左右の畑より、けずりこかし、今は漸く一間斗り也。此土手の行当り、お里殿の泉水の跡とて、くぼき所、畑と成りてあり。(後略)』(関戸本源記)

関戸如水がこの書を書いたのは、宝永五年(1708)正月である。この時代既に、お里殿は地名として定着していたのである。

如水は「地名のお里は、お里殿跡」として筆を進めているが、「お里の方」自害については一言も書いていない。当時としては、城主の美女の自害という最もショッキングな物語である筈が、時代がより近いに拘らず、一言も出て来ないのである。哀れなる落城物語としての「お里の方」が登場してくるのは、少なくとも宝永以前でない事は明白であろう。之を要するに、所謂「お里の方」伝説は、島崎滅亡史をより劇的にするために、後世になって語られ始めた「フィクション」ではないかと、考えては如何であろうか。

若しも、「お里の方」伝説が真実であったとすれば、佐竹氏の採った戦略方針、並びに戦後処理政策にそぐわないし、何よりも、島崎氏遺臣達の「お里の方」の遺跡に対する心やりが些かでも伺われなければならないからである。百歩譲って、前記「盛衰記」に盛られたような事実があったとすれば、島崎家には、ほゞ同時代に二人の「お里殿」が居られたことになり、一人は島崎公(如水は長国公と書いている)の姉君であり、もう一人は義幹公の奥方である。前者の「お里殿」は、前記のとおり、関戸丹波守の室となり、玄番之丞の母として存命し、丹波守なき後に尼となるが、佐竹の侵攻時には尼なるが故にお構いなしの扱いを受けて余生を全うしている。後者の「お里の方」は、島崎落城のみぎり、鹿島の宮居を目指し、落ち延びんとして、敵の重囲に陥り、潮来の近郷に自害して果てるのである。

以上の考察からすれば、何れが現実味をもって迫るかは自明であるが、しかし、我々の胸中には、この哀れなる「お里の方」伝説を、単なる俗説として一概に退け得ないものがある。それには、少なくとも弱者に対する同情、非道に対する抵抗等、根強い庶民感情が籠められていて、それ等が背景となって、この伝説が生れ、流布にされたのであろうからである。

■おわりに

 遂に、此物語(島崎盛衰記)の著者、書かれた年代等、分からず仕舞に終わるが、少なくとも、関戸如水翁の亡くなった寛保(1743)以前に書かれた可能性はなく、世の中が落ちついて、諸人の記憶が薄れかけた。ずっと後世になってから、ひょっとすると、明治に近い幕末の頃に書かれたものでは?と一人妄想している次第である。

それにしても、義幹公には名前が幾つもあり、討死場所も所説がある。小貫大蔵の行動は、余りにも非現実的であり、お里殿に至っては、地名を廻って二人の女性が登場すると言う。僅か四百年の歳月が、このような、地方に於ける重大事件を曖昧模糊なものとしている。何れの日か、確証を掲げて真相を証明して頂ける日を待つのみ、と思っている。考えてみれば、天正十九年という年は、佐竹氏にとって、水戸移城一年目であり、而も、各地の占領地経営に謀殺されたる筈の秋であり、わざわざ太田に人を招くというだけでも奇異に感ずるのに、義幹公の討たれた場所が、太田からも、水戸からも可なりの道程の、奥方の郷里たる上小川であり、更には又、義幹公の母公が「里見家」の出であり、奥方の名が「お里」であっては,些か話が出来過ぎていると思われるのだが・・。

いずれにせよ、冒頭の土子書簡、及び関戸如水の記録に見られる限り、島崎氏崩壊の道程には、一部首脳は別として、即戦即決の華々しさは、極めて稀で、地味で陰湿な謀略戦が、執拗に行われた、と思料されるが如何であろうか。

菲才の身をも顧みず、波乱万丈の島崎攻防史の一端に挑み、敢て巷説に対称的な考察を試みた無謀をお許し頂き、諸先生方との御教示を賜わり度く、宜しくお願い致したい。

さて、ここで末筆であるが、関戸如水によって遺された「関戸本源記」の信憑性について附記しなければなるまいと思う。

関戸如水は、前述のとおり、近世潮来村に於いて、最も信頼に足る者の一人、と考えられている人物である。彼は、多くの生証人と古文等を通じて得た情報を駆使して、此「本源記」を書き記している。此書は、関戸氏家系の記録という形は採っているが、単なる家系内の人物の描写書ではなく、彼、関係ある個個人の動静等、万般に及んで、事細かに記録されている世相書でもある。彼自身、「此書は、他の人々に見せるものにあらず」と巻尾に記しているように、此書は、一族以外の第三者に、我家、我祖を誇示するため誇大に、又は真実を曲げて書かれたものでないことは確かであろう。この書は、彼が、自己の信念と己が子孫に対する戒めとを、将来に向けて真摯に示したものと受け止められ、その内容についても、歴史的に十分評価できるものと信じている。

参考のために、その巻尾の一節を紹介して、筆を擱こうと考える。(別紙5)

『(前略)1.綱正(如水此家に来るは、貞享元年子(1684)二月九日也。しかるに、玄番殿没落は文禄三年午(1594)ノ七月也。是を考ふるに九十一年也。先づ、土子氏が一巻、養父是を伝ふるに附いては、折々、昔語りを聞き、末世の咄しのたねにも成れかしと、貞享の初め比より、所縁の人々の子孫の替りたるわけなどを書き添へて指置く物也。然れども、予、一生他見は申すに及ばず、不断の物語りにも指控へ延引致す意は、粗き世間の上を見るに、今幸イなき身がらにて、先祖の系図物語りなどする人はおかしき物也。勿論、公家殿上人の末にても落ちぶれくだりたる時は、却って、先祖の名を汚し、己が不徳をあらはす也。されば、筋なき人にても、其器量を以って高位高官にも上りたる時は、其人々の誉を云い、先祖の名を起す也。願くは、時至り、幸イ有る時節に至り、誤りて未練の振舞、先祖の家名汚すまじき事を思い出す折からの助けともなれかしと、一巻に記して、残し置く物也。

宝永五年戌子正月 日 書之

関戸理(利)左衛門綱正(花押)』

最終になりましたが、この稿を起すに方って、潮来町、関戸家の御当主、関戸正敏殿より、好意ある資料の提出を頂きましたことを、感謝して報告します。(昭和59年6月)

引用 「麻生の文化」第17号 発行 麻生町教育委員会・麻生町郷土史文化研究会


「島崎氏滅亡のことども」❝麻生の歴史❞掲載文の紹介 その1

2021-03-17 20:56:35 | 古文書

茨城県行方市(旧麻生町)の教育委員会および郷土史研究会が昭和59年に発行した「麻生の文化」第17号に、古文書から見た「島崎氏の滅亡」に関しての論文が掲載されていましたので二回に分けて紹介します。

島崎氏滅亡のことども 古文書研究会 根本義三郎

 ■まえがき

「島崎盛衰記」をひもとくに当って、特に其の滅亡にきつわる経緯について、数々の疑問点が浮かび上ってくる。

 郷土史に関係ありし思われる事柄を二三拾ってみると、概ね次のようなことどもである。

 先ずその第一には、主君が討死し、主家が崩壊したにも拘らず、どうして重臣たちが容易に土着できたのか、ということである。このことは又、これに先だって、上小川における義幹公の憤死、それに引き続く嫡嗣徳一丸の奮戦・自害、更に又、城郭周辺に於いて戦われたとする激しい攻防が、果して有ったのかどうか、ということ迄に連ってくる。

 第二には、小貫大蔵という人物の行動である。小貫大蔵なる人物は果して実在していたのか、そして主家を滅亡にまで導く大罪人であつたのか、ということである。

 第三には、所謂「お里殿伝説」である。「お里の方」と呼ばれる義幹公の奥方が、潮来近郷に於いて、悲惨なる最期を遂げられたという、落城哀話の信憑性である。

 そして、その第四には、何時の時代に、何人によって、この壮大な「島崎盛衰記」なる物語が書き綴られたのか、ということである。誠にお恥ずかしいことながら、浅学の身で、この「盛衰記」以外には全く知識がないので、「島崎滅亡の真相は違うのでは・・・」と常々想いつつも、何方か、「真相は斯くである」と教えて頂ければ、之れに勝る幸はなしと日夜考えている次第である。

 ■島崎義幹は水戸で謀殺

 ここに貴重なる一編の記録が残されている。明暦元年(1655)6月、島崎村の土子彦兵衛という人物から、潮来村の関戸利兵衛という人物に宛てられた書簡文である。(潮来町・関戸正敏氏所蔵)

 土子彦兵衛は、著名な島崎家の重臣の一人。土子越前守の嫡男であり、所謂島崎城攻防にも名を連ねている人物である。一方、送られた方の関戸利兵衛は、後に紹介する関戸如水(利左衛門綱正)の岳父であり、双方共に、当時に於ける最も由緒ある、信頼の置ける人々である。

 先ず、その書簡文の一部を紹介する。

『関戸家と島崎家の御由緒一通り尋ね致し、承知し候。前の亡父越前、もの語り共粗々承り覚え申す所も御座候。其の外、古日記等も御座候間、見合せあらまし書き付け御覧に入れ候。関戸玄番丞辰尚、父丹波守と申すは、鹿嶋中居の城主、川口左馬之介殿のお弟由。元来中居も関戸たりといへども、故有りて川口を名乗り候由。(中略)

  島崎左衛門尉と申すは、丈ケ六尺に余り大力量にして、智仁勇を兼ね、好く人を見、好く人を愛すと云へり。然るに、丹波守殿は、なお又、島崎殿に倍々の勇力有りて智深く、器量・骨柄と申し、その比並ぶ方なき猛将也。時節柄、両人心を合せ候はば、壱ケ国、弐ケ国切りしたがへ給ふ事は掌の内たるべしと思慮され、丹波守殿を姉婿として、弁財天台より立兼台まで屋形を建て並べ、上戸、潮来、辻、稲井川迄城下の地として居城を定め給ふ。然るに、玄番殿十五才の時、丹波守殿四十余才にして逝去と云々。 (中略)

  島崎殿は、天正十九年卯(1591)の年中、和睦と称して水戸に召され、三の丸坂口にて、鉄砲数拾挺を以って取りはさまれて打ちころされ、佐竹の為に亡びたり。

 島崎殿斯くの如くに成ら為せられ候間、玄番殿は降参もすべきものと見合せられ候や、其の間三年引き延し、文禄三年午(1594)夏中、これも和睦に事寄せて水戸にまねく。依って、三ノ丸坂口にまで乗り懸け候へば、島崎殿同様の仕懸に見え候や、馬に乗り乍ら、みづから、頸をはねて死に給ふと、云々。(中略)

明暦元年未(1655)六月 土子彦兵衛・信房 花押 関戸利兵衛殿』

この辺の事情を、関戸如水(註Ⅰ)は、後年(宝永五年・・・1608年)、その著書の中で、次のように述べている。(別紙2)

『(前略) 養父重友殿(註2)は、玄番没落より五十八年目に此の家を継ぎ、古き人の物語りにて早々相聞き候へども、島崎殿、玄番殿間の事、たしかなる人の物語り聞かまほしく思い候処に、或時嶋崎村へ用事有りて行き候時、嶋崎殿一の臣下に、土子越前と云う人の嫡男、土子彦兵衛と云う人と出会い候処、幸い昔語りいろいろ之有り候間、嶋崎殿と関戸玄番の由緒のわけ尋ね候へば、我等若年の比、亡父越前物語り、あらまし覚え候。其の外日記等も之有り候間、見合せ、書き付け進ずべき由、約束致し候。其の後、相認め送られ候間、則ち一巻の巻物と成して指し置き候由。貞享年中(1684~87)、綱正(如水)に譲られ候処、虫ばみ候間、宝永の初(1704)の比、綱正表具を直し、即ち本家へ伝へ置くもの也。(後略)』 (「関戸本源記」 本永五年 関戸如水)

(註Ⅰ)関戸如水(1661~1743)

 麻生藩士 岡山半右衛門の三男、幼名六内、長じて綱正を名乗る。初め麻生藩江戸詰めとして勤務、後に故有って潮来村関戸家の養子となり、関戸利左衛門を名乗る。関戸家中興の士とされる一方、潮来村庄屋、年寄として地方の行政面でも多大な足跡を残す。又、優れた著述家としても実績を有し、「長勝寺物語」等、多数の著書を有す。

 

(註2)関戸重友(1628~1708年)

関戸如水の養父。麻生藩作事奉行 岡山孫左衛門安綱の三男 故有って関戸家を継ぎ利兵衛を名乗る。後に端沢と号し、長勝寺の再建、修復に力を尽す。

関戸如水は、島崎氏謀殺について、前記土子書簡の通り記述した後、玄番之丞自害、爾後の一族の動静について、次のようにのべている。

『(前略)嶋崎殿、斯くの如くならせ候間、玄番殿は降参にても、文禄三年午(1594)の夏中、是も和睦に事よせ、水戸にまねかれ、依って、三の丸坂口迄乗りかけ、件のしかけ見え候や、馬に乗りながら自ら頸をはねて死し給ふと云々。法名関宗道朝居士と号す。其の子国松、岩松とて、七十五才の男子弐人、母にははくおくれ孤児となる。土子、矢幡を始め、山本、桜井、須田今蔵、竹蔵などと云う者上下男女十三人、下総へ退き、廿余年を経て当地帰参して、兄弟両家を取立て候と云々。(中略)』(関戸本源記)

ここで、如水は、数多くの生き証人を登場させて、関戸玄番之丞の出陣の模様などを、更に詳細に次のように述べている。

『(中略)玄番殿水戸出立の刻、土子、矢幡、其の他の者共を召し寄せ、申され候は、「我此度、佐竹の為に滅ぶ。兼ねて覚悟の事なれば、少しも動ずることにあらず。我出馬致さば即ち屋形を仕廻い、目に立つ物をば心静かに取り仕廻い、日暮れに油断なく両人のせがれ並びに足よわ共を召しつれて、先ず矢幡は、津宮窪木水主方へ引き取るべし。土子は、残る者共に申し付け、夜中材物諸道具を引き取るべし。無益の諸道具をば家の中に積み、四方より火をかけ焼き捨つべし。見ぐるしき物少しも残し置くべからず。たれだればかり引きとり、残る物共には、それぞれに心付けをして、皆暇をとらすべし。返すがへすうろたゆることあるべからず。」と申し渡され候へば、土子、矢幡も是非御共の覚悟と見え候へば、又、玄番殿申され候は、「されば、今度一戦にもおよぶべき物なれば、両人左右にしたがへ、最期の一軍、目をおどろかし、名を後世に残し度きものなれども、此期に至り無益の事也。其程の事は、其方見とどくるにおよばぬ事也。此上は、両人のせがれ共の行末を見届け候処、千万の忠義也。今度は、山本三右衛門、須田今蔵、下部の吉平、権八、上下五人、すぐやかた出立、先の首尾次第、彼等四人は押つけ返すべし。」暇乞いの盃とて、大土器を取上げ、たふたふと引請け、土子、矢幡より順々に盃事之有り、黒き馬のふとりたくましきに、ふくりんの鞍をおかせ吉平、権八玄関までひき向い候へば、ゆらりと打乗りいざぎよく出立ち給ふ。其時の装束、上に黒羅紗の陣羽織、丸の内に、ききょうの大紋白くありありとぬい、すそに、山道にあられを紅白を以って縫いたるを召され、五尺余りの大刀を十文字に横たへ、丈ケは六尺に余り、色白く、年はいまだ三十余才、其の器量、骨柄、馬上すがた今見奉る様に覚え候と、見たる人、聞きたる人々、養父端沢、貞林、年さかりの此の物語り、其外、あわれなる物語り、今筆にも及びがたき事どもなり。いろいろたしかなる物語り也。其他召使いの物共とりどり話し、端沢重友は玄番没落より五十八年目、慶安四年卯(1651)の春、廿余才にして此家を継ぐ。此時、竹蔵七十六才、老女七十才。竹蔵は、木工殿の家に附いて行き八十六才にて死す。

(中略)但し、冬と云う老女は、利左衛門綱正が家に侍り、四ヶ年の老を養い、貞享四年卯(1687)四月十二日、行年百六十才にておわる。法名安宝比丘尼、即ち長勝寺関戸の墓所の片原に小石を立て置く也。(中略)』(関戸本源記)また、冬女について、如水は、別項に於いて、次のよう書いている。

『(中略)この冬と申す姿は、綱正此家に来て後にも、綱正が台所の方わらに伏所をかまい、尼に成りて四ヶ年の春秋を送りて、貞享四年卯の四月十二日に、行年百六才にして正念にりんじゅうをとげたり。其比の様体七八十才のたしかなる人の様体にて、少しも老衰の体もなく、五十七日絶食して水ばかり好みておわる。法名安宝禅尼、則ち長勝寺、関戸家の墓所の片原に小石を立て指し置く也。(中略)』(関戸本源記)

 このように、関戸如水は、多くの確かなる生証人達が直接、間接に見聞きした情報を基にして、丹念に此書を綴っている。

 前の土子書簡と併せ見る限りに於いては、島崎義幹(基)公の討死は、水戸三ノ丸坂口である。このことは、前年の天正十八年(1590)、佐竹氏が水戸に移城した歴史とも符節する。

 歴史が示す佐竹氏の戦略は、何れも各個撃破を原則として遂行されたもののようであり、ここでも結集した敵方の統合戦力発揮ができぬように施策したに相違ない。敵の友好陣営のみでなく、政・戦略面に於いて、君臣を分ち、公民を離す挙に出たことは容易に伺い知れる。

 義幹公の討死も、引き続き行われた徳一丸殿の奮戦・自害、将又、重臣達の対応等、島崎落城の歴史も、以上を前提として考察すれば、違った形で我々の心に蘇ってくる。

 主君が、卑劣極まる謀殺に逢っているにも拘らず、重臣以下が、落城の直後から、少なくとも平穏に生計を維持し続けていたと云う背後には、島崎氏が、佐竹氏に対して、ただ単に力が及ばなかったから、とは思われない。それ以外に、ある何事かが陰に存在していたのではないか、と愚考する。

 更に又、島崎家に小貫大蔵なる人物がいて、多年に亘り、彼の策略が多数を制して成功して行く道程には矢張り相互の軍事的関係のみではなく、何物かが係わっていた?と妄想している次第である。その2につづく

 

引用 「麻生の文化」第17号 発行 麻生町教育委員会・麻生町郷土史文化研究会


「小里(おざと)姫(ひめ)の塚」の紹介

2021-03-12 08:34:30 | 歴史

小里(おざと)姫(ひめ)の塚

潮来市浜一丁目大乗院島明神地区銀杏樹の下に小里姫の塚がある。もとは長勝寺の西側、薬師及(やくしおよび)道祖神(どうそしん)祠(ほこら)の処にあったものといわれる。

小里は、嶋崎左ェ門尉の妻、里見氏の女である。天正19年2月、嶋崎氏が佐竹の為に攻め落とされた折、小里は侍女、従者数人と逃れて此の地に至り、しばし芝生に息ひ居(そめ)る内に敵が近くに迫ったので「捕はれて恥をさらすよりは」と遂に自害して果てた。

生き残った者共が小里及び従者の死骸を其処なる畑地に葬って去ったものである。それ以来その辺の字を「小里」と呼ぶに至ったもの。

 大乗院過去帳に佐登美於里(さとみおぎと)姫(ひめの)命(みこと)。

天正19年、辛卯2月17日、嶋崎左ェ門尉妻と載せてある。