「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「潮来高校生の島崎城跡見学会」が開催されました。

2019-11-21 10:28:58 | 歴史

「潮来高校生の島崎城跡見学会」が開催されました。

11月14日(木)午後2時より、地元潮来高校一年の生徒21名が島崎城跡の見学に訪れて、山口会長より城跡の説明と案内を実施しました。

当日は、ドローンによる撮影も行われて、「島崎城跡」の研究課題に取り組むとのことでした。

先日の牛堀小学校の生徒の見学をはじめ、地元の子供たちへの教育に「島崎城跡」に注目していただき、益々私たちの環境整備活動を進める力になると思います。

画像紹介


潮来市民文化祭に展示しました。

2019-11-19 08:17:22 | 歴史

潮来市民文化祭に展示しました

茨城県潮来市日の出の中央公民館で11月8日~10日に開催された「潮来市民文化祭」にて「島崎城と島崎氏」の資料を展示しました。

今回は「島崎氏の残した文化財」として、茨城県指定文化財の「古面御面」(御札神社蔵)はじめ、島崎城主愛用されたという潮来市指定文化財の「蒔絵膳一式」(二本松寺蔵)、第13代城主の島崎長国像(長国寺蔵)を初めて潮来市民に公開しました。今回の展示に快く協力いただいた関係者に感謝申し上げます。

展示場には予想以上の市民が訪れていただき、興味深く展示物を観ていただきました。また、展示パネルや展示資料にも目を通されて「島崎城跡」についての市民への認識がより一層深まったもの確信しました、

島崎城跡を守る会の目的は、ただ単に城跡の環境整備を行うだけでなく、活動を通じて地域の活性化を図ることが目的であり、それには地域住民の理解を得ることが大切だあると思います。今後もこのような機会を捉えて、市民の理解を深めていきたいと考えております。

潮来市民文化祭画像

古面御面(茨城県指定文化財)



蒔絵膳一式(潮来市指定文化財)


島崎長国像(潮来市指定文化財)

 


【特別寄稿】島崎氏の歴史は潮来市形成の原点である。

2019-11-07 21:11:43 | 歴史

【特別寄稿】

島崎氏の歴史は潮来市形成の原点である。 

島崎氏の出自

常陸平氏諸流略系図

桓(かん)武(む)天皇・・・高望(たかみ)王(おう)(平高望)-国(くに)香(か)

貞盛・・・清盛-重盛

繁盛・・・重幹(繁幹)・・・多気氏

              下妻氏

              真壁氏

             -吉田氏=石川氏-馬場氏-大掾氏

島崎氏家紋

揚羽蝶 丸に花菱

島崎氏歴代城主

初代 高幹(たかもと) 父は宗幹で行方郡領主

宗幹 元歴元年(1184)源義経の軍に従い屋島にて討死す。

建久2年(1191)島崎城を築く。承久3年(1221)卒53才。

島崎郷の地頭として封ぜられる。

l  島崎郷 島崎、赤須、茂木、堀之内、築地

l  木田見郷 清水、永山、牛堀、上戸、富田

郷とは

古代の律令制により、地方行政組織の末端として、中世においても、国-郡=郷として農民支配の単位になっていた。

左衛門尉(さえもんのじょう)とは、

律令制詩下の官職で御所の左衛門府の判官で六位相当の官職。

2代 政(まさ)幹(もと) 小太郎左衛門尉。

寛元4年(1246)10月7日卒55才。

弟光幹(土子二郎) 矢幡氏

この時代に土子氏と矢幡氏の姓が出自として生まれたと思われ、島崎氏の一族である。

3代 長幹(ながもと) 次郎左衛門尉。 

文永元年(1260)7月23日卒47才。

長幹の弟より鴇田氏が始まり、島崎氏とは同族と思われます。

4代 忠(ただ)幹(もと) 平四郎左衛門尉。

母は佐竹家6代、佐竹長義 女 正応4年(1291)5月12日卒53才

5代 時(とき)幹(もと) 太郎安芸守。 

徳治元年(1306)卒 8月23日。

乾元元年(1302)鹿島大使となり、鹿島郡に進出する。

鹿島大使とは

毎年7月10日と11日の両日に催される鹿島社の国司の祭りで。一年の中でも最も重要な行事であった。

平安時代末、長寶元年(1163)までは、朝廷から奉幣使(ほうへいし)が派遣されていたが、のちに大使役が勅使に準じ、鹿島社に赴いて祭りを務めるようになった。

大掾職を継いだ常陸平氏は、大使役を職掌とし行方・真壁・小栗・吉田・鹿島・馬場の7家7郡地頭が代々巡役としていた。7年に一度順番を果たす為の経費負担は相当なもので、大使役は戦国時代まで続いた。

6代 頼(より)幹(もと) 太郎左衛門尉。

正慶元年(1332)11月7日卒45才。

7代 高直(たかなお) 太郎左衛門尉。 鹿島大使

貞治元年(1362)南朝正平17年3月9日卒 49才。

弟 盛時次郎 建武2年(1335)武州鶴見で討死 弟 繁定 下総で討死。

8代 氏(うじ)幹(もと) 小次郎左衛門尉。

至徳元年(1384)3月8日卒52才。

足利尊氏より一字を拝領。

9代 満幹(みつもと) 太郎左衛門尉。 鹿島大使

応永11年(1404)11月6日卒48才。母は武田信重女。

鎌倉公方、足利氏満より一字を拝領。

南北朝争乱では、北朝に属し、小田氏らと争う。応永5年(1398)尹良親王を擁した桃井和泉守を丸山に攻めている。

武田氏について

行方・鹿島郡内にあって、この地方ではただ一つの源氏の家系で、神明城と支城として小貫城を中心に活躍した。

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10代 重幹(しげもと)(利幹)太郎大炊(たろうおおいの)介(すけ)。

永享12年(1440)2月23日卒60才。

応永23年(1416)に上杉禅秀の乱に鎌倉公方足利持氏に属して軍功あり。

弟重時次郎彦四郎安定、重国三四右馬之助、駿河にて討死。

同じ年、玉造幹綱を討つ。重時次郎彦四郎が延方の鹿島吉田神社の御輿を新調している。

11代 成(なる)幹(もと) 為幹小太郎左衛門尉駿河守。宝徳2年(1450)4月5日卒。

-女子  島並国昌

-棟幹  次郎左衛門尉

-盛長  三郎主税介

鎌倉公方(古河)成氏の一字を拝領。

この時代に世人は島崎・玉造を行方二頭と称し、小高・麻生を加えて行方四頭と称した。

12代 国(くに)幹(もと) 太郎左衛門尉駿河守。文明10年(1478)5月13日卒。

利宗(吉幹)が母方岡田氏を名乗る。久慈郡に住す。

13代 長国(ながくに) 太郎左衛門尉播磨守。永正12年(1515)6月11日卒 65才。

長国は、島崎家中興の良将にして文武両道に達し神仏をと尊び民を憐み諸人その徳を称せざるはなし。

文明年中に奥州より英仲禅師を招き開山とし、上戸村に大興山長国寺を創建。

14代 安国(やすくに)(忠幹) 次郎左衛門尉入道宗庵。大永4年(1524)5月12日卒。

女子 佐竹右衛門室。

大永2年(1522)同族の長山氏を攻略する。

城主長山幹総、富田氏も攻めて滅ぼした。長山氏の落城が、日吉山王神社の祭礼中であり、酒宴の際だったので、長山城を「いっぺい城」と呼び、夜陰に乗じて、川を越えて襲撃をしたので「夜越川(よろこしがわ)」の名が付いたといわれる。この時代に島崎氏は、同族の他氏を圧倒し「国人領主」と呼ばれる在地領主に成長した。

鳥名木文書によると「初め行方郡の地は、大抵行方族人の領地だったが、忠幹(14代)以来、島崎氏の勢いが周囲を圧し「足利晴氏書を下して、之を禁ずれども終に制する能はず」としている。

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15代 利(とし)幹(もと)(安幹) 太郎左衛門尉大炊介。 弘治3年(1557)8月9日卒。

次男、利定大生氏を継ぐ。

大永4年(1524)利幹は、鹿島義幹の内訌に乗じて鹿島氏を攻め、鹿島郡をほぼ領有する。天文5年(1536)には、玉造に玉造宗幹を攻め、行方郡をほぼ制圧する。古河公方足利晴氏に対抗して佐竹氏と結ぶ。

鹿島氏の内訌(ないこう)

 鹿島治乱記によると、永正9年(1512)10月、鹿島景幹は米野井城(千葉県香取郡山田町)に木内右馬頭を攻めたが討死。その後、弟の義幹が城主となったが、主君としての器量に欠け、玉造源蔵という人物を重く用いて悪政を行った為、鹿島の宿老、小鹿野・松本・吉川等は義幹を追放し、大掾常幹の弟小次郎が通幹と名乗って新城主となった。この時、義幹の間に戦いになり、景幹の妻の兄にあたる大掾忠幹(石岡城主)鹿島氏の同族の島崎利幹など行方郡諸豪族3000人が義幹を打ち破り義幹は討死。これにより鹿島城は実質的に島崎利幹が長きに渡り占拠した。

16代 氏(うじ)幹(もと)(安利) 太郎左衛門尉大炊介。

天正13年(1585)7月18日卒。

永禄5年(1562)小田氏治と長者原に戦う。

元亀元年(1570)烟田氏を攻略し、天正9年(1581)には、江戸重通とともに鹿島氏を撃つ。この時、安房城・徳宿城も攻略か。

17代 義(よし)幹(もと)(安定) 太郎左衛門尉。

天正19年(1591)2月9日、

佐竹義宜のために上小川頃藤において謀殺される。

法名、桂林梁白禅定門(大掾系図) 圭林白公大居士(長国寺過去帳)

-某  太田氏と称す 天文5年(1537)53才

 -光利 岡田氏と称す 天文8年(1539)51才

天正12年(1584)に麻生城を攻略し、里見義弘の弟の義政を井関氏と改めて城主とする。麻生城主、麻生之幹 麻生氏は江戸崎城主土岐氏に従属した為に、同17年(1589)には、小高城を攻める。

坂氏兄弟討死 坂隼人、源三郎。

l  島崎義幹(安定)子

徳一丸  天正19年2月9日卒13才。

女子   義幹蓮遭難の時7才、家臣坂藤次右衛門に守られ岡田氏に嫁す。

吉晴   父遭難のとき幼少のため、家臣佐藤豊後守に守られ多賀郡小豆洗に土着し日立市に多い島崎氏の祖となる。

 

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天正18年(1590)覚書

 天正18年(1590)4月下旬、小田原城に至り、殿下様(秀吉)御動産。

 佐竹義宜、国綱後進上御礼御申の次第の事。

  1. 義宜        帷50 御太刀、御馬2、金50
  2. 御東(義久) 御太刀、馬1疋、金5
  3. 御北(義憲) 御太刀、馬1疋、金2
  4. 御南(義尚) 御太刀、馬1疋、金2
  5. 宍戸四郎   太刀、馬、金1
  6. 太田景資   金1
  7. 額田     金1
  8. 島崎     太刀、馬
  9. 長倉義興   太刀、馬

10. 真壁房幹   太刀、馬、金2

11. 茂木治良   太刀、馬、金1

12. 木場義宗   太刀、馬、

13. 千本      金

天正18年、佐竹義宜、宇都宮国綱は小田原の豊臣秀吉に、御礼の為参上した時、島崎義幹は義宜の家臣12名の中で8番目に進物を献上している。

鎌倉府奉行衆

鎌倉公方と強固な主従関係で結ばれた直臣団で、守護の統制を受けないなど特権を認められた。行方鹿島郡では島崎氏だけである。

宍戸氏(茨城郡)、筑波氏・小田氏(筑波郡)、島崎氏(行方郡)

島崎氏と海夫について

海夫とは海の職能民と位置付けられ、根拠地は津と呼ばれる港でそこに集落を作り、南北に鎮座する香取鹿島の神々を豊漁と水上交通の安全を祈る守護神として崇めていた。

常陸・下総の海夫は、貞治5年(1366)香取社大禰宜大中臣長房が出した領有権を認めた「安堵申状」によれば、香取社に対し魚介類を「御神祭料」いわゆる供祭料で寄進するようになり、香取大禰宜の統轄下に置かれるようになった。

氏知行の津として、島崎津・牛堀津・潮来津・延方津など20位の津を所有していたと思われる。この時代の津の商業集落都市としては、潮来津・大船津・古渡津・佐原津などがある。

この様に、当時香取海と呼ばれていた津からの通行税・船税など、莫大な収入を島崎氏にもたらしたと考えられ、潮来長勝寺には、鎌倉時代千葉一族の木内庄の領主、木内胤長が鎌倉幕府の得宗、北条高時と共に寄進した梵鐘(国指定文化財)がある。鐘の銘の撰文は、円覚寺の清拙正澄で「板久の津」の様子を「客船夜泊常陸蘇城」と詠み、当時の潮来津は中国の水の都蘇州と同様に船舶の往来が絶えず、にぎわっていると詠んでいる。

 

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島崎氏家臣団   永禄12年(1569)

大平内膳 大野与一 茂木倉之助 大平主馬 今泉将監 土子伊賀守 柏崎隼人 窪谷四方之助 塙外記 

鴇田兵庫 鴇田伊豆守 柏崎六左衛門 山本玄蕃 佐藤豊後守 寺田与兵衛  大川七郎入道 山野仁兵衛 鈴木主水

萩原半兵衛 米川佐渡守 原田徳太郎  原弥兵衛 瀬尾茂兵衛 茂木半之助 榊原喜左衛門 新橋道斎 根本与四郎     

榊原弥次右衛門 森伊左衛門 宮本弥右衛門 人見久兵衛 平山藤蔵 小山為蔵   小幡勘介江口三太郎 大川又五郎

片岡文蔵 矢口新五郎 藤谷半助  佐藤伝内 石神弥左衛門 山本治兵衛 山口三太郎 小浦勘介 横山近江守      下河辺左近 矢幡刑部 若巻勘解由左衛門 大生紀伊守 浜野但馬守 林兵部   江寺式部 佐野帯刀柏崎主人

土子越前守 菊地河内守 坂隼人  小貫助左衛門 土子彦兵衛 宍戸五郎左衛門 戸塚源左衛門 森隼人      茂木九太夫   茂木半蔵 大生市正 柏崎小五郎 井関舎人 吉川刑部 榊原重兵衛  浜野大蔵 津賀彦七 飯田源内

飯笹源兵衛 石津健之助 新橋五郎右衛   新橋作助 横山戸内 横山孫四郎 窪谷八左衛門 小源源兵衛  

今泉太郎左衛門   浦橋次郎左衛門 内田主税 前島次衛門 鴇田美濃守

以上、家臣団の名前を見ると現在も潮来市内に多く見られ活躍されているのが分かると思います。その中でも

関戸家(潮来村) 宮本家(潮来村) 窪谷家(潮来村)

榊原家(延方村) 柏崎家(延方村) 江口家(辻村)

これらの家系が江戸時代に庄屋になっております。

島崎氏領土

島崎  上戸  永山  堀之内  石神  矢幡

大生  水原  板久  辻    延方  築地

以上、12ケ村の他、第17代城主島崎義幹の時に、麻生城を攻め滅ぼしてその地を領有した。

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島崎氏の兵力

島崎氏の石高は通常言われている4万5千石だと、1万石250人として、1100~1200人位だが、天正15年(1582)全国的軍役15才~70才迄1万石1000人として、4万5千石だと4500人になる。

しかし、元禄年間(1688~1704)元禄郷帳による石高は、行方郡89ケ村

総石高4万3200石、ちなみに鹿島郡124ケ村総石高4万4100石となり

当時島崎氏の石高4万5千石あったとは思われません。

2万石位として、250人~500人の動員力として500人~1000人位と思われます。当時、500人~1000人動員できる豪族は鹿島氏だけと思われます。

島崎氏の支城

弁天山城  関戸玄蕃頭

大生城   大生弾正

矢幡城   土子美濃守

長山城

富田城

麻生城   里見義政(のち井関氏と改める)

弁天山城は調査をしたが、城としての遺構が見られず城があったか不明。大生城は荒れているが城としての遺構は土塁が少し見られる。矢幡城は土塁が素晴らしい状態で残っていたが、ゴルフ場の造成により破壊されてしまった。

長山城は土塁・空堀など良い状態で残っている。今後、長山城は是非とも調査したい城跡である。

 

l  参考資料 島崎盛衰記

          島崎氏由来記

          鹿島治乱記

          潮来町誌

       

 【発行】山口晃男

〒311-2436

茨城県潮来市牛堀70

島崎城跡を守る会会長

発行日 令和元年7月1日

 

 

 

 

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潮来市立牛堀小学生の「島崎城跡見学会」が開催されました。

2019-11-06 20:32:10 | 歴史

茨城県潮来市立牛堀小学生の「島崎城跡見学会」が開催されました。

秋晴れの11月6日、午前10時30分より、潮来市牛堀地区の牛堀小学生39名と先生4名が島崎城跡に訪れて見学会を行いました。山口会長はじめ3名の会員の案内のもと、御札神社のある「一の曲輪」をはじめ、「水の手曲輪」の大井戸や素晴らしい見晴らしの「二の曲輪(西)」や、大堀を見下ろすことのできる「八幡台」や空堀を見学しました。見学の最後には質疑応答を行い、子供たちの関心の深さを知ることができました。大崎校長先生から、「牛堀小学校の卒業生には、地元の歴史(特に島崎城)について学んでもらい、郷土愛を持つよう指導していきたい」とのご意見をいただきました。「また今後は、嶋崎城の環境整備活動に生徒たちも参加して作業を通じて関心を深めたい」との貴重なご意見を伺いました。島崎城跡を守る会では、今後も子供たちへの教育の一環として「城跡見学会」を積極的に実施していきたいと思います。

【島崎城跡見学会の様子】


島崎城跡の環境整備活動を行いました。

2019-11-04 14:01:30 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

10月26日(土),11月3(日)に会員約30名が島崎城跡の草刈りや伐採を行いました。

今秋の台風と大雨により、島崎城跡も大変な影響を受けて倒木や木の枝が沢山落下して城跡は荒れてしまいましたが、会員の懸命な復旧整備作業により以前の状態に戻りました。

11月6日には、地元の牛堀小学生が歴史授業の一環として「島崎城跡見学会」が開催されることになりました。滑りやすい坂道や大堀を望む場所には、危険防止のロープを張り対策を立てました。

今まで環境整備作業は夏の時期は行いませんでしたが、毎月定期的に作業を行わないと環境整備が追い付かない状況になっており、来年は毎月定期的に作業が進められるように再検討してまいります。