「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」二の曲輪内の埋没遺構

2021-07-31 14:05:13 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。

二曲輪内の埋没遺構

 近世以後でいう二の丸は、島崎城には二つある。ひとつが八幡台がある東二曲輪で,馬出で一曲輪(本丸)と間接的に結ばれ,もうひとつが西二曲輪で,一曲輪の西に同じレヴェルで、堀切を隔てて位置する。東西ふたつの二曲輪は第4年次(5次調査)の調査対象地で,今般は本格調査を前に試掘調査(予備調査)を実施した。調査は,馬出曲輪空堀調査区の作業と並行するため,東二曲輪の南側で動きの取り易い個所にした。

 調査区は、10mに12mの区画とし,東二曲輪 のプランにそった区画とした。遺構面までは50 cm~60cmの深さで,層位は一曲輪と同じ三層序であった。出土遺構としては、東側が叩き土間 状遺構で、赤土を壁土状にして敷きつめ突き固 め、土間にしたとみられる遺構である。どの範囲まで土間があったのかは不明であるが,図7 に示した線の東側が土間状遺構で,北側と中央部に二つのカマド状遺構が検出された。おそらく台所・清所的な建築の一部であったとみられる。

 土間状遺構は、ピット(柱穴)が,ボケてしまう場合が多い。柱材をぬきとったあとに土間の壁土が流れ込んでしまうからである。東と南に三つのピットが検出されたが,そのつながりは不明である。

 土間状遺構の外側(西側)には,6ヶ所の方形に結ばれるピットが並ぶ。しかし,これだけの狭い範囲なので、その性格を明らかにするには至らなかった。「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」終了


「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」馬出曲輪空堀の調査

2021-07-31 13:51:27 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。

馬出曲輪空堀の調査

 一曲輪と東二曲輪の中間に位置する馬出曲輪は、二曲輪より直接一曲輪に入れないよう小さな一区画をつくったものである。二曲輪からはカギの手の力の平面をもつ幅1.5mほどの土橋が馬出曲輪内とつづくだけで,このカギの手土橋を渡らなければ、馬出さらに一曲輪に至ることができない。調査はこの馬出曲輪の空堀がどのような構造であったものか,とりわけ堀底の様子を知るため、空堀の延長方向に長さ14m, 幅2.0mの底部検出用のトレンチを設定,中央部(南北方向)に6.5mの塁壁と底のつながりを調査するトレンチをクロスさせて,調査にあたった。 調査の結果、一曲輪北側の堀と同様に、あまりに多量の遺物が出土して、関係者を驚かせた。 出土遺物は圧倒的に東側に集中しており,常滑窯の大甕が二箇体以上棄てられていて,その周囲には、完型のカワラケが多数出土,トレンチ内の遺物は112点を数えた。

 堀の形態は戦国時代の城郭の空堀の最も一般 的な逆台型の箱堀といわれるものである。しかし,発掘の結果,堀底は同じレヴェルでなく、 東西方面の中央部が1m近くも窪んで、西側では1.5mも急勾配(70度)でさがっている。西側の急激落ち込みは、馬出曲輪西側空堀(大半が埋め立てられており,本丸北側の濠<前述の発掘した水堀につづく>)に接続するためとみられる。従って、西側に延びるにしたがってさらなる落ち込みがあったとみられる。⇒次回は、二の曲輪内の埋没遺構について掲載予定。


「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」一の曲輪外周堀の発掘

2021-07-30 14:04:16 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。

一曲輪外周堀の発掘

 島崎城の特長のひとつは砂岩層を刳り貫く型で掘りあげた空堀・堀切が幾重にもめぐり,まことにみごとで堅固にして厳然たる景観を呈していることである。平成元年度(3年次)の第 4次調査では,一曲輪北側外周空堀と馬出曲輪 北側空堀の二ヶ所にトレッチを設定、旧状を明らかにすることなった。

水堀だった一曲輪外周の堀

 一曲輪北側は水の手曲輪と馬出曲輪の間に空堀が残る。馬出曲輪側の堀切りは,昭和55年度に埋められ現状のように浅い空堀となっている。水の手曲輪側は、岩壁を直角状に堀り込む型で堀がよく保存されている。しかし、あまりに急な塁壁斜面(急勾配)があるため、鬱蒼たる自然林の根により, いたる箇所で砂岩が崩壊している。そこで,調査トレンチは最も欠落が少ない東寄りに,幅2 m,長さ7mのトレンチを堀の延長と直角に一本設定した。

 発掘作業に着手してまもなく、深さ70cmの褐色土辺りから水が湧き出し,その下層の明褐色層は,かなりのヘドロが混入しており,1m以下を掘り進むため、排水ポンプを現場に持ち込み,作業進行にあたった。1m20cm辺りからは、まったくのヘドロ層となって多数の遺物が埋もれている。作業は遺物レヴェルをのこして、むずかしい発掘を行なった。ヘドロ層内には、カワラケ, 染付けなど陶磁器・漆器・鉄製品および木材片・杭・種子などである。なかでも乱杭が多数みつかり、堀底に進入を防ぐための杭と横木・逆茂木が設置されていた訳である。このように木材が原形のまま保存されているのは、廃城前から今日までかわらぬ水の中に埋没していたことを示し,今の空堀は,濠としての水堀だったことが判明した。

多量の遺物が語るもの 

 多量の出土遺物の中でもト筮もしくは呪いに用いた天地、鬼などを墨書した大型カワラケ、「大明」の二字が判読できる景徳鎮窯の染付皿が出土したことは注目される。このように、たった幅2mのトレンチ内に100点以上にのぼる遺物が出土することは、きわめて注目されてよい。おそらく火災の折か, 落城(天正19年の佐竹氏入部の折)した折に, 一曲輪内から投げ込まれたためであろう。

 乱杭にしても、出土遺物の数々からは、天正19年2月,島崎安定・徳一丸が佐竹義宣により殺害され、大挙して島崎城にせまった佐竹勢が, 島崎城に火を放って落城させたであろう想像をかきたてる。城内にあった島崎氏一族と家臣たちは,大挙して攻めて来る佐竹勢を前に、また落城する折り、悔しまぎれにいろいろな物を, この堀に投げ入れたものであろう。同様な多量の遺物検出は,次に述べる馬出曲輪北側空堀でもいえるのである。

なお,佐竹氏時代には,水堀ではなく、1m ほど埋め立て、赤褐色土層を堀底にしていたとみられる。

⇒次回は馬出曲輪空堀の調査を掲載します。


「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」石塔群集積遺構

2021-07-29 16:39:04 | 発掘調査

昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。

 

石塔群集積數遺構

 一曲輪北側に通称「御鐘台」と呼ばれる櫓台もくしくは大規模土塁がある。御札神社社殿・ 本殿を昭和55年に改修した折、中央部を資材運搬のためブルドーザにて拡幅し、崩した土砂を北側の堀切りに埋め立て,現状のようになっている。 第2次調査の折,この拡幅道左右の東側を削りセクション面の測量にあたることとした。思いがけず,セクション面検出のため基底部を掘り下げたところ,石塔が並べられられている遺構が発見された。その出土状況は,『島崎城I』で述べた通りである。今次調査ではこの石塔群の埋没状況と遺構性格を解明するため,御鐘台の現状遺構を保存するため、敷部のみ、坑状に掘り貫くこととして,作業にあたった。

 発掘調査は,鉄パイプと道板で落盤を防ぐため補強しながら埋没石塔群の全容を検出した。 出土状況は写真ならびに図5に示した通りで,予想外に奥深くなく凡そ1mで全容が現れた。 出土した石塔は,板碑2点,五輪石塔材40点であった。遺構としては,石塔を二列に並べ,中央に25cmの空間を設け,この25cm幅の空間天部を板碑と五輪笠石・基部石で蓋状にかぶせる暗渠状の構築物である。確かに石塔集積は左右と天部からなる中央部が空間となる暗渠状であるが,石積左右には、藩としての穴状遺構は検出されず,水が流れた痕跡は見い出せ得なかった。以上の結果から,調査団では,石塔群集積敷の構築遺構は,暗渠状遺構であるが,排口機能は不明(すなわち未完成か,あまり使用しなかった)であるという結論に達した。

 なお,これだけの石塔群が集められたことは注目されることである。石塔,板碑の造立者を考えると,島崎氏を置いて考えられない。島崎氏時代に,このような先祖を供養するための石塔を暗渠に転用することは考えにくく,天正19 年(1581) 島崎氏を滅亡させた佐竹氏によって, 島崎城を占拠,堀之内大台城築城工事期間に 築したものと推定される。堀之内大台城は慶長元年(1596) 完成したとみられることから, 竹氏(城代は小貫頼久)は五年間島崎城にあったと考えられる。

 なお,堀之内大台城発掘調査では、主殿と城門礎石群はすべて,五輪塔・宝筐印塔・板碑の石塔の転用であり,今次調査の石塔集積遺構と同じ転用方法である。このことからも島崎城一曲輪を中心とした最終使用時期は、慶長元年もしくはその前年の文禄三年と認められるのである。

⇒次回は一の曲輪外周堀の発掘を掲載予定。