約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。
【島崎盛衰記その7】
銃声一発、義幹死ぬ 保内山に佐竹の伏兵
佐竹義宣の奸計に対しては、臨機応変の方便をめぐらすべしと、島崎城をあとにした島崎義幹は、義宣が屈強の精兵五万余騎を配置した保内山(常陸太田市周辺の台地と思われる)にさしかかったのが2月9日。ふもとにさしかかると、耳をつんざく銃声一発。大将義幹きっと見て、伏兵ありとおぼえたり、者ども用意せよと命令する間もなく、つづいてとんできた鉄砲玉に胸板を打ち抜かれたからたまらない。馬から真っさかさまに落ちて、その場はおおさわぎ。
義幹は苦しさにからだをよじりながら怒り、家臣にいった。「われ老臣の謹言をきかずして、かかる禍を引き起したり。後侮もはやすべなし。にくき佐竹のふるまいかな。なんじらここを切り抜けて島崎へ帰り、倅徳一丸にこのことつげ知らせ、わが無念を晴らすべし。かえすがえすも無念なり」
そして死んだ。主君に先だたれた家臣とその郎党、保内山の敵陣めがけてのぼりはじめた。待ってましたと佐竹勢、鉄砲の筒先をそろえ、ねらい打ち。武具らしいものも持たず、平服だった島崎勢は、この鉄砲玉を防ぐこともできず、バッタバッタと倒れるばかり。
だが、瀬能、大川、榊原、森、宮本の勇士、ともに死憤の猛威をふるい、とびくる矢玉を切り払い、わき目をふらず弓組の中へ突いてかかる。敵将戸村重太夫、馬にまたがり、逃すな、洩らすなと陣内を叫び回る。原、新橋、根本、平山、小幡、江口、人見らは、死んで帰るなの言葉をおめき叫んで切っている。
一方の島崎城では、大平、土子、などの老臣があい寄り「このたびの参会の催し、いかんとも心得がたし」と、引きつづき評定談義にふけっていたが、そこへ保内山から注進の兵がまい戻り、老臣たちの危惧も現実のものとなった。義幹の長子徳一丸はなげき悲しみ、まだあどけない瞳に涙をため、怒った。で、ただ一騎に打ちまたがり、かけだそうとするから諸老臣はあわてた。
「勝負なれたる大敵の中へかけいれば、たちまち敵のため討ちはたされんこと必定」といさめたものの、徳一丸はききいれず「父母の仇は、ともに天をいだかずといえり。われ一人なりとも敵陣へかけいり討死せん。なんじらよくよく城を固め、のちの合戦に向かうべし」といい残し、一むちくれて保内山にむかった。
すぐさま、徳一丸のあとを追ったのは塙外記、井関舎人、吉田刑部、今泉源左衛門、森隼人、山口三郎兵衛、菅谷半平、大川市之亟、小浪勘助、茂手木判蔵、今泉太郎左衛門、浦橋平衛門、浦橋次郎左衛門をはじめ屈強の勇士50余人、雑兵600余人。
島崎盛衰記 その8につづく。
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