「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

創作童話(3) 権現山のお話「天狗さまの恩返し」

2021-10-29 16:52:32 | 創作童話

天狗さまの恩返し(権現山のお話)

むかしむかしのお話です。

潮来市の牛堀は香澄(かすみ)の里と呼ばれていたころのことです。

遠くから見ると、雲と水面が重なりあってかすんで見えたそうです。

その頃、牛堀の権現山には大きな松の木がたくさんあり、遠くの方からも見えたので、大きな船の船頭さんもその松を目印にして船を動かしていました。

そのころ牛堀の村の中に貧しい一軒の家がありました。

おとうさんは早く亡くなり、年老いたおかあさんと男の子が一生懸命に庄屋さまの家で、庭のそうじやお百姓の手伝いをして働いていました。

男の子の名前は与作と言って十歳位でした。

「おっ母さん、俺の家でも田んぼが欲しいな、少しでもいいから、その田んぼでとれた白い米をおっ母さんに食べさせてあげたいな」と言っていました。

この二人が住んでいる所は、村はずれの川のすぐ側の作物が何も育たない低いところで、大雨が降ると寝るところまで水が入ってきてしまう所なのです。

庄屋さまがこの低い土地は、誰の土地でもないからここに住んでいい、まわりの葦(よし)を刈って、暇な時に村の道を直したり村の道の草刈をして、それを埋めて土地が出来たらお前のものだ、と与作に言ってくれたのです。

夜は仕事の帰りに道を直して、余った土をざるに入れて運んでいるのですが、大雨が降るたびに流されてしまい、なかなか田んぼになりませんでした。

おっ母さんはまわりの葦(よし)を刈って、それでよしずを編んで村の人と食べ物と交換していました。

与作が十二歳になったとき、庄屋さまから新しい仕事をやれと言いつけられました。

それは、松の木が沢山ある権現山のふもとの三熊野(みくまの)神社のおやしろの庭掃除をすることです。

そのお社(やしろ)には、霞ヶ浦を安全に渡ってきた船の船頭さんがお礼にお参りしたり、今から霞ヶ浦を越えて土浦の方へ行く船が安全に行けるようにお参りするのです。

庄屋さまは与作に、お社(やしろ)の草取りと松の落葉を掃いてきれいにしろ、落葉は持って帰って焚き木にしていいと言ってくれました。

与作は喜んで朝は暗いうちに、夜も仕事が終わってから星のあかりでほうきで掃いて一生懸命に働きました。

お社は与作のおかげでだんだんきれいになり、船で来た旅人も気持ちよく休んでいくようになりました。

掃除した落葉は、背中に背負って家に持ち帰って低いところを埋めたり、焚き木にしたりしました。

この与作のまじめな仕事を、権現山の一番大きな太郎松の上に住んでいたカラス天狗が見ていたのです。

だれも天狗さまが松の上にいるとは思っていませんし、その姿を見た人はいません。

しかし、昔から権現山の太郎松の上の方から、大きな光の玉が安波の大杉神社にまっすぐ矢のように飛んで行ったり、大杉神社の森から光があっと言う間に太郎松まで来てしまうと言われていました。

誰にも見えないけど、太郎松には大杉神社生れのカラス天狗がいたのです。

そして、霞ヶ浦を渡る船があれば、天狗の大きなうちわでヒョイヒョイとあおいで風を送ってやり、反対に牛堀に来る船が見えたら、うちわで風をよんでやり安心して牛堀に来られるようにしたのです。

そのために、牛堀には沢山の船が集って来るようになりました。

カラス天狗も三年くらい太郎松に住んで、その次に潮来の稲荷山に行こうと大杉神社の大天狗と相談していたのです。

しかし、与作がよく働き、きれいなお社にしてくれるので、ついつい永く住み着いていました。

そして、天狗さまは自分の体の羽根を良く手入れして無駄毛を抜いてきれいにし、速く飛べるようにしていました。

天狗さまの無駄毛は落葉に混ざり、お社に落ちてそれを与作が掃いて集めて、家の低いところに埋めていました。

天狗さまの羽根は、めっぽう水に強くて水に落すと浮いて沈みません。

カラス天狗は、与作がお社をきれいにしてくれることに感謝して、松の上から羽根をたくさん落とし、与作の田んぼが水に浮くように応援していたのです。

それを知らない与作は、落葉と混ざった天狗の抜け毛を一生懸命かき集め、川の側の低い土地へ運んでいたのです。

そのうち、小さな田んぼが出来ました。

与作は嬉しくてたまりません。そして村の家の田植えを頼まれたとき、少しの苗が余っても貰って来てその低い田んぼに植えました。

庄屋さまは「与作、いくら植えても大雨が来たら水に埋まってしまうぞ」と言っていました。

おっ母さんも「与作、よしきりの巣が高いところにかけてあるので、今年は大雨が来るぞ、骨を折っても水に浸かって米は採れないぞ」といいました。

与作は村の皆に笑われようと、少しずつ貰った苗を天狗の羽根の混ざった田へ植えてみました。

そして夏が過ぎ、秋の採り入れ時が近くなって来ました。

与作の低い小さな田んぼも稲が実をつけました。

しかし、お盆が過ぎもう少しで稲刈りというとき、大雨の日が一週間も続いたのです。

そのうち、川の水がだんだん増えて大洪水になってしまったのです。

村のみんなの畑や田んぼや家までも水に浸かり、みんな権現山に登って水が引くのを待っていたのです。

権現山から村の方を見ると、一面、海のようになってしまいました。

ほとんどの田んぼが水の下になってしまいました。

水の下では稲がくさって収穫が出来ないのです。

庄屋さまも皆も、がっかりして今年は食べる米どころか来年の種子も採れない、どうしようどうしようと頭を抱えてしまいました。

権現山から見ると、今の佐原の方まで田んぼが水に浸かって海のようになっているのです。

しかし、落ち着いて水に埋まった村の方を見ると、なんと一面の水の中に黄色く色づいた稲の小さな田んぼが、島のように浮いているのが見えるのです。

何だあれは、村の人々はいっせいに見ました。

「あれは与作の田んぼだ、何であんな低い田んぼが浮いているんだ」みんな興奮しています。

枯れ木や草を下にすてて、カラス天狗の水に強い羽根を下にしているので、田んぼが水に逆らわず浮いてしまったのです。

そして、幾日かが過ぎ、水が少なくなり与作の田んぼは稲刈りが出来ました。

みんなが手伝いに来てくれたので米も採れました。

この年、他の村では米が採れず種子も無くて困ったそうです。

牛堀の村では、与作の田のおかげで、米の種子が採れ次の年も田植えが出来たそうです。

この年、他の村では米が採れず種子も無くて困ったそうです。

牛堀の村では与作の田のおかげで、米の種子が採れ次の年も田植えが出来たそうです。

権現山の庭掃除を与作が一生懸命やったので、天狗さまが自分の抜け毛や無駄毛を落してやり、それで田んぼを作ったので、与作の田は水に埋まらないで浮いて稲の収穫が出来たのです。

そのあと与作は自分の田を持ち、村の人たちに尊敬されて暮らしたそうです。

天狗さまのは体の毛をたくさん抜いてので、生えてくるまで遠くまで飛べず、大杉神社まで行くことが出来ませんでした。

その後、天狗さまは稲荷山へ行ったようですが分かりません。

 

おわり

 

※「天狗さまの恩返し」

一億円ふるさと創生事業

牛堀町募集 応募「大膳池の総合開発案」 牛堀町

採択1位 (県民の森基本構想になる)            茨城県

 

 

 

 

 


創作童話(2) 「キツネの恩返し」

2021-10-29 16:14:10 | 創作童話

キツネの恩返し

むかしむかし、牛堀町(現・潮来市)の島崎にお城があった頃の話です。

このお城は山の上にあり、この山が北の方に続いているほか、まわりを沼地に囲まれていたため、攻めづらく、また殿様が良い人だったので村の人も安心して永い間、この村を治めておりました。

このお城から南の方の沼地を越したところに山があり、藤ヶ崎と呼ばれておりました。

その間は沼地の中でも一番せまく三百メートル位しかありませんが、泥が深く底なし沼と言われていました。

この藤ヶ崎の山がイタコ村へと続いております。

ある日、殿様は家来の与兵衛に「イタコ方面を見てくるように」と申しました。

与兵衛は供の者を連れないで「今日は藤ヶ崎の抜け道を調べながら行こう」と考え、一面のよし原の沼地へと入って行きました。

この沼地の道は秘密になっていて、お城が敵に攻められた時の逃げ道にするため、殿様と与兵衛しか知っている者はありません。

泥の中に大きな木が三本ずつイカダのように組んで埋めてあり、巾が一メートル余り、馬一頭がやっと通れるくらいでした。

木の間からもヨシが出ているので、よほど注意して行かないと泥沼に落ちてしまいます。

また、この道はつづら折れの細工がしてあり、左に折れたり、右に折れたりと三度も曲がって藤ヶ崎にたどり着きます。

まるで迷路のようになっていました。

与兵衛が注意してこの道を渡り、藤ヶ崎の坂道を登って行きますと、キツネが猟師の矢を受け血を流して苦しんでいるのが目に入りました。

そのまわりには二匹の子ギツネが心配そうにみつめていました。

与兵衛が近づいても逃げようともしません。

与兵衛はその矢を早速抜いてやり、血止めの薬草を見つけて塗ってやりました。

子ギツネはじっとそれを見つめています。

そして近くにあった観音堂のこわれそうな扉を開けて、その中にキツネをねかせてやりました。

「これで猟師がきても観音様に逃げ込んだキツネを殺しはしないだろう」と思い、そのままイタコ村へ行きました。

米の取れ具合や人々のうわさ話を聞いて、帰りに油揚げとメザシを買ってまた観音堂に戻って来ました。

キツネは、思ったよりも元気になり首を持ち上げて「ウーッ」と歯をむき出してにらんでいます。

「これこれ助けてやったのにその顔はなんだ、ほれ元気になるようにこれを食べろ」と油揚げとメザシをおきました。

二匹の子ギツネはすぐメザシに飛びつき食べ始めました。

親ギツネはそれをじっと見ています。

「水も置いていってやろう」と腰の水差しから御堂にあった平らな器に水をあけてやりました。

そして夕暮れの中、朝渡ったと逆に藤ヶ崎から島崎のお城へと帰りました。

それからキツネのことが気になり何度も観音堂へ様子を見に出かけました。

すっかり元気になったのでしょう、キツネの姿は見えませんでした。

ある時、与兵衛はイタコ村から延方村へと行き、帰りが遅くなって夜中になってしまいました。

沼地の中の道は泥に落ちる心配があるので用心深く渡り始めると、白い提灯が三つ足元を照らしているのです。

一つが道の真中、あと二つが道幅を照らすようにして与兵衛の先を動いているのです。

よく提灯を見てみると、なんとキツネがススキの大きな白い穂をくわえて、与兵衛が沼に落ちないように道を教えてくれているのです。

「この間のキツネの親子だ、感心なものだ」と思っていました。

そして無事に暗い夜の沼地を渡り終えました。

それから数日後のある晩、観音堂の前に強そうな武士たちが集まり、島崎城を攻める相談をしていました。

その中の一人が島崎城を攻めるため、しばらくの間この付近の様子を探っていたのでした。

どうしても渡れないと言われている藤ヶ崎から島崎への沼地に間道があることがわかったのです。

馬のひずめの跡が見つかったり、島崎の家来が行ったり来たりしている姿も見つけていたのです。

そして今夜、攻め込むことにしたのです。

武士たちは静かに沼地に集まりました。

そして、まわりをよく見ると都合の良いことに、白い提灯のようなものがいくつも島崎への道を照らしてくれていました。

よし、この道を通って一気に城まで攻めることができるとばかり、五十人位の武士が先を争って駆け出しました。

ところが、駆け出した武士たちは、ドボンと何人も泥沼の中へ落ちてしまいました。

なぜなら、その白い提灯は一番深い沼地へと続いていたのです。

島崎の方向を示していたはずの提灯の光は、あっと言う間に消えてしまい、もとの暗闇になってしまいました。

キツネがくわえていたススキの穂を落としたのです。

ほとんどの武士は沼の中に落ちてしまい、泥だらけになって動けなくなり、また他の者は逃げ帰ってしまいました。

この話をあとで知った殿様は大変よろこび、与兵衛に観音堂一番の土地を与え南の守りとしました。

そして島崎城の稲荷様のキツネはススキの穂をくわえた姿でまつってあったそうです。

おわり

 

※「キツネの恩返し」

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牛堀町募集 応募「大膳池の総合開発案」 牛堀町

採択1位 (県民の森基本構想になる)            茨城県

 


創作童話(1) 大膳池の民話「蛇の恩返し」

2021-10-29 10:02:28 | 創作童話

蛇の恩返し(大膳池の民話)

むかしむかし、常陸の国は行方の郡のある里(むら)に、じいさんとばあさんが住んでいました。

ある日のこと、じいさんは山に芝刈りに、ばあさんは川にせんたくに行きました。

じいさんは一生懸命に芝刈りして、お昼になったのでお弁当を食べようと思い、弁当箱を開けてみると箸(はし)が入ってませんでした。

じいさんは、しの竹を切って、箸にしようと思い、近くにあるしの竹を切ろうとすると、そこに一つの白い卵がありました。

じいさんは、その卵を夕方大事に持って帰りました。

ばあさんに見せると「じいさんや、何が生まれてくるか分からないけど、食べないでかえしてみよう」と、ばあさんはその日から三日三晩、卵を温めてあげました。

四日目の朝、その卵から、なんとヘビの赤ちゃんが生まれました。

じいさんとばあさんは、子供がいなかったのでそのヘビの子供を育てることにしました。

そして名前を修三とつけました。赤い木のおわんに水をくんでやり、遊び場所にしてやりました。小さな虫やかえるを取って来て食べさせました。修三は、じいさんとばあさんが畑仕事のときは家の中で遊んでいました。

そして、修三はだんだん大きくなり、身長五尺、大きさは三寸にもなり家の中で遊んでいるのも飽きてしまいました。

外に出て近所の子供たちが大勢遊んでいるところへ行って、仲間に入れて遊んでもらおうと垣根づたいに近づいたり、赤い舌を出して首を振り振り近づきました。

子供たちはクモの子を散らすように「ヘビの修三が来た、こわいよう」と泣き泣き家へ帰るようになりました。

里の庄屋さまにその話が伝わり、「ヘビの修三を殺すか、遠くへ捨ててこなければこの里に住んでもらっては困る」とじいさんは、庄屋さまに言われてしまいました。

じいさんとばあさんは修三に「修三や、お前は人間でないのだから、人間の子供とは遊べないんだ。今度から家の外に出て、里の人に見つかったら殺されてしまうぞ。決して外にでるなよ」と言って聞かせました。修三は家の中にかくれているようになりました。

ある日、じいさんとばあさんが畑仕事から帰って雨戸を開けて家の中に入っても、いつもなら喜んで家の梁(はり)からぶら下がって見せたり、足元に来るはずの修三が来ませんでした。 

「外に出て、里の人に見つかって殺されてしまったのか」と、じいさんとばあさんは心配して里の人に聞こえないような小さな声で「修三や、修三や」と家の回りを探したが見つかりません。

「あと探すところはご先祖様以来、開けてはいけないと言われている開かずの間だけだ」と思い、開かずの間を開けてみました。

中には古い槍(やり)や刀、そして昔、お客様用に使ったと思われる漆(うるし)塗りの膳がありました。

一番大きな木の膳に水が満々と入れてありました。

「これはきっと赤須村の大膳池に行くというしるしなのだ。やっぱり分っていたけどヘビの子供を育てて里の人に迷惑をかけてしまった」と思いましたが、その反面、かわいそうになりました。

その後、修三がいなくなってから二人は一生懸命に働きましたが、体が弱り仕事が出来なくなりました。

少しばかりの畑と古い家を里の人に売ってしまいました。

そのお金で修三に人目会ってから死にたいと考え、里の人には遠い親類に世話になるからと言って二人は里の人に送られて旅に出ました。

もちろん、本当の行く先は赤須村の大膳池と言うところです。

じいさんとばあさんは野宿をしたり神社やお寺の軒下を借りて泊まり、励まし合いながら赤須村にたどり着きました。

もう一つ小さな坂を越し、大膳池という峠の茶店に着きました。

茶店の人が「じいさん、ばあさん、何処に行くのか分からんが、この先の大膳池の方には行けないよ。数年前から大蛇が住み着き、村の子供を食べてしまったりして危ないところだから近づけないよ。ほら、そこの立て札にも書いてあるが、この大蛇を退治した者には島崎の殿様が小判十枚くれると言うのだが、誰も怖がって退治に行けないんだ。じいさん、ばあさんも一休みしたら、近づかないように回り道を行くといいよ」と親切に教えてくれました。

じいさんとばあさんは、お茶の礼を言うのもそこそこに、茶店の人の止めるのを振り切って池の道へ入って行きました。

誰も通らなくなった道なので、身の丈ほどの草木をかき分けてやっと池の淵にたどり着きました。

大膳池は周囲二里、周りに大きな松、杉、椎木が覆いかぶさり水はどこまでも青く、大蛇が居るのを動物達は知っているのか、静まり返り小鳥の泣き声一つしません。

その池に向かって、じいさんとばあさんは力の限り声を出して「修三や、修三や」と呼びかけました。

すると、どうでしょう。

反対側の山すそに小さな水しぶきが一つ出来てそれが一条の白い線となり、じいさんとばあさんを目掛けて進んで来ます。

見ると、水の上に三尺もの首を出した大蛇が赤い舌を出して泳いで来るのです。

「修三だ、修三だ」と、じいさんとばあさんは懐かしさのあまり泣き叫びました。

大蛇はすうっと二人に近づき、臭いを嗅ぎ赤い舌でペロペロと二人を舐(な)めまわした。

じいさんは「修三や、大きくなったもんだ。じいもばあも会えてうれしいけど、お前、人間を食ったそうでねえか。茶店の人の話では、島崎城の御家来が近々、大勢でお前を退治するため山狩りをすると言うことだ。悪いことをしてみんなに迷惑を掛けて退治されるより、お前を育てたじいとばあにも責任がある。修三や、他人の手にかかるなら、じいとばあの刃の下で死ねや」と言うと、修三は目に涙を溜め二人の顔をじっとみくらべ、分ったというように首を縦に振り、その大きな首をじいさんの前に出し、目を閉じて動きませんでした。

じいさんは開かずの間から持ってきた短刀で、エイッとばかり修三の首を切り落しました。

そして、なむあみだぶつ、なむあみだぶつと唱えました。

この話を聞いた島崎の殿様は、非常に喜び家来が退治出来ない大蛇を老夫婦がよく退治してくれたと、小判二十枚をくだされ赤須村のどこに住んでも良いと申されました。

じいさんとばあさんは、そのお金で小さな家を建て、池の上の方に修三の墓を造り供養しながら何不自由なく一生を終わることが出来ました。

今でも大膳池の堤の上に立つと、「シューゾー」と呼ぶような風の音が時々聞こえてくるそうです。

おわり

※「大膳池のおはなし」

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牛堀町募集 応募「大膳池の総合開発案」 牛堀町

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