「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「大膳池の大蛇のはなし」 牛堀町教育委員会発行「うしぼりの文化財」より

2022-12-19 16:35:07 | 歴史
「大膳池の大蛇のはなし」 
 
    昔、新原(麻生町)の黒駒池と赤須(牛堀町)の大膳池にそれぞれ大蛇が住んでいた。夫婦だったらしく二つの池を往ったり来たりしていた。
 雨あがりの朝など、うねうねと稲や草が倒れ伏しており、田園の見回りや草刈りに出た人々をギョッと立ち止らせることも度々であった。
 当時の大膳池は老杉巨松が天も暗く聳え、周囲には丈をかくす篠竹がビッシリと生え茂って人をよせつけなかった。日中、僅かに池の真中にポツンと陽が射す状態であった。
 或る日、芝宿の髪床の主人が独りで大膳池へ釣りに行った。下草を踏みしき、笹薮を分けてやっと腰を下ろすと、いや釣れるワ釣れるワ、どうにもやりようがない程よく釣れた。
 釣り師の深欲、釣れば釣れる程あとを引いて、日が暮れるのも気づかず、浮子が見えぬようになるまで夢中で釣った。やっと重い魚籠をかついでようやく帰ってきた。男は夕飯もそこそこに牛堀の髪床にゆき、今日の一部始終を語ってきかせた。
 翌日、二人は一緒に出かけたが、あにはからんや、終日を池をにらんでいたがビクとも浮子は動かなかった。「オイッ、どうしたんだお前、昨日の話は本当だったのか…」などと気まずい思いで帰り支度をしている時、突如物凄い音がして池の中央が大きく盛りあがった。と、すさまじい大蛇が鎌首をもたげてカッとにらみつけ、たちまち水中にその姿を消した。
 二人は血の気もうせて命からがら逃げ帰ったが、芝宿の男はその晩高熱を発し、ウワ言を言い乍ら死んでしまった。牛堀の男も其の後ブラブラ病いにかかって一年余にしてやはりあの世へ行ってしまった。

 【牛堀町芝宿  内野健造氏のお話】
 「私がこの話を聞いたのは近所の八十余才になる老婆からですが、そのお婆さんは、十六、七の頃、やはり八十歳位のお婆さんから教えられたものと言っておりました。ですから百五十年位昔には、これが話題となったものらしいです。御承知の通り今でも大膳池は一人でも行きたくない所です。
 百年前にせよ、百五十年前にせよ、その当時の大膳池の状況を想像するのは、そう困難ではありませんですネ」

 大膳池―牛堀町(現・潮来市)大字島須、赤須部落の北の山中にあり、一の池、二の池、三ノ池からなっている。(現在は茨城県水郷県民の森にある)
   
   約七百年前、土地の豪族左衛門尉関川鉄幹が作ったものと伝えられている。
鉄幹は文永十年(1273年)後、「大膳院関川鉄心居士」の名によって「大膳池」と呼ばれてきたが、何時の頃から、なまったものか土地の人は大膳池と呼んでいる。鉄心居士の墓は池の北方、大膳屋敷と称されている山中にある。
 
鹿島開発の余波はすでにこの地にも及び、大膳池も、大膳屋敷付近も今大きく変わろうとしている。無論、この小さな昔物語りもあと幾年語りつがれることであろうか。苔むした鉄心居士の小碑はひとり流れゆく雲を眺め乍ら何も語ろうとしない。
飯島匡孝
参考文献 牛堀町教育委員会発行
「うしぼりの文化財」1970年 民族資料編

立金の観音像 牛堀町教育委員会発行「うしぼりの文化財」より

2022-12-16 11:36:58 | 歴史
立金の観音像

 
 島崎左衛門尉(島崎城主)の愛馬を葬ったとか、或いは島崎城主安定の妻お里の方の愛馬をうづめたとも言われている。(大字上戸立金、古墳の上にまつる)
現在は、塚の上に桜の大樹がある。
これは愛馬を葬った際に植えたと伝えられ、枯れかかると「ひこ」がでて大樹になる。写真は三代目とか云っている。
 桜の前に石像がある。(観音像) 約200年前に建立したものである。
ご縁日には人馬の参拝があり、露天商が出て、かなりの賑わいをみせたとか。
門前の馬場では競馬が行われたと伝えられている。
 裏手は島崎左衛門尉の重臣・鴇田伊豆守の屋敷跡(当時のまま残っているとか)があり、その一角に現在鴇田林作氏の住宅となっている。

参考文献 牛堀町教育委員会発行
「うしぼりの文化財」1970年 民族資料編

島崎城跡の新しい見学スポットの紹介

2022-12-12 14:29:46 | 城跡
島崎城跡の新しい見学スポットの紹介します
三の曲輪の整備が進められており、新しく見学スポットが誕生しましたので紹介します。場所は三の曲輪の最西端の箇所で、崖下の竹が生い茂り見通しが出来ない状況でしたが、竹林の伐採により新たな見学スポットが生まれました。


三の曲輪展望台



下を見下ろすと伐採した竹の山が見えます






展望台周辺には越前屋敷の氏神神社跡があります



また、三の曲輪の周りの大堀を見下ろす箇所があります






また、その近くには「やだけ」の群生地があります



三の曲輪の展望台の下から見ると雄大な崖(標高約30m)を見上げることができます。(現在整備中です)






【寄稿文】武士の時代を築いた源氏の考証  第 五 編(5/5 編構成)

2022-12-09 08:30:31 | 歴史
- 第 5 編 - 第4編からの続きで最終編になります。(5/5 編構成) 
武士の時代を築いた源氏の考証 
(源平の騒乱で活躍した東国武士団) 
令和 4年 11 月5日 
森田 衛 (神栖市) 
生涯学習:源氏と平氏レポートより 

 武士の時代を築いた源氏の考証 第 5 編 

第 1 節 御家人を束ねた尼将軍・政子
第 2 節 幕府 4 代将軍 藤原(九条)頼経
第 3 節 北条義時追討宣旨と鎌倉の対応(承久の乱)
第 4 節 動揺する幕府首脳
第 5 節 北条義時追討の宣旨に対する返書
第 6 節 北条政子の御家人を集めての演説
第 7 節 雲は龍に従う
第 8 節 後鳥羽上皇の誤算 
第 9 節 官軍(後鳥羽上皇)の大敗 
第 10 節 戦後処理
第 11 節 北条義時の死
第 12 節 北条義時の死と伊賀の変 
第 13 節 武士のための御成敗式目
第 14 節 宝治合戦(三浦氏の乱)
第 15 節 外交権まで握った幕府にもたらされたものは
第 16 節 貨幣経済の発展と貧困
第 17 節 後醍醐天皇が倒幕を成し遂げる
第 18 節 鎌倉幕府内で執権だった足利氏 
第 19 節 平安末期から鎌倉幕府の衰退までを見守った六波羅探題

御家人を束ねた尼将軍
 政子 これまでは、「頼朝」が急死しても「頼家」がいた。「頼家」が追放・殺害されても「実朝」 がいた。しかし、今度ばかりは3代将軍実朝に代わる源氏主君はいなくなった。 
 3代将軍・実朝が暗殺されたことにより源氏による将軍家の後継者はいなくなり、こ れに代わる幕府の顔、御家人達を束ねる存在が尼の政子になった。  政子は、建保6年(1218年)、従二位の位階を持ち公卿相当の身分を得ていた。 それまでは源頼朝の後家、将軍生母ではあるが無位無冠の尼に過ぎず、対外的に幕 府を代表する立場ではなかった。 
 しかし、正二位・右大臣・左近大将・征夷大将軍の3代将軍・実朝が死去した今、幕 府を代表するのは従二位の位階を持つ政子しかいなかった。勿論、政子は御家人達 の主君ではないが政子は御家人をまとめ従わせる「尼将軍」へと変貌したのだった。 
 主君のいない鎌倉の難局をいかにして乗り越えるか、政子を表にたてつつ、「尼将 軍・政子」の実弟として、また御家人筆頭の執権として北条義時が実質的に幕政を取 り仕切ることになる。 

幕府 4 代将軍 藤原(九条)頼経
 建保7年(1219 年)、鎌倉では、いつまでも関東(鎌倉)将軍の位をあけておけずに 源実朝が健在時に進めていた後鳥羽院の親王を鎌倉に下してもらって将軍に立て、 自分(実朝)が補佐をするという「親王将軍構想」を早く実現させようと早急に宮様を皇 族将軍として迎え公武合体を図ろうとするが、実朝の死により朝廷(後鳥羽院)は態度 を一変させた。 
 それどころか、摂津国長江荘、倉橋荘に置かれた地頭を改保せよと後鳥羽院の院 宣が鎌倉に伝えられた。交通の要所に置かれた地頭職を放棄するよう要求してきたの だった。
 北条義時以下の幕府首脳は激論を交わし、その結果、後鳥羽院の要求を拒 絶するとともに、親王の早期下向を要請するという結論に達した。 摂津国長江荘・倉橋庄の地頭の改 補の拒絶は、結果的には後に起こる 「承久の乱」の原因の一つとなってい くのであるが、鎌倉幕府としては摂津 国長江荘、倉橋荘の地頭職を手放す わけにはいかなかった。 

 その結果、義時の弟の北条時房が軍 勢 1,000 騎を率いて鎌倉を発った。 時房から幕府の返答を聞いた後鳥羽院は激怒した。源頼朝は朝廷に対して礼を尽くしたが北条は礼を知らぬ。勝手に幕府 を牛耳っていて自分が何をしているか分かりもしない武骨者と名指し、3代鎌倉将軍・ 源実朝期に盛り上がりを見せた朝廷と幕府の友好な関係は陰りをみせはじめた。
  そこで鎌倉では、承久元年(1219 年)、頼朝の遠縁である藤原(九条)頼経を迎えるこ とになり、同年7月に関白・九条道家の四男(三寅)は鎌倉に下った。三寅の母は西園 寺公経の女(むすめ)倫子であった。 

北条義時追討宣旨と鎌倉の対応(承久の乱
  朝廷(後鳥羽院)からの北条義時追討宣旨は、次期、鎌倉殿の九条三寅(のちの第 4 代将軍頼経)が幼いなかで不当な裁断を下している執権・北条義時の追討を命ずる とともに、諸国荘園の守護地頭等に院の裁断に従うよう命じたものであった。 
 宣旨は、五畿七道(大和・山城・和泉・河内・摂津の五箇国 /東海道・東山道・北陸 道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼 綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村)に下されたことが記録されている。『吾 妻鏡』 そして、承久 3 年(1221 年)5月 15 日、上皇が約 1,700 騎兵を召集した。 

動揺する幕府首脳 
 こうした動きと平行して後鳥羽院は密かに在京の鎌倉御家人の取り込み工作も進め ていた。特に三浦義村の弟・胤義の取り込みが重要であった。
 胤義を通じて鎌倉の 兄・義村を身方に引き込めば鎌倉内で三浦氏によって北条義時を追放することも可能 と考え幕府首脳部の内部分裂や混乱を誘おうと狙った。 
 都で後鳥羽院は、取込み工作の命令に従わない京都守護・伊賀光季を討伐した。 伊賀光季は実朝の暗殺事件以後に入洛して以来、京都守護を務めていたが、妹が義 時の妻であったことから後鳥羽に対して徹底抗戦の姿勢を示した。 
 しかし、これまでの通説では、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すために挙兵したのでは なく、院宣や官宣旨の内容などからは北条義時個人を幕府から排除することが目的だ ったとする説もある。それを鎌倉では幕府討伐の動きとして解釈していた。 
 いずれにしても、執権北条義時個人の排除を目的としたとしても、その後、誰が鎌 倉を引き継ぐのか、そこに残るのは三浦であるのか、朝廷から役人を送り込んでくるの か、いずれにしても、やはり現体制の執権北条氏による鎌倉体制を排除しょうとする事 には変りはなかった。 

北条義時追討の宣旨に対する返書 
 『吾妻鏡』によると・・・ 承久3年(1221年)北条義時は、5月15日に発せられた「義時追討の宣旨」を持って 鎌倉に潜入しようとして、5月27日に捕らえられた院の使い押松丸(藤原秀康の従者) が持っていた残りすべての宣旨を回収し、押松丸に宣旨に対する返書を持たせ京都 に返した。
  「北条九代記」によると、その内容は・・・ 「義時は、院に忠義を尽くしてまいりましたのに、讒言(事実をまげ、いつわって人を悪く言 う)を信じたことで違勅(勅命に背く)の者とされました。 そのため、弟の時房、子の泰時・朝時をはじめとする 19 万騎の軍勢を上洛させます。 
 それでも考え違いをなさるときは、子の重時・政村をはじめとする 20 万騎を率いて義時 自身が参上いたしましょう。との返書を書いている。
  義時の脳裏には、勅命を奉ずることは鎌倉を滅ぼすことに等しく「鎌倉なくして武家 の世はない。」しかし、この度は、過去に平家を討った時のように簡単な話ではなかっ た。相手は朝廷で大君に弓を引くことも出来ず、幕府(鎌倉)では最も避けたかった事 態に局面し事は進んでいる。 
 いずれにしても、こちら(鎌倉)から仕掛けることは出来ない戦いであり、足柄峠と箱 根山に「関」を設けて朝廷軍を迎撃する消極的な戦略で御家人達の考えがまとまろう としていた。
 しかし、宿老の大江広元は迎撃の意見は慎重論ではあるが、敵の来るの を待っている間に御家人達の中で不安(朝敵となる)が広がり結束が緩むかも知れな い。ここは運を天に任せて上洛(都へ攻め上る)すべきと主張し、その意見を義時・政 子姉弟が強く支持した。結果、政子は「すみやかに上洛せよ」と命じた。 

北条政子の御家人を集めての演説 
 北条政子「尼将軍」は御家人達を召集し、故・源頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深 い・・・」と説いて御家人の結束を固めた。 そして名を惜しむ者は、早く逆賊を討ち取り3代将軍の遺跡を全うすべし、もし、院 (朝廷)に参ぜんと欲する者は、この場で申し出よ。
 その者は、まずこの尼(政子)を殺 し鎌倉中を焼き払い、しかるのちに京へ参ずるが良い。と政子の最後の言葉とされる が、これは義時個人への追討宣旨を鎌倉幕府討滅の宣旨にすり替えるものだったとい う説もあるが、既に政子の頭の中には北条義時イコール鎌倉幕府であったから仕方が ないことである。 

雲は龍に従う 
 そして、承久3年(1221年)5月 22 日、北条泰時が18騎で出陣。 何故、たった18 騎だったのか? それは、上洛することを決定してから日が経ち過ぎていたので、いろ んな異議が出てくる頃で皆の気が変わる前に総大将の泰時が一人だけでも出陣した となれば関東の御家人達は、ことごとく雲が龍に従うが如く従ってくると考えたからであ った。 
 その後、北条義時は軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣し た。18 騎で出陣した泰時は途中で鎌倉へ引き返し、上皇が自ら兵を率いた場合の対 処を義時に尋ねた。 
 義時は、上皇が自ら兵を率いた場合「君の輿には弓は引けぬ」、ただちに鎧を脱い で、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と 命じたと言う。 
 「吾妻鏡」 出陣した幕府軍には、道々で雲が竜に従うように徐々に兵力を増していき、最終的 には 19 万騎に膨れ上がったと記されている。

 後鳥羽上皇の誤算
  一方、後鳥羽上皇ら京方首脳は鎌倉の武士たちが院宣に従い義時は討滅される であろうと信じきり、幕府軍の出撃を 予測していなかったために幕府軍 の 19 万騎の進軍を知って狼狽し た。 
 とりあえず、藤原秀康を総大将と して幕府軍を迎え撃つこととして、1 万 7500 余騎を美濃国へ差し向けた が、6 月 5 日、北条朝時率いる北陸 道軍 4 万騎、甲斐源氏の武田信光 と小笠原長清が率いる東山道軍 5 万騎、6 日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍 10 万騎が尾張川を渡川した。 


官軍(後鳥羽上皇)の大敗 
 当初見込んでいた鎌倉方の離反がなく、予想外の防御戦を強いられた官軍だが、 西国の武士に対する公権力による動員の発動に追い込まれるが実際の兵力の動員 状況からは京都周辺地域からの兵力の確保に成功していたものの、鎌倉方の進撃が 予想以上に早く(鎌倉方の出陣から京までの進軍に 22 日間)、京方は総崩れになり大 敗を喫した。 

戦後処理 
 後鳥羽上皇は例によって門を閉ざし幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企 てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義(三浦義澄の九男)ら の逮捕を命じる院宣を下した。
 以後は何事も幕府の意向どおりにと申し入れた。 承久の乱の首謀者の後鳥羽上皇と順徳上皇は、それぞれ隠岐島と佐渡へ流され、 さらに後鳥羽上皇の皇子・六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)も連座して、それぞ れ但馬国と備前国豊岡庄児島へ流された。 
 討幕計画に反対していた土御門上皇は処罰の対象にはならなかったが、父の後鳥 羽上皇が流されたことから自ら望んで土佐国に流されたのだという。 
 公卿は、実朝室の兄坊門忠信以外すべて斬罪、京方に与した武士の殆どは斬罪 に処せられた。 承久の乱後、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視して皇位継承も管 理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大漏らさず幕府に伺いを立てるようにな り、北条政権は確固たるものとなり朝廷さえも自在に操る執権政治の時代へと移って いった。 

北条義時の死 
 承久の乱、鎮圧の 3 年後、元仁元年(1224 年)、執権北条氏の幕府の行く末をしっ かり見届けることなく北条義時は脚気が重くなり急性心不全により62歳で急死した。 
 その死は毒殺説がささやかれるほどの急死だったという。その時、義時の子・泰時、 弟・時房が京に駐在して不在だった。 三寅は、嘉禄元年(1225 年)元服して藤原頼経と名のり、翌年(1226年)、将軍に 就いた。
 三寅は、2歳で鎌倉に行き、7歳を迎え将軍職に就いた。三寅の関東下向に よって京と鎌倉の間の異常な緊張状態には一応の終止符が打たれたが、幕府の実権 は執権北条氏が握っていて「藤原頼経」は名目上の将軍にすぎなかった。 そもそも、北条氏にとって摂家将軍は皇族を招いて将軍につけるまでの繋ぎにすぎ なかった。 鎌倉時代(征夷将軍一覧) 
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代数 氏 名 (父) (母) 在職期間 没年 
1. 源 頼朝 源 義朝 熱田大宮司季範娘 1192~1199 1199(源氏)
 2. 源 頼家 源 頼朝 北条政子 1202~1203 1204(源氏)
 3. 源 実朝 源 頼朝 北条政子 1203~1219 1219(源氏) 
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 4. 藤原頼経 九条道家 西園寺公経娘掄子 1226~1244 1256(貴族)
 5. 藤原頼嗣 藤原頼経 藤原親能娘近子 1244~1252 1256(貴族)
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6. 宗尊親王 後嵯峨天皇 平 棟基娘棟子 1252~1266 1274(皇族) 
7. 惟康親王 宗尊親王 近衛兼経娘宰子 1266~1289 1326(皇族) 
8. 久明親王 後深草天皇 三条公親娘房子 1289~1308 1328(皇族) 
9. 守邦親王 久明親王 惟康親王娘 1308~1333 1333(皇族) 
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仁治 3 年(1242 年)、合議制によって幕府を主導し有力御家人の間を調整してきた 3 代執権・北条泰時(59歳) が死去し、北条泰時の子で ある「北条時氏」はすでに他 界していたため、孫の北条 経時(19歳)が 4 代目の執 権に就任した。 
 北条得宗家主導の政治 に不満を募らせていた御家 人達は、「泰時」時代には幼 少だった将軍・藤原頼経が 成人すると、その元に集っ て北条執権体制への反対 勢力を形成していた。 
 頼経の長期の在職によって御家人との間が親密になるのを恐れた北条氏は、寛元 2 年(1244 年)、藤原頼経の将軍職を子の藤原頼嗣(6歳)に譲らさてたが、頼経は、そ の後も鎌倉にとどまって大殿と呼ばれ元・将軍としての権威を保ち続けたが1年後には 出家させられた。
 藤原頼経を仏門にとじこめ幕政にこれ以上かかわらせないための得 宗側の措置だったと考えられる。 そして寛元 4 年(1246 年)、北条氏の一族でありながら反・得宗側の御家人であった 名越光時(北条泰時の甥)の反乱が未然に制圧されると、首謀者として藤原頼経は都 に送り返された。 
 その後も反得宗グループと組んで鎌倉復帰を画策し続けたが、康元元年(1256 年) に死去。鎌倉幕府に翻弄され続けた 39 年の人生だった。 
 
 三浦氏は鎌倉の地元相模国を本拠とする幕府創設以来の大族で、有力御家人が 次々と排斥されていった中で生き残った北条氏に比肩しうる最大勢力であり、北条得 宗家とは縁戚関係を結びながらも常に緊張関係にあった。 
 三浦氏3代当主・三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったが、弟の三浦光村 は反北条の強硬派であり、元・将軍頼経の京都送還の際に同行し頼経の前で「必ず 今一度、鎌倉へお迎えします」と約束したという。 

北条義時の死と伊賀の変 
 北条義時の死去に伴い伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)・伊賀の方が、伊賀 の方の実子・政村(義時五男)の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策し ていることを知った政子は直ちに六波羅探題にいる北条泰時・時房に使者が出された。 
 伊賀光宗は、鎌倉御家人の中でも実力がある三浦義村と結ぼうとするが、伊賀氏の 不穏な動きを察した尼将軍・政 子は、京から鎌倉に戻った義時 の長男・北条泰時を3代執権に 就任させた。

 
また三浦義村に対 し泰時への支持を確約させ伊 賀氏の政変を未然に防ぐことに 成功した。 その後、時房を将軍の後見と して鎌倉は平穏な時を過ごし、 翌年、嘉禄元年(1225 年)、大 江広元・北条政子(69 歳)が相 次いで病死した。 
 かくして、北条政子・義時の時代が終わり、泰時は執権政治を軌道に乗せて、新た な時代への転換が果たされたのであった。 

武士のための御成敗式目 
 「御成敗式目」は、貞永元年(1232 年)、北条泰時の頃に作られた法律。 そのときの和暦(貞永元年)を取り「貞永式目」ともいう。 土地の支配権・守護や地頭の仕事内容・争いが起きたときの解決方法などを中心 にまとめたもので、全部で 51 カ条あり、初めてできた武士のための法律であり、適用対 象は「幕府と御家人の所領内」のみで、当時は文字の読めない武士も多くいたため理 解しやすい文体で書かれた。 

宝治合戦(三浦氏の乱
  仁治 3 年(1242 年)、合議制によって幕府を主導し、有力御家人の間を調整してきた 第 3 代執権北条泰時が死去し、その嫡孫で 19 歳の第4代・北条経時が跡を継いだ。 
 北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、泰時時代には幼少だっ 10 た将軍・藤原頼経が成人すると、その元に集って北条執権体制への反対勢力を形成 していた。
  幕府(鎌倉)内は、北条執権派と将軍派に分裂して対立を続け、寛元 4 年(1246 年)、 北条経時の病死と同時に宮騒動が勃発し、急遽 5 代執権となった弟の第5代・北条時 頼により前将軍・頼経が京都へ送還されて将軍派であった御家人達が処分された。 

 
   宝治合戦は、宝治元年(1247 年)7 月、に起こった鎌倉幕府の内乱。執権 北条氏と有力御家人三浦氏の対立から 鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚 安達氏らによって三浦一族とその与党 が滅ぼされた。
 「三浦氏の乱」とも呼ばれ る。この事件は北条の得宗専制政治が 確立する契機となったとされるが、この事 件については、私(筆者)個人的にも今 一つ解らないところが多い事件であっ た。 
 北条氏に比肩しうる勢力の三浦氏は鎌倉の地元相模国を本拠とする鎌倉幕府創設 以来の大族で、有力御家人が次々と排斥されていった中でも生き残った。 三浦氏は、建保元年(1213 年)の和田合戦の際にも、同族の和田氏を見捨てて北 条氏に荷担するなど、北条氏と密接に提携してきており、三浦義村の代には強い関係 を結んでいた。 
 ところが、寛元 4 年(1246 年)第5代・北条時頼が執権に就任すると、北条氏の支流 名越光時(北条義時の孫)は、前・将軍九条頼経を擁して時頼から執権の地位を奪お うとした。 三浦氏当主・三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったが、弟の三浦光村は 反北条の強硬派であり、前・将軍頼経の京都送還に同行し頼経の前で「必ず今一度、 鎌倉へお迎えします」と約束したという。 
 宝治元年(1247 年)7 月、北条氏と協調関係を保ってきた三浦氏も、第 5 代執権北 条時頼の代に安達氏(安達景盛)と対立し三浦泰村の館が奇襲攻撃された。 
 三浦泰村がこれを北条時頼の襲来と判断して応戦したため、ついに戦端が開かれ ることとなった。これを聞いた北条時頼も、やむなく北条実時に幕府を守らせ、北条時 定を大手の大将軍として 500 騎をもって三浦邸を襲い焼失させた。 
 三浦泰村一行は、初代将軍・頼朝が眠る「法華堂」に籠もり、そこには弟・光村も合 流し 500 人余りの将軍派の御家人が集まり、頼朝の肖像画をかかげ、その前で自刃し 11 たと伝わる。この三浦の乱により三浦氏一族は滅んでしまうが、三浦義村の長男・朝村 の動向が今一つ掴みきれない。朝村の「朝」は源の頼朝からの「朝」だと思われる。 
 後日、この合戦の追討軍によって千葉秀胤も滅ぼされている。秀胤は三浦義村の 娘を正室とし宮騒動で失脚して上総国に退いていた。 宝治合戦後、合議制による執権政治から北条得宗家による専制執権政治に移行し ていき、北条得宗家の独裁体制が確立された。 
 その後の三浦氏は、北条泰時の三浦氏からの前妻は生き残り、その子供たちが三浦 姓を名乗りお家を再興した。また、三浦氏側に付いた毛利李光は越後に居た四男が 生き残り、後の安芸毛利氏へと続いていった。 三浦泰村の妹を妻としていた毛利季光は、「兄を見捨てる事は、武士のする事では ない」と説得され三浦氏についた。 

外交権まで握った幕府にもたらされたものは 
 5代執権・北条時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の8代・北条時宗だった。 時宗が得宗となった前後の文永 5 年(1268 年)、モンゴル帝国・第 5 代、フビライ・ハン が高麗を通して朝貢を要求してきた。 
 困った朝廷は、対応を幕府へ一任してしまった。幕府は回答しないことを決定して 西国の防御を固めることとした。 
 1269 年と 1271 年にもモンゴルから国書が届き朝廷は返書送付を提案したが、幕府 は当初の方針どおり黙殺を選んだ。このことからも外交権をも幕府が握っていたことが 解る。この幕府の対応に対し、ユーラシア大陸の王朝「元」から、日本は 2 度にわたる 襲来を受けた。文永11年(1274 年)の「文永の役」と弘安4年(1281 年)の「弘安の役」 という 2 度の襲来を、併せて「元寇(げんこう)」という。 
 中国大陸においては南部では南宋が統治を行っていたが、北部ではモンゴル系が 勢力を誇っていた。やがて、中国のさらに内陸に位置するモンゴル帝国が大帝国を築 き中国へ南下し始め、モンゴル帝国は国号を「元」と改め東アジアでの覇権の野望を 具体化していき、そして日本もそのターゲットにされ、日本を侵略しようと考え、2 度に わたって大軍を送り込まれたものの、運良く日本は天候(海の荒天)に身方されたこと もあって元の撃退に成功した。 
 だが、この「元寇」の戦が原因で御家人達が幕府へ不満を抱くようになった。それは、 鎌倉幕府が 100 年以上経った後に、先祖から受け継いだ土地は加増される事も無く、 さらには何代にも渡って分割相続を繰り返し兄妹に相続分配されて行った為に所領が 12 細分化していく中で多くの零細中小の御家人が増えていったことである。 

貨幣経済の発展と貧困 
 また、農業生産性の向上をベースとして経済が発展し、一段階レベルアップした時 代を向かえ、朝廷・貴族の社会から武士の時代となり、そのことにより刀などの需要も 増大して武具や刀を作る「刀鍛冶職人」、農具を作る「農耕具職人」などに分業化が進 んで、農業じゃない別のことにより何か他に価値を生み出すことによって、それを人に 提供しよう(売ろう)と考える人が出てきた。
 こうして商工経済が発展して商売(ビジネス) が行われるようになってくると、いろんな商品の売り買いが盛んになり、移動しながら商 品を販売する行商人も登場するようになり、貨幣がだんだんと使われるようになってい った。  
 これまでは、農業中心の自給自足、もしくは、物々交換の取引だったものが商業化 による貨幣経済の発展に巻き込まれ貧困にさらされる者が出てきて、北条氏の専制的 な姿勢が表面化してしまい北条氏は武士たちの支持を失っていった。
  更に、蒙古襲来で費用を自分で負担して参戦し奮闘したにもかかわらず十分な恩 賞を与えられず幕府への信頼がより一層失われた。 
 頼朝の時代、御家人達が朝廷からの独立を夢見て作られた鎌倉幕府は、結局最後 には夢を作りあげた同じ御家人の手によって滅亡の方向にさらされようとしていた。 

後醍醐天皇が倒幕を成し遂げる 
 鎌倉幕府と御家人は、「御恩と奉公」の関係で存続していたが、外国の軍である元 を追い払っても戦で活躍した武士たちに与えられる領土は手に入らなく、奉公に対す る御恩がないことに不満を募らせた御家人たちを上手く引き込み幕府への反乱を企て たのが「後醍醐天皇」だった。
  後醍醐天皇側に付いて倒幕派となった御家人のうち、足利尊氏が幕府の監視機関 である「六波羅探題」を攻め、元弘 3 年(1333 年)5 月、上野国新田庄の生品神社で挙 兵した新田義貞は、小手指ヶ原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで鎌倉幕府 軍を打ち破り、5 月 18 日、ついに鎌倉攻撃に着手し鎌倉は新田義貞の軍勢によって 滅ぼされ滅亡した。

鎌倉幕府内で執権だった足利氏
  足利氏はその祖先が河内源氏の棟梁、源義家に遡り義家の孫にあたる義康の頃に 足利氏を称するようになった。義康は鳥羽上皇に仕えて軍功を挙げ、その子義兼は頼 朝の挙兵に参加したことにより鎌倉幕府の有力御家人としての地位を確立した。 
 足利氏は源氏3代の将軍家が滅びた後も、幕府内で実権を握る北条氏と婚姻関係 を結ぶことによりその地位を維持した。さらに、後に、第 16 代執権・赤橋(北条)守時の 13 妹を妻に迎えるなど幕府からの厚遇ぶりが伺える。
 その後も、鎌倉幕府で執権を歴任して、当時は北条氏と並ぶ有力な家柄となり足利 尊氏は「足利高氏」と名乗っていた時代もあった。 この名(高氏)は鎌倉幕府の執権・北条高時(第15代)から「高」の字をもらって付け られたといわれ、それほど鎌倉幕府に近かった足利尊氏だが、当時の幕府は「元弘の 乱」の鎮圧に手を焼き幕府軍は多大な被害を受けた。 
 この状況に危機感を抱いた幕府は、尊氏に出兵を命じるが、このとき尊氏は父貞氏 の服喪中であり出陣の辞退を申し出るのだが、幕府はこれを認めなかったため幕府に 不満を持つようになったといわれている。 その後、尊氏は渋々出陣するが、はかばかしい活躍はなく、最終的には裏切りのよ うな形で「後醍醐天皇」の指揮する倒幕運動に加勢することに舵を切った。 北条氏と血縁関係となることで家格を保ちながら、強権政治を行う北条氏に代わるリー ダーとして周囲から期待されていた。 

 
 足利氏2代から8代と執権北条氏の関係図 元弘3年(1333 年)5月 22 日、事実上の滅亡の場になったのが、執権北条氏の菩 提寺である東勝寺であった。ここが執権北条高時をはじめとする一族郎党 283 余名が 立て籠もり寺に火を放ち自害して果てた場所とされる。 
 日本の歴史上、政権が瓦解する時に、これほど悲惨な死を遂げたということはない。 14 それだけ多くの血が流れた場所であり、その中核となる場所が「腹切りやぐら」と言うこ とになる。(鎌倉市小町付近) 

平安末期から鎌倉幕府の衰退までを見守った六波羅探題 
 六波羅探題(ろくはらたんだい)は、久 3 年(1221 年)の承久の乱ののち、幕府がそれ までの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関で、朝廷では無く 幕府の直接指揮下にあり、西国で起きた地頭と国司などの紛争を処理する裁判機能、 京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次ぎなどを行った。
  六波羅は、もともと平家の拠点だったが平氏が都落ちしてからは源頼朝の居館が建 てられ京都守護としての庁舎も建築された。 
 承久の乱を制圧してからも、北条泰時、時房は六波羅の屋敷に入りそのまま駐在し 事後処理を行なった。後の六波羅探題の基礎であった。そして、六波羅探題北方、南 方の二つの府がおかれ、それぞれに北条一門が任命されるようになった。 
 承久の乱後、鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領約3,000 余箇所は没収。その多くは幕府の支配下になかった西国の荘園で御家人に再分配さ れて地頭が設置された。義時追討の宣旨から僅か 1 ヶ月のあっけない幕切れであっ た。
 後年、足利尊氏に六波羅探題が討ち滅ぼされるまで、平氏、源氏、そして北条氏 の重要な拠点であった。 平安末期から鎌倉幕府の衰退までを見守った場所と言える。弘3年(1333年)に 150 年間近く続いた鎌倉幕府は足利尊氏により滅び政治の中心は再び京へと移され、 南北朝時代へと移り変わって行った。 
 平家は清盛が太政大臣に昇りつめて僅か 18 年で滅亡し、源氏の頼朝もまた、建久 3年(1192 年)幕府を開いて以降、実朝横死までの 27 年間で源氏宗家も滅亡し、3代 でその血は絶え、執権北条氏の時代が長く続いたが、その後、後醍醐天皇の一連の 倒幕運動「元弘の乱」が全国各地に広がり、「東勝寺合戦」で伊豆の執権北条氏によ る鎌倉幕府はその歴史の幕を閉じた。 

「鎌倉幕府」の 150 年間(1185 年~1333 年)、および「鎌倉府」、南北朝時代、京都 に成立した「室町幕府」が、前代鎌倉幕府の本拠地の鎌倉及びその地盤であった関 東 10 か国を掌握するために設置した機関が[鎌倉府]であり、貞和 5 年(1349 年)から 室町時代中期の享徳 4 年(1455 年)まで、約 100 年間の 250 年間(1,185 年~1,455 年)ほどで頼朝による鎌倉政権は完全に閉じられたが、名もない伊豆の小豪族に過ぎ なかった北条氏が鎌倉幕府を押し上げ、それを支えたのは、まぎれもなく東国(関東) 15 武士団達であったことを忘れてはならない。 
 この武士団は、当然、寿永3年(1184 年)の源平の戦いでは、旧・行方郡(現・潮来 市)の領主であった「島崎城」の初代城主・島崎高幹も源義経の軍に従って屋島での 戦いに参戦している。
 また、同族である鳳凰台城の大生八郎平玄幹(はるもと)公や 「鹿島城」(鹿島市)城主の鹿島氏も同時期に源平合戦に参陣していると思える。 

古くから源氏との関わりが強い潮来市 
 愛染院根本寺、愛染院の創建は天喜5年(1057)源義家が前九年合戦に望む際、 この地で霊夢を見て後冷泉天皇から賜った如意輪観世音菩薩像を安置して武運長久 を祈願したところ見事に願いが通じた。義家は霊地と悟り草庵を建立し円通閣主を招 いて開山したのが始まりと伝えられている。 

 寺の由来書きによると、・・・・・・・・。
 寺伝によれば本尊如意輪観世音菩薩(高さ 5.4cm)は歴代の天皇の守護佛であり、 平安後期の天喜 2 年(1054)に後冷泉天王より源氏八幡太郎義家公に武運の守護佛 として賜り、義家公兜の八幡座に奉持され、坂東武士一軍を率いて、奥州の安倍氏征 伐に向かい、この水原の郷に来りしも、鹿島の郷に渡るとき難風にあい北浦を渡れず、 やむなく数日滞陣され、里人の食糧などの持て成しをうけ、将軍その忠勤奇特を思い 召された。
 ある夜不 思議な霊夢により衆 生済度の根本の地で あることを感ずること あり、守護佛に深く帰 依し、一軍の武運長 久を祈り、草庵を建て 観音菩薩を祀られた のが当寺(愛染院根本寺)の開基とさる。・・・・・・・・・・」 行方郷(潮来市)という街は古い歴史を持っていることに驚かされる。 (完) 

源頼朝の兄弟は・・・・・。 
 頼朝の父・義朝には、少なくとも9人もの男子がいたことが知られている。 長男・義平と次男・朝長は、平治の乱の後すぐに命を落とし、四男・義門や五男・希義 も、頼朝の挙兵を前に亡くなっている。 八男・義円は、頼朝の挙兵には間に合ったものの、伯父・行家の誘いに乗って、これま 16 た早々に退所(墨俣川の戦いで戦死)。 
 かろうじて六男の範頼が頼朝の信を得たかのように思われたものの、結局、最後は 頼朝に謀反を疑われて修善寺に幽閉されてしまった。その後の動向は不明(殺害され たともいわれる)である。 
 頼朝が亡くなった(1199年)以降も生き残ることができたのは、7男の全成ただ一人 だった。 全成の母は、常盤御前で、平治の乱の後、弟の乙若(義円)と牛若(義経)と共に捕 らえられ、牛若が鞍馬寺に、乙若が園城寺に預けられたのに対し、今若(全成)が醍醐 寺で出家したことが記録されている。 
 その後、全成は頼朝の挙兵に呼応し寺を抜け出して下総国鷺沼(現・習志野市) で頼朝と対面。義経が黄瀬川(静岡県清水町)において頼朝と対面するよりも前の出 来事であった。 
 義経が、平家討伐戦において、あまりにも見事な成果を収め過ぎたせいで、かえっ て兄(頼朝)に危険視されて討たれたのに対し、僧侶であった全成(御家人でもあっ た)は、その職性の故か、さして警戒されることもなく頼朝に仕え続けた。 
 頼朝の妻・政子の妹・阿波局と結婚したことも頼朝を安心させる好材料となったに違 いない。 ところが、頼朝の死を境として、2代目将軍・頼家が、自らの乳母を務めた比企一族 を重用し始めたことで、次男・実朝の乳母となった阿波局と、その夫・全成を、その背 後勢力ともいえる北条氏共々、危険視し始めた。
  全成が頼家を追い落として実朝を擁立することで、その後見人としての北条氏の勢 力の拡大を頼家が恐れた結果、早々に全成を謀反人として捕らえ常陸国へ流罪に処 してしまった。
 そればかりか、宇都宮宗綱の四男・八田知家に命じて全成を殺害してし まった。頼朝の兄弟間の確執、そして兄による討伐、後継問題など劇的な展開が繰り 広げられた鎌倉幕府であった。 

≪参考文献(引用文献)≫ 
・その後の東国武士団 :関 幸彦 
・鎌倉殿と執権北条氏 :坂井孝一 
・源氏と平氏 :渡邊 保 (明治大学教授) 
・源氏と坂東武士 : 野口 実 
・文藝春秋、ニッポン教育再生会議:出口治明、呉座勇一 
・文藝春秋記事 : 本郷和人(東京大学史料編纂所教授)、同、本郷恵子 17 ・源氏と平家の誕生 : 関裕二 
・月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』国立国会図書館デジタルコレクション 
・平氏と源氏」の人物
・合戦がわかる本 (PHP 文庫) 
・ベネッセ 教育情報サイト 日本の歴史特集 : 門川 良平 
・源氏と平氏 (日本歴史新書):渡辺 保 
・鹿島市ホームページ:源頼朝の台頭と鹿島氏 
・保元・平治の乱関係図 世界の歴史マップ 
・家系図作成専門会社 家樹 : 田代 隆浩(画像) 
・Yahoo 画像引用 
・玉川学園
・玉川大学
・協同 多賀歴史研究所資料 
・鎌倉殿と執権北条氏 : 坂井孝一 
・鋸南町ホームページ ・フリー百科事典『(Wikipedia)』 
・一般財団法人 刀剣ワールド財団資料 
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 
・比企一族の歴史 郷土学部 B班 :木村誠 
・吾妻鏡 :竹宮 恵子 
・オレたちの鎌倉殿 :西股総生 
・清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 :濱田 浩一郎 
・鎌倉幕府で栄華「比企能員」の滅亡招いた"大誤算 :濱田 浩一郎 尚、

「島崎城跡を守る会」の会員様の内部学習の基礎資料の一部にお役立てできれ ばと作成したものであり、筆者は、歴史専門家でもなく、自己学習の範囲のもので あるため、種々の文献やイラストを大きく引用させて戴いておりますこと、ご了承下 さい。また、内容に誤った記述がされている部分等につきましてもご了承下さい。 

令和 4年 11 月 5 日
 森田 衛 (神栖市) 「源氏と平氏」 生涯学習レポートより 以上にて、「武士の時代を築いた源氏の考証」 総数 5 編の最終編とします

専用駐車場周辺に花を植えました。

2022-12-05 09:37:38 | ボランティア活動
島崎城跡の専用駐車場周辺に花を植えました。
見学者の皆様に「安らぎ」を提供しようと、城跡への登城口付近と専用トイレ付近に会員から寄贈して頂いたバンジーを植えました。
また、看板下には水仙の花の蕾がつきはじめました。