「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-26 08:04:50 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その8】

  乱戦の中で一騎打  徳一丸と戸村重太夫

 義幹の長子徳一丸が保内山へむかい、いままた四千三百余騎の軍勢を大生原におくりだした島崎城では、義幹の内室を中心に家名相続の討議がはじまった。島崎の地を後世に残すために、せめて姫君(徳一丸の妹)を城の外へ移し、時期をみてお家の再興をはかることこそ肝要と、その大事をになう勇士の人選にはいった。

 そこへ名乗りでたのが坂隼人。さいわい武州江戸城にある本田氏の家臣に縁者があり、そこを頼るということで、すぐさま話はまとまり、江戸への旅たちとなる。隼人は、内室から姫君と系図の巻物などを託され、侍女5人、郎党7人とともに、密かに島崎をたち、江戸の本田佐渡守正信の屋敷へおもむく。そこで、隼人の縁者、本田正信ともにあたたかくむかえ、姫君の扶助を約束してくれたから、隼人はとんで帰った。

 保内山へむかった徳一丸の軍勢は、そこにたてこもる佐竹勢と激突。佐竹勢は六百余騎をくりだし、砂塵をあげて押し寄せ、踏み散らし、獅子奮迅の勢い。島崎勢は、覚悟を決めた戦いだから少しも恐れず、山でもくずれるかのようになだれいり、死人を乗り越え、かちどきの声をあげて突っ込んでいった。

 佐竹勢は、弓、鉄砲を打ちだすこともできず突きたてられ、敵将戸村重太夫はくずれる味方を陣内に引きいれ、これを新たな軍勢に替えて戦おうと必死。加えて、弓手にあたり軍手にかかりつつ、前後左右、千変万化して切りまくる徳一丸の働きに、さしもの佐竹勢も足なみ乱れ、敗走するかにみえた。だが、こんなことで引き下がる重太夫ではない。押し込んで討ち取るだけど、采配(主将が軍隊の指揮に使う道具)を腰にはさみ、槍をとり、手元へすすんでくる島崎方三騎を突き倒し、逆に攻めかかる。

徳一丸は当年16歳といえども、最上の「業物」をふりまわし24人を切り捨てる。これにつづく、塙、井関、大川の諸将もここぞとばかり武勇をふるい、いのち限りに戦えば、さしもの佐竹勢もまずはこれまでと四方に散る。そこへかけつけたのが佐竹の勇士梅□半左衛門と七百余人の新手。ふたたび、砂塵をまきあげての乱戦となった。

島崎勢は数時間の戦いに、心身ともにつかれはて、すでに百人が討たれ、残る五百人もそれぞれ傷だらけのありさま。もはや合戦は無理とみた塙、井関の二人、われわれはここにとどまって防戦、主君には帰城をすすめたが、徳一丸は承知しない。そしてまた、血で血を洗う乱戦の幕あき。しかし、敵味方の判断もつかないという合戦とはいえ、徳一丸がめざすのは戸村重太夫、重太夫のねらいは徳一丸。一騎討となったのも当然の成り行き。

徳一丸は血染めの大刀ならば、方や大身の槍。まず、徳一丸が真っ向にふりかざし、突き、流して切りたてれば、重大夫これをめしらいかね槍先ひるむところ、血染めの大刀一閃。槍は中途からはずに切り落され、その切っ先は重太夫の馬の首筋を切ってとんだ。馬はおどろいてはねあがり、重太夫は落馬。あわててかけつけた部下に助けられ、いのちからがら味方の陣へ逃げ込んでしまった。

死人は野辺に横たわり、血は馬□に踏みたてられ、紅を流したかのようであった。春の日は長いといえども、月はすでに西山に姿をかくし、戦場にも夜のしじまが訪れた。佐竹の陣では、戦略会議がはじまっていた。「今日の戦い、島崎の働き尋常にあらず。これをむやみに討たんとせば、味方の損耗甚大なるべし」と、知恵をしぼった結果、部下をはじめ近郷の百姓をかり集め、多くの松明をともし、太田の方から大軍が押し寄せてくるように見せかければ、島崎勢もその数におどろき、逃げ出すであろうということであった。

島崎盛衰記 その9につづく。



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