「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録6回目

2021-06-30 16:49:41 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

5.島崎氏は400年もの長い間に渡って、なぜ生き抜けたのか?

島崎氏が島崎郷に住み着いた訳ですが、島崎郷はそんなに大きな領域ではありません。戦国時代の終り頃は、行方全体が2万6千石といわれております。これを分け合う訳ですから、石高としてはそんなになかったと思います。その中で生き抜けたのは、他の大掾氏にも言えることですが、隣近所が親戚、同族ということが大きかったかと思います。やっぱり隣人は大事にしなければいけない。そういうことです。

それ以上にまして、この霞ヶ浦と北浦に挟まれた半島状の地形、外敵を寄せ付けづらいという、地理的な条件があったと思います。その地理的な条件というのは、人や物や文化そういった物がもたらされる「水の道が」巡っている訳です。外海と繋がっている無限の道がそこには広がっている訳です。これは重要だと思います。戦国時代に島崎氏が急激な拡大を可能にしたのも、「水上交通路」とそれに連なる「津・港」を通して富を掌握して、行方地方の旗頭と呼ばれるまでに成長を遂げたと私は考えます。

最後に「まとめ」として。

島崎氏は、まだまだ不明な部分が多く、残念ながら、認知度も高いとは言えません。

それは、「古文書」などの文字史料が少ないことに起因しております。

今日述べてきた「考古学」の資料も、少しは蓄積してきました。そして、茨城県では「城郭の全県調査」という、すべての県下ですべての城を対象にした調査が開始されました。今後、縄張り図という図面も作っていくと思いますが、これが出来ると他と比較検討が可能になります。

それらを歴史学、考古学、地理学、民族学、分野を越えて知恵を出すことによって、地域に根ざした歴史が明らかになっていくのではないかと思います。

その時、重要になるのが歴史の証人である「遺跡」です。私、先程気分は戦国武将でしたと言いましたけど、やっぱりそこに立つということは、いろんな事を感じとることができます。歴史を積み重ねてきた場所に立って、過去を見つめるということは、すごく大事な事だと考えております。

大台城は失ってしまいましたけど、島崎城の中心部、外郭部の内野遺跡の周辺、それに、長山城がまだ残されていることは有難いことです。

まさに、戦乱を生き抜いてきた中世の人々からの「贈り物」です。未来を生きる私たちにとって、かけがえのない財産だと思います。最後になりましたが、それらを今日まで守り伝えて頂きました、地元の方々に敬意を表しまして、本日の話を終りとさせて頂きたいと思います。ありがとうございました。         (了)            

 


「島崎城跡環境整備活動」について

2021-06-29 20:48:29 | ボランティア活動

島崎城跡の環境整備活動を行いました。

今月の環境整備活動の当初予定は6月20日(日)でしたが、雨天により翌週の6月27日(日)に延期になりました。当日は台風が近づき予報では朝から雨天とのことでしたが、台風の予想コースが外れて一日中曇りの天気になり、予定通り作業を行うことが出来ました。

梅雨時は毎年のことですが雑草の成長が早く、城跡一面が草で覆われてしまいますが、手分けして雑草の刈り払いと、枯れた立木の伐採を行いました。そして、大きな杉の木を休憩用の椅子用にと帯曲輪に運び設置をしました。城跡見学の際にはご利用下さい。

また、馬出曲輪の入口が急な坂で滑りやすくなっており、伐採した材木を利用して階段を作り登り易くしました。今後は手摺りも設置して安全に見学できるように進めて参ります。


「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録5回目

2021-06-29 10:35:22 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

4.島崎氏の終りはどうなのか?

年が改まって天正19年になると、「南方三十三館の仕置き」という事件が起こります。佐竹義宜が本拠である常陸太田に、鹿行地方の国衆を招いて集めてそこで「騙し討ち」にする。いわゆる謀殺する。

和光院過去帳によると、そのことを伺うことが出来まして、その中に鹿嶋殿父子、島崎殿父子、玉造、中居、烟田、相田、小高、手賀、武田の16人が殺されてしまいます。これにより、島崎安定・徳一丸は殺される訳ですが、江戸氏とか大掾氏というのは、小田原の役には参陣していません。ですから、しかたがないかなという側面はあるのですが、島崎氏はちゃんと参陣して、刀や馬を献上しているので、「寝耳に水」ということでしょうね。

島崎氏は予想してなかったと思われます。皆さんは、「佐竹、けしからん」と思いになると思いますが、その通りなのですが、さきに、秀吉は佐竹に鹿行地方の領地を与えてしまっているのです。

ですから建前上、自分の領地の中での出来事を粛清しただけだ、というスタンスになる訳です。佐竹氏にとって、この行方の地は、ちょうど半島状に突き出していて、軍事的にも欲しい地域だし、さらに、ここには「水上交通」という豊かな水の道があります。それを掌握する為にも欲しい場所。

一方、それを黙認した秀吉側にとっても、「目の上のたんこぶ」ではないですが、圧力をかけておきたいのが徳川家康です。

その徳川家康の領地というのは、今の千葉県の南側です。徳川氏に圧力を掛け続けるのには、徳川は大きいですから、小さい勢力をおいてもしょうがない。

やはり、秀吉の自由になるような範囲での、巨大な勢力を置いて、圧力をかけておきたい。それが佐竹なのです。

そういうような思惑が交錯していると思います。ちなみに「三十三館」というのは、33家が殺されたと言う事ではなく、沢山のという意図であると理解してください。

では、安定・徳一丸が殺された島崎氏はどうしたのか?あくまでも軍記物語です。

「島崎盛衰記」には残された家臣は、大生原に出陣して合戦を華々しく行い、一方、島崎城は火が上がって落城したということが書かれております。

外郭部の内野B遺跡の発掘では、小札といって鎧の部品が出土されております。

小刀も出てきております。島崎城の「二の曲輪」では鉄砲玉も出てきています。「本丸」の部分の発掘では、火災の跡が見つかっています。ただし、時期は分かりません。内野B遺跡では火災の跡はありませんでした。

その「一の曲輪」とその北側の「水の手曲輪」があるのですが、その間の堀を調査しましたら、いろんな物が投げ込まれていました。一般に、堀の中から物が投げ込まれて出る状態というのは、お城の最終段階で行われる行為です。

ただし、どこのお城でもそういう事がおこなわれる訳ではありません。逆にそういう出方がするのは、少ないかなと思います。私、昨年の暮れまでに、柏市にある中世のお城の70mの長さの堀を掘ったのですが、そういう出方はしていません。

ですから、物が堀に投げ込まれている島崎城の出方というのは、当時の最終段階で混乱していたということが想像できます。

その後、この潮来には佐竹氏が入ってきます。島崎城と長山城の中間に、その要の城として大台城が築きます。佐竹義宜の家臣であります小貫頼久という人物が、文禄4年1594年ごろから築城を開始しまして、慶長元年1596年、約2年間かけて作ります。ほぼ全域が発掘調査されて、礎石を使った城門の跡、三階建てと考えられる「櫓」の基礎、「枯山水の庭園」もありました。

それを望む「主殿」といわれる建物の跡も発見されております。

これは、その時に発見された物の一部です。越前焼の甕(かめ)というのは、福井県で焼かれた貯蔵用の甕です。その下に志戸呂焼の「天目茶碗」ですが、静岡の島田で焼いた物でお茶を飲む茶器です。火鉢はみてのとおりの暖房具です。

内野B遺跡では、志野焼とか瀬戸美濃焼の茶器が結構発掘されております。ですから茶の湯を楽しむ姿が想像されます。

これが(図発見された焼き物)、内野B遺跡の発掘した時の写真ですが、これがその天目茶碗です。これが建物の跡で、柱が建っていた穴です。こんなに大きな柱ではありませんが、その外側に縁あるいは庇を伴うそういう物です。そして、ここの小さい堀穴の中から「かわらけ」と言うものがまとまって出土しております。

「かわらけ」というのは、儀式とかお祭り(祭祀)、宴会の時に使い捨てにする中世ではすごく大量消費する、素焼きの釉薬を描けない焼き物です。この事例というのは、この建物を建てる際の、地鎮祭に利用されたのではないか考えられます。

ただ、問題になるのは、この時期であります。ちょうど島崎氏の終りか、次の佐竹氏か。なかなか判断がつけづらい時期です。この内のB遺跡では、「志野焼」が結構出ております。志野焼というのはある程度、時期が限定される焼き物でして、それを考えると内野B遺跡は、佐竹氏の時代でも使ったということが分かります。

そして、内野B遺跡では、土塁と呼ばれる土手が廻っています。この土塁をどのように作ったのか。それを見るためにバサッと断ち割りを致しました。写真では分かりづらいと思います。砂とか粘土を使った物を芯にして、その外側に黒っぽい土で覆っている、といったことが分かると思います。両者共通した作りです。

一方、島崎氏よって作られたと思われる西出城の土塁の土ですが、砂とか粘土とか混ぜた作り方は、一切していません。

ただ、この事例というのは時期が違うのか、作った人が違うのか、おぼろげながら、そこから見えてきます。

更に、島崎城の一番大事な部分を囲んでいる土塁の下から、排水溝といわれる物が出てきています。「五輪塔」と言われる墓石を材料として使って、排水溝みたいな物が作られています。

その五輪塔の数が、なんと60個です。この辺で、それだけの五輪塔の石材で墓を作れる人は、島崎氏しかいないですね。

実際、その報告書が出ていないですよ。

その五輪塔がいったい、いつの物なのか知りたいのですけど、物がないので私は実際にはみてないのですが、そう言うものが出ております。

冷静になって考えますと、島崎氏がもしこれをやったとすると、自分の墓地を壊して石材を持って来る、なんか不思議ですよね。佐竹氏は、大台城の築城の時に、城門とか主殿という建物を建てる時に、五輪塔を持って来て礎石にしているんですよ。その辺を考えると、排水溝みたいな石材も、佐竹氏によって築かれたと考えるのが自然だと思います。その上に土塁を築く。その土塁の築き方と、内野B遺跡で見た土塁の作り方が似通っているので、この地の遺跡というのは、大きく佐竹氏の時代に改修されている、ということが分かります。

そして、私は調査をやっている時に驚いたのですが、この点線は道の跡ですが、ここの所がクランクしております。壁みたいに崖がストーンと切り落ちていて、頑強にそこに門を作ったらなかなか入れないぞ、と言うような地形をしている。

そういう地形は「桝形虎口」という出入り口の形態があるのですが、それと合致するような、頑強な跡がここにあります。

ひょっとしたら、その下に城門の跡か残っているのではないか?それをずっと辿っていくと、二次調査の前は道として使っていたのですが、掘ったらその下に、新たに道として使われた堀が出てきました。

すごく巧みに作っています。この辺の事、そして、築城途中の大台城がこっちにあって、見晴しも良いですから、進駐軍の佐竹の部隊の指揮官クラスがいるような、そういう場所にここは改修されて利用したのではないか?と考えています。

ただ、大台城が完成すると、大台城が機能してきます。ここも使用されなくなったと考えられます。大台城はとりあえず完成してから、4年目に関ヶ原の戦いを迎えてしまいます。

そして、佐竹氏も秋田へ向かうことになります。大台城は出来た当時は、佐竹の粋を集めたお城ですから、この辺の人々にとっては「すげーものだなあ」と思ったと思います。これもわずか4年で廃城になっている。まさに、当時の中世の終焉というものを、物語っているのかなあと思います。

これまでお城を中心に据えながら、島崎氏の歴史を大急ぎで見てきました。

⇒つづく

 

 

 


「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録4回目

2021-06-28 09:12:12 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

3.島崎氏はどのようにして戦国時代を生き抜いたのか?

いずれにしましても、島崎氏にとっては、「目の上のたんこぶ」だった長山氏を排除できたということは、大きな転換期であります。これによって、島崎氏は外側に向けて進出することが可能になっていきます。それに合致するように島崎城は拡大していきます。内野B遺跡では、16世紀の半ばから後半にかけて、当時としては貿易で持って来た高級品染付の皿(磁器)、絵を付けた皿が出土してきており、また、新たに建物が建てられるようになってきました。

島崎城は拡大して行くのですが、その最盛期の状態を想像したのを描いたのが、この絵(島崎城想像図)です。

私が書いたと言いましたが、絵心は全くありません。これは歴史関係の絵を主に書いているイラストレイターに、「ここはこういう風に書いて下さい」と指示をして書いて頂いた絵です。

今ですね、これをちょっと見直してみると、土塁の上に「塀」が描かれていますが、土塁の上に塀は無かったのではないか?

土塁が、そのままで塀になっていたのではないか、と思っています。一応、建物については発掘調査の成果で、建物の柱の穴が出て来ておりますので、「形はどうであれ建物はあるだろうな」と、念頭において描いてもらっております。全体にちょっと立派すぎたかなあという気持ちを持っています。

周りの「水堀」については、「田んぼ」になっておりますが、当時は「低湿地帯」だった可能性があります。

いずれにしても、あくまでも「想像図」という形で理解して頂ければ、有難いなと思います。

このように、島崎城は拡大して行くのですが、同じことを何度も言って恐縮ですが、その発端となるのは「長山氏を滅ぼした」とうことにあるだろうなと思います。長山氏を滅ぼした2年後には、島崎氏は代替わりをしまして、「安幹」という人物が代を継いでおります。

その時、ちょうど隣の「鹿島氏」が内紛状態になっており、そこに干渉して安幹は出兵します。さらに10数年後には、北の方の小高氏と同族だった玉造氏が領地争いを始めました。鹿行地方の国衆は二つに分かれて戦うようになり、唐ヶ崎合戦というのが発生します。その時、島崎氏は小高氏側に立って参戦しています。

大生に大生城というのがあり、大生氏一族がそこを拠点としていました。

伝承ですが、大生城は島崎氏に攻略されて島崎氏の出城になった、と伝えられています。大生氏の系図をみますと、今話題の安幹氏の次男が、大生氏の養子に入っています。ちょうど鹿島出兵との時期ですから、大生氏に息子を送ることによって、大生氏の勢力を、島崎氏は取り込んだのではないのかなあ、と考えることができます。

茨城を代表します、中世文書の中の「鳥名木文書」がありますか、その中に「安国以来、島崎氏は地方を攻め取って勢いが盛んで、古河公方(当時の政治的に一番の権威)の制止もきかない」という内容が記されております。

戦国時代に入ってくると、同族間の争いが活発になりました、まさに「戦の世」ということになってきます。

ただそれは、島崎氏が外側に向けて軍事行動を起こして拡大した、ということに外ならいのですが、本家の大掾氏の勢力が減退して来た、ということも言えるのではないかと思います。

天正12年に、島崎氏は麻生氏を滅ぼします。戦国時代の末のことです。戦国時代の開始というのは、先程の、鎌倉公方の足利成氏と、関東管領の上杉憲孝が争って、二つの対立軸で動いていきます。

戦国時代は、その時期・時期に応じて、主役は変わっていきます。「下克上」という言葉を聞いたことがあると思いますが、その代表的な人物で、北条早雲という武将がおります。その子孫が小田原を拠点に関東に拡大していく。その過程で、佐竹とか宇都宮だとか、北関東の諸将はその北条に対抗していきます。戦国時代の後半の話です。

鹿行の国衆たちも、この佐竹側にくみしていきます。天正12年に「沼尻合戦」が起こります。聞いたことが無い方が殆どだと思いますが「沼尻合戦」を知っている方はすごく歴史の通です。

今、だいぶ研究が進化しまして、「沼尻合戦」の認知度は深まりましたが、一般にあまり知られていません。

どういう合戦かというと、小田原に本拠を置いた北条氏が、当時、主戦場で攻撃目標にしていたのが、下野・栃木県の佐野とか三毳山周辺に侵攻作戦をとり、一説には、北条勢7万人、それに対抗するように、佐竹氏と宇都宮の連合軍は、2~3万人で三毳山周辺に陣地を築いて対峙します。

そこの場所が、沼尻という所で「沼尻合戦」と言われており、大きな戦になりかけましたが、実際、陣地を築いて睨み合って小競り合いにはなるのですが、大きな戦闘にはならないで兵を引いております。

私は我孫子に住んでいるのですが、我孫子には国衆まではいかない、その下の土豪とか地侍の階層になるのですが、「河村氏」という一族がおります。

その川村氏は、松戸にある紫陽花寺として有名な日蓮宗の菩薩で「本土寺」の信徒で、その寺には戦国時代の過去帳が残されています。それによると,河村氏の一族で川村彦四郎氏は、沼尻合戦のその直後に佐野で討死と出ております。

千葉県の北総地域は、小田原を拠点とした北条氏の勢力下に入っています。

ですから彦四郎氏は、上司の命令により、わざわざ栃木県の佐野近辺まで行って、戦闘に参加して討死してしまった。

この鹿行地方の国衆たちも、沼尻合戦で佐野の方へ出陣しています。島崎氏も出陣しています。

その時の部隊編成の一端が分かる史料をもってきました。左之五手の部隊に、府内というのが大掾氏のことだと思います。

二手つまり2部隊、200丁の鉄砲を用意したと書かれています。その下に行方の人たちが書いてありますが、小高は50丁、相賀30丁、武田50丁、島崎20丁、玉造50丁と書かれております。

「あれ少ないじゃないの」さっき鳥名木文書で、島崎氏は暴れん坊みたいな言われ方をしたのに、急激に拡大した割には鉄砲20丁は少ないのではないか。

そこには理由があるのではないか、とお思います。その一つは、麻生氏が滅ぼされるのが天正12年、この沼尻の合戦も12年、ですから、佐野まで兵を送る余裕が、島崎氏には無かったのかも知れない。

麻生氏も、すんなり滅ぼされた訳ではなく、対岸の稲敷市には、土岐氏という有力な国衆がいて、そこに助けを求めて、土岐氏と島崎氏は戦争をしています。そういう事情が絡み合っているのではないか、という気がします。

その一方、もう一つ疑問があるのは、島崎氏の領地というのは、大体今の潮来市くらいに相当するのです。

その中で6~7ヶ所くらいの城だと申し上げましたが、潮来市の面積は71平方キロだそうです。それで6~7ヶ所です。

私、地元の話をして申し訳ないのですが、我孫子は北条方ですが、やはり国衆が治めている地でありまして、43平方キロなのに、大体9ヶ所の城があります。

南の柏には、114平方キロで28ヶ所の城があります。なんか潮来は少ないかなあという気がします。しかし、それには理由があります。それは、島崎氏が戦国時代に入って急激に成長した。周りに城を築かせる間も無いように、権力を集中していき、拡大していった。そういう事の表れなのかも知れないなあ、と考えております。

戦国時代が終わってくる段階になって、北条氏は関東を手中に収めようとするわけです。沼尻の合戦で、北関東の勢力を集結して対抗した訳ですが、そこへ全国統一を目論んでいる豊臣秀吉が介入します。

結果、北条氏は豊臣秀吉と戦うことになります。

天正18年1590年、豊臣秀吉は21万人の大軍で、関東へ攻め入ってきます。

「小田原合戦」とか「小田原の役」とか言われるのですが、これによって関東の勢力は大きく変わります。関東・奥羽の諸将には、秀吉の元に参陣する。挨拶に来て傘下に入る。ということが求められる。来ないと、どうなるかと言うと、その領地は没収されて、没落していくことになる。

茨城の北の方の武将の佐竹義宜は、宇都宮国綱と一緒に小田原に行って秀吉に会う。これに従った一族とか国衆は12人いますが、その中に島崎氏は入っています。

そして「太刀一振り」「馬一頭」を秀吉に献上している訳です。

戦国時代の小田原合戦の頃になりますと、霞ヶ浦をはさんで稲敷方面は北条の勢力下になります。島崎氏は、霞ヶ浦はあるものの、敵対勢力と小田原の北条氏に圧力を掛けられているんです。

ですから、佐竹氏と好みを通じていたと思います。それで一緒に、秀吉に拝謁に行ったのではないかと思います。

行ったことで島崎氏は勝ち組に入ります。ただし、勝ち組には入ったのですが、秀吉側からは、佐竹氏の配下と映ってます。

島崎氏は小さいとは言えども、独立した勢力ですが、豊臣政権からは独立した領主とは認定されなかった。

それがその後、島崎氏の運命を大きく左右することになります。

一方の佐竹義宜は、当知行分として21万7千貫、当時は銭高表示ですが、石高では54万6千石くらいになります。

この与えられた土地は、佐竹氏が実際に支配していない土地も含まれています。

例えば、江戸氏が治めている水戸周辺の領地、島崎氏の本家筋に当たる石岡周辺の大掾氏の領地、それに鹿行地方の領地はそれに含まれていません。

このことはすごく意味がありまして、すでに小田原の合戦の半年後には、江戸氏と大掾氏が佐竹氏に滅ぼされています。⇒つづく


「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録3回目

2021-06-26 20:27:50 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

2.島崎城はいつ頃築城されたか?

では、島崎城はいつ頃築かれたのかというと、江戸時代でいうところの一番の中心、「本丸」にあたる所の「一の曲輪」が発掘された資料の中に、15世紀の中頃の物が含まれています。

15世紀の中頃というのは、ちょうど関東地方が、戦国時代に突入する時期でもあります。京都に、「室町幕府」というのが当時はありましたけれど、関東を治めるにあたって、一番最初に武家政権が営まれた、鎌倉時代の「鎌倉」を室町幕府も重要視します。

そこで,関東を治めるために「鎌倉府」というものを置きます。室町幕府が「本社」ならば、言わば「支社」みたいなものです。ただ、その支社は重要な支社でありまして、そこの長官には、足利将軍家の血を引く一族を任命します。そして補佐役として、関東管領(かんれい)というものを置きます。ちょうど、15世紀の中頃の鎌倉公方(くぼう)は、足利成氏(しげうじ)という人物で、関東管領は上杉憲忠(のりただ)という人物です。

この二人が争うようになってきて、とうとう戦争状態に入ります。そして関東は二者に分かれて、合い戦う戦乱の時代へ突入していきます。これを「享徳の乱」といいます。この時期の島崎氏の当主は誰かというと重幹と言います。島崎氏は鎌倉公方足利成氏に従っております。

結果、足利成氏は、鎌倉から茨城の古河に根拠を動かして、「古河公方」と呼ばれるようになり、島崎氏はそれに付き従って行動します。成氏からみると、島崎氏は「俺の為に良く頑張ってくれたなあ、かわいい奴め、褒美をやるよ、俺の名前から一文字やるよ、名乗っていいぞ。」大変名誉な事でこれを「通り名」とか「諱(いみな)」と呼びます。古河公方から一文字「成」を貰っている島崎氏、そういう風に結びつきが強い。戦乱の世の中で、戦が多くなってくるので島崎城も築かれていくのではないか考えるわけです。

そして、それを示すように、出土品もその時代の物が見られるようになってきます。

ちょっとしばらくした、15世紀の後半になると、大台城の西出城で痕跡が確認されます。どうやら、15世紀の後半に西出城は砦として築かれたみたいです。

その時に出土した常滑焼、貯蔵用に用いる甕(かめ)、そういったものが出ております。では、この{西出城}はどの勢力が築いたのか?問題になるのですが、それを解く鍵は、西出城の構造にありました。

図6は、西出城の構造を分かりやすく作った図です。私が調査に入った頃は、南曲輪かすっぽりと削られて分からない状態でした。基本的に「北曲輪」と言われる独立した一つの空間、そして「南曲輪」と言われるもう一つの空間、これを繋いで機能していく。さらに、東側と西側すっぽりと切れ落ちていき、北側だけが緩やかな傾斜になっている。敵が攻めて来るとしたら、北側なのです。それを見越して西尾根と東尾根を派生させて、西尾根の先端には「物見台」という施設が置かれています。

敵が来た場合、迎撃する為に小規模な空間が用意されている。「わぁー」と来たら敵を囲い込むようにして殲滅していく。そういう様な、卓越した軍事思想が見えてきます。その、西出城から北を眺めたのがこの写真(大台城西出城から臨む長山城)です。

私が西出城の調査をやっている時に、上から長山城を見るのが大好きでした。

気分は「戦国武将」ですよ。一緒に調査に参加したおじちゃん、おばちゃん達からすれば「また、うちの先生は戦国武将になったみたいだ。仕事してよ」と思っていたのかも知れません。

ここに立って、実際その空気を吸って見てみると、「この西出城は何の為に築かれて、そして何を考えていたのか?」ということが、おぼろげながら見えてきます。

これを見ると、まさに西出城は長山氏との闘い、攻撃、そういったものを意識しているものだ、とそういう風に認識できます。

ということは、西出城は島崎氏が造ったものだと考えるのが自然です。じゃあ、島崎氏の誰が作ったのか。「長国」という人物が衝突の時期に当たります。

この「島崎長国」という人物は、文武両道に秀でた、「島崎氏中興の祖」と言われる英傑でありまして、長国寺の創建としても知られている人物です。一枚目の系図の所に長国氏の絵です。颯爽と馬に乗った姿が伝えられています。

それから少し時期を下りますと、16世紀に入りますと、どうやら大台城の西出城ではお城が少し増強されたみたいです。

お城の一番重要な部分を「虎口(こぐち)」といいます。その「虎口」が版築といって質の違う土を突き固めて頑強に造る、そういう工法があります。それを使って増強されているのが、発掘調査で分かってきました。島崎長国の息子の安国の時期にあたっているんですね。

ですから、長山氏との間に軍事的な緊張状態がそこには出来ていた、ということが言えるかと思います。

そして息子の安国氏は、太平2年(1522年)に、永山の日吉山王神社の祭礼の夜の宴会の最中に、島崎勢は夜陰に紛れて境にあった川を越して、長山城を奇襲攻撃して滅ぼしたと伝えられています。

宴会の最中に、お酒を飲んでいて長山城が落城しますので、長山城のことを「いっぺい城」、更に境の川を「夜越川(よろこしがわ)」となったと伝えられています。

その辺の真偽は分かりませんけど、この太平2年を境にして、西出城では焼き物が出なくなります。

ですから、おそらく長山城を奪取したことで、戦線が北西に押し上げられて、西出城の機能も、せいぜい見張り番を置く程度に変化したと思われます。

一方、長山城を見ますと、中心部が残されています。生活をしていたと思われる所は、その北側ですが、そこは残念ながら工業団地※かすみ運動公園※となって失われてしまっております。

中心部の構造を見ますと、二つの独立した空間を並列させて、機能させている状況が読み取れます。

先程言った。西出城と「グランドプラン」は同じ様な風に私は見ております。

長山城は、結構、部分的に見ると複雑に造ってあるので、戦国時代の後半以降、改修を受けたという意見もあります。

しかし、先程のプランを見ると、意外と古いのかも知れません。長山氏を滅ぼした16世紀の前半に、島崎氏が手を入れている可能性もあるのかなと思います。

あるいは、この辺のお城の造り方が、二つの並列した空間を持って来るのが好きだったのか。その辺については、今後への課題かなと思います。⇒つづく