「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-30 08:03:01 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その9】

 遂に徳一丸自刃 島崎諸士が首脳者会議

 案の定、雑兵や近郷の百姓をかりあつめての佐竹勢の松明行列は、島崎勢を驚かした。「あなおびただしき大軍かな。かの軍勢にとり巻かれなば、わが軍いかにしてもささえること能わず。むやみに死せんこと本意にあらず。今宵は引きて、ふたたび兵をととのえうっぷんを散らさん」と味方の軍勢をみれば、痛みに苦しむ者を合わせても300人に満たない。とはいうものの、そっくりこのまましりぞいては追い討ちをかけられるであろうと、5人あるいは10人ずつが肩を寄せ合い、思い思いにしりぞいていった。

 徳一丸は十六騎をしたがえ、木下の里というところまで落ち延び、一息いれた。だが、無数の切り傷が痛みだし、郎党の介抱も役たたず、馬に乗ることさえできないありさま。もはやこれまでと覚悟を決めたのであろうか。徳一丸は「われくやしくもここまで引きしりぞきたるが、この深手にてはしょせん島崎へ帰ることかなわじ。島崎家は断絶は天命とおぼゆるなり。なんじら介錯せよ」といいざま、腹十文字にかき切り、あえなく絶叫。あっという間のできごとであった。郎党はくやし涙をこらえ、泣きながら近隣の寺にあずけ、それぞれ島崎をめざして落ちていった。

 さて大生原へむかった大平、土子、窪谷などの島崎勢はどうなったか。まず、大生台にたてこもる敵を切りくずして、戦いを有利にすすめようということになった。

佐竹勢は佐竹左衛門督、佐竹淡路守、大内丹波守など総勢八千余人。島崎勢が大生台へむかっていることをきき、それぞれの配置を決めた。先陣に左衛門督三千余人、後陣へ丹波守二千余人、淡路守三千余人とし、大生台をはなれて待機。かくして島崎の先陣二千余人、この敵をなぎ倒し、太田までも乱入して主君の仇を討とうと必死の覚悟を決め、弓、鉄砲を打ちかけ、砂煙りをあげて押し寄せる。太刀の鍔音、ときの声、広野にひびき、槍、長刀の光は天にかがやき、地にひらめき、追いつ、返しつ、たがいにしりぞくなといましめ合い、命の限り攻め戦う。

この戦いでは、丹波守が押され気味。そこで島崎勢二陣、鴇田伊豆守、柏崎六左衛門、大生市正ら一千余人、そこをはずさず大浪のように攻めたてる。つづいて第三陣、大生紀伊守、柏崎小太郎など千二百余人は佐竹左衛門督の陣のうしろから切ってはいった。佐竹勢の各将声をからして激励したが、あとのまつり。もはや軍を敗たて直すこともできず、大生台めざして敗退。まずは佐竹勢の完敗に終った。

 有利に駒をすすめた島崎勢は、息もつかずの激戦に疲れたから、無謀な合戦をさけて大生の野まで引き返し、夜陣を□って一服。それから両陣たがいににらみ合い、あちこち火をたいて夜を明かし、そのままの状態で三日がすぎた。

 天正十九年二月十四日夜、島崎の陣に注進の兵がかけこんだ。徳一丸殿、木下の里でご最期との報であったが、まず一勝を島崎勢にとってこれは大変なショック。諸士一同大いにおどろき、まるで盲人が杖を失い、闇夜に火が消えたかのように気力おとろえ勇気をなくしていった。

 そこで、島崎家諸士の首脳者会議がはじまる。「主君義幹公憤死をとげたまい、いままた若君まで討死したまう。当家の運命これまでと思うなり。われわれ、死すべきときききたれり。されど、われわれみな残らず討死せば、だれが主君父子の仇を報果たせん」の声を中心に会議はすすんだものの、衆議は一決せず堂々めぐりするばかりであった。

「島崎盛衰記」その10につづく。