「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-14 20:21:14 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その6】

奥方の戒めもムダ  島崎太田行きを決行

 島崎義幹は、佐竹義宣の正体を受けることになり、これを諸老臣に伝えた。そして、義宣に他心はなかろうが、万が一のことを考え、だれか召連れていくといい、義幹自身義宣に対する備えのあるところをみせたものの、大平内膳、土子野美濃守など五老臣のいうことには、「危きにちかずくこと。君子の行うにあらず」と、まず反対。そもそも、これまでの佐竹のふるまいをみると、口ではうまいことを云っているが、内心は島崎家を押□す□えだ。姫をおくるとは□□だけ。いまだに婚礼の通知もないではないか。それなのに太田へ招き、よろこびの酒宴を□るとはおかしい。延期されたい。義宣には、われわれ五人が太田へ行き、どのような申しひらきでもいたしましょう・・ということであった。

 この言葉に、義幹は途方にくれた。そこへ、またまた現れたのが小貫大蔵、前回と同様、持ち前の弁舌にものいわせてぶちまくった。義幹はますます混乱した。そこへ、にじりでたのが家臣の一人大川亦五郎、大蔵にむかい、ずばり言った。

 「貴殿の心底、かねて心□す。当時、乱世の□にて、子は親を謀り、臣は君を壊し、たがいにすきをうかがう世の中なり。たまたま、当家が佐竹より縁組を望まること不審なり。ここに及んで老臣を先達すると申し上げるに、貴殿は弁舌をもって君をすすめ奉る」とまくしたて、大蔵に迫った。大蔵は顔色を変えて怒った。

 「われ、他に別心なし。ただただお家大事を思う所存なり。しかるに、貴殿はわが心底まで疑うとはなんぞや。そのわけをうけたまわらん」と、逆につめ寄ったところで、義幹が待ったをかけた。大川のいいぶんもさることながら、小貫の言葉もわが心にかなっている。ともあれ、小川刑部左衛門あて招待を受けるむね伝えてある、といい、さらに言葉をつづけた。

 「今また深く疑いて行かずんば、佐竹の武□に恐れ、義幹仮病を聞きて言葉を□り、変改せしと笑われんこと心外なら、たとえ義宣に野心ありて奸計を用いるにもせよ、そのときは臨機応変の方便をめぐらすべし。わが心、鉄のごとし」これで、義幹の太田行きはきまった。五老臣はじめ一座の諸士も仕方なく、このうえは主君と存亡をともにするほかなしと、心にきめたものだ。

 左衛門尉義幹は、2月8日、太田へむかうことになった。お供の侍には、原徳大夫、原弥兵衛、瀬能茂兵衛、茂手木利之助、榊原弥衛門、新橋道之助、根本□四郎、森伊衛門、宮本市左衛門、人見久兵衛、平山管内、小幡勘助、江口三太郎、大川亦五郎、片岡久蔵、矢口新太郎、菅谷利助、佐藤伝内、石神弥左衛門、鬼沢勘左衛門をはじめ、屈強の郎党五十人、いままさに出発しようというとき、奥方が行列の前にたちふさがり、昨夜の夢見がわるかったといい、しきりにとめようとしたが、夢は五臓の乱れ、恐れ疑うことはないと言い残し、島崎の城をあとにした。

 佐竹義宣は小貫大蔵と示し合わせ、計略成就を大いによろこんだ。それから、屈強の精兵五万余騎を太田への道すじに配置、佐竹淡路守、佐竹左衛門佐を大将とした上勢六千余騎を、麻生、行方方面からひそかに大生台へおくり、義幹を討ちとると同時に島崎城へ攻めこもうと、それぞれ駒をすすめた。

島崎盛衰記 その7につづく。


「島崎城慕情しまざきぼじょう」 城跡保全活動応援ソングを作成しました。

2021-01-09 18:58:48 | ボランティア活動

「島崎城慕情・しまざきぼじょう」 城跡保全活動応援ソングを作成しました。

会員にCD・DVDを配布予定です。

 

島崎城慕情 しまざきぼじょう 島崎城跡保全活動応援ソング

茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

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茨城県潮来市の地域ボランティア「島崎城跡を守る会」の活動応援ソング。

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「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-09 08:05:35 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞に掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その5】

佐竹との縁組承知 島崎逆臣の奸計に乗る

 佐竹義宣は、すきをみて島崎を押倒し、行方郡をうばい、常陸一族をわがものにしようと、あれこれ思慮にふけっていた。このころ、島﨑の幕下に小貫大蔵という武将がいた。幕下とはいっても、元来が藩代の臣でないから、欲をだした。佐竹の後世より先に島崎を倒し、佐竹にとりいれば過分の恩賞にあずかれると考え、これを義宣に伝えた。行方攻略はいかにと思案していた義宣にとって、大蔵の申し入れは「渡りに船」。早速、諸将を集めて密議をこらしたことはいうまでもない。

 小貫大蔵、佐竹義宣と体面のこと━大蔵は病気といつわって出仕をのばし、ある夜ひそかに用意を整え、腹心の島崎三、四人をつれた常陸太田へ向い、そこで義宣と対面した。まず島崎の城をを攻めることだ。どのような謀りごとを用いてもいいと義宣がいえば「力をもって力にあたることは諸士の損亡を招くだけ、そのうえ時間もかかろう。油断させ不意をうつに限る」と大蔵。この大蔵の言葉にしばらく考え込んでいた義宣は、はたと膝を打ちいったものだ。「余が□をやりて、島﨑義幹の一子徳一丸にめあわせて縁者にならんと申し送り、これを約して義幹の心を許させ、太田へよび寄せて人知れず討ちとらば、家中の諸氏大いに力を落し、敵する者あるべからず」と。

 この陰謀は、佐竹の家臣小川刑部左衛門という使者によって義幹に伝えられた。そこで義幹は一族老臣を呼びあつめて評議したところ、大平内膳と土子美濃守の二人は開口一番「この議ご無用なり。佐竹義宣、縁者たらんことを望むといえども、実心に、あるべからず。案ずるに、姫を餌に当家をつり寄せて押倒し、行方郡をうばう謀りごとなり。義宣とは数代にわたる旧友の仲なりといえども、その心は、猿のごとく、礼法を知らず、いわんや当家に対しては小田の幕下に属せしことをいきどおり、敵の思いをなすとうけたまわりぬ」といい、いならぶ家臣も二人の言葉を認めた。

 結局、評議は佐竹との縁組辞退へと傾むいていったが、そこへ現れたのが小貫大蔵。ここで計画がお流れになってはたまらんと、口からあわを飛ばしてしゃべりまくった。

 「今は佐竹との縁談をことわらば義宣たちまち怒りを発し、大軍を起して攻めてきた蘭子と必定。さあるときは、当家の攻勢にてなんや大敵を防ぎたることを得んや。当家代々相つづきし名家なりといえども、よろしく佐竹のために攻め滅ぼされ、汚名を万□に伝うべし。これ□とも焼失するの道理ならん。佐竹とあつく交りをむすぶときは、威徳の終るがごと、山のごとく高く、朝日の光るごとし。だれが佐竹と肩をならべ、□□を争い、勝負を交すものあらん。その佐竹と縁組を望まれること、あに当家の幸いならんや。さすれば、ご先祖へも□□、子孫繁栄のかけ橋とならん」

 この大蔵の熱のこもった弁舌に評議は一変し、佐竹の申し入れを受けることになってしまった。老臣の仲には、かなり危険視する者もいたが、合議などによりわざわいを招くこともあるまいと、縁組承知の返答におよんだ。使者小川刑部左衛門は、よろこびいさんで太田の城へ帰った。

 佐竹義宣、島﨑義幹を招くこと━あければ天正十九年(1591)佐竹氏は島崎城へひんぱんに使者をおくり、他意のないことを示していたから、島崎氏もひと安心、まずは天下泰平とよろこんでいたものだが、佐竹の謀りごとは着々すすんでいった。まず島崎城の近く大生原に番台として置いた小川刑部左衛門に陰謀を打ちあけ、陰謀その一を話し、小川はこれを義幹に伝えた。

 「主人義宣、このたび□□□を補修し、茶を□して数年の軍労をなぐさめ申さん。ご苦労ながら太田へご光臨くだされたく・・」ということであった。

 島崎盛衰記 その6につづく。

 


「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2021-01-03 14:21:39 | 歴史

YOUTUBEにて「嶋崎城跡」が紹介されています。

【茨城探索】島崎城跡 茨城県潮来市!土塁・井戸跡・大堀・空堀が残る鹿行地方最大のお城です!本丸跡地には「御札神社」が残っています。(島崎城跡 潮来市)

茨城県非公認観光大使 アミ による 【茨城探索】 島崎城跡 茨城県潮来市 の紹介です。 ●アミロハ チャンネル● https://www....

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約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。

【島崎盛衰記その4】

行方の諸氏が呼応 島崎勢の陣形固まる

 佐竹と縁組をむすぶこと━

左衛門尉長国が死んで、長子安国が家督を相続、家門はますます繁栄した。安国の妹は、かって常陸北部をおさめ、いままた勢力をましてきた佐竹氏におくり、まずは血縁の間柄となった。引きつづき安幹、氏幹をへて義幹の時代をむかえ、島﨑氏の悲劇がはじまる。

 左衛門尉義幹は先祖に劣らぬ無双の勇将。当時、行方の諸氏いずれも小田讃岐守氏治入道天庵の幕下に属していたから、島﨑も自立なりがたく、小田の幕下に合流して天庵の命令にしたがっていた。おもしろくないのは佐竹だ。島崎は旧交の義を捨て、われわれに背いて小田にしたがうとは、なんと不埒な振る舞いであるかといきどおり、ついに、敵味方に分かれることになる。そして天正元年(1573)頃から小田、佐竹両氏の攻防戦が激しくなる。行方の諸氏は小田に加勢するため、それぞれ出陣していった。

 ときに、義幹の父氏幹は旧交の佐竹と刃を併せることを本意とせず、出陣は見合わせていたが、義幹はこのような父をいさめ、小田氏への加担をきつく迫ったものの、氏幹はがんとして受けつけなかった。そんなとき、義幹はやまいに倒れた。小田氏からは出陣をうながす書状がひんぱんに届く。義幹はジリジリする数日を過ごし、小田氏が合戦に利あらず土浦城へ敗走したことも、やまいの床で聞いた。

 佐竹勢は□丹波守、額田、□井など、大軍をひきいて攻め寄り、小田氏をはじめ、幕下の諸軍を撃破していった。あい次ぐ敗戦におどろいたのは義幹、わが一族、行方の諸氏が味方したにもかかわらず、このありさまはどうしたことだ。他人ごとではない。自分は出陣できないが、加勢の軍勢だけでもおくろうと。父に執拗に食い下がった。氏幹もこの事態に出兵を納得し、家臣の土子、大平を大将として、窪谷四方之助、鴇田兵庫、鴇田伊賀守、今泉将監、大生市正、柏崎隼人、柏崎六左衛門、塙外記、山本玄蕃、佐藤玄蕃□、寺田茂兵衛、大川市之亟、下河辺監物などの勇士二千余騎を玉造ちかくへさしむけた。

 対する佐竹勢は早くもこの情報をキャッチ、要害の地に伏兵を置き、島﨑勢を待った。土子、大平の勇将を先頭に佐竹勢へ急いでいた島崎勢は、土浦の落城、小田天庵はゆくえ知れずの報を受けた。佐竹勢は破竹の勢い、無謀な戦いかと思えたが、土子、大平の島崎勢は身命を捨てて佐竹勢にぶちあたった。しかし、すでにペースに乗った佐竹勢のことだから、さしもの島崎勢も敗退、命からがら島崎城に引き下がった。

 城主義幹はまったくおだやかでない。美容器が全快さえすればこのうっぷんが晴らせるとばかり、名医を呼んで養生した甲斐もあって、日一日と快方にむかった。とはいうものの、敵は名にしおう佐竹義宣。それも大軍で攻めてくるのだから小勢では無理。こうしてむなしい月日が流れた。大軍には大軍をもってあたるのが兵法の習い。         

そこで義幹は、意気あがらぬ日々をおくっている行方勢下の諸氏に呼びかけ、出兵をうながした。佐竹に殺されるも恐ろしいが、島﨑に睨まれるのもうまくないということで、行方の諸氏はみな島崎の呼びかけに応じたから、島﨑勢はにわかに強力な陣形をととのえることになった。こうなっては佐竹勢もみだりに島崎を攻めることはできない。相州の北条氏にも応援方を依頼したが、不発に終り、島﨑の勢力を強固なものにするばかりであった。

 その後、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃のおり、島﨑も参陣して秀吉に忠誠を誓ったから、その縄張りは安堵、義幹は嶋崎の城へ帰った。 

島崎盛衰記 その5につづく。