「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

歴史講演会「島崎氏と行方郡の戦国時代」のご案内

2022-08-27 16:51:00 | 歴史
歴史講演会「島崎氏と行方郡の戦国時代」のご案内します。
講師は日本考古学協会会員の間宮正光先生です。
◆開催日時 令和4年10月30日(日) 13:30~15:30
◆会  場 茨城県鹿行生涯学習センター 大研修室
◆対  象 一般県民 40名  ※参加費無料
◆申込期間 9月6日(火)9:00~ ※定員になるまで受付けます。
◆申込方法 茨城県鹿行生涯学習センターのHP及び電話・来所
◆そ の 他     感染症や自然災害等により、中止や日程・内容等を変更する可能性がありますのでご承知おきください。
【問合せ先】 〒311-3824 茨城県行方市宇崎1389
       TEL 0299-73-3877  FAX 0299-73-3925
                         主催 茨城県鹿行学習センター




ふるさと潮来」第35号 潮来市郷土史研究会発行 販売のお知らせ

2022-08-23 19:56:31 | 歴史
「ふるさと潮来」第35号 潮来市郷土史研究会発行 販売のお知らせ
潮来市郷土史研究会発行の「ふるさと潮来」第35号が発売されています。B5B版・109P  売価1000円。
販売場所は、潮来市永山777 シヨッピングプラザ・ララルー内「本と文具の大地堂」にて取り扱っております。
また、潮来市立図書館に「ふるさと潮来」全巻が蔵書されております。 
 


なお、昨年発行されました「ふるさと潮来」第34号も引き続き発売されています。



島崎義幹太郎左衛門尉と佐竹氏の考証(寄稿文) 後編

2022-08-14 16:19:39 | 歴史
島崎義幹太郎左衛門尉と佐竹氏の考証(寄稿文) 後編
(行方台地を奪いあった強者の終焉)
茨城県神栖市在住の森田衛氏の投稿文「島崎城レポート」を紹介します

鹿島・行方二十三館攻め 
このように軍役の負担を迫られ苦しい状況に置かれた佐竹氏は、強圧的な常陸大嫁氏、江戸氏、額田小野崎氏への攻撃と「三十三館」に割拠していた大掾氏配下の国衆主の謀殺による実質的領国の統一と兵力や資金の増強を図ろうとした。 
義宣は、まず手始めに、天正 18年 (1590年)12月 20日に水戸城の江戸重通を攻めた。攻められた江戸重通は、岳父(妻の父)である下総国結城城の結城晴朝の元ヘ逃れ常陸江戸氏は滅亡した。 
その勢いで、同年 12月 22日には上小川の園部氏などを味方につけ、府中(現・石岡市)の 大掾清幹を攻めて大禄氏を滅亡させた。 
ただ、これらの戦は、義宣はまだ京からの帰郷の途中で、父の義重が指揮を取っていたものと考えられる。 

天正 19年 (1591年)2月 9日 、京から帰った義宣は、鹿島郡及び行方郡に散在していた大嫁氏一族「南方三十三館」の主たちを領地割りの話し合いなどと偽って常陸太田の城に南方三十三館の城主とその子・兄弟を呼び集めて全て抹殺した。 
三十三館の城主とその子の謀殺後「館」攻めに際しては鉾田の安房に拠点を構え、 少なくとも500人位の兵が待機していて、そこから行方・鹿島を攻撃した。

万が一、戦況が不利となれば太田から数万の援軍が来る態勢を取っていたと言われる。鹿島・行方の三十三館に対して東義久を鹿島郡に当たらせ、重臣の和田昭為らに行方の城攻めを命じての城館を攻め落とした。 

勿論 、鉄砲の数においても鹿島・行方の領主達のそれとは比べものにならなかった はずである。天正 19年 (1591年 )2月 23日には、額田城を攻め、当主の小野崎昭通(額田照通)は逃亡し伊達攻宗の元に身をよせた。

「和光院過去帳」
佐竹氏の南部討伐についての史料に「和光院過去帳」がある。 
それをによると「天正十九年辛卯二月九日於佐竹太田生首の衆、鹿島殿父子カミ・嶋 崎殿父子・玉造殿父子。中井殿・烟田殿兄弟・オウカ殿・小高殿・手賀殿兄弟・武田殿己 上十六人」諸氏が書留められている。(玉造町史)また、六地蔵過去帳には島崎氏のみだが、「桂林呆白禅定門天正十九年辛卯卒於上ノ小川横死、春光禅定門号一徳丸於上ノ小川生害」と記されている。「南方三十三館曲来書」や「諸士系図書」の所伝では、義宣はこれら諸氏を会盟にことよせて太田城下に譲殺し、従わない者には軍をさしむけ、一朝にして攻略し去ったとある。

南方三十三館仕置きの真実 
大掾諸氏を滅ばした手段については、いくつもの伝承があり謎を秘めているのだが、 瀬谷義彦氏は「茨城の史話」の中で次のように述べている。 
「嶋崎氏をはじめ、太田に誘って殺したと「新編常陸国史」にあるが、いったい何の目的で多くの城主が招かれたのか。 
前述した会盟にことよせて云々…・の件で、江原史昭編「鹿島・行方三十三館の仕 置」をとり、大掾・江戸氏らの壊滅後に南部の諸氏らが不安となり、佐竹氏を盟主と仰ぐ雰囲気を作り出し、改めて自分らの支配地の配分を佐竹氏に承認してもらうための 会盟に誘われたとする見方もあるが、茶の湯に誘われたとする説もあり江原説が当を 得たものだ。そして、太田城中で一緒に殺されたものでなく、それぞれの縁故に預けられて処分されたのが真相だとしている。 
江戸氏や大嫁氏、大掾氏子孫の島崎氏「南方三十三館」の領主を滅ばしても、秀吉が発した「関東・奥羽惣無事令」には違反とならず、あくまで佐竹氏の配下に対しての佐竹家の「位置き」と言う名目での取り扱いになった。

佐竹氏が手にしたもの 
「行方軍記」によれば、島崎氏の生産石高は、1万 5千石とされ、家人とされる世帯数が40家程度であるとすれば、動員兵力は 300名くらいの傭兵と思われる。その他、船頭、日雇い者、寄留者を加えて多く見ても350名 くらいではなかろうか。 「南方三十三館」の仕置きによって佐竹氏が手に入れた石高は、行方郡が、2万 6 千300石 、鹿島郡が、2万5千300石と見積もられる。 
その他、津「河岸」の経営からもたらされる膨大な収益もあったと考えられる。

島崎氏は実力があつた(鹿行地方最大規模の城) 
江戸氏(水戸)、大掾氏(石岡)などを滅ぼす程の力をもった大名・佐竹義宣が、なぜ、鹿 島・行方の三十三館という小豪族に対して太田城まで呼び出して城主親子を謀殺するという編し討ち(?)的な手段を取り、その後、城主のいなくなった各城に兵を進めて攻め落とす戦略を講じたのかについては謎が多い。 
そこには、大名・佐竹義宣といえども鹿島・行方を正面から力攻めするのは簡単ではなかったのだろう。行方地区には島崎城をはじめとした多数の城が存在し、しかも各城が霞ヶ浦に隔てられた低湿地帯が自然の要害となる場所に位置し、鹿島郡にも、鹿島城、仲居城、札城、姻田城といった城館が北浦に面した高台に位置していて湖と湿地地が同様に自然の要害になって攻めにくい立地であったことは確かである。
更に、元々は同族であった三十三館の領主達が平和な繁栄とその基盤を守るため、 行方国衆が力を合わせて立ち向かったとしたら、兵力を比較すれば格段に上回っている佐竹軍といえども、簡単には攻め落とすことは出来ないだろうし、正攻法で臨めば佐竹氏側にも、それなりの犠牲が生じ大事な兵力を失うことになったであろうし、南部全体を制圧するには時間も掛かったであろう。 

当時、佐竹氏には豊臣秀吉からの軍役動員の指示がでている折りでもあり、兵力の損失は避けたい時でもあったに違いない。 
この仕置き事件は、見方を変えてみると、佐竹氏(河内源氏)による、島崎氏(桓武平氏)に対する常陸国内での源氏と平氏の戦いにもみえる。 

島崎安定の生きた時代 
同時代を生きた戦国武将と比較すれば、島崎氏を取り巻いていた環境が見えて来 るのかも知れない。島崎安定の生まれた年月は調査不足で不明。没年は天正 19年 (1591年)南方三十三館攻めである。
 
島崎氏に大きく影響を及ぼした人物、佐竹義重は天文16年 (1547年)生まれ 、没年は、慶長17年(1612年)66歳 、島崎安定の没後21年後になる。 
息子の佐竹義宣は元亀元年(1570年)に生まれ、没年は寛永10年 (1633年 )64 歳であるため、南方三十三館を攻めた時は、佐竹義宣は 22歳と言うことになる。非常に若い青年が島崎氏や鹿島氏を攻め落としたことになる。(当時父義重は 44歳) 
ちなみに、織田信長 (1534年~1582年 49歳)、豊臣秀吉 (1537年~1598年 62歳) 徳川家康 (1543年~1616年 74歳 )、石田三成 (1560年 ~1600年 41歳)

佐竹義宣と同世代に当たるのは、伊達政宗や真田信繁(幸村)で、彼ら二人は義宣の生まれた数年前の永禄 10年(1567年)に生まれている。また、佐竹親子と黒田考 高・長政親子は、ほぼ同時代に活躍した人物に思える。 
このように、戦国時代(凡そ1560年 ~1615年「約 55年間」)に活躍した人物などと比べながら歴史を見直せば、点が線になるような気がする。 
むちゃくちゃな言い方をするならば、この時期 55年間の動き(身の置き方)が当時の武将達には非常に重要な選択だったように思える。 

島崎安定の死が悔やまれる 
島崎安定や佐竹親子は、信長や秀吉、そして家康が活躍した「戦国騒乱」が統一に向かって激化し、その後の収束していくことで新たな近世という時代を迎えた頃に活躍 した人物で有ることが分かる。
大名間同士の争いを禁止した秀吉による「関東・奥羽惣無事令」を発したのは天正15年 (1587年)であり、「関東・奥羽惣無事令」違反とした、秀吉による北条小田原征伐は、天正 18年 (1590年)、そして、関ヶ原の戦いは慶長5年 (1600年)である。 
島崎安定の没年天正19年 (1591年)とされるのなら、豊臣秀吉の小田原北条攻め の翌年と言える。安定が活躍した時期、中央政権は信長や秀吉の時代であり、この時 期に佐竹氏が中央政権に対してどのような考えを持っていたか、また、常陸国内でどのような目的を持って行動していたのか、さらに、行方国衆頭の島崎氏には、これらの 中央政権や常陸国内がどのように写っていたのか非常に興味深いところである。
関ヶ原の戦い(西暦 1600年)以 降、日本国内では大きな戦いは起こっておらず、平和な時代へと向かった。島崎安定が謀殺されてから、「たったの 9年後」には戦乱の世が明けたと言いのに島崎氏の謀殺は非常に悔やまれる。

再軍役賦課と太閥検地 
佐竹氏は翌年の文禄元年(1592年)に「文禄の役」に出陣して備前国,名護屋(佐賀 県唐津市)に在陣を命ぜられた。この在陣生活は約1年半に及んだ。 
在陣中、彼らの頭の中に有ったのは、軍役を果たせなければ改易されるという危機 感であった。 

帰国後の義宣は石田三成の援助を受けながら常陸国内の太閤検地を行っている。 それは領国単位で施行され,石田三成配下の役人らが文禄3年 10月から12月にか けて実施している。 
対象地域は,久慈郡松平村,久慈郡久米村,久慈郡和田国安,河 内郡小野崎村(常陸太 田市),那珂郡上檜沢村,那珂郡下小瀬村(常陸大宮市),下野国茂本内小深村、下野国茂木内小井戸郷,茂本内飯野村 (栃木県芳賀郡茂本町),那珂郡石神 村 (那 珂郡東海村),那珂郡内上河内村(水戸市),茨城郡那珂内西古宿村(東茨城郡城里町),筑波郡真壁内小和田村(桜川市),筑波郡内長井村,筑波郡内小高村,筑波郡山口村(つくば市),茨城郡宍戸庄(笠間市),行方郡武田郷之内借宿村(行方市)であった。 
検地では郡域や村域が確定され,次に田畠・屋敷の別とその等級 (上・中・下・下々の4等級)付けが行われた。そして面積や収量(石高制による何石何斗何升),保有者名が帳簿である検地帳に記載された 。 

その結果、太閤検地により常陸国54万5千800石の安堵を受けることが出来た。この年の冬、義宣はその地位を保証されたことへのお礼として上洛した。 秀吉の推挙で従四位下・侍従の位官を授けられ更に羽柴の姓まで与えられ、あくる 年にこのことを謝するため黄金三十枚を献じたとの記録が残っている。

常陸国全てを支配し、太閤検地による54万5千800石の安堵を受けたことにより、佐竹氏は、豊巨政権下では、徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏、島津氏、などと並んで 6大将とも呼ばれるまで拡大した。 

佐竹氏による行方地方の支配 
天正19年(1591年)、島崎氏を滅ぼした佐竹義宣が、鹿島・行方、東北地方の平定 に乗り出し、鹿行地域に睨みをきかせようと新たな支配の拠点として長山城と島崎城 の中間地点に「堀之内大台城」を築いた。
築城は佐竹義宣の重臣である小貫頼久が文禄3年(1594年)頃から慶長元年(1596 年)頃に一応の完成をみて行方郡支配の本拠とした。 
その後、頼久は城代となって佐竹の行方領 26,371石の内の蔵入地、約1万石を支配した。 
大台城の完成までの間、数年は落城後の島崎城を改修して使用していたと見られる。島崎城趾の発掘調査によると食料、武器が島崎城にそのまま放置され、数多くの五輪塔、宝筐印塔、板碑などが大台城の暗渠材等に転用された。 
五輪塔、宝筐印塔、板碑が大台城の暗渠材等に転用とは何を意味するものなのか理解しがたい点もある。島崎氏のすべてを消し去るという趣旨で行われた処置か。? 

佐竹譜代重臣の配置 
南方三十三館の滅亡後の鹿行一帯に譜代重臣を配置し蔵入地を設定している。 
仕置き事件後の佐竹の支城(蔵入地)と城将を見てみると、
①小川城=茂木治良、
②下吉影城=舟尾道堅、
③島崎城=小貫頼久
④鉾田城=酒句豊前守
⑤小高城=大山義勝(景)、
⑥武田城=舟尾昭直、
⑦行方大賀城=武茂堅綱、
⑧鹿島城=東 義久、
⑨行方(八甲)城=荒張尾張守 

豊臣政権下における蔵入れ地と知行地
「蔵入地」とは、戦国大名、織田氏・豊臣氏、江戸幕府、近世大名の所領のうち、領主権力が直接支配し、年貢などを収納する直轄領のことで領主の蔵に直接年貢が収納されるためこの呼称が付いた。 
これに対し、家臣などに与え、その支配を任せた土地を知行地という。 
豊臣政権では個別の大名領を含め、全国の要地に蔵入地(太閤入地)を設定。 
全国統一や朝鮮出兵ための兵糧米などに当てるとともに、全国支配(遠征)の拠点(食料確保と供給基地)とした。 

行方・鹿島地域の軍事的な重要さ 
天正 18年 (1590年)小田原の役後、国分氏に変わって徳川家康が岩ヶ崎城(香取 市佐原)に譜代重巨の鳥居元忠を配置して、佐竹の大台城に対峙・監視させ、代官吉田佐太郎に新島領の掌握を命じたのも霞ヶ浦、下利根川は流海の「水上交通と東廻り航路」の拠点として軍事的政治的に重要位置をしめるようになっていた。 
豊臣秀吉は小田原北条市を滅亡させたあと、徳川家康を関東に封じ込め、常陸の佐竹氏、会津の上杉氏によってそれ以上の勢力伸長を阻止し徳川家と婚姻関係にある奥州伊達氏との提携を遮断しようとした。
さらに、家康の旧領であった駿河、三河など五カ国を織田信長の第二子信雄に与え東海の守りを安定させようとしたが、秀吉の意に反して、信雄の「自分は尾張、伊勢のニカ国百万石で十分である。東海五カ国は遠慮したい。との一言が天下の独裁者秀吉の逆鱗に触れ、「余の命に従わない者は断固処分する」とし、織田信雄の領地居城総てを没収され、身柄は常陸国佐竹義宣に預けられたとされる。(出羽国秋田の八郎潟湖畔)秀吉の鶴の一声で実に冷酷な処分が下された。 
これらのことは、それまで秀吉を単なる織田信長の一家臣ぐらいに蔑視していた関 東・東北の諸将が心底秀吉の悔さを思い知らされた出来事でもあった。

豊臣秀吉死去後の政権争いと佐竹氏 
慶長 3年 (1598年)、豊巨秀吉が死去。秀吉から生前、嫡子・豊巨秀頼が成人する までの間、政治を託された豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康だったが、慶長 5年 (1600年)に家康によって行なわれた会津(上杉景勝の討伐)征伐が行われた。 
この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなるのだが、家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集し佐竹義宣もこれに応じた。 
同年 7月 24日 、小山に到着した家康は、義宣に使者を派遣し上杉景勝の討伐を 改めて命じられたのだが、この時期の佐竹氏は家中で意見が分かれており、東軍につくとも西軍につくともいえないものであつた。 

関が原の戦いでは、父の義重は徳川方(東軍)につくように強力に主張したが、義宣は、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送っただけで積極的に徳川家康に味方はしなかった。

関ヶ原の戦いが、東軍が勝利すると、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使 者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。 
しかし、義宣は水戸城を動かず、そのまま 2年が経過した。家康からの処分もおお むね終ったころになり、佐竹義宣はようやく慶長7年 (1602年)4月 に上洛して家康に謝罪した。その後の同年 5月 8日、義宣は家康から国替えの命令を受けた。だが、転封先は明らかにされず、従って転封後の石高も不明だった。 

そこで義宣は、家老の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような 扶持を与えるこれまできないであろうことや、50石または 100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている。 
5月 17日 になって転封先が出羽国秋田郡に決定した。54万石から20万石への減転封であった。ただし、佐竹氏の正式な石高が決定されたのは、佐竹義隆の代になってからである。 
同年、9月 17日 、義宣は秋田の土崎湊城に入城し、翌年から久保田城の築城をはじめて移った。江戸崎、龍ヶ崎などを領していた弟の(董名)義広は、角館城に入った。   

佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説あり、 この時期になって、初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分 を先行させることで島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある。
また、佐竹氏が減転封された理由としては、関ヶ原に参戦することもなく無傷の大兵 力を温存していた佐竹氏を、江戸から遠ざける狙いがあったとする説がある。 
江戸氏・常陸大嫁氏、さらに大掾氏一族の「鹿島・行方の三十三館」を攻め滅ぼし、念願の常陸国全てを得た佐竹義宣も、わずか10年間にして、あえなく幻影と化した。 

霞ヶ浦の泡として消えた堀之内大台城 
当時にあっては建築技術の粋を集めての築城で威圧を示す充分な堀之内大台城であったが、慶長7年 (1602年)出羽国秋田郡の転封に伴って廃城となり、佐竹氏の当地における中世も終わりを迎えた。常陸国南端の境目の城であると同時に物流の拠点だったが僅か7年でその幕が閉じられた。 

慶長7年(1602年)、佐竹氏が秋田に転封された後、この大台城は取り壊され、その 後に潮来市立牛堀中学校が建設されるのだが、建設工事時の発掘調査によれば一曲輪を東南に二曲輸三曲輪が連郭され、周囲は版築の土塁と犬走りというテラスが巡らされていたようだ。 
空堀などはないが、北側の二曲輸へ続く屋根には堀切が穿たれている。 一曲輪の西側の凹地に囲まれた一面は、枯山水の庭園が営まれ、一段高い所は主殿であった。

小貫大蔵丞頼久の「堀之内大台城」跡には、現在、校門脇に大台城跡の記念碑が残るのみで、この中学校建設のために大規模な土砂取りの影響で「堀之内大台城」は、見方によれば徹底的に破壊された感もある。 
ただ、それはそれで「歴史の悪戯」というか「佐竹氏に対する地元の反発」というか、島崎氏への忠誠というか、地元住民の思いをひしひしと感じることもできる。 
いずれにしても、佐竹氏と鹿島・行方地域の三十三館の事件は寂しさを感じざるを得ない。 

専門(研究)家による大台城発掘調査では、櫓、城門もあり、大台城は東国においては、ほかに類のない舶載青花、青磁、址に茶陶、瓦器をはじめ、鉄砲の部品と鉄砲玉などが発掘調査の時に出土した。 
また、発掘調査で得られた史料をもとに大台城主殿が、茨城県坂東市の「逆井城跡」 に復元されていると言うのだが、なぜ、逆井城(後北条氏)に大台城(佐竹氏)の主殿が移設され保存されたのか自己学習が追いついていない。

佐竹竹氏が去った鹿行地域 (麻生藩の成立) 
豊臣秀吉から常陸国を得た佐竹義宣も、わずか10年程で、あえなく幻影と化して、 その後の行方地域を治めたのは新庄直頼(しんじょうなおより)である。
新庄氏は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。大名で、摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、高槻城主で豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であったが、慶長 5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際に西軍に属したため、戦後に摂津国高槻の所領を没収され失領していたのだが、文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから、後に許されて徳川家康に召し出され、慶長 9年(1604年) 陸国、行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内 8郡内に3万石 300石余の所領を賜った。ここに常陸国行方郡麻生を居所に麻生藩が立藩し、初代藩主となり廃藩置県まで存続した。 

第 2代藩主・新庄直定は弟の新庄直房に3,000石を分与し、父の遺領 2万 7300 石余を継ぎ直定は元和 2年(1616年)から没するまで幕府の奏者番(幕府の典礼をつかさどり、大名等が年始・節供・叙任などで将軍に謁見する時,姓名の奏上をする役)をつとめた。 

第 3代藩主・新庄直好の時、元和 8年(1622年 )に下野国内の領地1万石を常陸 国新治郡に移された。 
直好は継嗣が無く養子の新庄直時を嗣子としていたのだが、万治 3年 (1660年 )に 62歳 という高齢になってから実子の新庄直矩が生まれた。 
しかし直好は寛文 2年 (1662年)に死去してしまい、3歳の幼児に跡を継がせるわけにもいかず、直時がそのまま跡を継いだ。 
延宝 2年 (1674年 )、直矩が 15歳に成長すると直時から直矩に家督が譲られた。 このとき、隠居した直時に藩領から鹿島郡内 7,O00石が分与され麻生藩は 2万石余となる。ところが 2年後の延宝 4年(1676年)、17歳で急死したうえに直矩には継嗣が無く新庄家は江戸幕府に無断で後継者を擁立しようとしたこともあって改易されてしまうが、幕府は、7,000石の旗本となっていた前藩主の直時に、その旗本領に3,000石を加増して常陸国行方、新治郡内 1万石の所領を与えて再勤を認め麻生藩の再興を許した。以後、新庄家の支配で廃藩置県を向かえた。

藩と外様大名の分割支配 
江戸時代の潮来地方は、御三家の徳川水戸藩領(旧香澄・八代・潮来・津知・延方地区)と 、外様大名の麻生藩領(旧大生原地区)に分かれていた。 
江戸時代には、新田開発によって広大な農地と村落が形成され、対岸の十六島をはじめ、二重谷(幕府領)・大洲・徳島(水戸藩領)などの開発で、水郷の穀倉地帯が徳川幕府によって造成された。(完 ) 




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あとがき
幕藩体制が確立すると江戸が政治経済の中心となり、霞ヶ浦沿岸地域は商圏に組 み込まれ、高瀬船による水運が隆盛し物資や人の移動によって江戸文化との交流が 盛んに行われ、土浦、江戸崎、小川、高浜、潮来などの主要な「津」は「河岸」としておおいに賑わうようになる。 

伊勢や近江の商人が霞ヶ浦沿岸に拠点を構え、常陸の物産(米、醤油、清酒、木材,薪炭等)を江戸に運び、帰船には下り物の呉服、雑貨品、塩、〆糟(肥料)などを積み込み、活発な商いを行っていた。 
その経済活動は明治期まで続き、まさに、水陸の幸に恵まれた「常世の国」となった。常陸国大掾氏一族は、突如として泡の如く消えてしまったのだが、家臣たちは近郷近在に散在し、古い秩序が音を立てて崩れ次の時代の幕が開かれた。 
近年、430年有余前に滅亡した島崎氏について地元では余情がくすぶり、ボランテ ィア活動団体「島崎城跡を守る会」の山口会長、長谷川副会長を軸に会員による活発な保全活動が続けられている。 
また、一方で島崎氏に関する調査、研究も同会に於いて進められていて新事実が明らかにされて来ることも今後の楽しみでもある。 

①佐竹氏の招きで茨城県県北部の大子町で天正19年 (1591年 )に殺害された島 崎城主の供養塔(祠)が現存している。(太子町頃藤)、 
② 落城後 116年後の宝永四年(1707年)に、前記した日立の子孫・島崎忠次左衛 
門定幹が建立した「島崎左衛門尉の供養塔」が長国寺に現存している。 
③ 和歌の高野山本王院の多宝塔の中に、常陸の大名島崎左衛 門尉、内原の穴戸中務輪、鉾田の畑田道満の寄進鍮名前がある。 
これらの調査・研究と島崎城跡の保全にむけての「島崎城跡を守る会会員一同が精力的に活動されていることは島崎氏への「鎮魂」となることを確信している。
以 上。
                                    
〈引用・参考資料〉                      
・「島崎城跡を守る会」調査・研究資料
・寄稿文『島崎氏・島崎城』の考証 
・鹿行地方文化研究会・鹿行文化財保護連絡協議会資料 
・鹿行の文化財資料 
・かすみがうら市歴史博物館資料 
・「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録資料 間宮正光 
・雑感「島崎城を取り巻く地域の今昔…そして郷愁」資料 
・大台城址発掘調査団・茨城県牛堀町教育委員会資料 
・北浦郷土文イヒ研究会誌資料 
・牛堀ふるさと史資料 
・戦国佐竹氏研究の最前線 佐々本倫朗・千葉篤志 著書 
・まほろのふく風掲載記事 
・生きた学芸活動の展開 霞ヶ浦常民交流博物館 
・赤松宗旦の利根川図志 赤松宗旦 
・江戸東京を支えた舟運の路 内川廻りの記憶 難波匡甫著 
・その他各種著書の図表も利用させて戴いておりますが、本作はあくまで自己生涯学習の範囲での使用をさせて戴いておりますことを付け加えさせていただきます。
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島崎義幹太郎左衛門尉と新庄氏(余話)  
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[余話 ①]故郷を懐かしんだ新庄氏 
常陸国では珍しく、細川氏の谷田部藩と二藩だけの外様藩であり、両藩とも幕末ま で続く極小藩だった。 
新庄氏は、行方郡のほかに鹿島郡や新治郡などに領地があったが、麻生を居所としたのは中世に麻生城 (麻生氏)が構築された要衝の地でもあり、琵琶湖を望む故郷近江国新庄の風景と霞ケ浦を重ね合わせたのだとも聞く。 

[余話 ②]新庄氏の領内運営 「土芥寇雛記 (どかいこうしゅうき)」 
※土芥寇雛記とは、各藩の藩主や政治状況を解説した本で、編著者名や製作された目的もいまだ不明のため「謎の史料」ではあるが・……。 
麻生陣屋の構築は、領地拝領の15年後の「武家諸法度」で城郭構築を厳禁された 4年後の元和5年 (1619年 )だった。 
堀の内には陣屋を囲んで重臣たちの屋敷が廻り、周辺には商いをする者や職人たちが軒を並べ、城下川の河口の霞ヶ浦の岸辺には新川河岸が設けられ、物資輸送や人々の往来の拠点として栄えたと考えられる。 
しかし、元禄3年 (1690)年頃の全国の諸大名の動静を記述したとされる『土芥寇雛記 (どかいこうしゅうき)』 には、麻生藩が成立して約90年を経過していたが、麻生在住の家臣は極めて少なく江戸詰めの家臣たちが多かった事や、霞ヶ浦の岸辺には新川河岸が設けられ物資輸送や人々の往来の拠点として栄えたが近世城下町的な大きな町の形成には至らなかったとされている。

[余話 ③]高瀬船での参勤交代 
江戸時代、全国の大名は幕府から参勤交代を課されており、地域の幹線道路から 五街道などを経て江戸参府をしていた。このことは麻生藩も例外でなかった。
しかし、歴代の麻生藩主は、江戸往来には御座舟を用いて国屋敷のある麻生新川河岸から、利根川中流の下総国竹袋村の本下河岸(印西市)の間を川船で往来していた。 
寛永8年(1631)秋には本下河岸から行徳河岸(市川市)に至る街道、いわゆる木下 (きおろし)街道の整備「鮮魚街道とも言うが行われ、行徳・八幡・鎌ヶ谷・白井・大森・行徳の各宿が整えられ、本下はこうした利根川改修や木下街道の整備による水路・陸路に通じる交通の要所となるなかで、本下河岸場として発達した。 
(赤松宗旦の利根川図志) 
大名が参勤交代に用いる経路については幕府の厳重な管理下にあったため、麻生藩でも幕府の許可を得て川船による江戸往来をしていたものと考えられる。 
また、仙台藩では潮来に物資輸送の拠点である仙台河岸を置いていましたが、第7 代藩主伊達重村が残した紀行文『鹿島道の記』には、安永9年(1780年)の参勤交代の帰路に鹿島詣でをしている。 

このとき、江戸屋敷から水戸街道を下り千住、松戸、我孫子を経て本下河岸で宿泊し、高瀬舟40般に分乗し利根川を下り、潮来に宿を取り、翌日鹿島神宮に参詣し帰城している。この紀行文については、赤松宗旦の『利根川図志』にそつくり転記されている。

[余話 ④]南方三十三館、国衆末裔の存在 
佐竹氏による事件後も生き延びた者がいた。 
札幹繁や青柳村堀野之内館の大膳武田勝信は佐竹氏が国替えとなるまで身を隠して難を逃れている。 
武田信久が北浦両宿に至り武田信房が陰謀で落命するまでの 174年間この地で「北浦武田戦記」が繰り広げられた。 
現在も近隣には武田川が流れ武田小学校があり当時の影響力が偲ばれる。 
近隣の鉾田市二重作(旧大洋村)に武田次郎左衛門尉の武田城があった。 
武田次郎左衛門尉は甲斐騒乱期に流れて来たとも、常陸武田の一族とも説があるが佐竹氏が転封になるまで服属した。 

島崎城主義幹と長男徳一丸は、上小川の城主か小川大和守の家臣清水信濃に預けられたが、大和守は鉄砲で義幹を撃ち、徳一丸も生害させられた。 
次男の吉晴は生き残り、島﨑の血は繋がれ多賀郡油縄子村に土着した。 
落城から116年を経た宝永4年(1707年)島崎氏の氏寺長国寺に供養碑を建てた。 また、昭和40年 9月には「島崎義幹父子三百八十年祭」を、非業の死をとげた大子 町頃藤で行い地元の有志も参加した。 

このことの外に新事実が近年出てきた。島崎氏の子孫が東京の町田小山に居て、島崎姓を名乗る家が87世帯もあるという。 
その中には島崎旦良(1766~ 1818年)という絵師がおり、表絵師十二家の筆頭駿河台狩野派に属して活躍していることが分かった。 
作品は仏画が多く、市の文化財に指定されているが、中でも注目すべきは「島崎村絵図」で、常陽島崎村絵図と題している。 
絵図には付箋が貼ってあり御札神社、長国寺、二本松寺、牛堀権現山等々具体的に庄屋宅の門まで精細に、平和でのどかな様子を感じさせ、ほのぼのとした筆致で描いてある。 

町田には、現在島崎氏や地域について調べたり、史料交換したり研究団体もあって、何度も故地とする潮来市を訪ねていると聞く。 
島崎二郎某の居館が小田急唐木田駅の近くにあったとされ、「棚原の館跡」いう記念碑が設置されており、そこに島崎二郎某の名前等も記されている。 

[余話 ⑤]世幕末の大掾氏子孫の活躍 
幕末剣豪近藤周助は、町田市小山町・島崎氏の出身で近藤家に入り、四代目天然理心流試衛館の近藤勇(新撰組)も元は島崎氏で、二代続いて島崎家からの養子であった。
近藤勇に暗殺された新撰組筆頭局長「芹沢鳴」(下村嗣次)も、同、行方の同族の「芹沢城主』の子孫である。

 南方三十三館 (なんぽうさんじゅうさんだて、なんぽうさんじゅうさんやかた)とは、中 世の常陸国 (茨城県)南部(鹿島・行方)に害拠していた大掾氏配下(一族)の国人たちの総称で、実際に「三十三城(館)」があったわけではなく、鹿島・行方両郡に多数の城主がいたことを強調する意味で「三十三」という数字が使われたと考えられ、「南方」は常陸国の中心地である水戸から見て、彼らの所領である鹿島・行方両郡が南方に位置していたために付けられた呼称と考えられる。 

[余話 ⑦] 常陸国大掾氏(行方四頭)の祖「平維幹(これもと)
平国香の長男の貞盛は、将門追討の功績で従五位上に任じられ常陸に多くの領地を得ることになった。その後、鎮守府将軍や陸奥守などを歴任し、従四位下に叙せられ「平・将軍」と呼ばれるほどに出世した。ただ、貞盛には繁盛(しげもり)という弟がおり、兄の貞盛と共に将門追討軍に参戦したが、こちらに対する論功行賞はなかったと言われ、繁盛は、これに不満を持ったようだが、繁盛の実子の「維幹」が貞盛の養子となって常陸大掾職についた。 
それ以来この常陸大掾職がほぼこの一族で世襲されて、名前に「幹(もと)」という漢字を入れた平氏が始まったそのため、国香などから大大掾職が始まったというよりは、大掾氏の実質的な祖はこの「平維幹」と言ってもよい。 
住んでいたのは将門追討の時の貞盛側の拠点であった水守(みもり;現つくば市水守…・後の小田氏の拠点となった小田城の北西側)であろうと考えられている。 

[余話 ⑧]島崎氏・大生氏・鹿島氏が源頼朝に従軍囃し戦った源平合戦
 


「島崎義幹太郎左衛問尉と佐竹氏の考証」、ご紹介をしました。 
※ 尚、歴史専門家でもなく、自己学習の範囲のものであるため内容に誤った記述がされている部分があった場合はご了承下さい。
茨城県神栖市 森田 衛  生涯学習 :島崎城レポートより
完了



島崎義幹太郎左衛門尉と佐竹氏の考証(寄稿文) 前編

2022-08-14 15:33:40 | 歴史
島崎義幹太郎左衛門尉と佐竹氏の考証(寄稿文) 前編
(行方台地を奪いあった強者の終焉)
茨城県神栖市在住の森田衛氏の投稿文「島崎城レポート」を紹介します
はじめに 
中世期の鹿行(鹿島・行方)の地域は、大部分が洪積台地で北浦と霞ヶ浦から延び出る無数のヤツ(浸食谷)によつて、複雑に刻みこまれて舌状台地を造り出した。
この時代、このような舌状の台地に城館を構える領主構想は非常に国内で多く見ら れる。これらの台地を城館の築城場所として選ぶ理由の一つには防御上の利点があるためだと思う。 
そう考えると徳川家康の「江戸城」整備も江戸前島という日比谷入り江の舌状台地を 利用して築城された。現在では埋め立てが進み日比谷入り江の姿は消えている。 
常陸国の鹿行地域は、そのような地形を舞台に、10世紀中期、平将門に象徴するように早くから武士団が形成され、その中でも桓武平氏系統の大嫁氏はその代表であった。
高望王(平氏)直系の平繁盛の子維幹(これもと)から始まり常陸国の次官名の大掾を名字として名乗っていた。そんな状況下(時代に)、常陸国(茨城県)南部の霞ヶ浦周辺の地には、俗に「南方三十三館」と呼ばれる大掾氏一族が集まり幡居した館が多く見られる。
平維幹(にれもと)が「大橡」という役職を受け常陸国を治め運営し始めた。
当時、国(県)には一番上の長官にあたるのが「守(かみ)」、次官が「介(すけ)」そして二等官が「(じょう)」 四等官が「左官 (さかん)」と四階級に階級が大きくわけられていた。 
これだけで考えると、大橡職は二等官の低い地位のように思えるが、常陸国の場合、 国府は石岡にあり、そこには通常「守(かみ)」が居なければならないのだが、常陸の国は親王人国といって天皇の息子が長官につくことが慣わしになっていたようだが、理由は解らないが実際は天皇の子息は常陸国には来ることはなかった。
この辺りの事情も理解できる。
更に、次官の「介」も形骸化しており、実質この常陸の国を運営して切り盛りしているのが「大掾氏」という役職だった。その実質上の常陸国のトップにあたる役職に、代々、これ以降「名字」が「大掾氏」と呼ばれるようになり在地の支配者として地位と財力を欲しいがままに君臨し、戦国時代の終りまでこの地で勢力を張っていた。正確には茨城県北部の武将佐竹氏が豊臣秀吉から常陸国を安堵されるまでのことである。
その大縁氏から鹿行(ろっこう)地域 (現、鹿島市、行方市他)に土地を貰って「行方氏」 一族の子孫が分立していった。それが「南方三十三館」と言われる国衆達であった。

※中でも、行方地域で頭角を現したのが島崎氏⑦であり、鹿島郡地域で頭角を現したのが鹿島氏⑫であった。
行方氏 (島崎氏)の始まり 
行方氏の祖は忠幹で、そして宗幹(景幹) 続き、島崎氏の祖は平・宗幹(行方氏)の次男(高幹)が行方郡牛堀町(現・潮来市)島崎郷の地に居住して島崎の祖となった。
父・宗幹は寿永3年(1184年)源義経軍に従い屋島(源平合戦)で戦死している。
島崎氏をはじめ鹿行地域の領主(行方四頭・鹿島氏)はすべて平氏(家)を祖先としているのだが、しかし、鹿行地域の武将}源義経(源氏)の軍に随行し平清盛(平氏)軍と対時したのであった。 

佐竹氏と南方三十三館主が頼朝軍に随行した経緯
源頼朝は治承4年(1180年)、平清盛を討つため挙兵し関東で、まず覇権をねらった。千葉の上総介広常(平広常)などは平氏であったが頼朝に服従した。 
次いで、常陸太田方面の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を当時、支配していた常陸国北部の佐竹に頼朝は自分に従うように使者を出した。 
こうして源頼朝は、東国武士団の帰属を図ったが、常睦国では源氏である佐竹隆義・秀義父子が平清盛に反旗を翻した。その結果、兄義政は大矢幡 (石岡市)の手前にて謀殺され、弟の佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わずに金砂山城に立て篭もるのだが、頼 朝軍に攻められ落城し、源頼朝に帰順せざるを得なくなった。鹿島一郡に地盤を築いていた鹿島氏は、早い段階で頼朝方に転じてこれに従った。
平家の知行国であった常陸国の在庁官人を輩出していた常陸平氏は親平家の立場であったとみられ、鹿島政幹も多気義幹や下妻広幹、行方宗幹らとともに当初は平家(平清盛)方であったと見られているが、しかし、政幹は早い段階で源頼朝方に転じたため、養和元年(1181年)に源頼朝は鹿島政幹を鹿島社惣追捕使に任じた。また、政幹の息子である宗幹や他の板東平氏と共に郎党一千騎余をつけて鎌倉ヘ送り、頼朝軍に参加して宗幹は屋島の戦い(源平合戦)で戦死した。 
日本の歴史の中では、この源氏と平氏が力を合わせて一緒に戦ったり、敵として相まみえたりしながら歴史が動いていった。本来、島崎氏のルーツは平清盛や平将門と同じ平氏一族のはず、なぜか当時、源頼朝に従軍し平清盛と戦う方向に舵を切った。 
これを考えると、伊勢平氏の清盛と常陸平氏一族の戦いになり、「源平合戦」でなく「平平合戦 (平氏と平氏の戦い)」の様相が強くなってしまう。
平氏が平氏を倒し、源氏が平氏に身方をする。歴史の動きは、いつ何が動くのか予測不能であった。
源頼朝との関わりに関しては、常陸平氏の基盤の地(潮来)に、頼朝が文治元年(1185年)、武運長久を祈願して創建した長勝寺が造られたことに頼朝と潮来の関わりの強さが伺える。その後、長勝寺は水戸藩主水戸光囲が再建したと伝えられる。

行方四頭の誕生 
常陸平氏・宗幹(行方氏)の長男「為(冩)幹」が小高に所領を貰い、三男の「家幹」 が麻生、四男「幹政」が玉造、そして潮来の島崎郷に次男の「高幹」が領地を貰って、それぞれの地名をとって、小高氏・麻生氏・玉造氏・島崎氏という「行方四頭」と言われる館が現れた。 その土地を貰って、そこに住み始めると、そこの土地の名前を名字にしたようだが、根っこは皆一緒だから一族間の結びつきは当初大事にされていた。島崎氏・鹿島氏系図を見ても解るようにその子孫には、「幹」という字「モト」が条前の一字に取り入れていった。 これを通り字といい、殆どが幹・幹・幹と付けば、これは同族だとわかる。

島崎城の誕生 
島崎城の築城は建久2年(1191年 )頃ではないかと思われる。 
初代 高幹(たかもと)一攻幹(まさもと)一長幹(ながもと)一 
忠幹 (ただもと)一 時幹(ときもと)一頼幹(よりもと)一 
高直(たかなお)―氏(幹(うじもと)一満幹(みつもと)一 
重幹(しげもと)(利幹)一成幹(なるもと)一国幹(くにもと)一 
長国(ながくに)一安国(やすくに)(忠幹)一利幹(としもと)(安幹) 
氏幹(うじもと)(安利)一義幹(よしもと)(安定)17代まで。 
第17代安定が、天正19年(1591年)佐竹氏により謀殺され
鹿行の地から消滅してしまった。鹿島城主、南方三十三館主も同様である 

島崎氏はこの高幹を初代にして、約400年間にわたり行方(なめがた)の地で勢力を伸ばしていった。そして戦国時代の後半には行方の旗頭と呼ばれるまでに島崎氏は成長していった。ちょうど関東地方が戦国時代に突入する15世紀中頃、京都に、「室町幕府」が有ったが、関東を治めるにあたって、一番、最初に武家政権が営まれた鎌倉時代の「鎌倉」 を室町幕府も重要視していた。そこで、関東を治めるために「鎌倉府」というものを置いたとされる。室町幕府が「本部」とするなら、言わば「支部」みたいなものなのだが、ただ、その支部は重要な支部であって、そこの長官には足利将軍家の血を引く一族を任命した。そして補佐役として、関東管領というものが置かれた。 
15世紀の中頃の鎌倉公方(くぼう)は、足利成氏(しげうじ)であり、関東管領は上杉憲忠(のりただ)であった。だが、次第にこの二人が争うようになってきて、とうとう戦争状態に入った。そして関東は二者に分かれて戦う戦乱の時代へ突入していった。(享徳の乱)

享徳の乱 (1455-1483)は、28年間断続的に続いた内乱。鎌倉公方・足利成氏が 関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し関東地方一円に拡大した。
                             
結果、足利成氏は鎌倉から茨城の古河に根拠を移して「古河公方」と呼ばれるようになり、島崎氏はそれに付き従って行動するようになった。これまでは、比較的平穏な鹿行地域であったが、争う戦乱の時代へと突き進んで行く運命にさらさられることになる。    
霞ヶ浦周辺の大嫁氏一族は、子から孫へと細胞分裂を繰り返し、版図を拡大したのだが、鎌倉時代の初期から数えて400年、戦乱興亡の戦国の世(西暦 1500年代)ともなると鹿行地区でも血族間同士の争いが起こり始めた。 
大永2年(1522年)、14代城主・島崎安国は、永山の日吉曲王神社の祭礼の夜の宴会の最中に、夜陰に紛れて境にあった「境川(現、夜越川)」を越して同族の長山 (永山)城を奇襲攻撃して滅ぼしてしまった。
理由については定かではないが島崎氏は長山氏の存在が邪魔になり、抹殺の機会を伺っていたのであった。長山城に関しては「一べい城」伝説という伝説がこの地方にはある。(悲しい物語です。) 
その後、戦国時代の16世紀に入ると、島崎氏は急速に勢力を拡大して行き、他氏を圧倒して行方地域最大の国人領主に成長して行った。
長山城の築城年代は定かではないが長山氏によって築かれたと思われる。 
長山氏は大嫁氏の庶流行方氏の一族で、行方幹平の次男知幹与一次郎が行方郡・長山 村に住んで長山氏を称した事に始まると考えられる。 
いずれにしても、島崎氏にとっては、「目の上のたんこぶ」だった長山氏を排除でき たということは島崎氏にとって大きな転換期になった。
これによって、島崎氏は外側に向けて進出することが可能になり、それに合致する かのように島崎城を拡張して行き、長山氏を滅ぼした2年後には島崎氏は代替わりを して、「利幹」が代を継ぐ(15代)のだが、ちょうどその時、隣の「鹿島氏(鹿島城)が内 紛状態になつており、そこ干渉して「安幹」は出兵している。 
さらにその後、北方の小高氏と同族だった玉造氏が領地争いを始め、鹿行地方の国衆は二つに分かれて戦うようになり「唐ヶ崎合戦」というのが発生した。 
その時、島崎氏は小高氏側に立って参戦している。 数百年間、兄弟一族が力を合わせて守ってきた行方台地であるが戦国末期に至っては残念ながら『行方台地を奪いあう強者』衆に変貌して行ってしまった。

唐ケ﨑合戦 :玉造氏と小高氏の所領をめぐる争いがおこり、紛争処理にあたった府中 大禄氏の処置に不満を持った小高氏は、小田氏に進通じて紛争を有り展開させようとした。小高氏には、下河辺氏・麻生氏・島並氏・島﨑氏・山田氏・武田氏等が味方し、唐ケ﨑、物見塚、大木戸へ押し寄せる。小田氏の軍勢も南野庄から渡船に小高城へ入る。

対して玉造氏には、手賀氏鳥名木氏等が味方し防戦する。また、府中大嫁氏からは弓削為宗が軍勢を率いて玉造に向かい、小川氏・芹沢氏等が後詰の役をするという状況であった。唐ケ﨑における戦闘がどれほどのものだったかは不明だが両軍の主力部隊が全面衝突したわけはなかった。対陣途中で小田氏の軍勢が急速帰陣したため決定的な勝敗をみないまま対陣が解かれ、形勢不利と見た小高氏は小田秀幹氏を頼って逃れ、島﨑氏は府中大掾氏に詫言を申し入れた。当面の解決策をして芹沢秀幹鮮小高城へ入り、行方氏を称して地域支配の任務にあたった。後、小高氏は芹沢秀幹に詫言を申し入れようやく小高城へ復帰した。 『旧、玉造町史』


茨城の中世文書に「鳥名本文書」とうものがあり、その中では「安国以来、島崎氏は地方を攻め取って勢いが盛んで、古河公方(当時の政治的に一番の権威)の制止もきかない。という内容が記されていると言う話が何かの書物で目にした。 

鹿行地域も、戦国時代に入ると同族間の争いが更に活発になり、まさに「戦いの世」 ということになる。中央政権の影響を受けたのだろうか。?非常に残念な方向に鹿行 地方が動き出した事は間違いない。
ただそれは、島崎氏が外側に向けて軍事行動を起こして拡大した。ということに外ならいのか、それとも本家の大嫁氏の勢力が減退して常陸国の南方地域をコントロール 出来ない状況に来ている折りに島崎氏が鹿行地域で強大な力を身につけた結果から なのか、またまた、行方四頭(小高氏・麻生氏・玉造氏・島崎氏)と言われた領主達が、そ れぞれ「行方台地を奪いあう強者」に豹変して起こった結果なのか推測の範囲である。 

そして、天正12年(1584年 )に、島崎氏は、行方郡中心部の麻生城主で、同族の 麻生氏をも滅ぼすのだが、麻生氏も、すんなり滅ぼされた訳ではなく霞ヶ浦対岸の稲 敷市には土岐氏(江戸崎城主)という有力な国衆がいて、城主・土岐治英に助けを求めたが力及ばずに落城し麻生氏は滅亡した。

島崎氏と大生 (鳳凰台城)氏 
前述により常陸平氏一族が、小高氏、麻生氏、玉造氏、島崎氏等「行方四頭 」と言われる館が現れ、特に島崎氏が鹿行地域で強大な力を身につけたことを紹介してきたが、島崎氏15代利幹(としもと)(安幹)太郎左衛門尉大炊介の次男・利定が養子に出て、大生右衛門慰平長定の後の大生城(鳳凰台城)を継いでいる。 養父の大生長定と島崎利幹 は親戚の関係にあっため「利定」が大生家の養子となった。(大生左京亮平利定が大生家28代藩主となる。) 

大生氏 (家)と大生神社 
大生氏が行方郡(潮来市)大生の地に鳳凰台城と名付けた城を築いたのは、第14 代の大生八郎平玄幹 (はるもと)と思われ、この玄幹は、一説には鹿島二郎政幹の次男であるという説もある。 玄幹は寿永2年(1183年)源頼朝に奉仕して、頼朝の信頼を極め、大生神社 [武甕槌命 (タケミカヅチ)]を鎮座・崇拝し神社の一切の行事を「源頼朝」より命ぜられたとされる。

ここで興味深い事は、大生神社の祭神は「武甕槌命」であり、景雲2年(768年)の時、称徳天皇 ?)の病気の平癒祈願のため、大和の国(奈良県)に遷座してしいた「武甕槌命」を大同2年(807年)に大和国 《春日大社》より潮来市の大生郷に遷座し、その後、勅命により鹿嶋市に遷座され、その地名をとって鹿島神宮と称したとの言い伝えがある旨の記載が潮来市教育委員会の立てた案内板に記されていた。
また、大生神社は、行方地方では最古の社殿建造物であり文化財に指定されている。更に、この周辺には、大生古墳群(おおうこふんぐん)と呼ばれる古墳群が広がっていて古墳期から豪族が盤居していたことが伺え知れる。
その数は、前方後円墳・方墳・円墳など大小 110余基からなり県下最大規模を誇り、築造時期は古墳時代中期(5世紀)と見られる。 

これらの古墳の被葬者は、大生神社の奉斎氏族のオフ氏(多氏・飯富氏)一族と見られている。また、各前方後円墳がいずれも大生神社または鹿島神宮を向いているという見方をする人もある。 

一方、鹿島神官の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』 (807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也という記述である。 
ただし『、延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」においても「鹿島坐健御賀豆智命」 と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲 2年 (768年)までさかのぼるという説などもあるが、今回の学習目的は「島崎義幹太郎左衛門尉と佐 竹氏の考証」という目的で進めているため「祭神・武甕槌命」に関する件は次回以降の学習の課題としたい。 

本題に戻り、第27代・大生右衛門慰平長定は、室町時代の応永23年(1416年 )に関東地方で起こった上杉禅秀の乱(前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱)に於いて戦死し、第 28代・大生左京亮平利定は、康正(こうしょう)年間 (1455年~1457年)の鎌倉騒動の際に戦死。 

更に、第 29代・大生右衛門慰平清定は、両上杉家による抗争「長享の乱(山内顕定が扇谷定正)の家臣の領土に進撃」に参戦し戦死した。 
第31代鳳凰台城主・定信は、島崎城が麻生城主に攻められた時に活躍し島崎城を守っている。 

天正19年 (1591年)の行方三十三館の仕置き事件が起こった時、大生弾正平定は 同じ常陸大嫁氏の流れをくむ一族ではあったが、時代の流れの中で佐竹氏の一族に列し、無印五本骨軍扇の家紋を受けるまでに佐竹義宣に信頼されていたため、その時代 (南方三十三館)に滅亡することなく大生郷の鳳凰台城主領地を安堵することが出来た。

しかし、慶長7年(1602年)佐竹義宣の国替えにより、大生氏も禄を失い先祖伝来の居城 (鳳凰台城)を自ら壊して一介の百姓として帰農したと伝えられるが、一説には徳川幕府、佐倉藩土井利勝の家臣となり、大生の姓では何かと不利に成りかねない事を考慮して一族は以後、大野の姓を名乗ったという。 
島崎氏の郷土支配は城主17代 に及ぶが、室町から戦国期にかけての郷土に関し ては、俗称「大殿様」で知られる大生氏が島崎氏時代にその家臣として代々大生(おおう)の地を領し続け島崎氏滅亡後は徳川に仕えた。

水陸交通と幸に恵まれた行方台地 
では、なぜ霞ヶ浦、北浦の沿岸に「南方三十三館」と言われるほどの城「館」が集まったかと言うと、古代常陸国はヤマト王権の影響を受けながらも、水睦の幸に恵まれた「常世の国」と称されていて住みやすい土地柄だったからであろう。

当時はまだ霞ヶ浦という呼称はなく、水域ごとに香歎の海、行方の流海、佐我の流海、信太の流海などと呼ばれていた。

産業革命以前の社会において、人や物資の移動で主要な役割を果たしたのは、やはり水運であった。河川や湖沼などは、人と人、物と物を結びつけていた。

関東地方での内陸の水運は現代入が想像する以上に発達し、それらがうまく運用されていたようだ。江戸時代は、東北の諸大名と江戸を結ぶ東回りの航路は銚子沖を通 り、房総半島をぐるりと回わる必要があり、風待ちや海流の関係もあり多くの困難と犠牲を伴うものであった。 

それでこれに変わるコースとして那珂湊(なかみなと》または銚子湊まで運ぱれた物資を、川舟に切り替えて北浦・霞ヶ浦を経て、内陸部の大小の河川づたいに江戸まで運ぶコースがあった。

当時、これらの河川舟運は「奥川廻し」といわれ、外洋コースよりもはるかに有利であったため大いに利用されていたようである。


逆に、これらの河川は人を物理的に隔て、隔てられた地域では独自の地域的文化を育ませせる一面を持っている。(外圧を受けにくいため独自の国造りが可能)そのことが、常陸国南部の「南方三十三館」が存在し発展した理由なのかも知れない。 


さらに、大生神社や鹿島神宮はヤマト王権の東国開発の祭神として位置づけられ、 常陸国は陸奥平定の重要な拠点だった。当時の東海道は霞ヶ浦周辺の陸路、水路を経て国府(現、石岡市)に達して陸奥方面に向けての交通や荷物の運搬手段として重要な役割を果たしていた。 

それらのことから、霞ヶ浦沿岸の人々は各地の津に拠り、漁労、水運による商い、湿 田農業に勤しむ一方、中央と地方の権力(常陸平氏や在地武士団)や香取神宮、鹿島神宮による複雑な支配を受けながらも、課税根拠や住民移動の規制が弱かったことから豊かな暮らしを営み自由でのびのびした気風を培っていた。 

当時は中央の統治権力が東国に及びにくい地政学的背景があるものの、平将門の 乱、関東管領の上杉氏や北条氏の支配、小田氏や佐竹氏の台頭、南北朝期の争乱、戦国期を経て、天下統一への過程で常陸国・霞ヶ浦周辺(鹿島・行方地域)も次第に騒乱の渦に巻き込まれて行くにつれて強大な外部圧力に屈せざるを得なくなった。
そして、400年間に渡って繁栄した「南方三十三館」の国衆たちも霞ヶ浦の湖面の 泡のごとく行方台地から消えていく悲痛な運命が到来した。 

常陸国北部の源氏、佐竹氏の存在 
常陸国南部の豊かな土地で繁栄を続けた鹿島・行方地域に大きく影響を及ばした常陸国(茨城県)北部の大名「佐竹氏」についても触れて置かなければならない。 
ところで単純な質問となるが、徳川幕府の成立以前、関東の戦国大名は聞かれると、 北条氏(北条早雲)、上杉謙信、武田信玄、南奥の伊達政宗などの常陸国外縁部にルーツを持ち関東に出兵を繰り返してきた戦国武将の名を耳にする。 
なぜ、本来の関東(茨城県)の武将の名がパット頭に浮かばないのか、考えられるの は知名度のある武将がいなかった。?または、戦国中期頃まで南関東の多くの地域は (小田氏、結城氏、宇都宮氏、小山氏、那須氏、新田氏)などが北条氏によって制圧されていた事が要因となったのだろうか。 
しかし、東国(関東)に於いて北条氏に対抗出来た武将がいなかったかと言うと、実 はそういうことでもないと思える。誰かと言うと茨城県の北部を領していた河内源氏系の佐竹氏である。 

豊巨秀吉の政権下では、54万 6千石の大名にまで取り入られた常陸国の佐竹氏だ。 佐竹氏が中央の権力と関係を密にしてくるのは、本能寺の変で倒れた織田信長に代わって豊臣秀吉が全国統一に乗り出した時期に、佐竹氏は秀吉との結びつきが強くなり佐竹氏の飛躍の基礎となり短期間とは言え北関東の大々名として君臨した。 
中でも、佐竹義重・義宣親子の時代が佐竹氏を取り巻く情勢が特にめまぐるしく動 いた時期でもあり、佐竹家の全盛期と言えるであろう。

島崎氏・佐竹氏の連合協力体制 
豊臣秀吉との結びつきがそれほど強くなかった時期の佐竹義重の活動原動力の特 徴は、連合勢力を主導して近隣の旧来の領主層(島崎氏他南方三十三館)等を糾合した勢力拡大の形を義重は形成していた。 
これは、「勢力下」に入る、あるいは「影響下」に入る。と言う場合でも本勢力(佐竹氏)は、明確に他氏を家臣化したり、支配下に置くのではなく、それまでの島崎氏、小高氏、麻生氏、玉造氏、などの領主としてのあり方を許容した連合勢力として位置付ける手法であった。 
この手法には利点と弱点があり、利点は、連合下の領主たちは、それぞれ独立した領 主としての性格や体面を保持し自立的な活動を行うことが出来る余地を残していた。そのため、勢力を比較的に拡大できる反面、連合勢力の結びつきには弱体な面(マイナス)もあつた。島崎氏を筆頭に「南方三十三館」の場合、佐竹氏との関係は連合勢力(同族的地縁共同体)の立場にあった。特に島崎氏の場合は、先に佐竹氏とは血縁関係もあり同族的地縁共同体的な立場が許されていた。そのため鹿行地区の国衆は自主性と自立を持ち行動し外部から干渉されることも少なかったのだが、この関係が続くのも秀吉の北条征伐の時期頃までであった。 

新編常陸国誌の文の中で気になるのは、「各自立ノ志ヲ抱ケリ」の部分である。広辞林によると、自立とは「服従の関係を脱して自主の地位に立つこと」、自主とは「他の保護または干渉を受けず、自力で処理することができること」とある。 
鹿島・行方の各館主達は皆がそのような考えを持ち、共に行動していたこどこなる。 「服従の関係を脱して他の保護または干渉を受けずに自力で処理していく状態とは、 あらゆる面で一個の独立した氏族(勢力)とみることができた。 

佐竹氏にとって重要な時期 
天正 17年(1589年)、豊臣秀吉の天下統一が翌年に迫った時期に佐竹氏の当主は 義重から義宣に家督が相続された。 
しかも、佐竹氏をめぐる情勢は当時、容易ならざる折も折のことで奥羽の伊達政宗、 相模の北条氏直という強豪を腹背に受けて抗争中のことであった。 
また同時に、中央の権力者の豊臣秀吉は、四国・九州を平定し残るは関東・東北のみとなったのだが、小田原に拠る北条「氏政」や「氏直」、東北には米沢城の伊達政宗、山形城の最上義光という武士団がいた。 
さらに、この年(1589年)、佐竹義宣は秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けていた。伊達政宗と対峙していたためにすぐに秀吉の命令に従える状況ではなかった。

豊臣秀吉による小 田原征伐 
秀吉は、天正 15年 (1587年)「関東・奥羽惣無事令」を発し、大名間の争いを私的 なものとし、武力紛争の停止と平和的解決を関白政権にゆだねることを命じていた。 そして、秀吉は北条氏に氏政・氏直のいずれかの上洛を求めるのだが、北条は、上洛の要求に応えなかったことから秀吉との関係は更に悪化していった。 

そんな中に沼田領問題が起こった。ここは信州上田城争いを本拠とする真田氏の 所領だったが北条氏の侵攻での場となった。 
結局、秀吉が沼田城の三分の二は北条領、三分の一は真田領とする採決をして決着したにもかかわらず、この真田領の支城名胡桃城を氏政家臣が奪い取してしまった。  
そこで、ここは真田氏にとっての墳墓の地であるとして徳川家康に訴え出た。 

このことが秀吉に小田原征伐の絶好の口実を与えることとなってしまった。「関東・奥羽惣無事令」違反として、天正 18年(1590年)3月、秀吉は大軍を整え小田原に向かうことになった。 
秀吉軍の約 18万の大軍に小田原を包囲され、約 100日に及ぶ籠城戦の後、小 田原城を開城 (7月)し北条氏は滅亡した。 

常陸国内では、天正17年 (1589年)11月 28日 、佐竹義宣は、秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けたが、当時、伊達政宗と対峙していたためにすぐに命令に従うことが出来ない状況下にあつた。 
しかし、姻威の宇都宮国綱から急迫した情勢(秀古自らが京を出立したという知らせ)を受けて、奥州自河で政宗軍と戦い在職中の義宣であったが、矛を収め運命に係る決断をして小田原参陣へと態度を決めた。

佐竹氏は、翌年5月には宇都宮国網らを含めた 1万余の軍勢を率いて小田原ヘ 向かつた。同月25日、石田三成らに迎えられ、27日 、秀吉に謁し、危機一髪の難を逃れることが出来た。 
「危機一髪の難」とは説明するに及ばず、秀吉の命令に背いて参陣しない場合どうなるか、その領地は没収されて没落させられる秀吉の怖さを佐竹氏も知っていた。

この佐竹軍勢の中に行方の島崎氏も参加し太刀一振り馬一頭を献上したとの記録 が残っている。島崎氏の参加理由には、霞ヶ浦を挟んで稲敷方面は北条の勢力下になり、島崎氏は防御に使える自然の砦、霞ヶ浦はあるものの敵対勢力と北条氏に圧力を掛けられていたため、やむなく佐竹氏に頼ったのかも知れない。

そのような事情も島崎側にあり佐竹氏と一緒に秀吉に拝謁に行ったのではないだろ うか。小田原参陣の佐竹氏傘下の常陸諸将の中には、佐竹一族の東・北・南と宍戸・真壁・畑田らの将が名を連ね秀吉方に太刀・馬・金などを献上している。 

ところが、常陸南部を代表する、小田原氏治、大掾清幹、江戸重通等らの有力な豪族は、秀吉の動員令に姿をみせなかった。小田原包囲に先立ち北条氏が手を打って動誘したとか、家中統一が乱れ小田原参陣ができなかったという説もある。 
そして、義宣は、石田三成指揮の下で忍城 (現・埼玉県行田市)を攻め、忍城水攻めの際の堤防構築にあたっている。

佐竹氏、従属を認められ・・・報償 
小田原の役後、天正18年 (1590年 )、秀吉は、佐竹義宣に対し次のような朱印状を与えた。これは義宣に対して常陸国内での地位に確実な保証を与える重要な文書である。 

常陸国並下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文之事、 相添目録別紙令扶助之訖、然上者、義宣任覚悟、全可令領知者也。
天正十八年庚寅八月朔日    (朱印)(秀吉) 佐竹常陸助殿

上記朱印状により、佐竹義宜は、秀吉から常陸国と下野国の支配を認められた「当知行分21万6千7百 58貫文」(25万 5,800石 =佐竹義宣 11万 石、佐竹義重 1万石、 佐竹義久、1万石、与力家来分 12万 5,800石)を安堵された。 
これは、佐竹氏領である常陸北部および旧小田氏領だけでなく、江戸氏や大嫁氏、更には、大嫁氏一族の島崎氏「南方三十三館」の領主たちの所領を含んでいたとみられる。   
このことは、島崎氏他、行方・鹿島の両郡の国衆は自主性、自立性を持った独立した存在から、この時点から佐竹氏の配下という位置づけに変わった事を意味するものでもあった。 
しかし、実態としては、秀吉から安堵された領国エリアに含まれる常陸大嫁氏「南方三十三館」、江戸氏、額田小野崎氏などは強固な自立性を保持する国衆が存在している状況に変わりはなかった。 
これら高い自立性を保持した国衆達は、ときには佐竹氏に従い、ときには反旗を翻すなど、強固な自立性を保持して戦国時代まで生き抜いた行方国衆である。 
さらに重要なことは、常睦大嫁氏、江戸氏の両氏が15世紀において佐竹本宗家の権力機構の中核に位置し領域権力として佐竹氏の動静に大きく影響を与えてきた存在であったが一夜にしてその立場(力関係)が逆転した。

佐竹氏にふりかかる軍役賦課 
義宣が家督を継いで以降、佐竹氏をめぐる情勢は大きく転換した。統一政権に従 属することにより常陸国での存続を認められたのだが、それは同時に政権が要求する さまざまな責務を履行しなければならない立場に置かれたことである。 
前項で説明記述のとおり、実態としては領国が統一されているわけでなく、佐竹氏 の安堵された領地内には、常陸大嫁氏「南方三十三館」、江戸氏、額田小野崎氏などは強固な自立性を保持する国衆が存在している状況で豊巨政権の要求へのすみやかな対応(軍役・資金面)は現実的に困難な状況にあった。 
そういった中で、佐竹氏が即時の対応を求められたのが「軍役負担」つまり軍事動員への出兵であった。天正 19年には「九戸一揆」人戸政実の乱への対応として出兵で再度の奥州出兵を行った。更に、翌年文禄元年(1592年)には朝鮮出兵の動員指示を受け、これに義宣に対応している。     後編に続く